フランス現代思想から考察するきもすき論 ~迫真哲学研究会・脱構築の裏技~ (original) (raw)

きもすき、きもすぎ〜!!(気さくな挨拶)

⚠️この論考には芳文社出版の漫画作品「きもちわるいから君がすき」最新30話までのネタバレが含まれています⚠️

前書き

筆者によるこの怪文書執筆には幾つかの動機がある。まず第一に夏休みの暇を利用して、何か哲学研究会員らしい活動をしたいと思ったこと、そしてあわよくばこの記事を来年の哲学研究会会誌にでも転用したいと思ったからである。

という訳で今までの自分になかった新たな視点で物を書きたいと思ったのだが、一つ断らせて頂きたい。今回の議論で導入するデリダというフランスの哲学者の論理に筆者はあまりに疎く、自信がない。そのため、内容として不正確な部分があるかもしれない点を了承して頂きたい。

前置きもそこそこにして本題に入ろう。今回は女力(おんなぢから)バトル漫画「きもちわるいから君がすき」(以下きもすき)を脱構築という手法を用いて考察することを目的とする。その性質上、読者にはきもすきに関する知識を求める。その点もご了承頂きたい。

筆者の自己満足に付き合ってこの文章を読んでくれる物好きな読者のあなたの良い読書体験を祈って。

きもすき作中の脱構築

先日、筆者がlnz∀氏(@Azul114514)執筆のきもすき怪文書網干千恵は舞台装置である」を閲覧した際、「光と闇」という二項対立が繰り返し言及されているのが気になった。

マルクス・レーニン主義被れの筆者は二項対立を考える際、すぐに弁証法を使って二項の融合を思考する癖があるのだが、今回は敢えて弁証法を放棄し、デリダというフランス哲学者の思想を導入してきもすきの二項構造の解体に努めていこうと思う。

lnz∀氏の論考では

きもすきに登場しているキャラクター、ここでは御影・飾磨・神戸・西宮・芦屋・網干の六人を考えますが、彼女たちは(実際は濃淡や混合があり、さして二元的ではありませんが)光と闇で二つに分類できます。光側が飾磨・西宮・網干で、闇側が御影・神戸・芦屋です。御影と飾磨、神戸と西宮、芦屋と網干がペアであると見なせますね。光側の三人について、飾磨は若干闇堕ちしかけつつも今のところは正統な恋愛を志向する真人間で、西宮は純粋故に利用されたりまたしても何も知らなかったりする自称ソリストですが、網干はその善性をもって相手を圧倒し力強く正道を征く存在で、二人に比べて、しっかりとした芯と異様なほどの明るさがあります。*1

として「光側」のポジティブな性質が言及されている。具体的に飾磨・西宮・網干達「光側」の性質を抜き出すと「真人間/純粋/善性/正道」といった項目が並ぶ。ここでは言及されていないが、御影・神戸・芦屋達「闇側」の性質に敢えて焦点を当てるなら対照的に「狂人/不純/悪性/邪道」といったネガティブな項目が並ぶであろう。

しかし、本論ではここにデリダ哲学の主題である二項対立の脱構築を持ち込んで深掘りしてみよう。

まず、デリダ脱構築とはどのような概念なのか解説しよう。彼の脱構築は端的に言えば二項対立構造を曖昧にし、無秩序化していく試みである。

脱構築論の基礎には3人のフランス人哲学者デリダドゥルーズフーコーが大きく関わっているが、その中でもデリダ脱構築という分野そのものを開拓した偉大な人物である。脱構築という言葉も彼の造語であるが、決して1つの枠に囚われることのない様々な語義を持つ自由な概念であり、哲学者によって脱構築の解釈は異なる。その為、本来この用語を使う度に細かい指定が必要となるが、この先本論で特に説明無しで出てくる脱構築は全て「デリダ脱構築」であることをここで断っておく。

デリダは二項対立構造で一方をプラス、一方をマイナスとする暗黙の了解があることを指摘した。一例を挙げると「男と女」という二項対立は一見対称的に見えてそうではない。何故なら社会的には多くの場面で男性側が優位に女性側が劣位に認識されているからだ。このように人は二項対立があると、そこに優劣を見出してしまう。デリダがこれを脱する為に考案したのが脱構築である。

脱構築は具体的には以下の手法で進められる思考法である。

①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。(中略)

②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。

③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。

*2

先程は「男と女」の例を挙げたが、筆者はきもすきにおける「光と闇」の二項対立に脱構築の論理を当てはめていこうと考える。

この試みにより「真人間/純粋/善性/正道」といった無条件に良いこととされている「光側」の諸性質の絶対性を疑い、反対に「狂人/不純/悪性/邪道」といった否定的に受容されがちな「闇側」の諸性質を擁護することが可能である。これにより「光と闇」両者への偏見を取り除き、新たなきもすき考察が可能になると筆者は考える。

抽象的で想像しづらいので以下、具体的にきもすき作中の出来事に脱構築の可能性を考えてみる。

”西宮透は誇り高きソリスト(ぼっち)である。彼女は御影依子に利用され、その奇行に手を貸す。自分が都合よく扱われていることに自覚的である西宮であるが、御影の信条について理解を深めると共に彼女から感謝を受け、絆されるのであった。” —「きもちわるいから君がすき」第8話より—

西宮は孤独故御影に利用され、御影のストーカー行為を幇助した点で個人の主体性やプライバシーを重んずる既存価値観では「マイナス」である。しかし西宮の献身は誰にも実害を与えていないばかりか、一連の出来事を通じ御影や西宮の効用は増した。その点で「プラス」である。(①に該当)

故に御影の奇行を幇助する行為には「プラス/マイナス」両価値観が当てはまり、絶対的な判断は不可能である。こうして彼女の行為から二項対立を脱構築することができた。(②に該当)

先程は「光側」である西宮の行為を解釈したが「闇側」の神戸についても同様に脱構築できる。

”図書委員・神戸霧乃は西宮透に好意を寄せている。図書室にて、西宮は本棚に手を伸ばそうとして台座に乗るが、台座の足が折れ、彼女は転倒してしまう。実は台座に細工をしたのは神戸であり、西宮を自分に依存させ彼女を「他の悪い人達」から守るために神戸が仕組んだ計略だったのである。神戸は思惑通り、西宮に救急手当を施し、二人の仲は縮まるのであった。”—「きもちわるいから君がすき」第15話より—

神戸は他人を意図的に転ばせようとする点で人間の屑であり、「マイナス」である。しかし西宮を傷つけないようにするため安全には充分配慮しているし、西宮に害意を持つどころか「他の悪い人達」から守るという大義名分を持っている。西宮も友人が増えたことに満足している点で神戸の行為に非はなく人間の鑑であり、「プラス」である。(①に該当)

故に神戸の行為には「プラス/マイナス」両価値観が当てはまり、絶対的な判断は不可能である。こうして彼女の行為から二項対立を脱構築することができた。(②に該当)

以上の事例では語り手である「光側」の西宮が「闇側」の御影と、「闇側」の神戸が「光側」の西宮と交流したことで概念の脱構築が発生した。

二つの事例で注目したいのは個人の悪行が結果としてその個人以外にまで幸福を還元していることである。

いや、「人倫に反し、他人に対して悪事を働くこと」という語義の悪行という言葉はこの場合いささか不適切かもしれない。何故なら彼女達の行為は確かに人倫に反しているが誰にも迷惑をかけていない、「きもちわるい」としか言いようのない行為なのだ。

この人倫という用語はその利便性故、筆者が仮定的に使っている語であるので特に脱構築論と関係があるわけではないことに留意して頂きたい。人倫は儒教では人間関係の道徳的秩序、ヘーゲル哲学では客観的な倫理を意味する用語である。*3両者共にその本質は人間関係を円滑にする為に社会から個人に押し付けられた道徳価値観であり、二項対立において一方を「プラス」に一方を「マイナス」に位置づける根拠となる既存価値観でもある。

日常系4コマ漫画が主軸のきらら作品においてもその呪縛から自由ではなく、主人公が人倫を犯し悔い改めることもしない作品はほとんど類を見ない。*4その点できもすきで描かれている「きもちわるい」行為は絶妙である。きらら作品暗黙の了解としてストーリーの選択肢を狭めている既存の人倫の規範を挑発しつつ、キャラクターの他害性を変態性に転換してギャグに昇華させ、更に人倫に従わなくとも社会は幸せになることを説き新たな道徳価値観の可能性を提示しているからである。

さらにきもすきにおいては道徳価値観の提示によって人倫すら脱構築されている、と筆者の同輩は指摘する。人倫の本質とは価値観の異なる複数の人間の倫理意識を均一化することである。それを脱構築するということは即ち、機械的画一化によらずとも各人が各人を尊重しあえる社会の実現を試みるということである。世界の多極化が進み、グローバリゼーションや多文化主義が推進される一方、分断や国際関係の軋轢もまた表面化しつつある現代社会においては「きもすき的道徳価値観」の重要性が増しているといえるかもしれない。

その一方できもすき最狂と目される御影ですらその価値観は人倫に基づいていることを考慮しなければならない。彼女は自らを「きもちわるい」と評するように人倫に反した自らの異常性に自覚的であり、西宮や神戸相手には威圧目的でそれを利用した反面、飾磨にはひた隠しにしている。彼女を「きもちわるい」行為に駆り立てているのは飾磨への執着心であるが、その一方自らに「縛り」*5を課し飾磨との関係を壊さないよう腐心している。この点はとてもカント哲学的であり、別途考察が必要そうである。*6

「きもちわるい」とはどのような概念なのか

また、きもすき作中のキーワードとなっている「きもちわるい」という用語について先程の脱構築手法③であるところの「決定不可能性」に該当するのではないかと筆者は考える。この「決定不可能性」はギリシャ語で毒と薬両方の意味を持つパルマコンという用語でしばしば説明されるが、作中の「きもちわるい」行為も「マイナス」に受容される反面作中ではしばしば「プラス」に作用しており多義的である。

そう考えると「きもちわるいから君がすき」というタイトルも検討しなければならない。タイトルに含まれる「きもちわるいから」の主語が相手のことであるか、自分のことであるか2通りの解釈パターンがあることからタイトル全体の意味も「私はきもちわるい君がすき」若しくは「私はきもちわるいから君がすき」の2つの解釈が可能である。

まず、前者について考察してみよう。普通の恋愛観では人を好きになるに当たっては何かしらその人に肯定的な要素を見出すことが前提になるはずである。しかし、「きもちわるい」という要素を持つ相手に対して惚れるというのは通常の恋愛観を逸脱していると言わざるを得ない。既に「きもちわるい」という言葉が肯定・否定両方の意味を内包していることを指摘した通り、その意味は不確定的・中立的である。それ故に主観的な好感情に従って、特定個人に肩入れするような普通の恋愛観とは相容れないのである。

前者は異質な「きもちわるい」相手への歩み寄りのニュアンスを持つが、後者では自分の「きもちわるい」性質を卑しみ、相手を一方的に憧憬するニュアンスを含む。こちらでは「きもちわるい」の語義は「マイナス」の意味のみに限定され、「決定不可能性」は内在化されている。つまり主体の自認によって自由な概念が元のネガティブな在り方に還元されたアンチ・脱構築とでも形容される状態にあると言える。脱構築を放棄し、二項対立の論理に戻るということは、恋愛においては相手との相互理解を拒絶する姿勢に当たると解釈できる。

「きもちわるい」をキーワードにタイトルを掘り下げてみたが、主語をどう解釈するかで全く異なった考察ができた。前者は「異常な恋愛」、後者は「独りよがりな愛」とでも要約できるだろうか。メタ的に言ってしまえば前者に飾磨視点、後者に御影視点が当てはまりそうである。メタ的繋がりで言えば、読者視点からのタイトル解釈も成り立つであろう。

まず前提としてきらら読者層の男性はきらら作品の少女に対して無垢性・処女性を期待する傾向がある。その為古典的なきらら作品*7ではキャラクターに無垢性・処女性を当てはめた「読者に好まれる」設定に行き着くことが多々あった。

これに対し、きもすきではキャラクターの綺麗な部分も汚い部分も中立的に描くことによって「きらら系」のパブリックイメージとも言える無垢性・処女性から脱却し、よりリアリティのある、言い換えれば読者が共感しやすい作品に仕上がっている。きもすきは読者が持つ「きらら系」という一種の偏見を「きもちわるい」描写によって脱構築していると言えるだろう。さらにタイトルで敢えて漢字となっている「君」の部分には読者の任意のキャラクター全てが当てはまりうるため「決定不可能性」を持つとも言える。

西畑けい先生は「きもちわるいから君がすき」以外の8つのタイトル案を公表している*8が、その多くは御影視点のタイトルである。それらの候補から敢えて多義的な本タイトルが選ばれたということから、先生が読者に対して御影視点に留まらない様々な視野からの作品分析を求めていることが窺える。

総論すると「きもちわるい」という概念は多義性を表し、それを内包する「きもちわるいから君がすき」というタイトルもまた多視点性を持ち、古典的な「きらら系」のパブリックイメージを脱構築していると言える。

御影と飾磨の二項対立関係

ここまできもすき作中描写の二項対立に着目してきたが、飾磨と御影程二項対立に満ちたカップリングは存在しない。

仲睦まじい5人家族の飾磨と一人暮らしの御影、明るい髪色の飾磨と地味な髪色の御影、高身長の飾磨と低身長の御影、キスを相手に求める飾磨と求めない御影、文武両道の飾磨と実力を隠しぼんくらを演じる御影、はっきりした口調で喋る飾磨と吃音気味の御影…という風にその対比構造は多く指摘できる。

正反対な2人が惹かれ合った理由とは何だろうか?作中では第1話で飾磨はクラスで孤立していた御影に「一目ぼれ」したと述懐している。一方の御影は悩み抜いた末21話で、飾磨から「怒られることが私の好きだったんだ」と悟っている。

2人がお互いに向ける恋愛感情もまた直情的か論理的かという点で二項対立的である。

このように飾磨と御影のカップリングが二項対立によって結びつけられているのを確認した上で、さらに考察を深めよう。飾磨は未熟で危うい御影に、御影は母性的で包容力ある飾磨に惚れている。自分に無いものを相手に求めている点で2人の関係は相補的である。

恋愛の文脈においてこの現象は「相補性の原理」と呼ばれるが、それは自他の境界を曖昧化し、相手の性質を自分に取り入れようとする脱構築的・拡張主義的言説ではないかと筆者は考える。

社会的に肯定される要素を多く持つ飾磨は変化していくことに積極的である。また、飾磨は御影の成長を歓迎し、彼女との関係性の発展も望んでいる。対して社会的に否定される要素を多く持つ御影は「私で司さんを汚したくない」*9、「私が望むものは”変わらないこと”」*10など飾磨及び彼女との関係の変化を否定する保守的な発言が多い。

そんな御影のスタンスは突き放して言えば飾磨の好意を搾取し、彼女に対しては何も還元しようとしない帝国主義的スタンスである。もしそれが無償の愛とも言いかえられる母性愛に依拠するならば、御影の傲慢とも言える姿勢も許されるのであろう。が、飾磨は結局の所、御影の母親足り得ず、母性愛は2人の関係に存在しない。2人の歪な関係は行き違いが表面化していないだけでいつ破局してもおかしくない。芦屋編終結現在、それが次話で起こるとも限らない。筆者は戦々恐々としている。

2話で既に御影は「見ていて下さい 私を見捨てるその日まで司さん…私 がんばりますからね」「いつか目を見て(きもちわるいと)言ってもらいたいですね……!」と述べた他、飾磨が作った雪だるまを冷凍庫に入れて永久保存しようとしたりした。*11更に「ジェンガに興じる御影と神戸*12」、「雪の積もる校庭に大きなハートを描きつつも、それを割ってしまう飾磨と御影」*13といった描写でより直接的に関係性の破局が暗示されている。

ここまで不穏な展開予想を述べたがlnz∀氏は「飾磨と御影は破局を乗り越え、ハッピーエンドになるのではないか」という予測を立てている。それを脱構築的に解釈するならば破局を通じて飾磨と御影という二項対立関係が変化すると受け取れる。もし、その解釈が的中するなら筆者は2人の関係修復の鍵となるのは御影の成長なのではないかと踏んでいる。

御影は「私で飾磨さんを汚したくない」と述べるように、彼女の無条件な善性の変質を恐れると共に彼女との関係性が変化するのを恐れている。(この点は「関係の脱構築」を主題とするドゥルーズ的に解釈したら面白いかもしれない。)しかし、御影自身は変化することに無頓着である。(雪塗れになる、ホコリ塗れになり傷つくことも厭わない、幼児化した「よりこ状態」「お座りフィギュア」になる、犬になりたがるなど)

また、これに関連して指摘したいのは御影が飾磨が床に手をつき、埃まみれになった際に飾磨が「自分を傷付けるようなことしないで」*14と彼女の行為を批判したことである。「依子の友達」という立場に立脚する飾磨のこの批判は妥当であるが、対する彼女自身はどうだろうか。7話で大雨が降り飾磨と御影が相合傘をする場面では、飾磨はしぶき雨で濡れる位置に居たにも関わらず、むしろ御影側に傘を傾けて彼女を濡れないように気遣っていた。その点で「友人の為とはいえ、自分の身を犠牲にするべきではない」という飾磨の御影批判はダブルスタンダードである。御影は自分のために献身する飾磨の様子を見て、「いつか司さんが本当に困った時は私が助けてあげますからね‼」*15「なんだかお母さんみたいですね」*16と発言している。このことから、御影は7話の飾磨の母性愛的献身から自己犠牲精神を学び、15話のような行為に到ったと推測される。それ故、飾磨の御影批判は御影の行為だけでなく過去の飾磨自身の行為もまた否定しており、飾磨という人物の自己一貫性を揺るがしている。今のところ御影は飾磨のことを好いているが、もし飾磨が変化の果てに母性を失ったとしたら、今の御影の気持ちも揺らぐのではないかと考えられる。

御影は一人暮らしの点、幼児を思わせる描写や「お母さん」という寝言から、複雑な家庭環境にあることが推測される。そんな御影に変化が生じるとしたら、ずばり母親の登場が契機になるはずだと筆者は予想する。

ここで本題と少々ずれるが、西畑けい先生の考える母性とはどのような概念なのか先生の過去作での後書きを踏まえて深掘りしてみよう。

あとのあれ

ふーッ♥ふーッ♥あ”あ”ーッ♥じゅるっぷちゅっちゅ♥♥♥

こんなの我慢なんか無理ッ♥イグッ♥ちょっとイグッ♥

ようじょぺろぺろ♥ちっぱいぱい♥♥♥

皆さんは赤ちゃんに嫉妬したことがありますか?

私はあります。

赤ちゃんは小さいだけでお母さんからの愛情を受け、

おっぱい飲んで寝てだっこされてるだけで、

毎日大切に育てられています。

対して、私は毎日自分で自分の世話をしないといけません。

誰も面倒見てくれません。

スーパーで買い物する時、だっこ紐に括りつけられ、

お母さんに”守護られ”ている赤ちゃんを見る度、

嫉妬の炎で胸の中が焼き尽くされます。

見せつけやがって……ずるいぞ。

私は思うのです。

この世が私を含め、赤ちゃんだけの世界になれば、

”守護られる者”だけの世界になれば、

どんなに救われることでしょう。

私が赤ちゃんに生まれたかった気持ちを押し殺し、

今日も元気に生きています。

……

……はぁ、シコって寝よ

西畑けい

*17

西畑けい先生の文章からまず読み取れるのが「お母さん」と「赤ちゃん」という二項対立である。それぞれ”守護る”、”守護られる”という役割を演じる双方は相補的で分かち難い存在である。そこから「お母さん」の存在を排除することで脱構築よりも遥かに強引な手法でその二項対立を解体しようと夢想している点に着目したい。

まずこの文章全体から伺えるのはバトル漫画作品からの影響である。例えば「守護られ”ている赤ちゃん」からは「刃牙道」の「俺が守護らねばならぬ」*18、「見せつけやがって……ずるいぞ。」からは「HUNTER×HUNTER」の「ずるいぞチクショウ!!!」*19、「赤ちゃんだけの世界」からは「呪術廻戦」の「術師だけの世界」*20という風に各所にパロディ要素を見つけられる。

このように一見闘争と関係なさそうな文章にバトル漫画の要素が巧みに織り込まれている点に西畑けい先生の思想が感じられる。

いわゆるバトル漫画では敵との闘争、仲間との絆、大切なものを守ること、そして成長することに価値の重きを置いている。西畑けい先生がその価値観を育児の領域にも拡張していることは意義深い。一見平和的な営みに見える育児であっても、託児所や保育園の枠を巡って保護者が相争うような現代社会では必ずしもそうとは言えないという真理を突いているのだ。

現代社会での成功はそれ即ち敵対する他人を蹴落とすことを意味している。西畑けい先生の文章からは育児に限らず、恋愛や娯楽などあらゆる生活領域においてこのバトル漫画の論理が拡張されうるという思想が垣間見える。これはきもすきにおけるバトル漫画のパロディにも通ずる思想であると筆者は睨んでいる。

話を戻すが、先生が敢えてこの世から「お母さん」の存在を取り除き、「赤ちゃん」(幼女に置き換わっているパターンも存在する)だけの世界を夢想するのは、ある種の厭世、若しくは破滅願望と言えよう。無力な”守護られる者”だけの世界をもし仮定するとしたならば、バトル漫画のような競争こそ発生しないものの、遅かれ早かれ滅亡してしまうであろう。そして全人類が絶滅することで*21少なくとも人間社会から競争は根絶されることになる。これは西畑けい先生が現代の競争社会に対して提唱する痛烈なアンチテーゼであり、先生なりの新たな脱構築と言えよう。

尤も先生が本気で世界の破滅を願っている訳ではないと思われるが、空想の世界に耽溺しているのは確かなようだ。その証拠に先生のX(旧Twitter)アカウント@nishihatakにて過去の発言を掘り返すと自分のことを女児であると自認する発言や二次元の少女のキャラクターに対して「ママ」や「お母さん」と言った発言を繰り返しているのが目に付く。以下に一例を挙げる。

西畑けい先生のこうした母性願望を反映した作品の傑作として「だっこしてなでなでしてよ霞ちゃん」が挙げられる。いわゆる艦隊これくしょん二次創作に該当する本作では語り手に若手の男性司令官、ヒロインに駆逐艦娘の霞が位置づけられている。両者の間には性差、年齢差、体格差、地位の差といった権力勾配があるが、殆どの台詞が「赤ちゃん語」である語り手に対し「霞ママ」が優位に振る舞うという点で逆転的である。

この作品では司令官と艦娘という固定化されがちな二項対立関係を脱構築しているばかりか、ゲーム「艦隊これくしょん」において霞の評判を不評たらしめている彼女の暴言癖をも好意的に捉え、彼女の健気な一面を掘り下げている点で快作である。

ラストシーンでは主人公が霞について「誰もが持つ孤立と孤独―増えて行くばかりの責任と―見通せない将来―そんな良く分からない面倒なものを一緒に背負ってくれる―」*22と独白するが、これぞ先生の理想とする母性像であろう。

先生は以上のような家庭的で包容力ある女性と結ばれることを夢見ながらも、現実世界ではその願いが満たされないと諦めているのではないかと推測される。そしてその渇望を創作の世界に反映し、現実と創作の中間に当たる「あとのあれ」(後書き)においては現実世界の諦観・絶望を創作の手法を用いてコメディ化していると考えられる。

先生にとって母性とは創作ありきの理想的な概念であり、それは絶対的に良いものとされている。求める母性の形こそ示せども具体性に欠けていると言わざるを得ない。例えば「母性を多く注がれすぎた子供はどうななるのか」(いわゆる過干渉問題)というよくありそうな問題提起に対して西畑けい先生の作品は今まで答えを出してこなかったどころか、そもそも問題とすらしてこなかった。*23

現実の西畑けい先生という漫画家にとっても御影にとっても母性とは希求の対象であり、その存立にも関わる概念である。しかし、今の段階でこれ以上母性愛の功罪について考察するには判断材料が欠けているので今後のきもすき作中の描写に注目していきたい。

閑話休題。幼い間に経験するはずの母性愛を欠いたまま成長した御影が、実の母親を取り戻し精神的成熟を遂げる―もしも御影が変化するとしたらこの筋書きが一番あり得そうである。今のところ、御影の母親についての言及は御影の「母の勧めで(淳芯学園の入試を)受けるんです」*24「学生時代に母が通った学校らし…らしくて私も…」*25という発言以外にない。少なくとも母親との連絡はついているようであるが、それでも訳アリであるのは変わらない。御影の母親の年齢は30代後半以上だと考えられるが、今のところ淳芯学院関連の登場人物で彼女に年齢が最も近そうなのは「来客を知らせるモブ教員」(神戸霧乃の担任か?)のみで、現在のストーリーからの推測は厳しそうである。*26

話が逸れたが、御影の変化によって飾磨の態度はどう変化するであろうか?飾磨は御影の精神的成熟を喜ぶスタンスを見せている反面、自らが彼女にとっての「特別」であり続けることに拘泥している節がある。以前の飾磨は御影に対してのスキンシップを取ることが少なかったが*27、11話のNTRクリスマス事変後明確にその頻度が増え、22話では抱擁からの指切り、そして間接キスとして結実している。これらの行動は”特別”*28故にクラスメイト相手のように御影に対して気軽にスキンシップすることの出来なかった飾磨が、冬休みを挟んで彼女との関係をリセットし、成長していく御影に対して適切な関係性を再構築した過程と解釈できる。

現状、きもすきの展開の大枠は全て御影に有利な方向に進んでいると界隈ではよく言われるが、筆者は敢えてそれに否を唱えたい。実は展開を通じた御影の変化こそ飾磨にとって都合が良い展開なのではないか、という仮説を筆者は提唱する。

きもすきという物語の大筋は精神的に未熟で自他の境界が曖昧な御影が飾磨からの愛を得るために飾磨や西宮や神戸(そして芦屋、母親と続くか)といった人物と出会い、その特質を脱構築的に写し取って成長していくことにある。その過程で御影が飾磨に対して望む母性愛が別の愛の形になることが御影との恋愛関係を望む飾磨にとって望ましい。物語冒頭では自分の愛の形にすら無自覚だった御影が「司さんに私は必要とされたかったんです!!」*29と認識するようになっただけでも飾磨としては大進歩であろう。

その意味で「私にとってのゴールテープは司さんと出会った時に切れているんですよ」*30と独白する御影に対し、今の飾磨の恋愛はスタートラインにすら立っていない。しかし最新30話で未来へ進む意志を示した神戸が過去に固執する芦屋に先んじて「ゴールテープ」を切ったように、きもすきでは保守に対する革新の勝利がメタファーされている。となると、きもすきの最終巻は飾磨司と御影依子のバトル展開になり、そして飾磨の勝利によってこの物語はハッピーエンドを迎えるのだろうか。*31飾磨の望む御影との恋愛が成就するには今しばらく時間がかかりそうであるが、彼女の見通しは悪くないように思われる。

終わりに

ひとまず筆者の主張は書き切ったのでここで筆を置くことにする。結局の所、漫画評論なぞ最新話が出る度に二転三転するドリルのようなもので、きもすきのような緩急の激しい作品なら殊更に、最終話までどんなどんでん返しがあるのかも予測できないのだ。今後も西畑けい先生の描くこの女力バトル漫画を引き続き見守らせて頂こう。

勿論、最後はこの言葉で。

きもすき、きもすぎ〜!!

スペシャルサンクス

「きもすき」という素晴らしい作品を書いてくれている西畑けい先生(@nishihatak)

このきもすき論考にメタな視点から助言をくれたlnz∀氏(@Azul114514)

このきもすき論考に一人の思想家として助言をくれた哲学研究会同輩麻布学園だめライフ同好会(@azb_dame)

いずれこの論考を再編集することになるであろうきらら同好会同輩ヰンジゴカルミン(@ousui_0052)

筆者にきもすきを布教してくれたきらら同好会会長K(@AZB_hrt)

大量の誤字脱字を指摘してくれた**My deer sister**