中尊寺まい(ベッド・イン)のルーツをたどる (original) (raw)
アーティストの音楽履歴書 第16回[バックナンバー]
中尊寺まい(ベッド・イン)のルーツをたどる
禍々しいインディシーンで成長、“ロック姐ちゃん”なちゃんまいの軌跡
2020年3月3日 19:00 55
アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は“地下セクシーアイドルユニット”ベッド・インのパイオツカイデー担当、中尊寺まいに音楽のルーツを語ってもらった。
取材・文 / 高橋拓也
人前でまったく歌えなかった……幼少期の身近な音楽は母の聴く歌謡曲
子供の頃は人前に出るのがとにかく苦手で。親に飲み屋さんとか連れて行かれると、子供ってオケカラを歌わされることってあるじゃないですか。ほかの子はできるのに、そういう場でも全然歌えないくらい人前で何かをすることが苦手でしたね。でも今思えば、その時期に聴いていた音楽にはかなり影響を受けていると思います。例えば、親戚たちがスナックで歌っていた歌謡曲たち、母が歌うテレサ・テンさんの「愛人」や、ちあきなおみさんの「喝采」、車で聴いたやしきたかじんさんの「東京」……とか、大人になってから「あのとき聴いた曲ってなんだったんだろう」って調べたりして。
幼稚園はインターナショナル系のところで、日本の童謡はほとんど知らないんです。母が英語を話せるようにしたかったらしく、そういう幼稚園に入れたんでしょうね。残念ながらまったく話せないまま大人になりましたが、実は“まい”っていう名前も外国の方が聞いても耳なじみがいいようにって理由もあるんです。マライア・キャリーの曲を聴いて、サビの単語を並べ替える、みたいな授業がありましたよ(笑)。でも、音楽の好みが洋楽に移ったわけじゃなく、まだ音楽にも興味はありませんでした。
小学校になじめない苦悩を救った“夜明け前”
小学校低学年のときに西川貴教(T.M.Revolution)さんをテレビで知って、そこからはズッポシ! 自分の意志で音楽を聴くようになった気がします。最初に聴いた曲は「HEART OF SWORD ~夜明け前~」で、アニメ「るろうに剣心」のエンディングテーマだったんです。それで実際にパフォーマンスを観たのが「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」。楽曲もそうですが、西川さんの存在自体にロックを感じて、そこからロックバンドへと興味が移ったんだと思います。
この頃、神戸から東京に引っ越してきたんですけど、小学校にまったくなじめなくて。転校生特有の居心地の悪さもあったんですけど、あまり自分の意思が言えない性格もあって、空気のような存在になってしまったんです。自分は自分なりに戦っていたのですが、過干渉だった母にバレてしまい「学校になんか行かなくていい!」と、高学年の2年間は学校に行かず、ずっと家で引きこもっていました。T.M.Revolutionの楽曲とか、西川さんがMCだった「オールナイトニッポン」を夜更かししてひたすら聞いている日々。西川さんが影響を受けたバンドを掘って聴いたりもしましたね。本当に唯一外に出るのは、T.M.Revolutionのライブを観に行くときくらいだったかも。
テレビでは音楽番組をよく観てて、特に「速報! 歌の大辞テン」がスキスキスーだったんです。あの番組では最新のヒットチャートと一緒に昭和のトップ10も一緒に紹介していて、そこでいろんな歌謡曲を知りました。「LOVE LOVE あいしてる」(※「堂本兄弟」の前身番組)もよくチェックしていましたね。ゲストアーティストがカバー曲を披露するコーナーがあったんですけど、そこでも昭和歌謡が選ばれることが多かったんです。あとは「THE夜もヒッパレ」もDAISUKI!で往年のスターたちの歌のアクの強さに困惑したりしてました(笑)。ビデオテープで番組を撮り貯めていたのもこの頃からで、CMだけ集めたり、西川さんが出てるところだけ編集したVHSを作ったりしたな。本当にやることがなかったんでしょうね(笑)。
ギターを手にした軽音楽部時代、アコギの特訓をガンバルンバ
中学からは女子校に入ったんですけど、自分にすごく合っていて通えるようになったんです。この時期はT.M.Revolutionの延長で男性のロックバンドに憧れて、ヴィジュアル系を聴き始めました。「ミュージックステーション」に出演したときのDIR EN GREYは衝撃的でしたね。Janne Da Arc、Waive、MUCC、MERRY、cali≠gari、deadman、RaphaelはDAISUKI!でしたし、必死にコピーしていました。ルーツを探ってZI:KILL、DEAD ENDなんかも聴いてました。V系って退廃的で、当時は自分の存在も許してもらえるような気がして。世間との距離を感じている人間にとって、すごく入りやすい世界だったんです。
軽音楽部に入ってギターを始めるんですが、最初の1年はアコースティックギターしか弾かせてもらえなくて。エレキに憧れて入部したので正直ガッカリしたけど、当時はゆずや19、0930、唄人羽なんかが流行ってて、みんなで「月刊歌謡曲」(※ブティック社から発行されていた楽譜雑誌)を買って、コードを覚えて、ガンバルンバしながら練習しました。私は友達と井上陽水さんの曲を弾いて「渋いな」と言われたり(笑)。自分の意志でやりたいことを見つけられた初めての経験でしたね。
ハロプロからADKレコードまで聴く中高時代
中学から高校にかけて一気に好きな音楽のジャンルが広がって、V系から筋肉少女帯、人間椅子、THE STALINとナゴムレコードやADKレコード(※THE STALINのギタリスト、タムが立ち上げたレーベル)に所属していたバンドをよく聴いていたと思います。そうなると今度はジャックス、三上寛さん、友川カズキさん、山崎ハコさん、佐井好子さんとか、1960~70年代のロックやフォークまで掘っていきました。それと並行してハロー!プロジェクトのグループやTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTも偏見なく聴きましたね。
ハロプロを挙げるのは意外ですか? ちゃんまいはつんく♂さんで育ったと言っても過言ではないですよ! ハロプロ楽曲はいろんな要素が歌謡曲として昇華されている、本当によくできた宝石箱みたいな曲ばかりでDAISUKI!なんです。女の子を消費させず、グループやメンバーへの愛やリスペクトを感じるところも大好きな理由の1つです。当時は「うたばん」「ハロー!モーニング。」とか、ハロプロ関連の番組もよく観てました。私は辻(希美)ちゃん、加護(亜依)ちゃんと同い年なので、その2人には特に思い入れがありますね。みんなかわいかったし、今もチェックしてますよ。でも現場にイったことがないから、いつかおナマで見てみたいですね!
襲われる覚悟で通った禍々しいインディシーンとの密接な関わり
ライブハウスに通い始めたのは中学生くらいから。出会った大人たちからは大事MANなことをたくさん学びました。音楽の幅も広がりましたね。1人っ子だったので、ライブハウスの人たちはお兄ちゃんお姉ちゃん的な存在で、バンドを教えてもらってはdiskunionに入り浸っている自分に酔っていました(笑)。
ライブハウスは初台WALL、中野MOON STEP、EARTHDOM、ANTIKNOCKにはハードコアを観に。音処 手刀、下北沢SHELTER、新宿LOFT、新宿JAM、新宿URGAにはアングラ、サブカルと呼ばれるインディーズバンドをよく観に行っていました。特に、中学生棺桶とインビシブルマンズデスベッドがDAISUKI!で、都内はほとんど全通してたかも。あの頃の都内の一部のインディーズシーンって、本で読んだ1980年代のジャパコアシーンみたいな禍々しいイキフンだったんですよ。例えば、ボーカルが割れたビール瓶で自分の体を傷付けて血まみれになったり、演奏中におしっこしてライブハウスの店長に殴られてたり、墨汁飲みながら爆竹投げてきたり、全裸で演奏してたり、ステージ上でフェラチオさせてたり……(笑)。その後、自分がバンドを組んでからこの話に出てくる全員と仲良くなり、いかにその人たちがまともな人間かわかるのですが、当時客で観に行っていたときは本当に、毎回襲われる覚悟で通ってましたね(笑)。