ラップアイドルの定義と前史 (original) (raw)

lyrical school

the scene of RAP IDOLS 第1回[バックナンバー]

ラップアイドルの定義と前史

“ラップアイドル”が生まれるまで

2018年7月11日 18:08 3

ブームはやや穏やかになったものの、音楽カルチャーの中での大きな潮流として確固たる地位を確立しているアイドルシーン。その需要と熱気の高さは、アイドル楽曲の持つ音楽的な多様性による部分も大きいだろう。もちろん歌謡曲の時代からクオリティの高いアイドル楽曲は多数リリースされてきたが、現在のアイドルソングは楽曲の高いクオリティに加えて、多様性や実験性という部分も注目されている。そして現在では、その中でも“ラップアイドル”が人気を高めている。全4回を予定する本連載では、その現象を紐解いてみたい。

文 / 高木"JET"晋一郎 編集 / 土館弘英

存在感を高めるラップアイドル

アイドルという存在が広範囲にわたり、アイドルという存在に対する固定観念が弱くなり、アイドルという“器”が大きくなったことで、新しい音楽ジャンルやカルチャーとの横断や、新進気鋭のミュージシャンやプロデューサーの参画といった動きが加速、アイドルのフォーマットを“利用”した幅広い作品が生まれている現在のアイドルシーン。メタルをテーマにしたBABYMETALの世界進出をはじめ、クラブミュージックやパンク、フォーク、ベース、シューゲイザーなどさまざまなジャンルがアイドルソングの中で取り上げられている。その中でも着実にアイドル内ジャンルとして確立されているのが“ラップアイドル”という存在だ。その注目の例と言えば、2018年上半期に限っても、5人組ユニット・lyrical schoolのニューアルバム「WORLD'S END」が6月18日付けのオリコンデイリーチャートで1位、ウイークリーチャートでも10位を獲得。また3人組ユニット・校庭カメラガールドライは、7月31日に東京・UNITでのワンマン実施が決定しているなど、市場規模、動員数という指針で見ても、ラップアイドルという存在の注目度が高まっていることがうかがえる。

ラップアイドルの定義

さて、まずはここで本連載においてのラップアイドルを定義したい。これはあくまで筆者の定義であるが、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」での「ラップアイドル特集」で使用した定義を使わせていただくと、

・制作する楽曲のメインコンセプトをラップに置いている

・歌詞やリリックはプロデュースされる。自分では書かない

・活動ジャンルとしてアイドルであることを自認している

を挙げたい。これは絶対条件ではないし、ラップアイドル作品の中でこの定義から外れる楽曲やアプローチもあるのだが、稿を進めるに当たってのある程度の枠組みとして、上記3点を定義とさせていただきたい。そしてこの定義に当てはまるアイドルの嚆矢は、2010年にtengal6として結成されたlyrical schoolと、翌11年に結成されたライムベリーと言っていいだろう。彼女たちがなぜ新しかったのか。2組の登場に至る、ラップアイドル前史を紐解きながら考えたい。

山田邦子が原点?

ここからの話は日本語ラップ史とも通じていくが、日本語によるラップ表現の原点としてよく取り上げられるのが、1981年に山田邦子がリリースしたシングル曲「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」である。

この曲が果たしてラップなのか、ということに関しては議論の余地はあるが、譜割りや構成からは、ラップ登場以降のアプローチを感じるし、日本語によるラップの極最初期にはすでに、その担い手として女性の登場があったことをまず記しておきたい。そして1990年代になり、ラップというアートフォームが広がっていく中で、アイドルがラップする楽曲も広がっていく。その中で92年の東京パフォーマンスドール feat. 市井由理による「おちゃめなジュリエット」や、93年の東京パフォーマンスドールの内部ユニット・VIVA!による「ひらき直りも芸のうち」といったラップ楽曲が生まれていった。そして市井由理がラップグループのEAST ENDと共に制作し1994年にリリースしたEAST END×YURI「DA.YO.NE.」はスマッシュヒットとなり、「NHK紅白歌合戦」に出場するなどセンセーションを起こした。

“アイドル低 DIVA高”時代

さらに、94年にリリースされたスチャダラパー featuring 小沢健二「今夜はブギー・バック(smooth rap)」の大ヒットも影響して、99年の嵐「A・RA・SHI」など、アイドル、J-POP、歌謡曲の中にもラップが浸透していく(※このあたりのラップ歌謡に関する事情は「ラップ歌謡大百科」に詳しいので興味のある方はそちらを参照されたい)。しかし2000年代に入ると、“アイドル低 DIVA高”時代が訪れる。これは宇多丸(RHYMESTER)著の「ライムスター宇多丸の『マブ論 CLASSICS』アイドルソング時評 2000~2008」などに詳しいが、モーニング娘。を代表とするハロー!プロジェクト勢は数多く作品を出しており、王道のJ-POPから、当時アメリカでティンバランドが流行させたR&Bの楽曲スタイル、日本では“チキチキ系”と呼ばれたビートを取り入れたBerryz工房「あなたなしでは生きてゆけない」など実験性の高い作品まで、幅広くリリースされていた。その中では、プッチモニ「青春時代1.2.3!」や、タンポポ「BE HAPPY 恋のやじろべえ」などのアイドルが歌うラップ楽曲も登場していた。しかしシーン全体を見回すと、アイドルの数自体も少なく、アイドル楽曲のリリースは、かなり少なくなっていた。一方で、この当時はいわゆる“DIVAブーム”の流れを受けて、ブラックミュージックの流れをくむ楽曲を歌う女性シンガーやアーティストが数多く登場していた。

この時期を代表する女性ラップグループには、HALCAとYUCALIによる2人組ラップユニット・HALCALIが挙げられるだろう。初期作はRIP SLYMEのRYO-ZとDJ FUMIYAによるプロデュースチーム・O.T.F(オシャレトラックファクトリー)が全面的にプロデュースし、2003年に「ハルカリベーコン」や、2004年に「音樂ノススメ」といった傑作をリリース。以降もフジテレビ系「新堂本兄弟」へ出演するなど、幅広い活動を展開していった。彼女たちはDIVA系のようなブラックミュージック志向は強くなく、そのポップさも含めて一見するとアイドル的なアプローチも展開していたが、もともと「FEMALE RAPPERオーディション」の優勝によって活動を開始したことを考えると、そもそもラッパー、アーティスト志向が強く、アイドルという自認性はなかったと思われる。

“萌えラップ”を志向したMOE-K-MCZ

同じように、ALISA、MIKU、YURIEによる3人組ユニット・YA-KYIMも、ティーンエイジャーだったことを含めてアイドル的な人気もあったグループだったが、アーティスト的なアプローチで活動を展開し、アイドルという自認性はなかっただろう。しかし彼女たちはKREVAやSALU、EXILEなどを手がけるプロデューサーのBACHLOGICを起用(当時はまだ知る人ぞ知るという存在だった)するなど、現在のアイドルの制作にも見られるような、新進気鋭のミュージシャンをフックアップするという機能を果たしていたことは大事な事実だ。ほかにもHeartsdalesやFoxxi misQ、BENNIE Kなど、ラップを楽曲の構成要素の1つにしていたグループは数多く登場したが、いずれもR&Bブームの流れを受けたDIVA寄り、アーティスト寄りであり、アイドルを自認してはいなかったし、アイドルとして扱われることは基本的になかった。

また一方で、COMA-CHIやRUMI、COPPUなどの活躍により、本格的なフィメールラップシーンも形成されていく。そしてヒップホップの広範化と、そのサブカル的な解釈として、2007年に女の子ラップユニット・MOE-K-MCZが登場したことは注目しておきたい。「“萌えラップ”という新境地を開拓するためにプロジェクトを発足しました」と宣言するこのユニットは、主にYUI、AOI、HINAで活動。E TICKET PRUDUCTIONがプロデュースおよび制作のほぼ全般を手がけ、「HEY! BROTHER! / ねえお兄ちゃん」といった楽曲をライブで発表していた。SNSが未発達の時代に、アンダーグラウンドな現場活動で短期間で活動を終了させたため、謎の多いグループではあるが、この流れがライムベリーにつながっていくことは、次稿で紹介する。

2000年代後半になるとAKB48の牽引によって現在につながるアイドルブームが起こり、その流れからアイドル戦国時代に突入、さまざまなアイドルが登場していく。そしてその広がりは、大資本や旧来的な芸能界の方法論とは離れた、インディペンデントな形でのアイドルの登場につながっていった。そういった流れの中から登場したのが、“ラップアイドル”である、lyrical schoolとライムベリーである。

<つづく>

高木"JET"晋一郎

ライター。ヒップホップ、アイドル、ブラックミュージック、ポップスを中心に執筆。共著に「ラップのことば」(P‐Vine BOOKs) 、構成にサイプレス上野「ジャポニカヒップホップ練習帳」(双葉社)など。

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