『いまを生きる』感想(ネタバレあり) (original) (raw)

※注意!『いまを生きる』のネタバレがあります。

あらすじ

1959年、アメリカの全寮制学校ウェルトン・アカデミーに、同校のOBである英語教師ジョン・キーティングが赴任してくる。厳格な規律に縛られてきた生徒たちは、キーティングの型破りな授業に戸惑うが、次第に触発され自由な生き方に目覚めていく。キーティングが学生時代に結成したクラブ「デッド・ポエツ・ソサエティ」を再開させ、自らを語り合うことで自分が本当にやりたいことは何かを自覚していく生徒たちだったが、ある日悲劇が起こり……。

引用元:いまを生きる : 作品情報 - 映画.com

感想

『いまを生きる』は「ヴァージン作品」

厳格なルールが敷かれた世界の中で、ありのままに生きることが許されず、抑圧される主人公――というと、私は「ヴァージン」という概念を思い出す。この作品はまさに「ヴァージン作品」の傑作だと思う。

※ヴァージンとは、キム・ハドソン氏が『新しい主人公の作り方』で提唱した女性的なストーリーにおける主人公のこと。「ヴァージンは当初、抑圧的な環境で暮らしており、自分の才能や美点を発揮できずにいるが、周りとの衝突や和解を経て、輝けるようになる」というのが、女性的なストーリーとされている。

※詳しくは、こちらの記事で。

nhhntrdr.hatenablog.com

名門校ウェルトンの生徒たちは、いずれ医者や弁護士になるよう教師や親から嘱望されている。代表的な例がニールという少年だ。物語の序盤、彼は父親から課外活動を制限される。父はニールに医者になることを求め、そのために必要のないことはさせないというわけである。しかし、ニールが本当に求めていたことは医者になることではなく、役者として舞台に立つことであったと後に明かされる。

もうひとり、抑圧されている少年がニールのルームメイトであるトッドだ。ニールは父親という外的な存在から抑圧されているが、トッドは他ならぬ自分自身から抑圧されている。というのもトッドは優秀な兄を持っているのである。事あるごとに兄と比較されてきただろうし、そんな中で自分への自信や肯定感を失っていったということも想像に難くない。

彼はとにかく自己主張をしない。たまに何かを言おうとして口を開いたりすることもあるが、結局は言葉を発するまでに至らないのである。自分の言葉に価値を感じていないし、言葉を発した結果、他者から黙殺されることを恐れているのだろう。

そんな彼らの前に、風変わりな英語教師キーディングが現れる。彼の授業は過激だ。テーマや技巧で詩を評価しろと書かれた教科書のページを破り捨てろと言い、机の上に立ってみせては「物事を常に異なる側面から見つめる」ようにと促す。

特に先述の教科書を破らせるシーンのセリフは痛快だ。当該ページを書いたプリチャードという学者をキーティングは「アホだ」と一刀両断する。

これは戦いだ 戦争だ

君らの心や魂の危機

敵は学者ども

詩を数値で測るとは!

我々は なぜ詩を読み

書くのか

それは我々が人間であるという証なのだ

映画評論家・町山智浩さんによる『いまを生きる』解説動画があるのだが、14:55~を聞いていただきたい。

町山智浩の映画塾!「いまを生きる [PG12指定]」<復習編>【WOWOW】#209

親や教師によって生き方を規定された生徒たちに「麻薬のような言葉が擦り込まれていく」「麻薬的に魅力的」という言葉が、個人的に妙にツボにはまってしまった。

私もキーティングの存在やその言葉は麻薬であるし、同時に劇薬でもあると思う。上手く作用すれば優れた効果が見込めるが、同時に病状が悪化するリスクも大いに孕んでいる。

当然、劇薬であるキーティングに感応する生徒が出てくる。先に紹介したニールもそのひとりだ。あと一人、猛烈にキーティングに引き寄せられるチャーリーという少年も存在する。こちらはもともとアウトローな気質を持っていたため、早々にキーティングの教えに共感するのである。

ニールはキーティングがウェルトンに在学中に立ち上げていた会"死せる詩人の会"の存在を知ると、自分たちも続かんとばかりに新生"死せる詩人の会"を発足し、教師たちに内緒で会合を開き、自作の詩を読んだりヒップホップを彷彿とさせる歌を歌ったりと、自由に過ごすのだった。

「ヴァージン作品」のビートと『いまを生きる』の展開

さて、「ヴァージン」を主人公にする作品は、以下のビートで構成されているという。*1

  1. 依存の世界
  2. 服従の代償
  3. 輝くチャンス
  4. 衣裳を着る
  5. 秘密の世界
  6. 適応不能になる
  7. 輝きの発覚
  8. 枷を手放す
  9. 王国の混乱
  10. 荒野をさまよう
  11. 光の選択
  12. 秩序の再構築(レスキュー)
  13. 輝く王国

引用元:キム・ハドソン著、シカ・マッケンジー訳『新しい主人公の作り方 アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』、フィルムアート社

ヴァージン作品において、主人公である「ヴァージン」は当初「依存の世界」に暮らしている。依存の世界にいる理由としては、生きるためや守ってもらうためといったものがある。この作品の少年たちはまさにその通りで、まだ親の保護下にあり、教師の監督下に置かれている。

他者に依存するヴァージンは「服従の代償」を強いられる。特にニールは分かりやすい例だ。親の保護を受け、名門のウェルトンに入れてもらう代わり、自分のやりたいことを追究できず、ただ医者になるための勉強に励むよう命じられている。

そんなヴァージンに「輝くチャンス」が訪れる。今まで押し殺してきた自分の夢を追い求めるチャンスである。ウェルトンの少年たちにとっては、キーティングとの出会いがそれに当たる。

その後、ヴァージンはありのままの自分に近づくため「衣裳を着る」という段階を経る。この作品ではわかりやすく何かに着替えることはないが、教科書内のプリチャードのページを破り(旧態依然とした制度を捨て)、キーティングがかつて愛読していた詩集を手にすることが、「衣裳を着る」に当たるのではないかと思う。

まだ「依存の世界」と戦うだけの強さをもたないヴァージンは、「秘密の世界」をつくり、本来の自分の才能や美点を育んでいく。少年たちにとっての「秘密の世界」とは、キーティングの授業や"死せる詩人の会"での活動である。

「秘密の世界」において、ニールは今まで押し殺していた演劇への夢を再認識し、実際に舞台に立つための行動に出る。ただ、「秘密の世界」でありのままの自分を育んだ結果、「依存の世界」との軋轢が生じるようになる。それが「適応不能になる」というビートだ。ニールは父親に内緒で『真夏の夜の夢』のパックの役を手に入れる。また、チャーリーも自由な生き方を追究した結果、暴走気味の行動に出るようになる。

その結果、ヴァージンが「秘密の世界」で行っていたことが周囲に知られてしまう。それが「輝きの発覚」のビートである。ニールは劇に出ることを父親に知られ、チャーリーは学校側から睨まれるようになってしまう。

さて、その後に来るのが「枷を手放す」というビートである。

服従の代償でヴァージンは苦痛を無意識の領域に追いやりました。コンプレックスになるような体験をしたのです。「行動するべきだけど、やめておこう。私には無理だ」という思考パターンや信念を作り、人生に対して消極的になりました。枷を手放すステージではそうした考えをはっきり意識し、チャレンジします。(中略)以前のままの自分では、夢を追うことができません。実現に必要なステップに踏み出さねばなりません。そのためには何かを諦め、手放さねばなりません。死なせる、ということです。

引用元:キム・ハドソン著、シカ・マッケンジー訳『新しい主人公の作り方 アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』、フィルムアート社

『いまを生きる』をすでに観ている人ならおわかりだろうが、ニールは悲劇的な結末を迎える。物語論的に考えるのなら、「枷を手放す」ステージで枷を手放せなかったからというのが原因なのではなかろうか。

『真夏の夜の夢』の舞台に参加すると決めた際、ニールはトッドから「頼めば許してくれるかも」と忠告を受ける。また本番の前日、舞台に立つことが父親にばれた後、ニールはキーティングの元を訪れ、相談を持ちかける。そこでキーティングは言う。

お父さんに話したか?

芝居への君の情熱を

難しくても 本当の自分を

さらけ出すんだ

強い信念と情熱で

証明してみろ

しかし、ニールは父親との相互理解を端から諦めている。結局、ニールは対話を避け、父親に内緒にしたまま舞台に立つことを選択する。枷を手放せなかったのだ。

結果、いいつけに背き舞台に立ったことを知られ、ニールは陸軍学校への転校を父親から言い渡される。その結果、絶望したニールは自ら命を絶つ。本来、ヴァージンは枷を手放し苦しんだ後に、それでも夢を選ぶ「光の選択」というステージが用意されている。しかし、ニールは「光の選択」の真逆を行ってしまったのだ。

「光の選択」に出たヴァージン――トッド

ニールという「ヴァージン」は悲劇的な結末を迎えてしまった。だが、まだ「ヴァージン」はいる。彼の親友であり、作中何度も彼から励ましや叱咤を受けてきたトッドだ。

ニールの死後、ウェルトンに騒動が起こる。このような悲劇が起こった原因を探り、排除しようとする動きが出てくるわけだ。これは「王国の混乱」に当たる。

ものごとが揺らぐ時、伝統を守ろうとする力が動きます。

(中略)

王国の混乱ステージでは、自分の生き方を決めたヴァージンに対するリアクションが起こります。しかし王国は、今からでも古い秩序を立て直せると知っています。王国は総力をあげてヴァージンを後戻りさせようとします。

引用元:キム・ハドソン著、シカ・マッケンジー訳『新しい主人公の作り方 アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』、フィルムアート社

厳格なルールと伝統を誇っていたウェルトン。そんな中でキーティングが革命を起こし、少年たちは本来の自己に目覚めていった。チャーリーによってウェルトンは揺さぶりをかけられ、さらにニールの死によって従来の秩序は危機にさらされる。こうなれば、ウェルトン側の慣性力は激烈なものになってしまう。

その結果、ウェルトンはキーティングにすべての責任をかぶせるのである。本来、ヴァージン作品では「秩序の再構築」というビートにおいて、ヴァージンと周りの人たちが和解をする。

こっそり夢を追いかけていたヴァージンは、自分の心に正直に生きるようになりました。(中略)そして、ヴァージンは自分自身の生き方を受け入れてほしいと王国に挑戦します。これが秩序の再構築です。

引用元:キム・ハドソン著、シカ・マッケンジー訳『新しい主人公の作り方 アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』、フィルムアート社

しかし、トッドは校長からの圧力に負け、言われるままにキーティングを弾劾する書類に署名させられる。よって、キーティングは排除され、ウェルトンは従来の秩序を取り戻すのである。

キーティングのいなくなった後、新任の教師が来るまでのつなぎとして校長自らが教壇に立つ。そこで生徒にプリチャードの書いた概論を読ませる。かつてキーティングが生徒たちに破らせたあのページである。少年たち「ヴァージン」にとっての敗北が決定的になった瞬間である。

だが、トッドがそこで動くのである。かつては自分を押し殺し、何も言わずに生きてきたトッド。しかし、トッドはキーティングの授業の中で、枷を手放していたのである。「自分の言葉には価値がない」という思い込みを捨て去り、自己を表現するという喜びを手に入れていた。そんな彼が、最後の最後で動く。『いまを生きる』には数多くの名シーンがあるが、白眉はトッドが行動に出るこのラストシーンであろう。敗北が決まったかと思われた土壇場でトッドは「光の選択」をした。トッドが動いたことで、キーティングの教えは決して無駄ではなかったことが証される。

ラストシーンで流れるBGMのタイトルは「Keating's Triumph」という。「キーティングの勝利」である。まさにこのタイトルにふさわしいシーンだと私は思う。

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個人的にラテン語のマカリスター先生も好きだ。彼もキーティングに感化された一人である。旧秩序に戻ってしまったウェルトンの中で、静かにキーティングの手法を受け継いだ授業をしているシーンは、「まだウェルトンも捨てたもんじゃないな」と感じさせてくれた。ノーラン校長、第二のキーティングは残っているのだよ。

「人の通らぬ道」

先程紹介した動画で「本当の主人公は誰だったか」という話があるのだが、そこで町山さんはトッドが主人公であると言っている。

町山智浩の映画塾!「いまを生きる [PG12指定]」<復習編>【WOWOW】#209

私もトッドが主人公であると思う。物語論的に見たときに、誰が変革を果たしたか、誰が枷を手放したかということを考えたときに、やはり一番しっくり来るのがトッドなのである。

トッドが最後の最後に変革を果たす物語だと考えると、ニールとチャーリーは先行者である。彼らはトッドより先にキーティングの教えに感応し、自由を求めていった。ニールは不完全な自己実現だったゆえに悲劇的な最期を迎えた。一方のチャーリーは、一時は先鋭化して暴走しかけたものの、キーティングの教えの本質を理解し、最後までありのままの自分を貫いてウェルトンを去って行った。もう一人、特徴的な少年と言えば、キャメロンである。彼はニールたちとつるみ、"死せる詩人の会"のメンバーでもあったが、キーティングの教えの本質を理解することができず、最後は体制側に与し、キーティングの弾劾に加わった。

ラストシーンでトッドの前に提示されたのは、ニールの意志を継ぎチャーリーのように生きるのか、それともキャメロンのように旧秩序の中で親や教師の期待に添って生きるのか、という二択の選択肢だったのではなかろうか。

正直、今後のトッドたちの人生は苦難が続くだろう。校長の言葉通りなら、トッドや仲間たちにはウェルトン退学が待っている。となれば、わかりやすい形での人生の成功は見込めない。"死せる詩人の会"でニールが読んだソローの詩のように、彼らは「人生の真髄を吸収するため」に「森」に入ることになる。ここでの「森」とは、もちろん象徴的な意味での森であり、授業の中でキーティングが紹介したフロストの言葉にある「人の通らぬ道」である。「人の通らぬ道」は草木が生い茂り、砂利や岩の転がった歩きにくい道だろう。

それでももう、トッドたちは「人の通らぬ道」を歩むと決めたのである。そのためだろう。トッドに続いて行動に出た少年たちは、その直前に一瞬だけ思い悩む表情を見せる。安全な「人の通る道」か、それとも危険に満ちた「人の通らぬ道」か。だから、彼らは少しだけ戸惑いを見せる。しかし、一度行動に出た後の、彼らの晴れ晴れとした顔は何度見ても胸を打たれる。

逆にキャメロンたち「人の通る道」を選んだ少年たちを責める気にもなれない。危険な「人の通らぬ道」を選べるほど、誰もが強いわけではない。ただ、これから彼らは「人の通らぬ道」を選ばなかったことを背負って生きていくのだろうな、とも思う。トッドたちが目に入らぬよう、俯いているキャメロンたちの姿もまた、別の形で私の心に突き刺さってきたりもした。

余談だが、ブルーレイの特典映像によると、本来キャメロンはトッドたちのように行動に出ることになっていたらしい。しかし、キャメロン役のディラン・カスマンがその脚本に違和感を覚え、監督に「キャメロンの今までの言動から考えると、彼はそんなことはしないのでは?」と提案したのだとか。役柄とは違い、演者はしっかりとキーティングの教えを体現したのだと感心させられた。

最後に

途中で「ヴァージン作品としては、ニールは枷を手放すべきだった」と述べたが、そうすれば『いまを生きる』は今の時代まで語られる作品にはなっていなかっただろう。そう簡単に枷を手放させてくれない親や教師のもとで暮らし、枷を手放すと人生の落伍者となってしまいかねない状況にいるのがウェルトンの少年たちなのだ。どうしようもなく硬直した世界において、一度は挫折しかけた少年たちが、それでもキーティングの教えを覚悟を持って選び取ったからこそ、この作品は心に残る。

依存と抑圧に敗北しそうになりつつも、最後は光の選択をトッドたちはつかみ取った。『いまを生きる』はヴァージン作品の傑作だ。

リンク

「ヴァージン」の提唱者キム・ハドソン氏の著作。

リンク

本文中で言及させていただいた町山智浩さんの『いまを生きる』解説動画。

※『いまを生きる』を未見の方は、まずこちらから。

町山智浩の映画塾!「いまを生きる [PG12指定]」<予習編>【WOWOW】#209

※『いまを生きる』を見終わったら、こちらの動画へ。

町山智浩の映画塾!「いまを生きる [PG12指定]」<復習編>【WOWOW】#209

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*1:ただ、必ずしも全ビートを押さえる必要はないとのこと。