多くの才能を輩出したネオGSシーン (original) (raw)
渋谷系を掘り下げる Vol.2[バックナンバー]
小西康陽、田島貴男らが集った80年代後半のインディームーブメントを検証
2019年11月20日 20:00 66
1990年代に日本の音楽シーンで起きた“渋谷系”ムーブメントを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第2回は、小西康陽、田島貴男(ORIGINAL LOVE)、ヒックスヴィル、GREAT3のメンバーなど、のちの渋谷系ムーブメントを支えるアーティストが80年代中盤から後半にかけて出入りしていた“ネオGSシーン”にフォーカスを当てる。東京・三多摩地区のガレージ~サイケ愛好家の若者たちにより形成されたローカルシーンから、何ゆえ多くの才能が輩出されたのか。シーンを代表するバンド、ザ・ファントムギフトの中心人物だったサリー久保田(現SOLEIL)の証言を交えながら検証していく。
取材・文 / 岡村詩野
小西康陽のポップ音楽観
先頃発売された、小西康陽自らの選曲・監修によるピチカート・ファイヴのボックスセット「THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001」が好評だ。あくまで日本コロムビア時代の作品にフォーカスした内容ではあるものの、まだJ-POPなどという言葉もなかった時代……ポップスをドーナツ盤などでワクワクしながら聴いていた時代の、もしかすると最後の産物ではないかと思えるような佇まいこそが、小西康陽のポップの美学そのままだと思えるからだ。
今となっては、小西とピチカート・ファイヴは渋谷系の代表として認識されているわけだが、その認識が正しいのかどうかはさておいても、小西が80年代から90年代にかけて、それまで誰もやっていなかった新しい音楽の聴き方を提案していたのは間違いないところで、わけても野宮真貴をボーカリストに迎えた日本コロムビア時代の作品は、確実にそうした小西のポップ音楽観の1つの巨大なシンボルだったと言っていい。
では、彼が80年代から提示していたポップ音楽観とはどういうものか。それは音楽が、ゴージャスさ、華やかさ、あるいはそれと相反するような可憐さ、優雅さ、そしてカルチャーとしての強さやユーモアをも伴ったものであってほしい、という彼自身の願望とでもいうべきものだろうか。ともすれば、それは時代の徒花的な側面も持つし、流行やトレンドによって左右されるものでもあるだろう。あるいは一定の資本力を求められるウェルメイドな環境も条件になるのかもしれない。だが、R&BもソウルもファンクもヒップホップもロックンロールもハウスもMPBもサルサもアフロも、総じてポップスという名のもとに精製させてきた小西は、誰よりもポップミュージックの解放を目指してクリティカルな存在として活動し続けてきた。そんな小西がピチカート・ファイヴのブレイク前夜に、渋谷系的な価値観にも近いポップ観を、自らプロデュースすることによって表出させたバンドがいる。
それが、ザ・ファントムギフトである。
そこで、こんな仮説を唱えてみようと思う。“小西康陽的なポップ観、すなわち渋谷系的源流は80年代の東京のアンダーグラウンドシーンで巻き起こっていた60年代音楽やカルチャーへの再評価にあった”。果たして事実はどうだったのか? 60年代の音楽カルチャー再考をもっとも端的に表現していたネオGSムーブメントの代表的バンドであるザ・ファントムギフトのメンバーによる証言をもとに、その仮説を紐解いていきたい。
GS=国産の60'sガレージロック
ネオGSとは1960年代のグループサウンズに影響を受け80年代に活動を開始した日本の若手バンドたちのことを指す。The Beatles以降のロックと日本の歌謡曲の要素を合流させた60年代のグループサウンズ──言うまでもなく、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズ、ザ・タイガース、オックス、ザ・ゴールデン・カップス、ザ・ダイナマイツなど枚挙にいとまがないが──のバンドさながらに、おそろいのきらびやかな衣装に身を包み、情熱的なボーカルや挑発的な演奏で客をノックアウトさせていた彼ら。その代表的な存在が、80年代中盤から後半にかけて活動していたザ・ファントムギフトだった。今回そのベーシストであり、バンドの主要人物であったサリー久保田に話を聞いたので、ここから先は久保田の証言を元に話を進めていこう。
「僕は多摩美術大学に通っていたんですけど、当時、The 20 Hitsというガレージロックのバンドに所属していたんです。大学の先輩で、その後イラストレーターになるジミー益子さんが中心になって活動していたバンドですが、ザ・ファントムギフトより前から活動していて、僕も在学中はその界隈にいたんですね。で、大学卒業後に始めたのがザ・ファントムギフト。最初はギターのナポレオン山岸の弟がベースをやっていて、その頃はThe Crampsみたいな、ガレージ色の強いバンドだったんです。その山岸くんの弟が大学受験で辞めるからという理由で僕がベーシストとして誘われて。でも最初は、正直乗り気じゃなかった。当時はパンクとかニューウェイブと一緒にGSにハマっていた時期だったので、『GSのカバーをやるなら入ってもいい』と話して(笑)。けっこう強気な感じで一緒にやることになったんです」
幼少時からザ・タイガースなどのGSが好きだったという久保田に言わせると、彼が多摩美に進学した頃、周囲にはGS好きは皆無に等しく、東京の中古レコード店でもGSのレコードは今ほど価格が高騰しておらずディグし放題だったそう。だが、潜在的に60年代のガレージロックやサイケデリックロックが好きな仲間は少なからずいたようで、「GSを国産の60'sガレージロックとして捉える」という久保田の解釈とも相まって、メンバーが見ていた方向はほぼ同じだったという。
三多摩界隈から生まれた新たな潮流
「ドラムのチャーリー森田以外は多摩美出身で、みんなガレージ~サイケ界隈の仲間ではありました。だから、ザ・ダイナマイツの『トンネル天国』とかをカバーしようということになっても、けっこうすんなり受け入れてましたね。ボーカルのピンキー青木も実はGSをわりと好きで聴いていたようでした。ファントムではGSバンドが当時カバーしていたような60年代の洋楽の曲もやったりしていました。The Rolling Stonesの『Under My Thumb』とか『Tell Me』とか。あと、1910 Fruitgum CompanyやThe Seeds……アメリカのガレージ系の曲もやってました。そうこうしているうちに、じわじわと仲間も増えて。ヒッピー・ヒッピー・シェイクスのサミー中野くんとは最初知り合いじゃなかったんですけど、向こうもGSマニアだったんで、ずっと僕のことを探したり調べたりしていたようでした(笑)。『GSのレコードを買い漁ってる人がいる』というところでお互い気になる存在だったんです。当時の東京でGSのカバーをやってるバンドってファントムとヒッピー・ヒッピー・シェイクスくらいだったんですよ。中野くんたちは中央大学の学生で、中央大は八王子にキャンパスがある。僕らが通ってた多摩美も近くで、ネオGSは三多摩界隈が発祥の地だと言われているのはそういうことなのかな」
ジャックスの早川義夫やオックスの野口ひでとを思わせるセクシーでカリスマ的なボーカリスト、ピンキー青木。刺激的なファズギターによってサイケデリックな音像を抽出するギタリストのナポレオン山岸。ドライブ感あるベースラインで艶かしい低音を聴かせるサリー久保田。シャープでかつダイナミックなドラミングが印象的なチャーリー森田。その4人によるアンサンブルは、彼らのライブを当時何度も観ていた筆者には強烈以外の何物でもなく、それがネオGSだろうとガレージロックだろうと、もはやどうでもよかった。ただただ、イカしたロックバンドでしかない。それで十分すぎるくらい十分だった。さらに、エモーショナルでパンチの効いたその演奏のみならず、彼らと同じように60年代風のファッションに身を包んだオーディエンスたちの狂熱。膝上20cmのミニスカートのカラフルなワンピースの女の子たち、ストライプのスーツにマッシュルームヘアの男の子たち……そこだけマジカルなワンダーランドを思わせる異世界に紛れ込んだような空気が彼らのライブ現場にはあったのだ。ちなみに、マンガ家の岡崎京子もザ・ファントムギフトの熱心なファンとして知られていた。
制作協力:MINT SOUND RECORDS / ミディレコード