『白昼の通り魔』感想(ネタバレあり) (original) (raw)

※注意!『白昼の通り魔』のネタバレがあります。

あらすじ

1966年公開の大島渚監督作品。あらすじは以下の通り。

神戸で女中奉公しているシノ(川口小枝)のところへ英助(佐藤慶)が突然現れた。「どうしてもシノに会いたくなったから来た」と英助は言いながら、シノに包丁を向けて縛り、失神させて犯した。そして、抵抗した奥さんも殺害する殺人事件を起こした。英助はすでにその年に11件発生している「白昼の通り魔」の犯人だった。

引用元:白昼の通り魔|松竹シネマプラス|松竹のBlu-ray/DVD・配信のおすすめ作品のポータルサイト

主な登場人物は以下の四人。

物語は大きく二つの時間軸に分かれており、メインとなる時間軸ではシノが奉公先で英助に犯されて以降の話が繰り広げられ、要所要所に回想という形でシノが村にいた頃の話が語られる。

感想

はしご外され問題

大島監督の別作品『青春残酷物語』の感想記事を書いたとき、私は複数回「はしごを外された」という言葉を用いた。

由紀・秋本世代にしろ、真琴の父世代にしろ、一時は確固たる理想や目標を提示されていた。ゆえに人々は理想や目標を信じ、それに向かって愚直に生きていけば良かった。そうすることで幸せになるという確信があったわけである。

だが、急にはしごを外されることで、確信は砕け散る。

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「由紀・秋本世代」とは1950年代前半に民主主義のために武装闘争を繰り広げていた世代、「真琴の父世代」は戦中を生きた世代に当たる。

どちらの世代も「○○(民主主義、戦争の勝利)のために××すれば(戦えば、お国のために命を投げ出せば)、理想の世の中が来る」と信じてきたにもかかわらず、時流に手の平を返され、はしごを外されてしまったと私は認識している。

さて、私の個人的な感想に過ぎないが、この「はしご外され問題」は『白昼の通り魔』の登場人物たちも蝕んでいるような気がするのである。

特に、マツ子はかつて民主主義を信じ、理想に燃える人物であった。

戦後民主主義の啓蒙者を以て任じようとするマツ子は、若者たちを指導して共同農営場を設け、コミューン的に家畜を飼育して進歩的思想を実践しようと試み、夜は夜で彼らを相手に勉強会を開いている。(中略)マツ子の理想とする民主的なユートピアがささやかながら実現されつつあった。

引用元:大島渚プロダクション 監修、樋口尚文 編著『大島渚全映画秘蔵資料集成』、国書刊行会

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その頃のことをマツ子自身は「長い間、あたしたちは気持ちがひとつだったんよ」と語る。

しかし、その理想はある日突然崩れ去る。洪水によって田んぼも家畜も流されてしまったのだ。それでも青年たちの共同体の一員である源治は皆に呼び掛けるが、その現実性のなさをシノに喝破される。

源治「今まで以上に、みんなの精神だ!精神をしっかりさせて、団結せねばな!」
シノ「豚小屋立て直すには、精神より銭でしょうが!」

この出来事をきっかけに、共同体が崩壊していったことは想像に難くない。

それでもマツ子は公民館で青年たちを相手に「恋愛は無償の行為です」と、精神についての教えを説く。

恋する者が平等で差別が無いってことは、今の時代じゃ当たり前よ。でもね、無償の行為だってことについちゃあ、まだまだ理解されてないんよ。無償ってのは損得抜き。お返しを期待しないことよ。商売や政治とはまったく違ったもんです。

だが、それもまたシノの批判を浴びる。

先生、洪水で流れちまった田んぼ、復旧する相談をしようよ。そのために、こうやって公民館に集まってるんでしょうが!今までみたく、みんな力を合わして。

恋愛なんてしてたら、あたいんちは飢え死にしてしまうんよ。

どれだけ高邁な精神を説こうと、地上のパンが無ければ生きてはいけない。シノの言葉は、常に現実的だ。生命力に溢れた彼女は、常に大地と結びついた生き方をしている。

マツ子の示す天上のパンに青年たちは満足出来なかったのか、夜の公民館での集会も、それが最後となったらしい。その頃のことを回想しながら、マツ子は語る。

今考えてみれば、大勢の人間が力を合わせるなんてこと、あたし自身がもう信じなくなってたんよ。結局はひとりとひとりの素晴らしい結びつきだけ。

敗戦後の日本人に提示された戦後民主主義という理想を小さなコミューンの中で実現しようとしたものの、ひょんなことがきっかけで瓦解する。その結果、「結局はひとりとひとりの素晴らしい結びつきだけ」と語るわけである。

これってマツ子を代表とするコミューンの面々が、「共同幻想」に失望した後、「対幻想」に走るようになったことを示しているのではなかろうか。*1

戦後民主主義敗れ、ロマンティック・ラブ・イデオロギーへ

洪水の後、シノは源治から借金をする。もともとシノに想いを寄せていた源治は、自殺をちらつかせる彼女を宥め、快く金を貸した。

その代わりに、シノは源治に抱かれることになる。情事の後、借りた金でニジマスの養殖を始めようと心をはやらせるシノに対し、源治はシノとの成就に浸っているという温度差が妙に印象的である。さらに源治は、たまたまその場にやって来た英助に「わけえ衆の集まりはよして、今度は娘っこを構うことにしたんかい?」と、皮肉を言われるのだった。

ところで、ロマンティック・ラブ・イデオロギーという論理がある。西洋発祥のものらしいが、近代になって日本に持ち込まれたという。

まず明治時代に、江戸時代にはなかった恋愛観が日本に輸入される。その恋愛観こそが、ロマンティック・ラブ。当時、欧米に普及していた性愛の特殊な形態で、結婚を前提とする純愛のことだ。

引用元:ロマンティック・ラブに悩む日本 変貌する恋愛観とは | 慶應塾生新聞

明治時代は、日本人にとって大きなパラダイムシフトの時代だったことはよく聞く話である。西洋文化が急激に入り込み、江戸時代までの文化や伝統に取って代わってしまった。

その中の一つが恋愛観・結婚観だったという。

「結婚」も例外ではありません。国力の基盤として大切な要素である国民を生み育てる家庭生活においても、国は新たな仕組みを導入し、従来の緩やかな一夫多妻を廃し、「一夫一婦」制を採用したのです。

同時に、西欧の文化も流入してきました。男女の熱い恋愛模様が描かれる西欧文学が日本語に翻訳され、知的エリート層が海外に留学する中で、従来型の「親が決めた取り決め結婚」以外の純粋なる恋愛、いわゆる「自由恋愛結婚」の価値観が日本に流入してきたのです。

(中略)
ただし、こうした新しい概念は、当初はまだ一部の恵まれたインテリ層だけのもの。戦前までの前近代日本は、依然として厳密な階級社会です。身分の差を乗り越えて男女が恋愛することはまだしも、「結婚」となると、極めて非現実的でした。「結婚」=「家(イエ)」を維持するものであり、当人同士の意思や感情以上に、家長の意向が絶対だったからです。

(中略)
では、現代の私たちが考える「結婚観」が生じてきたのはいつからか。
それは、第二次世界大戦後から高度経済成長期にかけての近代社会においてです。 戦後、日本国憲法が誕生し、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」することが定められました。成人した男女であれば「結婚」に際し、親の承諾は一切要らなくなったのです(もちろん、個別の事例は異なります。法律的にはOKでも、依然として「この結婚は認めん!」と親が言うケースはありましたし、今でも多いです)。 これまで「結婚」を決めてきた主導権が、「イエ(両親・親族)」から、「個人(当事者)」へと移行した結果、「嫁を取る」「婿に入る」という言葉や概念も、人々の意識から徐々に薄れていきました。

引用元:山田昌弘著『パラサイト難婚社会』、朝日新聞出版

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明治維新以降に入ってきた西洋的恋愛観・結婚観が、紆余曲折あって高度経済成長期に一般化してきたわけである。『白昼の通り魔』の公開年は1966年。まさに高度経済成長期のまっただ中だ。

とはいえ、シノたちの住むところは都会から遠く離れた山村である。まだまだ父権制社会も幅をきかせている。

父権制社会と新しい価値観の間で

父権制社会の強い影響下にいるのが村長の息子である源治だろう。源治は洪水の後にマツ子たちから離れ、村会議員選挙に向けて活動を始めた。だが、これが源氏本人の意思によるものではないことが、後に彼本人の口から明かされるのだ。

源治「僕あ、俺はだな、選挙だなんてこんな騒ぎ、腹の底からいやなんだ」
シノ「うちは父ちゃんもおばあも源治さんに入れると」
源治「俺なんか入れるなって、そう言え!」
シノ「なりたくないんだね?村会議員に」
源治「わかってくれるかや。俺はね、世の中ってものが面倒くさくなって、生きてくのがつまんなくなってしまった」

おそらく村長である父から強く言われた上での立候補だったのだろう。

しかし、こう考えると源治のバックボーンは中々に複雑である。伝統的な父権制が根強いであろう村社会の中でも、更にその傾向が強いと思われる村長の家に生まれながら、マツ子たちと共に戦後民主主義を象徴するような青年たちの共同体づくりのリーダーとなる。洪水後で共同体が駄目になった後は、村会議員に立候補しつつも、シノとのロマンティック・ラブにふける。

戦後日本において、西洋からもたらされ一般化した価値観と、それでも根強く残る日本の伝統との相克を擬人化したような存在が、源治なのではないだろうか。

本篇では明言されていないから、以下は私の思い込みに過ぎないのだが、おそらく源治とシノの結婚は身分差ゆえに不可能なものだったのだろう。源治とシノの関係が村中に知れ渡ったとき、村民の認識は「源治がシノを金で買っている」というものだった。端から見れば、二人の関係は恋愛ではない。しかし、当の源治は違うのだ。マツ子の述べる「無償の行為」を実践するかのように、シノに金を快く貸してやる。これも田んぼが駄目になり、世をはかなんだシノが一家心中を考えていたのを止めるためである。

しかし、シノとは三晩続けて関係を持てたものの、その後は上手く行かない。源治から借りた金をもとにニジマスの養殖とホップの栽培を始めたシノは、忙しくてならないのである。

その一方で、村会議員選挙の投票日がやって来て、村の大部分が源治に投票しているという状況下。源治の未来について、英助はからかいまじりに「一番で村会議員になって、村会議長になって、村長になって。そのうち県会議員になって…」と語る。しかし、源治自身はそんなこと望んでいないのだ。

シノに対して無償の行為をしたとはいえ、愛を返されないのは何か寂しい。その上、自分自身は村の実力者としての道を歩みつつあり、シノとの身分的な距離は開くばかり。

源治が自殺の直前、マツ子のもとを訪れたのは、今風に言えば「ワンチャン狙い」だったのではないだろうかと思う。

先生と一緒になれば、俺も今のまんま生きていけるんだ。あれやこれや話し合って。

マツ子ならば県会議員・源治の妻としての格は十分。さらにはマツ子を正妻としつつ、シノを妾に迎えて関係を続けることも考えていたのならどうだろう。源治の求めるロマンティック・ラブを実現しつつ、外部から求められる県会議員としての体裁も守ることができる。これが源治にとっての現実的な両立法だったのではなかろうか。

源治の本心がいずれにせよ、マツ子への求婚は失敗に終わる。その結果、シノとの心中を彼は選ぶのである。心中。今生で添い遂げることができないゆえに、来世で一緒になれることを願って死ぬのだ。

それまでの寂しさを満たすかのように、源治はシノに自分への愛を問う。

シノちゃんと俺はあいぼれか?

心も、体もあいぼれか?

俺が死ねば、シノも死ぬか!?

俺だけ死んで、シノが後に残れば、他の男と所帯を持つだろ。英助と一緒になるかもしれねえ。

今までシノに無償の行為を捧げてきた源治が、ここにきてシノに見返りを求めるという流れである。

心中前後のシークエンスで、源治は当初自分のことを「俺」と呼んでいたのだが、やがて「俺あ、僕はだな」と言い直す。これが、源治がシノに告白するシーンと対照的に感じられてならない。初めて源治がシノに愛を告げる際に、彼は「僕はだな、いえ、俺はだな」と、一人称を「僕」から「俺」へと切り替える。

かつて弱々しい「僕」から荒々しい「俺」へと切り替えた源治が、死を目の前にして、シノに甘えるかのように「僕」へと戻る。そう思うと、源治のそれまでの息苦しさが真に迫ってくるように思えたし、なにやらいじらしさも感じた次第である。

源治の自殺は、物語の大きな転換点である。シノは源治と心中するも死にきれずに英助に助け出され、英助はかねてから想いを寄せていたシノを犯す。その出来事を英助から聞かされたマツ子もまた、英助による二人目の強姦被害者となったのであった。

マツ子という女性

マツ子と源治は一時は民主主義(共同幻想)を信じていたものの、それに裏切られたためにロマンティック・ラブ(対幻想)へと走った人たち、と私は勝手に解釈している。

片方の源治はロマンティック・ラブに殉じて死んでいった。一方のマツ子は、英助と結婚する。とはいえ、想い合っての結婚ではない。英助から強姦された後、もともと彼を愛していたマツ子は結婚を申し込む。その時の英助の反応を、マツ子は後にシノに以下のように語る。

気が付いたあたしが身支度してても、あの人はずっと草の上に座ってたんよ。結婚してって言ったら、俺あどっちでもいい。

先生がそうしてえならそうすりゃいいだ。くたびれたような顔で言ったわ。…あんな始まり!あんなひどい、人間じゃないような始まり方!

それでも、理想家のマツ子は英助を思って頑張ったらしい。しかし、

努力もしたんよ!それなのに英助はすぐにあたしんとこ飛び出して!

決して、英助はマツ子のものになろうとしない。マツ子に愛情を返してもくれない。しかも、一時的に死んでいた(心中直後で意識がない)シノを犯したことで屍姦的なことに目覚めたのか、方々へ出歩いては女性を犯して回るという始末。結果、英助は「白昼の通り魔」として警察から追われるようになる。

マツ子の語る理想は美しいが、どこか画餅のように思えるのは「無償の行為」がそう簡単にできるものではないからだろう。マツ子自身、無意識なのかどうかはわからないが、やたらと英助に対して「私が好きなら○○して」という言葉を投げかけているのだ。どうしたって、好きな相手から愛されないことは辛いし、よしんば「あいぼれ」になったとしても、相手から無碍にされると寂しくてならない。ましてやマツ子は薄々ながらも英助が自分ではなくシノを愛していることに気づいているのである。余計に英助からの見返りが欲しくなるのも無理はない。

さて、教師として生徒たちに民主主義を教え、かつては青年たちの共同体の中心人物でもあったマツ子。彼女の思想には左翼的傾向があることは想像に難くない。

私は長らく「左翼=リベラル」と思っていたのだが、本来的な意味はそうではないらしい。

佐藤 左翼はきわめて近代的な概念です。もともと左翼・右翼の語源は、フランス革命時の議会において、議長席から見て左側の席に急進派、右側に保守派が陣取っていた故事に由来します。この左翼、つまり急進的に世の中を変えようと考える人たちの特徴は、まず何よりも理性を重視する姿勢にあります。
理性を重視すればこそ、人間は過不足なく情報が与えられてさえいればある一つの「正しい認識」に辿り着けると考えますし、各人間の意見の対立は解消される、そうした理性の持ち主が情報と技術を駆使すれば理想的な社会を構築することができる、と考えます。

引用元:池上彰、佐藤優共著『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』、講談社

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原作版で言及されていることなのだが、結婚前のマツ子は身銭を切って英助で学ばせようと考えていたらしい。英助のような粗野な人間でも、十分な学びを得ることで「過不足なく情報が与えられ」る。その結果、彼は「ある一つの「正しい認識」に辿り着ける」と期待していたのかもしれない、などと勝手に想像してしまう。

しかし、英助は「理性の持ち主」となるどころか、女性たちを気絶させては犯す「白昼の通り魔」へと変貌する。英助にはモデルとなった実在の犯罪者がいる。彼の奇行について、大島監督は以下のように語っている。

この犯行の中でもっとも特徴的なのは、暴行に及ぶ前に必ず女の首をしめて相手を失神させているということなのである。つまり、白昼の通り魔は失神した異性のからだにしか、欲望を感じなかったのではないかと思われるのである。

(中略)

私はここに、男のしゅう恥心あるいはしゅう恥の感情の一つのきょくたんな発現を見る。その男の過去にいかなる歴史が秘められていたかは知らない。ともかく彼がその生涯のどこかの時点で無意識的に自覚したのは、おのれは「しゅう恥心」が強すぎる、しゅう恥心が強すぎて、正常な状態では性的行動にはいることができない、女性を失神させて一個の物体に変えてしまえば、おのれのしゅう恥心にさまたげられることなく、自由に性的行動にはいることができるのだ、ということではなかったかと思われるのである。

引用元:大島渚著『魔と残酷の発想』、芳賀書店

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となると、しっかりとした意識を持って関係を結んでこようとするマツ子を拒絶するのも納得できるといえばできる。シノを好きでいながら、源治のように真剣な想いを告げずにいたのも納得できる気はする。何せ、英助がシノに想いを伝えたのは、強姦した直後にシノに責められた末のことなのである。

逮捕後、英助が語った言葉は以下の通りである。

シノが源治などに惚れないで、俺と結婚してさえいてくれたら、俺はこれほどぐれないで済んだ。シノが心中した後、命を救ってやり、気を失った体に悪さをしてから、その味を覚え、酒を飲むと制止できなくなった。

俺の女房は教師などしていて、自分で世の中や人間のことがわかっているように思っている駄目な偽善者だった。俺は彼女の本性をよく知っていたから、彼女の所を飛び出し、わざと女房が恐ろしがることをやらないではいられなかった。

マツ子に対する言及は少々変更されているが、これらの言葉は原作とほぼ同じである。しかし、シノやマツ子が英助による一連の犯罪が自分のせいだと叫ぶと、否と彼は言うのだ。

そうじゃない。俺が違うところで生まれて、シノやマツ子と一緒にいなくても、小山田英助は小山田英助だ。きっと同じことをしたに違いない。

原作にはない、映画版で付け足された言葉。ここに理性の限界を示されたような気がするのは気のせいだろうか。どれだけ優れた思想を叩き込もうとも、どれだけ尽くそうとも、理性を持とうとしない。そんな怪物的な存在は、どうしたって生まれてくる。そんな存在を何の因果か愛してしまったマツ子は、自分の理想通りに教育しようと努めた結果、敗れてしまったのである。

強姦殺人・強姦致傷を繰り返した英助の行く先は、死刑だと確信するマツ子。彼女はシノに対して「何もできなかった」と無力感を告げる。

原作の同じシーンで、マツ子が興味深いことを口にしている。

「いつか、私のうちで、あなたたちみんなに集まってもらったとき、私が、恋愛は無償の行為だと話したでしょう。あのとき英助が、それならレンアイはもっくるげして飛ぶみたいなことかねと言ったでしょう。私でなくて、英助こそ、無償の行為をやってのけたんじゃないのかしら。だって英助は、自分の犯した女たちみんなに愛されなかったんだから」

引用元:武田泰淳著「白昼の通り魔」(『ニセ札づかいの手記――武田泰淳異色短篇集』内に収録)、中央公論新社

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無償の行為的恋愛が愛されないことを前提とするなら、それを犯罪ではなく健全に実践できる人間などそうはいないだろう。そんな手の届かないものを追い求め、それでいながら無意識下では相手から愛されることを求め続けたマツ子もまた、理想と自分の本心との相克に苦しめられた一人ではなかろうか。

ここまでマツ子に対して批判的な文章を書いてきたが、私自身はマツ子が大好きである。もし「大島作品の登場人物で、誰が好き?」と聞かれたら、「(『戦メリの』)ヨノイとマツ子!」とすかさず言うと思う。

外界から与えられた価値観に沿って生きながらも、奥底で本来の自分からの反乱を受けて苦しんでいる。そのように、きちんと苦しんでいるからこその美しさがマツ子にはある。演じている小山明子さんの美貌が、マツ子の気品をさらに高めているのも良い。気品があり、凜としながらも、どこか不安げ。そんな美しい脆弱性を持ったマツ子に、どうしようもなく惹かれてしまうのである。

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*1:ちなみに、この作品が公開されたのは1966年で、吉本隆明が『共同幻想論』を発表したのが1968年。