ナザリン (original) (raw)

小倉正一は今年39歳を迎えようとしていた。彼が35歳の時に授かった一人娘は4歳になろうとしている。娘が3歳になる年から市内の保育園に通わせており、はやくも年少を迎える娘はそのことが自慢だ。

小倉正一は、隣町の文化会館へと向かう自家用車のハンドルを握りながら、これまでの結婚生活や家庭環境、子育てのことを考えていた。振り返れば楽な道ではなかった。彼の両親との確執、妻の言動や養育に関する問題など家庭の課題に加え、仕事や地域行事などは多忙を極めた。すくすくと順調に大きくなる娘に比べ、彼の体重はこの2~3年で5キロほど落ちた。昔の彼を知る知人の言葉を借りるなら、彼は「脂っ気がなくなった」。こうして彼は人と会うたびに体調を心配された。仕事上で付き合いのある電気通信業者からは、「小倉さん、癌じゃないですよね・・・」と本気で心配されたりもした。結婚してからは、艱難辛苦の連続だった。いや、辛いことだったら幼少期にも十分あった、などと考えていた彼は、海岸沿いの細い田舎道を飛ばす車とすれ違ったときに我に返った。

季節は初秋。ようやくうだるような暑さが落ち着いてきたかと思われるような、しかし、いまだにその名残を残す夏の終わりである。娘が通う保育園が隣町の文化会館のホールを貸し切り、年少以上のクラス合同で発表会を開催すると聞いたのは、一ヶ月ほど前のことだった。どおりで最近娘がウキウキと踊りながら歌う頻度が多くなったな、と感心していた小倉にとって、次に胸をついたのは一抹の不安である。

(この子の母親は、果たして自家用車で隣町まで行くことを許すだろうか・・・)

小倉の胸に再び苦い思い出が去来した。彼の所有する車を彼が運転するには、妻の許可が必要になっているのだ。小倉の妻、美佐恵は夫より3歳年上であった。体型は極めて細く、一見して弱々しい印象を人に抱かせるが、内面はそうではない。そのことに小倉が気づいたのは、結婚してからのことだった。特に、物や金銭への執着はすさまじく、車の燃料ひとつ入れるのも彼の自由にはならない。一度、彼が勘違いで車を「無断」使用し駐車場に車を止めたことがあった。そのとき、美佐恵は田舎の田園にこだまする怒鳴り声を上げた。彼にはその声が最初、シカか何か野生動物の鳴き声かと思った。それが人の声であり、しかも、妻の声だとわかったのは、叫び声を聞きつけた近所が騒ぎ出してからだ。

(その妻が、なぜ今回は隣町まで車を使うことを許したのだろうか。)

彼にはその点が不思議でならなかったし、晴れ渡る晴天と海岸線を目の当たりにしながらも心が晴れない理由のひとつであった。

「ねえねえ、父!あとどれくらいで着くの?」

彼の一人娘の美優が無邪気な声を上げた。この無邪気さにはいつも助けられる。父と呼ばれた男はそう思い助手席に座る彼の希望を見た。

「そうだね、あと5分くらいだよ」

「やったー。もうちょっとだ!」

本当に5分の意味がわかっているのかは疑問だが、よくここまで「普通に」大きくなってくれたと思う。普通だとか中間というのは一見簡単そうだが、実は一番実現が難しいことを小倉は知っている。美優がここまで育つことができたのは、到底自分たち夫婦だけの力だけではない。小倉の父母の功績でもなければ義理の父母でもない。目に見えぬ力の支えがなければ無理だった。

自分でもここ数年でかなり信心深くなったと思う。人は、目に見える物質だけで成り立っているのではない。物質は放置すれば必ず腐る。人の体もある日を境に崩れ出す。しかし、そうとはなっていない。毎朝日が昇り、草木が朽ちることなく我々人体が負った傷が治るのも、すべて目に見えぬものの働きがあるからだ。その働きを総称して、いつしか彼は神のご本尊そのものなのではないかと考えるようになっていた。神のご献身がなくては私たちは存在し得ない。さらには地上で私たちが苦しむのは内部が進化するためであり、その領域を広げ進化成長を遂げるには、神のご配慮なくしてありえない。ちまたでスピリチュアルと名乗る者たちが民放のテレビ番組を騒がしたことがあったが、そこでは人の魂がどれだけ進化しているかといった様子を指し、人を「高級霊」だとか「低級霊」だとかに分類していた。

(線引きをしたがる人間特有の言い方だな。)小倉はため息交じりに口の中で呟いた。仮に霊というものがあるのなら、その違いは単に神に近い者か遠い者かの違いにすぎないのではないか。人は地上にいる限り、善人も悪人もたいして違いはないのではないか。

このような類いのことを考えるのも結婚する前では考えられなかった。結婚する前は自由だった。職業を得て、金額は安いものの自分で使える給料が入るようになってからは、それらを自分の趣味にあてた。テレビゲームに映画鑑賞にマンガに自転車、バイク・・・。それでも彼の心にはどこか隙間があった。

宗教の勧誘は、この心の隙間を狙ってくるのだろう。たしかに、人の心の弱みにつけ込み金銭を取る手法はよくないと思う。それに、近年の彼の心境の変化を美佐恵は「洗脳だ」と表現した。いいだろう。生きるために信念を抱き、誰にも迷惑をかけず、その心を己のうちで燃やすならば、その事実をもって洗脳と言ってもらってかまわない。苦しみに立ち向かうには、ゆるぎない信念が必要なのだ。

小倉が運転する車は急な斜面を登りだした。カーナビは目的地が近いことを知らせていた。この坂道をつくりだしている地盤は、さぞ海岸の岸壁にふさわしく強固なのだろうと想像しながら小倉はハンドルを緩やかに左へ切った。前方に同じように幼児を乗せた父母の送迎車が多数並んでいるのが見えだした。さらにその車両の列越しに、本日の舞台である文化会館はあった。

「正一は普通の家の子供ではないから。」昔、母親に言われた言葉が不意に正一の心をついた。当時、それがどういう意味かは当時わからなかったが、今になって考えてみれば、正一は45歳の父親の子供であることや生活費に余裕がなかったことや、周囲の住民が地縁に基づく地主らに囲まれた生活環境であったことが要因しているのだと思う。今自分が子供を持ってみてわかったことだが、この言葉はまったく非常識極まりない。仮に正一が娘の美優へ「君は普通の家の子ではないよ」などというのであれば、彼は自分で自分の口を縫い合わせるだろう。親ならば誰でも、自分の子供は世界で一番普通な家庭で平穏に育てたいと思うものだし、そのように努力しなければならない。それが親の務めであるにもかかわらず、子供へ「普通ではないよ」、と言える精神は甚だしい。この苦い記憶があるからこそ、「この子だけは、なんとしてでも育て上げる」、と正一は固く決心するのである。

「なんか言った?」

小倉美佐恵がぶっきらぼうに聞いてきた。

「いや。」と、正一が口ごもると、

「何でもいいから早く近くに止めてちょうだい」との命令を受け、なおもぶつぶつ言われながら正一は慎重に車を止めた。正一の心は依然として重い。事実、正一は疲れ切っていた。どこも人手不足の影響に追われていた。正一の職場も例外ではない。人がいないことの穴を埋めるため、平日は夜遅くまで仕事し、休日は早朝から子育てが始まる。果たして、自分の体は持ちこたえることができるのだろうかと正一の不安は募るばかりである。

車を降りて力強く歩いて行く美優の姿を見ていると実感する。いや、この子だけではない。最近は、保育園ですれ違うすべての子どもたちから正一はメッセージを受け取っていると感じる。小さき子らは、生活に疲れ果て、人生に万策尽き果て憔悴しきる大人達に明確なメッセージを投げかけているのだ。別にはっきりと言葉に出すとは限らない。そもそもこの子たちは言語に乏しい。そのメッセージを受け取ることができるかどうかは大人側の魂の程度如何にかかっている。

しかし、同時にこうも思う。それがなんだというのか。そのような幼き子供らのメッセージも、美佐恵のような人間が発するトゲのある言葉によって、たやすく夢幻と化してしまう。世のいかなる感動や教訓も、実体ある濃厚な悪の前では無力ではないか。

受付を済ませ、準備のため教諭らとともに別室へ向かった美優を見送ると、小倉夫婦は会場で待つこととなった。やがて、年長のクラスから発表が始まると、最初は心ここにあらずだった正一だが、しだいにその内容に引き込まれていった。いや、内容はどうでもよい。ほとんどその台詞もわからない。正一の心を捉えだしたのは、ステージに立つ子供らの姿勢そのものだった。

ステージの上の子供の中には、跳び箱に挑戦するものがいた。また、鉄棒に挑むものもいた。そして、大抵彼らは失敗した。それでも彼らは課題に向かい挑戦していった。成功する者もいた。しかし、失敗する者が圧倒的多数だった。そこに、諦めようとする者はいなかった。そのステージの上には、勇気という名の栄光しか存在しなかった。

正一は、彼の目が涙であふれるのがわかった。つい最近まで、彼ら子ども達は親の支えなしに歩くことさえできなかった。泣いているばかりで自分で行動することさえできなかった。それがどうだろう。大勢の人の前で堂々と語り、歌い、体操するその姿こそ、神のご威光そのものじゃないか。

幼き者達は、その柔らかい体で、声で語りかける。「お父さん、お母さん、元気を出してください。頑張っているのは皆さんだけではありません。私たちも精一杯頑張っています。それが証拠にほら、疑うことなく無邪気に頑張れば、これだけのことができるのですから。」

保育園の意向だろう。ステージ終了後にスクリーンが降りてきてそこに映像が流された。保育園が保管している子供たちの赤ちゃんの頃からの写真である。正一の脳内にこれまでの日々が思い起こされた。生まれたばかりの頃は、昼夜を問わず、3時間ごとにミルクを与えた。美優は2月生まれだから、その時期は凍えないかと心配しながら、寒さも忘れミルクを作り与えた。天気の日も、雨の日も、嵐の日も抱っこをした。眠れなくてぐずれば、外に出て夜道を歩いた。やっと寝たと思って布団に寝かせると、目覚めた。そして最初からあやした。嵐で雷がなれば起きて泣いた。いまでは雷が鳴ると喜びながら「かみなりさーん」と大声を張り上げ窓に駆け寄る。どんなに疲れていようが、調子悪かろうが、二日酔いだろうが構わなかった。この子だけは何が何でも守るのだと心に誓い、時には失敗するときもあった。挫折もした。これでよいのかと葛藤もした。

正一は耐えきれず持っていたタオルで目元を覆い、嗚咽した。その様子を隣で美佐恵が冷静に観察しているのがわかる。右手ではスマホをいじりながら、ポイントサイトの履行を欠かすことはない。しかし正一は気づいた。泣いているのは彼だけではない。少なくはない若き父母たちが、泣いている。正一は直感した。苦しんだのは彼だけではなかったのだ。歓喜の涙によって人の苦しみは救われるのだ。

その瞬間、正一は神のご威光の片鱗を見た。小さくて幼いが、この場にいる誰よりも勇気があるであろうその姿に、正一の胸の中に文字通り熱いものが膨れ上がっていた。4~5歳の子供らは、40歳手前の中年に信念を植え付けたのだ。そして、歓喜に震える正一の脳内においては、感動や幸福を伝えるべくオキシトシンをはじめとする脳内伝達物質が盛んに行き交った。この脳内物質は、苦しい体験を経なければ発出されることはない。しかし、この物質こそ、通常目に見えぬ神との通信手段なのである。その瞬間に正一の脳内に放出された神経伝達物質を媒体として、瞬時に彼の脳内に次の言葉が閃いた。

「ありがとう」

その声が、正一自身のものなのか、それとも誰か目に見えぬ何者かによるものなのかは分からない。ただ正一は、その瞬間にすべてを感謝した。地上におけるすべての苦渋の体験に感謝した。

その言葉と共に彼は見た。肉眼で見えたのではない。肉眼で見るよりもはるかに近い位置で認識できた。それは彼を援助しようとする心温かき者達の集団の姿であった。

彼は神に感謝した。これまでの災難と苦しみの果てに到達するであろうその栄光に。

かつて、彼は神へ大いに不平不満を押しつけたことがあった。そのときは酒も入っていた。ほろ酔い状態で日々の鬱憤がたまり、テーブルを叩いて叫んだ。「この苦しみが何になるというのか。すべて無意味ではないか。」しかし今、神を信じるに至る体験を得た。単なる知識として信じるということではない。心から、実体験あるものとして神を信じるものである。

いや、信じるという言葉でさえもどかしい。これまで彼は、言葉の上でのみ神理を語り、表面でのみ愛を語り、神の道を行く者と豪語していた。あの程度の信念でよくそこまで言えたものだ。

人は神の配する苦しみ無くして神に近づくことは決してない。肉体の構造がそのように創られているのである。
神のご栄光をその身に浴びたそのよろこびは言葉では言い表せない。そして、その喜びは、肉体の頭脳によって瞬時に認識外に置かれてしまう。しかし、確実にそこにあるのだ。そのようにしか表現できない。

感激にむせび、心地よい疲れを伴った体を引きずり、正一は妻とともに舞台を終えた美優を迎えに行った。両親の姿を認めた美優は、担任の男性保育教諭に連れられて走り寄ってきた。美優はこの若い男性保育教諭を好んでいた。理由を聞くと、とても優しいのだそうだ。それだけではない。まるで人の意を酌んだように人の欲するところを先に行う・・・。

美優の家庭環境を知り尽くしているであろうこの若い男性教諭は同情の眼差しを向けながら言った。

「美優ちゃん、頑張ったね。踊りも歌もとても上手だったね。」

「うん。大きな声で歌ったんだ。父にも聞こえた?父はどこにいたの?」

「すぐそばで見ていたよ」

「ああ、そうだね。暗くて見えなかったけど、たしかに前の席にいたよね。」

自分の言っていることが冗談だとわかっているのだ。道化師のような顔をしてその場を和ませている。

「それじゃあ、美優ちゃん。さようならのご挨拶をしましょう。さようなら」

「さようなら。」

先に歩き出した美佐恵のあとを追いかける美優を横目に振り返ろうとした正一へこの男性教諭はただ一言こういった。

「そういえばお父さん。何かありました?来たときとまるで雰囲気が違うような。なにか、明るくなったような気がしますが。」

この地球上で建物が自然に完成することはない。むしろ、自然は建築物を破壊する。それでも建物が建ち、それらが持ちこたえているのは、それらを設計し、施工し、維持管理を行う明確な意思を持った人間がいるからだ。そのように考えるならば、人間が建てる建築物よりも遙かに精巧で緻密な人体の構造が、この地球の誕生とともに自然環境の中で自然発生的に生まれたとは考えられない。人体がここまで進化し脳が発達し、人それぞれに個性が与えられるようになるまでは、建物の建築と同じように、明確な意思をもってその創造に従事する存在が不可欠だ。

その明確な意思を持った創造主こそが神と呼ばれるのではないか。自家用車のプリウスのハンドルを握る正一はそう思った。そして、私たちが地球上で体験するすべての苦しみは神へ通じる。

しかし、神は善人悪人を問わず、晴天をお与えになれば、荒天もお与えになる。車が走り出すときに美佐恵は言った。

「ところで、あなた。さっき何で会場で泣いてたの?」

この人とは当面分かり合えることはないな、と正一は残念に思った。

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