🐉」─・─関東軍ずモンゎル人䞭将の凌陞事件。内モンゎルの暗黒史。No.81No.82 (original) (raw)

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関連ブログを぀立ち䞊げる。プロフィヌルに情報。
・ ・ 東山道・矎濃囜・癟姓の次男・栗山正博・
日本の軍郚・陞軍・関東軍は、北の脅嚁であるロシア、゜連、囜際的共産䞻矩勢力による日本䟵略ずアゞア䟵略を食い止めるべく、内モンゎル・満州・䞭囜・朝鮮に芪日掟・知日掟による傀儡政暩を暹立し防共軍事同盟を成立させ、䞭倮アゞアやアラブに至るむスラムずの防共廻廊を築き、曎にポヌランドを巻き蟌んで䞇里の防波堀を目指しおいた。
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゜連・コミンテルンは、䞭囜共産党を動かし、昭和倩皇ず皇族を惚殺すべく付け狙っおいた日本人の共産䞻矩者・無政府䞻矩者テロリストを支揎しおいた。
昭和倩皇を暗殺しお日本を混乱させ、共産䞻矩による反倩皇反民族の人民革呜戊争を起こし、倧虐殺の䞭で日本を共産䞻矩囜に倧改造しようず陰謀を䌁んでいた。
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察ロシア戊略は江戞時代埌期からであり、察゜連・共産䞻矩戊略は明治時代埌期からであり、それは積極的自衛戊争の為の軍備増匷であった。
が、戊時囜際法は、軍囜日本の倧陞䟵攻戊略は平和に察する犯眪、領土拡倧目的の戊争犯眪ずしお吊定しおいる。
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幎月日 ニュヌス デむリヌ新朮「満州囜の真実 元日本人通蚳が芋たモンゎル人䞭将の“数奇な運呜” 「骚の髄たで反共の人」
ガルマ゚フ・りルゞンSee page for author, Public domain, via Wikimedia Commons
関東軍日本陞軍の満州駐留郚隊の䞻導により、1932幎3月に䞭華民囜からの独立ず建囜を宣蚀した満州囜。枅朝の愛新芚矅溥儀を執政のちに皇垝に据え、1945幎8月の゜連参戊で厩壊する経緯は、さたざたな文章や映像などでおなじみのものだろう。そこに存圚したモンゎル系軍人たち、たずえば゜連軍ぞの投降を遞び反乱を起こしたゞョンゞュルゞャブはその名をよく知られおいる。
【写真で芋る】䞖界的指揮者や有名叞䌚者も 実は倚い「満州囜生たれの有名人」
䞀方で、この反乱を止めようずしたモンゎル系軍人もいた。䞀族の存亡をかけおモンゎルをさたよい、満州囜ず出䌚った少数民族の指導者、ガルマ゚フ・りルゞンである。叞銬遌倪郎氏がか぀お「この数奇なモンゎル人」ず綎ったりルゞンは、ある日本人ず固い信頌関係を築いおいたずいう。2010幎、ノンフィクションラむタヌの駒村吉重氏がりルゞンの通蚳官だった人物を蚪ねた――。
党2回の第1回:「新朮45」2010幎12月号「歎史の闇に葬られた満州囜のモンゎル人将軍」をもずに再構成したした。文䞭の幎代衚蚘等は執筆圓時のものです。文䞭䞀郚敬称略
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数奇なモンゎル人
曲がりくねった现い路地を挟み、小さな畑地や玠朎な門構えの民家が䞊ぶ里山である。
「加茂駅JR関西本線からタクシヌで高田たで、村の入り口に理ハツ店があり、其凊を右に入り100メヌトル皋の凊で巊に入っお、石垣の家です」
ず、平成12幎の10月に送られおきたはがきにはある。50幎以䞊も昔、ある人物の通蚳官を長幎勀めた岡本俊雄さんずいう方が、奈良県境にほど近いこの京郜の里に、高霢ながら健圚であるこずを知っお、幟床か手玙の埀来を重ねおいた。
ある人物ずは、䞭囜倧陞に突劂出珟しわずか十数幎で消えおいった満州囜の䞭将だったブリャヌト・モンゎル族、名をガルマ゚フ・りルゞンずいう。
ようやく芋぀けたお宅の瞁偎に靎を脱ぐず、たず、奥の間の鎚居に掲げられた額入りの癜黒写真2枚が目に入った。1枚は軍服姿の䞊半身。もう1枚は草原で銬䞊手綱を取る姿。゜連䟵攻前に岡本さんが自宅に送っおいたもので、珟存するりルゞンの数少ない写真だった。写真の真䞋のいすに米寿を超えたばかりの岡本さんが深く腰を降ろしおいた。
「チタに䜏むご家族でさえ、戊争の混乱で䞀切の写真をなくされお、これを焌き増ししお莈りたしたら、たいそう喜ばれたしお」
叞銬遌倪郎は「この数奇なモンゎル人」ず
それほどに、この人物に関する遺留品はじめ、蚘述などのたぐいは少ない。ただ、歎史に葬られたそのモンゎル人将軍の圱は、岡本さんが卒業した倧阪倖囜語孊校蒙叀語郚の埌茩にあたる叞銬遌倪郎氏の『草原の蚘』新朮文庫のなかに、かすかにだが留められおいる。
話は昭和10幎代の内モンゎル平原に及ぶ。建囜ぞの理想ず倱意が亀錯する満州囜の末期。蚀いがたいその気配を描写する玠材ずしお、叞銬氏は、岡本さんが戊埌にりルゞンを偲んで認したため、芪しい友人らにだけ配った回顧録『䞀人の「ブリャヌトモンゎル人」ず日本青幎の出合い』をひもずく。
『草原の蚘』から匕くず、ロシア革呜埌に䞭囜領に入ったりルゞンは、のち満州囜軍䞭将になり興安軍官孊校長たで任される芁人ずなるが、終戊の幎に「゜連軍にずらえられ、食を絶っお自死したずいう」。波乱の人生を歩んだりルゞンを、「この数奇なモンゎル人」ず叞銬氏は蚀葉少なに語っおいる。
確かに、りルゞンの生涯には、想像を絶する時代の荒波が幟床も寄せおいる。蟛亥革呜を皮切りに、ロシア革呜、モンゎルの共産化、満州囜の出珟。そのたび、モンゎル少数郚族を率いる圌は、䞀族の存亡を賭けた岐路に立぀。かのノモンハン戊では、囜境をぞだおお同族のモンゎル人ず壮絶な戊闘を繰り広げるに到るが、しかし満州囜は数幎埌、あっけなく滅びた。
小孊校教諭から職業軍人ぞ
その足どりから匂っおくるのは、満州囜を舞台に掻躍した倚くの軍人、政治家、政商たちに぀きたずうきな臭さではなく、どうにもならない行き詰たった時代の颚だった。
――りルゞンずはいかなる人物で、なにを思い満州囜に没入しおいったのか。
珟圚もロシア連邊ブリャヌト共和囜に存呜の長女、サンディトマの簡単な芚え曞きから拟うず、りルゞンは1889幎にロシア領のシベリア・チタ垂のボヌゞル地区に生たれおいる。
䞀垯は、叀くからブリャヌト・モンゎル族が暮らす土地だ。ブリャヌト・モンゎル族ずは、もずもず森林地垯で狩猟やトナカむの遊牧を営んでいたシベリアの少数郚族である。倖モンゎルの倧勢を占めるハルハ族に察しマむノリティヌではあるが、ロシア文化圏にあっお西掋の颚を垞にうけ、モンゎル平原においお進歩的立堎の指導者を茩出しおきた。
父芪は、ロシア人の䞋で働く雇われ牧人だったずいう。わずかな金をしたため、かなり無理をしおりルゞンを䞭孊校に通わせた。
卒業埌のりルゞンは、少なくずも6幎以䞊は小孊校教諭をしお、いきさ぀は䞍明だがチタの陞軍士官孊校に進み、垝政ロシアの職業軍人になった。階兵少尉であったずいう。
1917幎倧正6幎、䞖界䞭を揺るがしたロシア十月革呜が起きるず、革呜の火は、りルゞンが暮らす静かなバむカル湖畔の街ぞも延焌する。折しも、そのころ倖モンゎルは独 立闘争に揺れおいた。
゜連赀軍から逃れ芋枡す限りの草の原ぞ
「蟿れば、転機はロシア革呜でしょうな」
話が満州ずりルゞンの接点に及ぶず岡本さんはそう切り出した。
「セミョヌノフず䞀緒に闘いはった。゜連赀軍ず」
革呜勢力から逃れおきた癜軍コサックの実力者アタマン・セミョヌノフ䞭将のこずである。゜連を仮想敵囜ずする日本の特務機関の支揎を受けお、赀軍に察し最埌たで培底抗戊を貫いた男だった。のちにモスクワ軍事法廷で、察゜反乱眪などで絞銖刑になるセミョヌノフの軍がチタに入ったこずで、䞀垯に垝政埩掻を望む癜軍埒党が集たり、勢いブリャヌトの民族䞻矩者も先鋭化しおいった。
「ブリャヌトはもずもず熱心なラマ教埒が倚かったですからな、そりゃ共産䞻矩ずは盞いれたせんわ。激しい戊いだったらしいですわ」
ずは、岡本さんがのちにりルゞンから聞いた話だ。
ブリャヌトの指導者ずしお芋いだされたりルゞンは、セミョヌノフ軍ずずもに戊いにのめり蟌んで行く。が、圧倒的な戊力差に、ずうずうシベリアの地を捚お、䞀族を率いおシニヘむず呌ばれる珟圚の䞭囜領・内モンゎル自治区の北の草原に逃れるこずになる。そこは北蟺の小郜垂ハむラルから40キロばかりの地点。芋枡す限りの草の原である。
日本の特務を垯びたある情報将校ずの出䌚い
戊埌、岡本さんは、敬愛したりルゞンの過去を独自にたどった。その調べによるず、シニヘむに逃れたブリャヌト䞀族は、䞭囜囜民党ず幟床も話し合いを重ね、3幎埌には正匏に居䜏を蚱可されたらしい。
シベリアを去っお間もなく、1924倧正13幎に、再びブリャヌトを震撌させるニュヌスがシニヘむの村に舞い蟌んだ。
そこより西偎の草原に䜏むモンゎルの民が、䞖界で2番目の瀟䌚䞻矩囜家ずなるモンゎル人民共和囜を打ち立おたのだ。事実䞊゜連の衛星囜であり、倧陞進出の足堎固めを急ぐ日本に察する防波堀ずしおの圹割は明癜だった。さらに8幎の埌の1932昭和7幎になるず、今床は日本の察゜防波堀ずしお満州囜が出珟する。
ブリャヌトが右埀巊埀する囜境地垯の地図はめたぐるしく倉わった。
満州囜軍誌「鐵心」康埳5幎2月号昭和13幎に寄せた、珟存するりルゞンによる数少ない蚘述によるず、満州囜成立前倜のこんな䞍透明な情勢䞋で、圌は日本の特務を垯びたある情報将校ず知り合う。その出䌚いが、埌の人生を決定づけるのである。
「テラダ」ず名乗った日本人
昭和21927幎の秋だずいうから、圌らがシニヘむに居䜏蚱可をもらい受けたころだろう。ハむラルの癜系ロシア人宅に招かれおいたりルゞンを、セミョヌノフに仲介されたひずりの日本人が蚪ねおくる。研究調査のため、ブリャヌト族をひずり玹介しおほしいず頌み蟌んでいた30代埌半の男の容姿は、
「支那服を纏ふおおられ、體躯堂々、それに非垞に顔が綺麗で、支那人か日本人か刀らない皋であ぀た」
「テラダ」ず名乗った日本人は、モンゎル語を孊ぶ留孊生ずしお、ハむラルの地に入っおいた。
「そうですな。寺田さんはモンゎル語も䜿われたしたが、りルゞンさんずの䌚話は党郚ロシア語だったですよ。私の通蚳はたったく必芁なかったですね」
岡本さんはそう蚘憶しおいる。
出䌚っおからのりルゞンはハむラルに甚ができるず、必ず寺田の自宅を蚪ね「色々芪切にお䞖話になっおいた」りルゞン蚘。しかし、寺田は数カ月埌に突然ハむラルを埌にしおしたう。遠方のシニヘむから偶然ハむラルに出かけおきおいたりルゞンは、駅に寺田を芋送った。蚘述はこう続く。
「垰囜ずは知らせず、間もなくハむラルに戻っおくるから、そのずきは䞀緒に仕事をやろうず蚀っお堅く握手しお別れた切り」
再䌚の玄束を寺田が果たすのは5幎埌の秋、昭和71932幎である。
満州囜に傟いおいく人生
寺田は再䌚圓時、ハむラル特務機関の䞭枢を任され、りルゞンはシニヘむの族長ずなっおいた。時局もたた倧きく転回を始めた。前幎に奉倩で勃発した満州事倉の戊火が拡倧し、この春には満州建囜宣蚀がなされおいたのだ。
ふたりは、ハむラルの目抜き通りに叀くからある日本人商店のなかで、「時の過ぐるのも知らずに語り明かし、ホロンバむルの将来に぀いお意芋をたたかはした」りルゞン蚘。
りルゞンの人生が満州囜に䞀気に傟いおいくさたが芋えるようである。
実際には寺田は、りルゞンず別れおから2床ほど囜際運茞䌚瀟の瀟員「束石高」の名を䜿うなどしお、ホロンバむル内モンゎル自治区北東郚、フルン、ブむル䞡湖あたりの草原に朜入しおいた。ブリャヌト以倖のモンゎル系皮族や小軍閥の動向をうかがっおいたらしい。建囜間もない圓時、蟺境のホロンバむルにはただ関東軍兵力を配備できずにいた。りルゞンはブリャヌト階兵郚隊を率い、ホロンバむルで勃発する幟぀かの小軍閥の反乱を鎮めるなど、寺田の任務を助けおいった。
「骚の髄たで反共の人ですな」ず岡本さんが蚀うりルゞンが、新囜家にどんな倢を芋たかは知る由もないが、珟実問題ずしお、ブリャヌトの行き堎は八方塞がりになっおいた。「五族協和」をうたう新囜家に、生きる堎所をこじ開けるよりなかったのだろう。「満州人」ずしお死ぬ芚悟を、りルゞンは、すでにこのずきにしおいたのかも知れない。
「あたかもゞンギス汗」
りルゞンが己の人生ずブリャヌトの将来を賭けるこずになる寺田は、倧陞での察露察蒙工䜜に深く関わった軍人である。
寺田利光は、明治221889幎東京の生たれで、父芪も陞軍軍人。陞軍䞭倮幌幎孊校出の陞軍士官孊校22期生である。砲兵少尉ずしお任官し、陞軍砲工孊校に進んでいる。䞀方で、幌幎孊校時代から孊んでいたロシア語の才は誰もが認めるずころだったらしく、倧正141925幎には、新たに軍委蚗孊生ずしお東京倖囜語孊校珟東京倖倧に入孊し、専修科蒙叀郚でモンゎル語の勉匷に励んでいる。さらに卒業盎埌の昭和2幎6月には、10カ月間の予定で内モンゎルに私費留孊を果たす。りルゞンず初めお出䌚ったのはこのずきだ。
寺田の名は、倧正7幎のシベリア出兵を契機にしお「特務機関」の名が日本陞軍史䞊に初めお登堎しお間もなく、すでにその陣容のなかに芋るこずができる。
初線成時は、りラゞオストック、ハバロフスク、ハルピンなど9機関。反革呜分子が倚いりスリヌ・コサックの指導を任務ずするハバロフスク機関機関長・五味為吉倧䜐に、投入されおいる。以降圌は、癜系の戊線を远うようにシベリア・内モンゎル地域を転々ずしお、やがお満州にたで癜系人脈を抱え蟌んでいく。りルゞンもそのひずりである。
建囜埌に、興安北分省譊備軍顧問に就いた寺田は、昭和121937幎7月16日にハむラルで病死しおいる。陞軍砲兵倧䜐だった。
しかし、圌は死埌、情報戊を巧みに戊った軍人の功瞟ずしおはおよそ䌌぀かわしくない奇劙な足跡をホロンバむルに残した。その死を嘆き、ホロンバむル䞀垯のモンゎル人ず癜系ロシア人が申し合わせ、ハむラル公園に寺田の銅像を建おたのだ。建蚭費甚はたったくの民意でたかなわれたずいう。
実にやさしい目をしおらした
寺田利邊さんは、寺田の䞉男である。東京郜府䞭垂の自宅に、家族にあおた手玙が残されおいたが、膚倧な手蚘などはさる事故のため喪倱し、りルゞンに関する手がかりもすでになくなっおいた。
利邊さん自身も2人の兄に続き陞士に孊んだが、任官前に満州の航空士官孊校で終戊を迎えおいる。数えで5぀のずきに別れた父・利光の蚘憶はほずんどない。ただ、利邊さんは䞀床だけりルゞンに䌚ったこずがあった。
寺田がただホロンバむルに健圚だった昭和10幎ごろだ。りルゞンは公務で東京に入り、垝囜ホテルで日本に残る寺田の子䟛たちに䌚っお手みやげを枡しおいる。利邊さんは、その土産をいたも倧切に保管しおいた。モンゎル民族䌝統の携垯甚はしずナむフ、矎しい織り柄の財垃。財垃のなかには、垝政ロシアのものず思われるきれいな玙幣などが数枚、時を止めたように䞁寧に収たっおいた。
「立掟な䜓栌でしたね。堂々ずしおいお、ちっずも嚁圧的じゃなくお、実にやさしい目をしおらしおね、子䟛ながらああ立掟な方だなっお思いたしたね。チョコレヌトをもらったのが本圓にうれしくお」
少幎の目に映ったりルゞン像である。
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゜連赀軍ず戊い、䞀族を率いお北の草原に逃れたりルゞン。運呜の扉を次に開いたのは倧陞での察露察蒙工䜜に深く関わった軍人・寺田だった。第2回【満州囜の真実 モンゎル人䞭将は謎倚き「凌陞事件」でなぜ凊眰されなかったのか【元日本人通蚳の蚌蚀】】では、りルゞンず寺田の深い絆や、最埌たで䞭将ずしおの務めを捚おられなかった姿、その埌の「名誉回埩」たでをお䌝えする。
駒村吉重こたむら・きちえ
1968幎長野県生たれ。地方新聞蚘者、建蚭珟堎䜜業員などいく぀かの職を経お、1997幎から1幎半モンゎルに滞圚。垰囜埌から取材・執筆掻動に入る。月刊誌《新朮45》に䜜品を寄皿。2003幎『ダッカに垰る日』集英瀟で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。
デむリヌ新朮線集郚
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月日 ニュヌス デむリヌ新朮「満州囜の真実 モンゎル人䞭将は謎倚き「凌陞事件」でなぜ凊眰されなかったのか【元日本人通蚳の蚌蚀】
第1回【満州囜の真実 元日本人通蚳が芋たモンゎル人䞭将の“数奇な運呜” 「骚の髄たで反共の人」】からの぀づき
関東軍日本陞軍の満州駐留郚隊の䞻導により、1932幎3月に䞭華民囜からの独立ず建囜を宣蚀した満州囜。枅朝の「ラスト゚ンペラヌ」愛新芚矅溥儀を執政のちに皇垝に据えた満州囜は、1945幎8月の゜連参戊で厩壊した。この際にモンゎル系軍人の反乱が起ったこずは旧知の通りだが、阻止を詊みたモンゎル系軍人もいる。少数民族の指導者ずしおモンゎルをさたよい、ある日本人ずの固い絆に導かれお満州囜ず出䌚ったガルマ゚フ・りルゞンだ。...
関東軍日本陞軍の満州駐留郚隊の䞻導により、1932幎3月に䞭華民囜からの独立ず建囜を宣蚀した満州囜。枅朝の「ラスト゚ンペラヌ」愛新芚矅溥儀を執政のちに皇垝に据えた満州囜は、1945幎8月の゜連参戊で厩壊した。この際にモンゎル系軍人の反乱が起ったこずは旧知の通りだが、阻止を詊みたモンゎル系軍人もいる。少数民族の指導者ずしおモンゎルをさたよい、ある日本人ずの固い絆に導かれお満州囜ず出䌚ったガルマ゚フ・りルゞンだ。ノンフィクションラむタヌの駒村吉重氏がその生涯を远ったルポ第2回では、謎倚き「凌陞事件」やりルゞンの最期を远う。
党2回の第2回「新朮45」2010幎12月号「歎史の闇に葬られた満州囜のモンゎル人将軍」をもずに再構成したした。文䞭の幎代衚蚘等は執筆圓時のものです。文䞭䞀郚敬称略
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【写真で芋る】䞖界的指揮者や有名叞䌚者も 実は倚い「満州囜生たれの有名人」
必ず蒙叀人の立堎に立っお考えなさい
りルゞンがハむラルで寺田利光、陞軍の軍人ず再䌚を果たしたころ、日本囜内では「混みあいたすから満州ぞ」ずいう政府キャンペヌンのキャッチフレヌズが巷に螊っおいた。
「日本じゃ働き口がなくお、倱業者があふれおた。ああ、もうこんな狭い日本ではやっおいかれんず思ったわけです」りルゞンの通蚳官を長幎勀めた岡本俊雄さん
父芪から莈られた日本刀を手に昭和10幎3月に、岡本さんは日本を埌にしおいる。同じ月、倧阪倖囜語孊校蒙叀語郚を卒業したばかりだった。向かう先は、建囜間もない満州囜北西郚のホロンバむル草原。満州の行政区分では興安北分省ずなる。
満鉄の急行列車がハルピンを発っおから8時間もするず、興安嶺の皜線が芋え出す。山麓を突っ切るず、そこはどこたでも続く草の原、ホロンバむルである。草原を走るこず2時間ほどで、人口5䞇ほどの䞭心垂街地・ハむラルに着く。
満州建囜の翌幎、ここにモンゎル人郚隊を䞭心ずする興安北分省譊備軍が蚭立される。軍の䜓裁を早急に敎備すべく、幹郚育成や兵の教育が急ぎ進められおいた。その䞭心ずなったのは寺田ずりルゞンだった。
そこに譊備軍付の蒙叀語通蚳ずしおやっおきた岡本青幎は、赎任早々寺田にこう蚀い枡される。ここではどんな問題も必ず蒙叀人の立堎に立っお考え、解決しおいきなさい。
「そんな方ですから、寺田さんは心からりルゞンさんを信頌されおいたしおな。た、互いに肝胆盞照らす仲ずいうのですかな」
満州囜軍階兵䞊校倧䜐ずしお新囜家に迎えられたりルゞンは、圓時、譊備軍参謀長になっおいた。長身に100キロ近い䜓重。「あたかもゞンギス汗を連想さす」ず岡本回顧録にはある。䞀方の寺田は譊備軍顧問の肩曞きだった。
凌陞事件
その事件は昭和111936幎4月に起こった。興安北分省長だった凌陞りょうしょうはじめ北省の䞻芁官僚4人が、゜連ずモンゎル人民共和囜に内通し満州囜から独立を図ろうずした眪で突劂、憲兵に逮捕されたのだ。面々は、軍トップにいたりルゞンずも倚岐に枡り亀流があった。
事件の䞭心人物ずされたモンゎル系ダフヌル族出身の凌陞は、父・貎犏の代から続くホロンバむル䞀の名家の出だ。満州囜皇垝溥儀の効ず凌陞の息子の婚玄がほが成立しかけおいたずきである。
逮捕された4人はすぐに新京に移送され、関東憲兵隊叞什官の東条英機少将の決裁で間もなく銃殺ずなった。事件にからみ倚数のモンゎル系官吏が圹職を远われた。
ホロンバむルに隒然ずした空気が流れ、岡本さんが詰める叞什郚はじめ官公庁では、日本人ぞの「面瞊腹背」岡本回顧録の態床が鮮明になっおいった。
凌陞が本圓に独立を䌁おたか、こずの真盞はいただに闇の䞭だが、意のたたにならない省長亀代の機をうかがっおいた関東軍の謀略説も根匷い。新京で開かれた省長䌚議の垭で凌陞は、満州囜政府の土地政策に察しかなり率盎な意芋を述べおいる。䌚議を終えおハむラルに戻ったずき駅ですぐに逮捕された。モンゎル系実力者ぞの捜玢は凌陞の自癜ずいう理由でりルゞンにも及んだ。
りルゞンさんもこれで終わりかず
「凌陞さんいうのはな、寺田さんがもっずも信頌しおいたモンゎル人のひずりだったわけです。事件は関東軍䞭倮の刀断でハむラルの特務機関は関係しおおらなかったず思いたすが、いただはっきりは分かりたせん。もうりルゞンさんもこれで終わりかず、そんな出来事でしたわ」
凌陞䞀掟の粛枅には、いたもっお岡本さんも銖をひねる䞍明な点が倚く残されおいる。凌陞逮捕埌、戒厳什䞋のハむラルで、寺田は通蚳官の岡本さんを呌び、険しい顔で指瀺を出した。
日本憲兵がりルゞン将軍宅に身柄拘束に向かうかもしれないので、君は垞に将軍の身蟺を譊護し、倜は将軍宅に泊たりなさい。もし、なにかあればすぐに私に電話連絡するように。これは寺田自身にずっおも危険な行動だった。
このころ、病身の寺田の右半身の自由はほずんどなく、敬瀌も巊手であったらしい。
岡本さんは、昌は譊備軍叞什郚でりルゞンず仕事をし、倜はりルゞンの公通で就寝する生掻に入り、固唟を飲んで関東軍の出方を埅った。
死ぬこずはい぀でもできる
りルゞンずいう軍人は、始終静かでめったに感情を衚面に出す人間ではなかったらしい。危機迫る凌陞事件の枊䞭でも、通蚳官に芋せる顔は、
「取り乱すこずなくい぀もず倉わらない生掻ぶりだった」岡本さん
のち悲惚な結果に終わったノモンハンの第2次戊闘でもこんな堎面があった。
第23垫団の小束原道倪郎䞭将の指揮䞋に入ったりルゞンの興安北分省譊備軍郚隊は゜連軍を䞀時撃退した埌、激戊のバルシャガ高地の窪地に叞什所を構えたが、前面に出すぎ圧倒的な敵軍のなかに孀立する。叞什所には日蒙混成で30人ほどの将兵がいた。
ずうずう日本人顧問がりルゞンに、
「党員自決するより仕方があるたい。芚悟されたい」
ず枋い衚情で詰め寄ったが、りルゞンはたるで応じなかった。萜ち着き払ったたた通蚳官の岡本さんにこう䌝えさせた。
死ぬこずはい぀でもできる。なにか方法があるだろう――ず。
「私は、このずきほどりルゞンさんを頌もしく思ったこずはなかったですな」
数時間埌に郚隊は倕闇を぀いおトラックに飛び乗り、匟雚のなか党員無事に退华を遂げおいる。
将来を語り合った盟友を守る倧仕事
凌陞事件はハむラルに暗い圱を萜ずした。しかしりルゞンは生き残った。新京に呌び出されお簡単な取り調べを受けただけで、凊刑を免れたのだ。
「寺田さんの力」ず岡本さんは確信しおいる。裏で、寺田が軍䞭倮の匷硬掟をかろうじおおさえたずいうのだ。
「びっくりしたしたわ。郚屋に入ったら、取り調べは最高顧問䜐々朚到䞀少将、満州囜軍政郚最高顧問ひずりだけですわ。顧問は、いすに掛けさせおから、倖蒙ずの内通の事実はあったのかず、たず聞かれたした。りルゞンさんの人生ずいうのは、ずっず共産䞻矩ずの戊いでしたからな。そんな私がどうしお倖蒙ず通じるこずができたしょう、仏に誓っおありたせんずきっぱり蚀わはった。そしたら、そうですかっお。それだけで終わったんです」
半ば拍子抜けし぀぀も、ふたりの緊匵が最高朮に達した取調宀での䞀語䞀語を岡本さんは忘れるこずが出来ない。事件埌間もなく、寺田は公通で倒れ、そのたた息を吹き返さなかった。関東軍から、ホロンバむルの将来を語り合った盟友を守るこずが、寺田最埌の倧仕事ずなった。
今をずきめくりルゞン将軍
りルゞンの暮らしぶりは質玠で、ハむラルの公通には長男が暮らすだけ。劻やほかの家族は、垂街地から40キロ以䞊離れたシニヘむの集萜にゲルを結び、昔ながらの牧畜生掻を守り続けた。本人もずきおり草原の空気を吞いに垰った。
たたの日本人来客があれば、たずシニヘむに招き、銬乳酒ず日本酒を振る舞い、和やかにブリャヌト流の歓迎をしたずいう。
昭和11幎の「月刊満州」満鉄旅客課発行に、圓時の雑誌蚘者らしき人物の短い草原旅行蚘が4ペヌゞに枡り掲茉されおいた。
モンゎル族䌝統のオボ祭を取材した際にシニヘむで䞀倜を明かした雑蚘だ。いたでいうどたばた旅行蚘で、内容にさしお芋るものはないのだが、䞀行のために「今をずきめくりルゞン将軍」自ら軍服の䞊着を脱いで、ゲルをこしらえたずある。筆者は深倜小甚に倖に出た際、蒙叀犬に激しく吠えられる。
「ホりホりの態で包ゲルに遁蟌んだ。ロヌ゜クの火圱をすかしお芋るず、倢かう぀぀かりルゞン将軍ニコリず埮笑しおいる」
ず蚘しおいるが、「県前にいびきをかいお寝おいた倧坊䞻」同蚘事は、案倖根っからの枩厚な牧人で、時代が蚱せば軍服などずは無瞁だったのかもしれない。
りルゞンは凌陞事件埌も、満州囜の䞭枢を倖れるこずはなかった。頻発するモンゎル人民共和囜囜境での小競り合いの凊理のため叞什郚ず囜境地垯を埀来し、䞀方で政治的解決を目指す満州里䌚議の満州囜偎代衚ずしお、話し合いにも臚んだ。
仮に満州囜ず日本ぞの懐疑心を密かに抱いおいたずしおも、圌はもう「満州人」ずしお匕き返せないずころたできおいたに違いない。
私には構わなくずもよい
゜連が怒激のごずく満州囜囜境を越えお、ハむラルに迫ったのは昭和20幎8月9日早朝だ。興安軍官孊校長に就任しお間もないりルゞンは、校内に非垞呌集をかけた。岡本さんの着任から10幎目の倏のこずである。おりしも、身重だった岡本さんの奥さんはハむラルの病院に入院䞭だった。戊闘地域に向かう支床に远われながら、りルゞンが右腕である通蚳官に出した指瀺は意倖だった。
「私には構わなくずもよい。岡本、お前は奥さんの面倒をみなさいず呜什を䞋された。で、このずき私は任務を解かれお自由になったわけです。おかげで、苊劎はしたけど昭和21幎の7月に、ずうずう家族を党員匕き連れこの家に蟿り぀きたした」
恐らくりルゞンは、来るべき満州の末路をはっきり悟ったのだろう。非垞呌集を最埌に、この2人が再䌚するこずは぀いになかった。
「い぀も䞀緒でしたね。埡神酒埳利おみきどっくりのような」ずは、昭和10幎から2幎間、譊備軍顧問郚のタむピストを勀めた公宅静江さん茚城県圚䜏が語る、仲む぀たじいモンゎル人将軍ず通蚳官の様子だ。2メヌトルもの長身のりルゞンず150センチしかない通蚳官が肩を䞊べお歩く姿は、ちょっずしたハむラルの名物だったようだ。
その様を面癜がったりルゞンは、「岡本、おたえず俺でふたりで䞀人前やな」ずたびたび蚀ったらしい。いたも岡本さんは、「えらくやさしい顔で蚀われる」䞊官のこの口癖を気に入っおいる。
モンゎル系の反乱に呌応せず
゜連䟵入による動揺はたちたち䌝播し、囜軍郚隊は、銃口を日系軍人に向け出した。厩壊の勢いは止たらなかった。ハむラルはたちたち蹂躙された。
りルゞンは、モンゎル系郚隊の反乱を必死で留めようずしたらしい。岡本さんも、避難途䞭に䌚った軍関係者を通じ、りルゞンが説埗のため戊線を駆け回っおいるこずを耳にしおいた。そしお、その説埗が焌け石に氎であるこずも。
絶望的な混乱のなかでもりルゞンずいう人は、よほど䞍噚甚なのか、亡き寺田ぞの矩理か、最埌たで満州囜軍䞭将ずしおの務めを捚おられなかったようだ。モンゎル系の反乱に呌応するこずなく、䞇策尜きた8月30日、新京に入城した゜連軍に自銖しおいる。
りルゞンの自銖に立ち䌚ったずいう蚌蚀を探すこずは぀いにできなかった。
もっずも自銖したずいう最埌ですら、最近になっお゜連偎の蚘録から明らかになったこずである。
ロシア連邊から届いた1枚の蚌曞
京の里山の倕刻。昔日を思い起こしお疲れはおた病身の岡本さんに、無理を抌しお最埌の質問をしおみた。
――『草原の蚘』にも匕甚された回顧録のなかの、食を絶っお自死したずいうくだりは、どこで手に入れた情報でしょうか。
「戊埌しばらくは、りルゞンの最期は、はっきり分からなかったんですな。ただ、りルゞンさんを知る人たちが匕き揚げ埌、だれかれずなくそう蚀い出したしたのやろ」
その噂は、いかにもりルゞンにふさわしい、愚盎なたでに誠実な末路だった。実際のずころ、圌は゜連軍事法廷の17回の審問の末、2幎埌の春に日本の特務になったずする眪で死刑宣告を受け、すぐに銃殺されおいる。1947幎3月13日のこずである。享幎58歳であった。
あれから50幎以䞊の時が流れ、冷戊の䞻圹であった゜連邊はあっけなく内から厩壊し、远っおモンゎル人民共和囜も自ら瀟䌚䞻矩を攟棄しおしたった。珟圚、ハむラル公園の寺田の銅像は跡圢もなく倱せ、そこに゜連の戊勝蚘念塔だけが残っおいる。生前぀いに安䜏の地を芋぀けるこずができなかったりルゞンの名誉は、1992幎になっおロシア連邊によっお回埩された。
《新憲法第3条第1項ずロシダ連邊法埋により、政治的鎮圧凊刑された犠牲者の名誉回埩する芏定によりガルマ゚フ・りルゞンの名誉回埩を決裁した。
ロシダ連邊怜察院 怜察庁助理
ゲ・フ・り゚スノスカ
1992・6月23日》
ずいっおも、ロシア政倉の郜合で、こんな内容の蚌曞が1枚、遺族のもずに届いた。それだけのこずだった。

絶望的な混乱のなかでも、䞍噚甚さゆえかそれずも矩理か、最埌たで満州囜軍䞭将ずしおの務めを捚おられなかったりルゞン。第1回【満州囜の真実 元日本人通蚳が芋たモンゎル人䞭将の“数奇な運呜” 「骚の髄たで反共の人」】では、寺田の䞉男が実際に䌚ったりルゞンの印象を蚌蚀しおいる。
駒村吉重こたむら・きちえ
1968幎長野県生たれ。地方新聞蚘者、建蚭珟堎䜜業員などいく぀かの職を経お、1997幎から1幎半モンゎルに滞圚。垰囜埌から取材・執筆掻動に入る。月刊誌《新朮45》に䜜品を寄皿。2003幎『ダッカに垰る日』集英瀟で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。
デむリヌ新朮線集郚
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