J・T・ロジャーズ『止まった時計』/ 法月綸太郎氏の推薦文について (original) (raw)

2024/9月 国書刊行会《ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ・コレクション》全3巻の第1回配本『止まった時計』(The Stopped Clock by Joel Townsley Rogers 1958)が発売され 法月綸太郎氏が以下のような推薦文を寄せてくれました。

【探偵役の顕現とともに眠っていた物語が覚醒し、意外すぎる犯人が名指された後もさらなる驚異が読者を翻弄する……。時間と視点を手玉に取る《叙述の曲芸師(パルプ・ジャグラー)》が技巧の限りを尽くしたワイドスクリーン走馬灯ミステリ。】

この素晴らしくも謎めいた推薦文につき 弊ブログ子が調べた限りを以下に記します。まず版元からの伝聞によれば 法月氏はこの推薦文の原稿送付と共に「「ワイドスクリーン・バロック」のミステリ版というニュアンスです」と付言した由。この「ワイドスクリーン・バロック」なる語はSF界ではポピュラーな模様で 造語者とされるイギリスのSF作家ブライアン・オールディスの長編評論『十億年の宴』(東京創元社)中の以下の文が人口に膾炙する契機となったとのこと。

この長編(※弊ブログ子註=チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』を指す)は、十億年の宴のクライマックスと見なしうるかもしれない。それは時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄なこの小説は、摸倣者の大軍がとうてい摸倣できないほど手ごわい代物であることを実証した。この長編のイギリス版に寄せた序文で、私はそれを《ワイド・スクリーン・バロック》と呼んだ。これと同じカテゴリーに属する小説には、E・E・スミス、A・E・ヴァン・ヴォークト、そしておそらくはアルフレッド・べスターの作品が挙げられよう。しかし、ハーネスの小説には、ネパールの君主の飲み物、ウイスキー・アンド・シャンパンのように、独特のピリッとした味がある。(ブライアン・オールディス『十億年の宴』浅倉久志訳より)

また『十億年の宴』に続くオールディスの共著評論『一兆年の宴』(東京創元社)の巻末解説で山岸真氏が以下のように述べています。

日本では『十億年の宴』が訳された際に大いに話題になり、"SFの醍醐味"の代名詞ともなったワイド・スクリーン・バロック。もとはオールディスが、チャールズ・ハーネスの作品を形容するために使った用語であり、その際にE・E・スミス、A・E・ヴァン・ヴォークト、アルフレッド・べスターの名前が引きあいに出されている。日本ではバリントン・J・ベイリーやクリス・ボイスの『キャッチワールド』(1975)もこう呼ばれているが、どうもこの用語がSFファンのあいだで広く知られているのは、日本独自の現象らしい。
とはいえ、(中略) なんといってもハーネスのワイド・スクリーン・バロックは、「『十億年の宴』のクライマックス」だったのだ。(ブライアン・オールディス/デイヴィッド・ウィングローヴ『一兆年の宴』山岸真氏による解説より)

さらには近年になって 肝心の当該作品であるハーネス作『パラドックス・メン』が邦訳刊行され(竹書房文庫)訳者中村融氏が同書あとがきで上掲の『十億年の宴』でのオールディスの文を紹介した上で次のように解説しています。

ところで、オールディスの文章に「ワイドスクリーン・バロック」という言葉が出てきた。これはオールディスの造語で、「純粋なSF」、つまりSFのひとつの理想型をさす言葉だ。アルフレッド・べスターやバリントン・J・ベイリーの作品を語るさい、かならずといっていいほど出てくるので、聞き憶えのある方も多いだろう。その特徴についてオールディス本人はつぎのようにいっている──
ワイドスクリーン・バロックでは、空間的な設定に少なくとも全太陽系ぐらいは使われる──アクセサリーには、時間旅行が使われるのが望ましい──それに、自我の喪失などといった謎に満ちた複雑なプロット。そして、"世界を身代金に"というスケール。可能と不可能の透視画法がドラマチックに立体感をもって描き出されねばならない。偉大な希望は恐るべき破滅と結びあわされる。登場人物は、理想を言えば、名前が短く、寿命もまた短いことが望ましい」(安田均訳)
この特徴は本書(※弊ブログ子註=チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』を指す)にぴったり当てはまるわけだが、これは当然の話。というのも、オールディスは本書の作風を説明するためにワイドスクリーン・バロックという言葉を発明し、似た作風の作品を系譜化して、ひとつの概念を作りあげたのだから。(チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』中村融氏による訳者あとがきより)

また中村氏は同じあとがき中で 当該語が初めて使われた『パラドックス・メン』イギリス版でのオールディスによる序文の一部を自ら試訳紹介しています↓。

「こうした純粋なSFは、ワイドスクリーン・バロックとしてカテゴライズできるかもしれない。プロットは精妙で、たいてい途方もない。登場人物は名前が短く、寿命も短い。可能なことと同じくらい易々と不可能なことをやってのける。それらはバロックの辞書的な定義に従う。つまり、すばらしい文体(スタイル)よりもむしろ大胆で生き生きとした文体をそなえ、風変わりで、ときにはやり過ぎなところまで爛熟する。ワイドスクリーンを好み、宇宙旅行と、できれば時間旅行を小道具としてそなえており、舞台として、すくなくとも太陽系ひとつくらいは丸ごと使う」

これは中村氏自身が引用紹介している上掲の安田均氏の訳による文と共通する文脈であり 両文の相互関係は未詳ですが ともあれこの語が示唆する世界観がいずれからも窺えると同時に 法月氏がこの語を『止まった時計』への評言に用いた意図も汲みとれてくるように思われます。とくにオールディスの「時間と空間を手玉に取り」を「時間と視点を手玉に取る」と援用したのは言い得て妙。SFにも精通する氏の読解の深甚さにあらためて敬服した次第。
ちなみに弊ブログ子はこの機に『パラドックス・メン』を初読し まさにワイドなスクリーンで空間/時間を手玉に取る本家のバロックぶりに感嘆。
以上 心ある読者へのご参考迄。

(※上に引用した各文で「ワイドスクリーン・バロック」「ワイド・スクリーン・バロック」等表記差がありますが それぞれの原文のままとしました。)

止まった時計 (ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ・コレクション 1)

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