新田均のコラムブログ (original) (raw)

新田均のコラムブログです

by nitta_hitoshi

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客観性と公平性を重んじるならば、福地の言っていることをそのまま読者に伝えた上で、それでもなお、何故、文久三年の上洛が決定的なのかを自分の言葉で説明しなければならない。隠蔽は証明ではなくて詐術だからである。

福地は文久二年をもっとも重視して、幕府が勅命にしたがったことが決定的だったと主張しているのである。ところが、ブリーン教授は、この部分を隠して、福地にとって波及的・二義的に過ぎない翌年の将軍上洛を、彼がもっとも重視していたかのよう見せかけてしまっているのである。

「余は、徳川氏の幕府が天下を失いたるは、第十五世慶喜公の大政返上の時にあらずして、第十四世家茂公が文久二年の勅答の時にありしと云うものなり。ここにおいてか、幕府の衰亡は大いに長足を以てその気運を進めたり。」(一三八頁)

「これによりてこれを観れば、幕府は当時の勅命に会して、真に徳川政府の実を存せんと欲せば、この要求を謝絶するの一策あるのみ。」(一三七頁)

「幕府はすでに日本の実権たること、国政は旧に依って大樹に御委任と明言ありしにて明白なるが上に、実際二百余年間の中央政府なるに、外交の事は勅裁を仰ぐべし、諸大名を率いて上洛なして議定すべしと京都より差図せられ、遂に五大老を置け、一橋・越前を後見・総裁にせよとまで干渉せられては、幕府たるもの悪んぞ政府の実権を保つを得べけんや。これ、表面こそ顕われね、その実は幕府は政権を返上すべしと云うの要求に異ならざるなり。」(一三六頁)

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