哲学の使い方|うまっち (original) (raw)
鷲田清一氏の「哲学の使い方」(岩波新書)を読み終えた。
そのタイトルが本書の内容を絶妙に言い当てている。
僕は哲学の本を読むことが好きで、哲学入門的な本を中心にいろいろ読んできた。その度に違和感があったことは、どの本も過去の哲学者の解説をする哲学史的な内容ばかりで、現代に哲学はどうあるべか、どのように活かされるのかという視点が欠けているのではないかということだった。
その点について、本書は明確に新たな視点を示してくれる。著者はそれを「哲学の臨床」と呼ぶ。すなわち、フィールドワークとダイアローグである。
現代の哲学は、過去の西洋哲学を学ぶことに終始するところから、一歩進んで、医療や教育など様々な社会の現場で起きていることに関して、フィールドワークを通じて、新しい概念で示すことが必要ということが1つ。
鷲田さんは、そのためには「感度のよいアンテナを張りめぐらせて、全体に目をくばり、世界の中の、微細ではあるが経験を地盤ごと揺るがそうと息をひそめているものへの感度を高めること、そしてそこから問うべき問いを見つけること、そういうセンスを身につけなければ事は始まらない」と言う。
そして2つ目には、ダイアローグとしての哲学。その手法として「哲学カフェ」という取組を実践されている。
「哲学カフェは、西洋における哲学の伝統に照らしてみれば、それほど以外な試みとも思われない。路上で、あるいは集会で論理のキャッチボールを繰り返すばかりで、みずからは一冊の書物も著わさなかったソクラテス、その伝統に連なってロゴス(言葉・論理)の力を深く信頼し、会話を社交と教養の基礎と考えて、中等教育の段階から哲学教育を重視してきたそういう人たちが、哲学の再生を対話というかたちで試みるというのは、いってみれば哲学の先祖返りだともいえる。」と鷲田さんを言う。
「哲学カフェで重要なのは、知らないことを知るための問いではなく、知っていることを改めて問うような問いである。」
「現実の問題の多くは、重要なものにかぎって答えがすぐにはでない。答えは1つとも限らない。ひょっとして最後まで正解はでないかもしれない。・・・「ああでもない、こうでもない」と執拗に論理をたどりつづけるには、無呼吸のままで潜水を続けられるような思考の体力がいる。」
「近代人に特有の「気の短さ」として特徴づけられることがある。・・・待てないままわかりやすい論理に飛びつくのである。」
「ここで忌避されているのは、あれこれとぐずぐず思い迷う時間である。」
僕自身を振り返って反省させられる言葉が並ぶ。自分は優秀だという思い込みで、すぐに結論を出そうとする。深く考えずに分かったような気になる。まさにこれまでの僕そのものである。
でも今、僕は人生につまずき、大きく悩み、立ち止まっている。これからの人生をどう生きるべきか、そもそも、「生きる」とは何か。「幸せ」とは何か。そんなことを日々、何となく思う。
そういった思いを深めていくために、これまで2,000年以上にわたって積み重ねてこられた西洋哲学や日本の思想の積み重ねがあるのだと思う。その積み重ねの上に立って、僕自身が「ぐずぐず」と考えつづける。時には、他の人の意見も聴きながら、対話をしていく。自分の思いを話していく。
そうしたことが哲学を学ぶ意義なんだと、なんだか妙に納得できる1冊でした。