表現規制、あるいは書店とのつきあい方の話|宮本晴樹/八朔ちゃん (original) (raw)
はじめまして、こんにちは。
宮本晴樹(みやもとはるき)と申します。
八朔と名乗ったほうが馴染み深い方も多いかもしれません。
これから細々と文章を書かせていただこうと思ってますので、よろしくお願いいたします。
「お父さん、これ気持ち悪い」と娘が指差した
そんな話がツイッターで盛り上がってました。自分の周りだけでしょうか? 知らない方のために要約すると以下のような話です。
あるお父さんのツイートで、8歳の娘さんが書店で「お父さん、これ気持ち悪い」と指差した先にはおっぱいの大きな女の子が表紙に描かれたライトノベルが平積みされていた、というのが実際に起きたことのようです。
そしてその話から「おっぱいの大きな女の子が表紙に描かれた本はゾーニング(販売もしくは陳列と閲覧の制限を設け誰でも読める本ではなくすること)するべきか」という議論に発展していったのでした。
中学生の僕に青年漫画を貸してくれたあるお父さんの話
ゾーニングに関する議論は自分よりも詳しい人がたくさん居りますので気になる方は是非調べてみてください。
自分はその議論を横目にぼんやりと、自分が中学生の頃に「花マル伝」という柔道漫画を借りた時のことを思い出していました。
貸してくれたのは、自分たち兄弟が通っていた柔道教室の先生でした。自分たち兄弟より幼い子どもを持つお父さんでした。
先生は(文中でお父さんと呼び続けるのは失礼かと思うので先生と書きます)花マル伝を全巻紙袋に入れて持たせてくれました。兄弟でかわりばんこに読み進めていきました。
ある巻まで読み終わったときに、次の巻が抜けていることに気付きました(確か10巻だったと思う)。
先生に訊くと、「ああ、その巻は持ってないんだよ」と言いました。
その巻を飛ばしても話は繋がって理解できたので、かまわず読み続け、先生にお礼して返しました。
本当は持っていた、読むなとは言わなかった
後日談です。
先生のお子さん(同じ柔道教室の後輩ですね)と数年後に話していたら教えてくれました。
「実は貸さなかった巻は持っていて、全巻揃ってる本棚と違う場所に置いてある。気になるなら自分でどこかで見つけて読んで」と。
その頃には自分の兄弟も貸してもらえなかった巻を古本屋で見つけて読んでいました。僕も読んで、何故先生がその巻を抜き取っているのかわかりました。
その巻には所謂ベッドシーンと呼ばれるような描写があったのです。
もう10年以上前のことなのでちょっといろいろ曖昧ですが、言っていた内容や実際起きたことはこの通りです。
すっかり涼しくなってきた初秋の夕方、身体を引くようにして帰路につきながらそんなことを思い出していました。そして、もしも自分がツイッターでの議論の発端となったお父さんの立場だったら、その場で何ができるんだろうかと考えていました。
「見せたくない!」に遭遇したとき大人が出来ること
って、結局はこの先生のような振る舞いをするしかないんじゃないかなあと思います。
青年漫画というのは20~30代の男性がターゲットですよというだけであって、それ以外の人は読んではいけないという規約ではありません。成人向けでもないのに読むなとは言えない、書店で見つけて勝手に読むならそれは止めない。でも子どもが読む本棚から抜き取ってあったのは、中学生の自分たちに貸さなかったのは、親として、そして先生として思うところがあったからだろう。
例えばだけど、「子どもに見せるには好ましくない描写が含まれることが多いので、青年誌掲載の漫画には一律年齢制限をかけて子どもが読めないように制限をかけよう」という方向へ考えると、先生は「子どもに見せられない本を自宅に所持している」ことになってしまい責任がとても重くなる。柔道漫画なのに。
あるいは「子どもに見せるには好ましくない描写が含まれる漫画は書店に置かない、オンラインでも購入できないように法律で取り締まろう」と考えると、子どもをメインターゲットとした悪質な海賊版漫画サイトなどが出回る可能性が今より更に高くなるんじゃないかと想像できます。なんとか村みたいにね。それに伴ってフィッシングや架空請求のターゲットになる可能性だってぐんと上がりますよね。「見たことがバレたらいけないものを見ようとする」というのは往々にしてその手の事故に遭う確率を高めますので。別に放っておけばいいんだけど、見ちゃいけないものを一生懸命見ようとしていたのがバレちゃうの、ちょっと気の毒だなって思います。
保護者として、監督者として、「個人の裁量」で動く現状が一番自由なんじゃないかな。もっとも、成人向け漫画にもそのような制限がつく前はもっと自由だったわけだけど、少なくとも今ある現実以上に法律や条例など「破ったら罰則を科せられる厳しいルール」で縛る必要はないと考えます。
現代を生きるわたしたちと書店とのつき合い方
8歳の女の子がどういう意図で発言したのかは自分にはわかりません。
ですが、おそらくその「気持ち悪い」という言葉には「居心地が悪い」という意味が含まれているんじゃなかろうかと思います。彼女が好むようなラインナップではない、ハイティーンや青年向けのライトノベル売り場に来てしまったわけですから。
その手の居心地の悪さというのは大人になってもずっと続きます。
自分はもう大人なので子ども向けの月刊誌の置き場や児童書置き場に近付くと不審者だと思われないだろうかと気をもんだりします(そんなことは多分ないんだけど)。
それから、政治思想の話などになると明らかに自分とは考え方が合わない偉い人が書いた本もたくさんあります。素朴な庶民なので「なんでこんな考えの持ち主が偉い人扱いされてるんだろう」などと思ってしまいますが、きっと支持する人が居て、そういう人たちのために書かれているんだろうと思ってそっと棚から立ち去ります(その本が実家の父の書棚にあった時大きな溜息を吐きました)。
自分と考え方が合わない本を置いている書店に「こんな本を置くな」と電話したら自分の町の書店からその本は消えるかもしれません。
ですが、電話一本で棚から本をなくす書店は、自分が読みたいと思った本も、別の誰かの電話一本で仕入れなくなるかもしれません。電話一本で言うことをきく本屋ですから、もしかしたら誰かがお金を渡して、自分の嫌いな本を売らないように仕向けるかもしれません。
そんな本屋は使えないのです。少なくとも既存のレーティングを守っている限り、本屋自身ではなく客の誰かの都合で幽霊のように消える本がある本屋など使うくらいならグーグル検索のほうがよっぽどマシです。
今の自分には必要ないけどいつか必要かもしれない本や、自分が想像もしていなかった内容が描かれている本など、「調べたいこと、欲しいものが決まって検索している状態では出会えない本に出会うことができる」のが、なんでも検索出来てしまう現代において物理的な店舗として書店がある大きなメリットです。
そのためには、電話一本にしろ、法律や条例にしろ、これ以上本や、それを売る書店の肩身が狭くなるようなことはしないのが大原則ではないでしょうか。
ネット検索でも、SNSでも、自分と同じ考え方の人とすぐに繋がりが持てて、つらいことがあれば慰め合い、励まし合い、嫌なことがあれば一緒に怒ってくれる仲間がいくらでも作れる時代です。
ですが、わたしたちは忘れてはいけないのです。
人がみんな自分と同じ考えではないこと。
自分と同じではない考えに反論する権利があること。
でも、自分と同じ考えではない人の意見表明の機会を奪う権利は誰にもないこと。
いつか親になり自分が子どもに見せたくない本が書店に並んでいたとき、その原則を守りながら、どう子どもたちと接するか、自分を含め多くの大人の本当の力が試されているんじゃないかと、昨今の表現物にまつわる議論を眺めつつ考えています。
おしまい。
最後までお読みくださりありがとうございました。
気が向いたらまたぽつぽつ書いていきます。