ゆらゆら帝国、OGRE YOU ASSHOLE、SCOOBIE DOらを手がける中村宗一郎の仕事術(前編) (original) (raw)

中村宗一郎

エンジニアが明かすあのサウンドの正体 第7回[バックナンバー]

僕はバンドの中で機材が一番わかる人という立ち位置

2019年11月15日 16:00 36

誰よりもアーティストの近くでサウンドと向き合い、アーティストの表現したいことを理解し、それを実現しているエンジニア。そんな音のプロフェッショナルに同業者の中村公輔が話を聞くこの連載。今回はゆらゆら帝国OGRE YOU ASSHOLE、ギターウルフ、SCOOBIE DO、Borisらを手がける中村宗一郎(PEACE MUSIC)に登場してもらった。数えきれないほどのアーティストの作品を担当するも公式サイトはなく、SNSなどを通じての情報発信もいっさいしない中村宗一郎。商業用スタジオとは一線を画したインディペンデントな活動を行い、マスタリングのみを行うマスタリングエンジニアとしても存在感を放つ彼に、エンジニアになった経緯や仕事のスタンスについて語ってもらった。

取材・文 / 中村公輔 撮影 / 塚原孝顕 構成 / 丸澤嘉明

スタジオ代が高くて自前でレコーディングを始めた

──アーティストの新譜のプレスリリースがレコード会社から送られてくる際、ほかのエンジニアの方に比べて中村宗一郎さんのお名前を見かけることが多い気がします。

あれねえ、字数を稼ぐのにいいらしいですよ(笑)。「ゆらゆら帝国でおなじみの中村宗一郎(PEACE MUSIC)が手がけた」って書くと、1行くらいスペースが埋まるでしょ。それで売れ行きが変わることはないですよね。

──なるほど(笑)。ではまず、宗一郎さんがエンジニアになった経緯をお聞かせください。最初はサイケデリックロックバンドWhite Heavenでギターを弾いていたんですよね?

そうですね。参加した当初はベースだったんですけど、そのあとギターをやるようになって。それで自分たちで録音するようになりました。

──その流れでご自身でレコーディングスタジオを始めたんでしょうか?

初めてスタジオを構えたのは1990年くらいかな。でもその前、1980年代後半にちょっと使わせてもらってる場所はありました。エンジニアは仕事だと思ってやっていなくて、友達のバンドを順番に録っていってた感じですかね。マーブル・シープの松谷健が立ち上げたCAPTAIN TRIP RECORDSの作品は初期からずっと一緒にやっていました。あとModern Musicという明大前のレコード屋があって、そこの店員さんとかお客さんとかが来てましたね。

──松谷さんからのつながりで、ゆらゆら帝国のレコーディングもやるようになったんでしょうか?

そうそう、「面白いバンドがいるからやろう」と言われて。予算もないから2、3日で録らなきゃいけない感じでしたね。

──その当時からミュージシャンがレコーディングもやる流れはあったんですか?

どうなんですかね? ほかの人のことはわからないけど、スタジオ代がものすごく高かったので、自分たちでやるしかなかったですからね。ちゃんとした機材はもちろん持ってないので、中古で譲ってもらったレコーダーとかミキサーとか、拾って来たようなマイクで「一応、音入るね」とか言いながら録ってました。8trのオープンリールレコーダーとか4trのカセットテレコとかでね。

──もともとそういったレコーディング機材に興味があったんでしょうか?

実家がオーディオとかカーステレオを作っているCLARIONという音響メーカーだったので、機材になじみはあったんですよ。カセットに意味ないことを録音したり、そういう遊びを小、中学生の頃にやってました。多重録音は中学くらいからやっていて。まあ多重録音というか音を重ねていくだけなんですけど、AZDENという会社のスプリングリバーブをつなげてひたすら叩いて、“ピシャーン、ピシャーン”って音を出して、それをまたダビングしていくみたいな。どちらかと言うと、子供の頃のほうが実験音楽をやっていましたね(笑)。なのでノイズミュージックが違うジャンルって感じがしなかった。もちろん彼らは僕みたいに遊びじゃなくて本気でやってますけど。

依頼が来なくなったら別のことをすればいい

──レコーディングスタジオでアシスタント経験がないどころか、演者としてもスタジオでのレコーディング経験がないまま、いきなり自分で録り始めたということなんでしょうか?

そうですね。昔のレコーディングスタジオって敷居が高かったじゃないですか。そういうところに入ろうと思ったことはないし、誰かに習おうと思ったこともないですね。だんだん面倒臭くなって言わなくなったんですけど、「ウチで録ったの聴いたことある? ホントにウチで大丈夫?」って聞いてから録ってました。渡すときも「こんなのでよかったらどうぞ」と言ったり。最近はいちいち確認しないで引き受けるようにしちゃいましたけど。なので“バンドの中で機材が一番わかる人”くらいの立ち位置で、できる範囲でやるってところからスタートしてます。そもそも仕事だと思ってないですからね。録音とかの依頼が来なくなったら別のことをすればいいと思ってるし。

──イチからのスタートだと機材をそろえるのも大変だったと思いますが、最初はミキサーと8trのMTRだけでやっていたのでしょうか?

そうですね。1980年代は、ギターとかでもラックタイプのエフェクターが流行ったじゃないですか。デジタルディレイもリバーブもあったので自分のギターの機材を流用して。あとマニピュレーターもやっていたんですよ。NECのPC-8800シリーズに、Come on Musicという打ち込みソフトでシーケンスを組んだりして。Macがまだ漢字に対応していなかった頃で、漢字Talk 1.0が出てみんな「やったー!」って大喜びしましたね。当時はキヤノン販売が売っていて、Mac Plusが80万くらいしたのかな。それを1980年代中頃にようやく中古で買えて、ソフトはPerformerを使ってました。

──マニピュレーターとしてはどんなアーティストを手がけていたんですか?

THE COLLECTORSやデビルスをやっていました。ちょうどサンプラーのROLAND S-550とかAKAI PROFESSIONAL S-900とかが出た頃で、それでサンプリングしてライブラリーを作ってレコーディングの手伝いをしたり、ライブ会場で音を出したりしていました。日清パワーステーションがまだあった頃ですね。

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