思考家・佐々木敦手記「僕が初めてアイドル現場に足を運んだ日」 (original) (raw)
佐々木敦&南波一海の「聴くなら聞かねば!」 特別編[バックナンバー]
思考家・佐々木敦がつづるアイドルライブ初体験記
「僕が初めて“現場”に足を運んだ日」
2021年7月8日 19:00 15
2020年代の幕開けとともに突如アイドルカルチャーにどっぷりとハマった思考家・佐々木敦。音楽ナタリーでも、南波一海をパートナーにアイドルカルチャーを掘り下げるインタビュー連載「聴くなら聞かねば!」を展開中だ。これまで佐々木は自らを“完全在宅派”と称し、ライブやイベントに足を運ぶことなく、YouTubeなどの動画共有サイトを中心にアイドルの動向や新曲をチェックする日々を送ってきた。そんな彼が、ついにアイドル現場を初体験。佐々木が足を運んだのはライブナタリーが主催する、東京女子流とフィロソフィーのダンスのツーマンライブ「東京のダンス」だ。初のアイドル現場で果たして何を思い、何を感じたのか。佐々木に手記を寄せてもらった。
文 / 佐々木敦
ホントは禁を破りたかったのかもしれない
南波一海くんとの連載「聴くなら聞かねば!」担当でもあるナタリー望月氏に誘われて、東京女子流とフィロソフィーのダンスのツーマンライブ「東京のダンス」に行ってきた。
何を隠そう、初“現場”である。
私は件の連載で何度も、いわゆる“アイドルの現場”には行ったことがないし、たぶんこれからも行かない、などと公言してきた、なのに、あっけなくその禁(?)を破ってしまった。いや、ホントは破りたかったのかもしれない。誰かに導かれるのを内心待っていたのかも? その証拠に、望月氏からのメールに即レスで「行きます!」と返していたのだった。ちょうど連載でフィロソフィーのダンスと会ったばかりだったということもある。というか、フィロのスのライブは──アイドル云々はカッコに括っても──前から観てみたかったので、渡りに船だったのだ。そんなわけで、いそいそと新宿BLAZEに馳せ参じたのだった。望月氏と待ち合わせて入場し、ドキドキしながら一番後方の席に着いた。
ライブの感想を書く前に、この日のもう1組だった東京女子流について述べておく。もちろん私は彼女たちの“現場”にも行ったことはない。申し訳ないことに最近の活動もちゃんとチェックはしていなかった。だがしかし、実を言えば、私は女子流が2012年にリリースしたシングル曲「Rock You!」のtofubeatsによるリミックス「Rock You!(tofubeats 1988 dub version)」(雑誌「SWITCH」の特別企画によるもの)を一時期よく自分のDJで使っていたのだ。トーフ氏きっかけではあったが、その折にもちろん原曲も聴いたし、新井ひとみはのちにtofubeatsの「First Album」にも参加していたので、そういう認識はあった。だがしかし、これは女子流に、というのではなく、アイドル一般への関心が乏しかったので、そこから先に進むことはなく、そのままになってしまっていたのだった。
だが、それは今回、一変しましたよ!
さて、なにしろ初めてだったので、アイドルユニットのツーマンが普通どういう感じなのか当然私はわかっていなかったのだが(今もわかっていない)、女子流とフィロのスが2、3曲くらいずつ披露しては交替していくという構成が、まずは新鮮だった。これは楽器演奏なしのカラオケによるバッキングだから可能なことで、私が観てきた非アイドルの対バンではほぼありえないことである。しかも、そうすることによって2組それぞれを目当てにして来たファンが分断されることなく、効果的なコントラストを成しながらキビキビとライブが進行していく。そもそも女子流とフィロのスのファン層は親和性が高いのかもしれないが。ともかく「この手があったのか!」と素朴に驚いてしまった。
輝き、迫力、風格が全然違った生のフィロのス
ちゃんとしたライブリポートは別記事がすでに上がっているので、個人的な感想をつらつらと述べていきたい。ついにライブを観ることのできたフィロのスは、まったくもって素晴らしかった。ライブ映像はいろいろ観ていたが、当たり前かもしれないが、生で聴く / 観ると、やはり全然輝きが、迫力が、風格(!)が違う。私としてはどうしても生歌に着目してしまうのだが、4人とも思い切り聴かせてくれた。デビュー時点では、とにかく日向ハルと奥津マリリの2人が傑出した歌唱力を有していて、佐藤まりあと十束おとはは、まだまだ成長過程、という感じだったのに、気付けば後者2人も力量と魅力を兼ね備えた“ボーカリスト”になっていて、このことはすでにいくつかの動画で確認してはいたものの、実際に聴いてみると予想以上だった。
歌唱というのは単に技術だけのことではなくて、むしろ重要なのは「自分は歌える」という自信や確信であるとか、歌うのが楽しいという気持ちなのだと思うのだが、フィロのスの4人は本当に歌うことを、歌えることを心底楽しんでいるという感じがあって、聴き惚れるだけでなく、なんとも幸福な気分にさせてくれた。その場にいる人全員を虜にして一体化させる力が、彼女たちの歌、そしてダンスにはあった。実は「カップラーメン・プログラム」を最初に聴いたときは微妙にしっくり来ないものがあったのだが、あれはいわゆるスルメ曲であって、気付いたらすごく好きになっていて、ライブでも堪能した。サビの畳みかけるようなドラマチックさがじわる。4人の歌声それぞれのチャームがバランスよく出ている曲だと思うが、特におとはすの進化が明確に確認できた。メジャーデビュー以後、初期のコンセプチュアル路線から大きな変化と広がりを見せているフィロのスだが、ライブで聴いてみると、断絶ではなく、むしろ一貫性のほうを強く感じられたのも発見だった。
凝った楽曲をすらりと歌いこなす女子流のクセ者ぶり
予習もできないまま、いきなりライブを観てしまった女子流だったが、その結果、すべての曲が初体験で、そのことが自分的にはかえってよかったと思う。衣裳も振りも、そして音楽的にも、いわゆるアイドル然としているようで、要所要所に絶妙なツイストやギミックが仕掛けられていて、思わずハッとさせられる瞬間が何度もあった。例えば「ワ.ガ.マ.マ.」は、言ってしまえばK-POP的というか、J.Y. Park的な曲だと思うのだが、シンセの使い方がまったく違う。m-flo的ともいうべきレイト90年代~アーリーゼロ年代のテイストが混入していて、こういう一種のタイムトラベル感覚はK-POPにはよくも悪くもない(K-POPが世界を席巻できたのは“歴史”が欠落しているから、そこには“現在”しか存在していないからだと私は思っている)。作詞作曲はChocoholicで、この人は自分の曲もなかなか面白い。編曲はクレジットが見つからなかったので別の人かもしれないが。ともかく、こういうポップでキャッチーなのに、どこか不可思議なディテールがアイドルポップの醍醐味である(ことに最近やっと気付きました)。
フィロのスの名曲を多数手がけた宮野弦士の筆による「kissはあげない」もそうで、やはりメロディとアレンジのケミストリーが面白い。こういうなにげに凝った楽曲をすらりと歌いこなしているところに女子流のクセ者ぶりを見た。これからはちゃんとチェックしよう、と思いを新たにした次第。フィロのスがセットリスト全体で1つの世界を形作っていたとするなら、女子流は1曲ごとの完結性が高く、脳内で「オモシロい! オモシロい!」と叫びながら聴き入ってしまった。
過去に何度も味わったことがある“現場”の空気感
こういう状況の中、やはり渇望があったのか、満席のフロアはマスク着用、声出し禁止ながらも熱気がすごかった。ちょっと面白かったのは、女子流のパフォーマンスを脇から観ていたという奥津マリリが「さすが楽曲派の皆さん、クラップが超そろってる!」と言っていたことで、“楽曲派”とされるアイドルが自分でそれ言っちゃうんだ!と素人の私は虚を突かれ、しかもそれがそのまま客席に受け入れられている様子にまた感嘆したのだった。実際、この人らはテレパシーでつながってんのか?と思ってしまうくらい、後方から見ていると特に、背中しか見えない観客の皆さんは1つになっていて、アイドルの“現場”は初めてと言いつつ、ああ、こういう空気感って、過去に何度も味わったことがあるな、と思わず感じ入ったりもしたのであった。
というわけで、私の初のアイドル“現場”体験は、すこぶる多幸感にあふれつつ無事終わった。東京女子流とフィロソフィーのダンスのステージに魅了されつつ、途中から心の中で「この感覚をどこかに書き留めておきたいな」と思っていた。ダメもとで提案してみようと思っていたら、ライブが終わるなり隣にいた望月氏が「今日のことをナタリーに書きませんか?」と向こうから言ってくれて、だから私は、これを書いた。
※記事初出時より見出しおよび本文の一部表現を変更いたしました。
佐々木敦
1964年生まれの作家 / 音楽レーベル・HEADZ主宰。文学、音楽、演劇、映画ほか、さまざまなジャンルについて批評活動を行う。「ニッポンの音楽」「未知との遭遇」「アートートロジー」「私は小説である」「この映画を視ているのは誰か?」など著書多数。2020年4月に創刊された文学ムック「ことばと」の編集長を務める。2020年3月に「新潮 2020年4月号」にて初の小説「半睡」を発表。8月に78編の批評文を収録した「批評王 終わりなき思考のレッスン」(工作舎)、11月に文芸誌「群像」での連載を書籍化した「それを小説と呼ぶ」(講談社)が刊行された。
関連記事