Jazztronik - 音楽ナタリー 特集・インタビュー (original) (raw)
「Jazztronik」の誕生
——Jazztronikとして活動を始めてからちょうど10年ということですが、この10年はご自身の感覚として長かったですか? それともあっという間の10年ですか。
今振り返ると、もうホントに一瞬ですね。よく言うじゃないですか、人が死ぬとき振り返るとなんか一瞬だったみたいな(笑)。感覚的には「昨日まで大学生だったのに」という感じです。
——10年前と言うと1998年ですよね。その少し前、90年代中頃からクラブミュージックと呼ばれるものが活性化した印象があるのですが、その時期の野崎さんの音楽体験はどういったものでしたか?
僕は音楽を勉強する大学に通ってたんですけど、作曲専攻で、クラシックとか現代音楽をずっとやってたんですね。それ以外にもジャズやブラジル音楽がすごく好きで、そういうものを聴いたり物まねしてみたり。でも、今でこそブラジル音楽はCD屋さんに行けば簡単に手に入るけど……あの頃はね、ブラジル音楽っていうコーナーすらほとんどなかったから。
——ざっくりと「ワールドミュージック」として分けられてましたよね。
ワールドミュージックの棚を探しても、ホントに有名なアントニオ・カルロス・ジョビンとかが分けて置かれているぐらいで。池袋とか六本木のWAVEに行くとあるけど、普通のCD屋にはまずない。ブラジル音楽を勉強したくても当然楽譜なんかもないから、自分で書き起こしたりして。でも、そんな音楽を聴きながらも、夜はクラブに毎日遊びに行ってたんですね。高校生の頃からクラブミュージックが大好きで。当時はダンスがすごく流行ってたんですよ。
——それは「ダンス甲子園」ブームの頃ですか?
「ダンス甲子園」は中学生の頃ぐらいから盛り上がってた感じですね。その後も深夜番組で「DANCE! DANCE! DANCE!」とかをやってたのかな? SAMさんとかがまだTRFじゃなく、MEGA-MIXというグループで踊ってた頃。「うわ、うめーなこの人たち」みたいな感じで。まさかその後SAMさんと一緒にいろいろやることになるとは思わなかったですけど(笑)。10代の僕にはすごくわかりやすい、新しいカルチャーですよね。今まで経験したことのない、都会的な感じの(笑)。
——そういった大学生時代の遊びを含めた活動の中で「Jazztronikで行こう」と考えたきっかけは何だったんでしょうか?
実はいまだに「Jazztronikで行こう」と冷静に考えたことはなくて。なんで10年続いたのかもよくわかってない(笑)。大学時代にはデリック・メイとかKEN ISHIIさんとか電気グルーヴさんが大好きで、自分たちでもテクノ系の音楽でライブをやったりCDを出したりしたんですけど、それはあくまで遊びの延長だったんですね。そんなとき、後輩に「青山にBLUEっていうクラブがあるから遊びに行きましょう」って誘われて。BLUEって、今思い返しても未だにあんなに真っ暗なフロアはないっていうくらい真っ暗じゃないですか。隣の人も見えないくらい。そこでこう、爆音でジャズがかかったりヒップホップがかかったりブレイクビーツがかかったりサンバがかかったりっていうのがもう……僕にはものすごい刺激だったんです。元U.F.O.の松浦(俊夫)さんが回していた月曜日には毎週のように通って、それでクラブジャズっていうものに興味を持ち始めたときに、その後輩に「自分でもまじめに音楽やったらいいんじゃないんですか?」って言われたことが引っかかって。それでデモを何曲か作ってインディーズレーベルに送ったら、すぐに「おもしろいからやりましょう」ってことになったんですよ。
——急展開ですね。
Jazztronikという名前はそのときのために付けたもので、僕はそれで終わりだと思っていて。でもそうこうしているうちにいろんな人と知り合って、どんどん「Jazztronik」というものだけがひとり歩きをして、僕の考えとは裏腹にどんどんどんどん進んでいってしまい、気がついたら10年経ってたんです。ちなみに、僕をクラブジャズの道に導いてくれた後輩も、その後「Makoto」って名義でドラムンベースの世界で活躍してますよ。
——「Jazztronik」という名前はどういうところから?
最初に出した音源は3拍子のジャズっぽい曲だったから「ジャズっぽいし、テクノ好きだし、まあテクノトロニックとジャズくっつければいいんじゃない?」という軽い気持ちで。だからまったく深い意味がないので、この10年間何度も名前について訊かれてきたんですけど、いつも答えるのに困るんです(笑)。