フュージョンを聴く (original) (raw)

ずっと音楽関係の雑感を書きたかったのに、X(Twitter)でやらかした。私は昨晩「やばい近所のおじさん」というアカウント名にしたまま就寝した。そのとき大貫妙子を聴きながら酒を飲んでいたが、アカウント名を変えた記憶は明確にあった。確か、「やばい人が近づいてきたら鍵を指の隙間から出して...」といった誰かの投稿を読んでから、正常な人間よりも「やばい人」にシンパシーを感じた私は、なぜか「やばい近所のおじさん」を自ら標榜していた。そもそも誰かを指して「やばい」と形容するようなことは自分の禁忌であったはずだから、なおさらきまりが悪い。フォロワーが減ったが当然だろう。巷で流行りの「おじ」ですら自分にとってはグレーな表現だし、一度使ったけどもう使いたくないくらいだが、「やばいおじさん」という語が自分の内から表出したことに身の毛がよだつ。政治家や芸能人などにはなるつもりは微塵もないが、絶対になれない。

他者と自身の差異やそこから明らかになる自身の認知と行動の歪みに気がつくことが社会生活を送る上で重要なのは当たり前だけど、その修正ばかりに費やす人生は当事者として決して面白いものではない。そうした歪みは途方もなく自身のあとをついて回り、その間に振舞いたいように振る舞える人間との差がますます激しくなる。そのうえ自身の歪みに対する焦燥が強まると、そうした歪みに気がつかないままの自己を振りかざす人間に対する煩わしさが強まってきて、建前と本音を分けられない私にはそれが行動に現れることが増えた。これは加齢なのだろうか...と途方に暮れ、ひどく疲れてしまった。道化になることへの恥はないが、私は面白い人間になりたいわけではなくて、つまらない人間であることから脱したいだけだ。

先日、Youtubeでジャズの歴史について調べていた時、あるYoutuberのベーシストが「ジャズがなぜ流行らない?」というタイトルの動画で、ジャズはその成り立ちから基本的にはメインストリームの音楽に飽きたミュージシャンの自己満足のための音楽であり、流行した時代は確かにあったが廃れる運命であった、ということを話していたように思う。コメント欄には古参らしきジャズのファンに対する恨み辛みで溢れていた。それと同時に「一芸で食べていく人が一握りの人間であるべきだ」とも言っていた。

たしかに、将来なりたいことがないその逃避手段として音楽の道に歩むことは合理的ではない。基本的には職業選択は社会が本質的に必要としていて、持っている技能でその職業に貢献できる分野でなるべきだと私も思う。加えて音楽で食っていくことは競争ありきであり、離れざるを得ない人が現れてやむなしの側面はあるだろう。

けれども。音楽は文化財であり、公共財の側面もある。ことオーケストラに関しては、小澤征爾も「公園のようなもの」と言っていた。税金で支払って維持を、というのも民主的な議論の余地があるかもしれないが、営利企業が地方のオーケストラを協賛している現状は理想的だと思う。明らかに人々は普段から音楽を必要としていて、だからオーケストラやジャズのファンはSNSで可視化されている。こと音楽の分野に関しては、たとえ実力があっても誰に評価されるかわからない。指揮者のベルナルト・ハイティンクはロイヤルコンセルトヘボウで晩成した。ビバップが行き詰まった時代に技術的に遅れをとったマイルスがクールジャズを取り戻したように、技巧だけではない方法でジャズの魅力をPRできた時代もあった。音楽が文化財であるという共通認識がなくなった果てには、ジャズにもオーケストラにもパガニーニジャコ・パストリアスような技巧派しか残らなくなるのではないか。音楽業界全体の豊かさは、同じような音楽人だけでは成り立たない。

私にはまだレコードを買うことやたまのバンド活動で楽器屋に支払うことでしか演奏家を育てるだけの財力はない。それでも、せめて地方の演奏会には足を運びたい。そして、音楽家を支えているバーにも通えるだけの金を稼ぎたい。地方で活躍する音楽家の明日の食い扶持をつなぐ糧となり、音楽そのものが多彩で豊かになる方法を、実践するのだ。

Dutch Treat『Tranquility』

替えの利かない芸術作品はその後の歴史で重要な意味を持ち、表現の可能性を拓くことがある。自身の感性でその可能性を感じ取り作品に絶対の価値を見出せたとしたら、たとえそれが実利的ではないとしても、現在を生き抜く実存を強く持つことができる。私にとってはそのアルバムが『Tranquility』(1977)となった。

オランダのバンドDutch Treatによるこの唯一作はTerminal PassageというYoutube ChannelによりWeb上にアップロードされたことで国境を越え、Youtubeで100万回以上再生された。そのことが影響してか、アルバムリリースから約半世紀も後の2024年7月10日に中古市場でプレミアが付いていたアナログ盤の再発が決定し、日本にも未発表EP盤付のLP盤が流通した。なお、執筆時点でこのアルバムのサブスクリプションは解禁されていない。

私も再プレスを入手してその価値を改めて実感し、レコードプレーヤーで楽曲を聴いた時には涙が流れた。その心境は、欧米やアジア圏の人々が音楽面で未開拓であった日本から山下達郎竹内まりやを発見した時の感動に近いのかもしれない。しかし、単にドイツやフランスなどから被侵略を重ねた歴史を持つオランダの国からこの作品が発見されたこと以上に、このアルバムが評価される理由がある。

偉大な作品はどのジャンルに属するかで音楽を語ることに意味を持たない。Miles Davesの『Bitches Brew』はジャズロックフュージョンにカテゴライズされることもあるが、真相はどのジャンルとも形容しがたいものである。そうした音楽としての新しさこそが、後続のミュージシャンに既成のジャズにない表現をもたらした。

Miles Davis『Bitches Brew

『Tranquility』も同様に音楽ジャンルでカテゴライズすることが難しい作品だ。バンドはいわゆるロックバンドのような形態だが、決してロックなどのジャンルに限定されない音楽性を持つ。参加ミュージシャンは主にジャズミュージシャンとしての経験のある人が多いがためにフュージョンにカテゴライズしたくなるかもしれないが、既成のフュージョンのように他の確立されたジャンルとの融合を求める側面は少ない。

『Bitches Brew』と共通してカテゴライズされない新しさを持つという私の考えとは裏腹に、プロデューサー兼ピアニストであるJan Hudyts(ヤン・ハイツ)は次のように述べた。その言葉から、ジャズロックに対するアンチテーゼとしてこの音楽が作られたことがわかり、Jan自身はおおらかな態度ではありつつも、既存のジャンルに容易に染まるまいとする反骨精神(=ロック)さえうかがえる。

We intended to make beautiful music. With this record, we wanted to set ourselves apart from all the complicated, attention-grabbing music like jazz-rock. We would actually prefer to unleash a new wave of quiet, laid-back music.
私たちは美しい音楽を作るつもりでした。このレコーディングではジャズロックのような複雑で注目を集める音楽とは一線を画したかったのです。実際、私たちは静かでリラックスできる新しい音楽の波を解き放つことを望んでいました。

出典:『Tranquility』 678 Records 訳:Google翻訳および筆者

絶えず変化するサウンドとビートを取り入れメロディアスなコンセプトを完成させたことも、Dutch Treatのもう一つの大きな功績である。私が敬愛しているロックバンドSpinもそうであるが、オランダのすぐれたバンドは多彩なサウンドとビートを単一のアルバムに取り入れることを厭わない。それによりアルバムコンセプトは瓦解しないどころか、バンドに一貫した独自性をもたらしている。それにしても、フラメンコギター(アコースティックギター)とフェンダーローズ、フルート、オルガンやチェンバロの電子サウンド、ピアノ、バンド楽器…といった古今のサウンドが単一のアルバムで共存し、それでも長編映画の物語のように人々に感動をもたらすアルバムが一体どこにあるだろう。このことを思うと、プロデューサーの2名に感服せずにはいられないのだ。

既存の表現技法にとらわれず作品を製作してゆくことが、他の誰にも真似できない偉大な作品を生む可能性があることをこのアルバムが教えてくれた。その意味では、たとえば映画のような映像と音を複合した総合芸術にはまだまだ表現の可能性が込められているといえるのかもしれない。ただ、オリジナリティの高い作品をつくるためには条件がある。以下にプロデューサー兼ベーシストのWin Essed(ウィン・エッセ)の言葉を引用する。

Independence and freedom in composing, arranging, recording and mixing, and the choice of musicians, was deemed indispensable and also looked like fun to us at the time. So, to avoid interfering and exhausting discussions with record bosses and cynical producers, we had to take the path of doing the complete production ourselves which, besides not being cheap, has indeed been fun.

作曲、編曲、録音、ミキシング、ミュージシャンの選択のための独立と自由は不可欠であると考えられ、当時の私たちにとっては楽しいことのように見えました。それは、レコーディングの上司や批判的なプロデューサーとの差し出がましくうんざりな話し合いを避けるためです。私たちは自分たちの手で全ての制作を行う道を歩まなければならず、容易い道でははなかったものの、真に楽しむことができました。

出典:『Tranquility』 678 Records 訳:Google翻訳および筆者

繰り返しとなるが、作品との出会いはときに歴史の転換点に立つことと同義となり、ひいてはその作品に触れた人へ強い実存をもたらす。そしてその作品はいつの時代に触れても新鮮であり、他に替えの利かないかけがえのないものとなる。SNSを通して音楽が好きな人々とつながることができている今、その人々が生きる意味を見出せるほどの作品と出会い、その重みを分かち合える日が来ることを願っている。

先々月からフュージョンジャンルのコピーバンドにメンバーとして参加することになった。楽曲は角松敏生Lee RitenourCasiopeaの曲から各1曲ずつ演奏することになっており、順次増えてゆく予定だ。フュージョンの多くはジャズのバックグラウンドを持つ人々がロックなどのジャンルをジャズに取り入れようとする試みであるから、高い演奏技術を要求されることが多い。私は音大にも入れないような素人だが、「神保彰かSteve Gadd(いずれもドラムの神たる存在)になりたい」と無いものねだりをしながら手足を動かし練習している。

バンドには30歳の私以外に現在50代の男性2名が加入している。スタジオ練習へ初めて参加した日に楽譜はどうしているのかと上の世代の2人に尋ねると、「ほとんど有ったことがない」と言っており、ベースのメンバーはExcelシートを印刷した紙を持参していた。吹奏楽で楽譜に触れ続けてきた私には意外なことであったが、楽譜がないことはポップスにおいては特別なことではないらしい。山下達郎氏のアルバムの録音に参加している青山純氏といったセッションミュージシャンでも楽譜は読めないらしく、ギターの松木恒秀氏に至っては山下氏が楽譜を手渡しても読まないのだという。

先日楽譜をもとにエレクトーンの練習をしていたら、楽譜があることによる楽曲理解のスピードが桁違いに早いことが感じられ、重い腰を上げて私もバンドで演奏する楽曲のドラム譜を自力で作成してみた。はじめはExcelでセルを小節がわりにしたもので音符なしの譜面を作成し、その後印刷した五線紙に音符を加えていった。

取り組んだ後で分かったのだが、この楽譜をつくる過程で曲の構成が手に取るように理解できた。音楽はミクロレベルでもマクロレベルでも同じようなフレーズの繰り返しとその変化によってできていることは、曲を参照すれば誰しもピンとくるところだろう。演奏記号でいえば、繰り返される場所にはリピート記号やダルセーニョ、ダカーポを使ってフレーズを再現してゆくし、曲の終わりに向かいフレーズが変化する場合にはコーダに移動して曲が結ばれる。私は楽譜に何度か触れてきていたので、楽譜を読んだことがない曲でも音源さえあればどこでダルセーニョやコーダを取り入れればよいかがすぐに分かった。最終的に楽譜ができたと同時に曲全体の構成が一目瞭然となり、楽譜があって心からよかったと感じられた。

楽譜の読み方を押さえたうえで曲の演奏をすれば、音楽がなんたるかを言葉にせずとも感覚で理解できるようになる。理論を学ぶのは、そのあとからでもよいのだ。

エレクトーンで練習している曲はProcol Harumの「A Whiter Shade Of Pale(青い影)」で、プログレなどを加味してもクラシックと結びついたロックミュージックの中では最も完成された曲のひとつだと断言したい。他のProcol Harumのアルバムも聞いてみたが、このバンドは「青い影」を含む1stアルバムがもっとも完成度の高い作品であるようだ。

ピアノやエレクトーンのような鍵盤楽器はドラムよりも遥かに高い技術が求められる。私は譜読みのスピードがかなり遅いこともあり、弾けるようになるまでには相当時間がかかるであろう。

フュージョンからはバンドで演奏予定の「Night Rhythms」を掲げておく。

しばらくブログの更新が滞っていた。すでに23時を回っていて眠剤を飲んだが、フォロワーがnoteの記事を更新しているところに触発されて、久しぶりに文章を書くことにした。

最近はといえば特に何もしていない。傷病手当を受給していてなんとか金銭的にはやりくりできているので、11時頃に起きては食事をとり、お菓子を食べては夕飯を食べ、深夜1時に寝るというような堕落した日々を過ごしている。まるで大学生のような生活、ともふと思ったが、最近は大学生もレポートやサークル、バイトなどで自由な時間もないことが多いので、明らかに自身のほうが腐りきっている。

そんな調子なので、就活も進んでいない。最終面接まで進んだ企業の面接に落ちてから、何社か応募はしているものの、結果が出ない。もっとハイペースで応募をすればいいのにと思うが、楽をしたい性分がそうさせてくれない。その間に、職歴の空白期間は徐々に開いてゆく。それでもハローワークで私の相談を担当している職員は私を見捨てていないようで、専用のマイページを経由しておすすめの求人を紹介してくれており、それがなんとか就活を続ける手綱になっている。

会社勤めを続けるには、成長して結果を出し、不得手には対処していく必要がある。けれども、そうする意欲がもはや削がれているのかもしれない。体調を崩し続けたことでさまざまな能力が下がっていることは自覚していて、そうした中で足掻こうとしても無気力感に苛まれる。きっとそれは過去の会社で自信を持って積み上げたと言えるものも成果もないからで、そうした空っぽな状態が面接で見透かされているのだろう。

私にはさまざまな成長を阻害する呪縛があって、それを放置したツケが回ってきている。たとえば、英語教育を学習していた学生時代に「暗記だけではだめで、コミュニケーション能力を高めなければならない」という学習を経たこともその一つだ。暗記ができ、文構造を理解できることは本来なら自身の武器だったはずだが、私はその強みに着目できずにコミュニケーションができる人々に劣等感ばかりを抱いていた。それが足かせになって、自身の力の発揮できる場所がわからないままふらふらしている状態が続いていた。しかし、物事を正確に覚えていられること、構造への理解が日常生活でも会社でも実は重要で、それがわかってきた今になって記憶力も理解力も弱くなっていき、表層でしかあらゆる物事を理解できなくなっている。

もう少し若い頃には、自身の手でコントロールできることがまだまだたくさんあったのかもしれない。けれども、会社員としての基礎を学べる場に出会えないまま中小企業で転職を繰り返し、体調を崩して腐りきった状態では、再起しようにも途方に暮れてしまう。そうした無為の自分に蓋をするように、レコードを探したり、SNSにふけっている。

本来自身の手でコントロールできるはずのことも、全く力が及ばないように感じられてしまうよ

— 死は緩やかに進む (@keioxa04uma) 2024年6月16日

先日、平日の日中にブックオフを訪れたら、おそらく会社での競争を諦めたであろう複数の男性たちが並んで漫画を読んでいた。その男性たちはシャツもヨレヨレで、私が通りかかっても特に私の目を気にして取り繕う様子は見られなかった。このままの生活を続けていれば将来自分もそうなるかもしれないな、と思いつつも、いっそその男性たちの仲間になったほうが楽だろうに、とも感じられた。

半年近く休む日々を過ごしてよくわかったけれど、堕落した生活は、自分自身に対するの面白みのなさがこみ上げてきてそれはそれで苦しいけど、そこから目を逸らすことさえできれば随分楽なのだ。

コーヒー豆を買いに近所の小山のふもとにあるコーヒーの焙煎所に初めて足を運んだら、細身で気さくな男性が私を迎えてくれた。彼は古い一軒家の横に併設された小屋のような場所で、その外にも音が漏れるほどの音量でフランツ・リストを再生しながら、コーヒーを焙煎する作業に取り掛かっていた。その小屋には中学生の背丈ほどの焙煎機だけでなく、ドリッパーやサーバー、やかんなどが壁に打った杭に綺麗に掛けて並べられ、中央には自家製のベンチらしきものもあった。入口側には古いアップライトピアノも置かれていたし、タンバリンもあった。

突然の来訪にも関わらずその彼は私を温かく迎えてコーヒーを淹れ、ベンチに座るように促した。私はその男性に、自分が大学を出てから就職をしたものの、職を転々としていて就職活動中であることを話すと、彼も自分の周囲の私と同じ年くらいの友人たちが休職中であることを話してくれた。休職しているのは皆公務員らしく、医師から彼らが外出も止められているにも関わらず、その男性はそうした人々を励ますために知人友人らにはたらきかけては度々キャンプと称した飲み会を開き、老若男女のコミュニティを形成していたようだった。

初老にさしかかったであろうその男性の奥さんが私の元同僚だと知ったのは、小屋にお邪魔した数十分後のことだった。彼女は私の大学の後輩でもあり、いくつか授業も一緒であった。卒業後は教員免許を取得していて教員をしていたのだが、そうした中で彼女はなぜか私のいる法人に入社を決意していた。私の記憶の中で薄れ掛けていたその彼女が子どもを抱えてこちらに来るなり、「奥さんとその成果です」とその男性から紹介されたものだから、たいそう驚いたものだった。彼女と私はほぼ入れ違いで入退職をしたものの、私たちがかつて在籍した法人については夫である男性もよく知っていたようで、自然とその話題になった。

その法人がどういった法人だったかといえば、まず家庭や学校や会社に居場所のない人々が逃げるようにその法人に集まっていたことが他にない特徴であった。職員の中には自ら発達障害であることを打ち明ける人もいたし、集中力が途切れてか会議中に絵を描いていた人もいた。私も例に漏れず、社会に受け入れられるような気がしないままその法人に逃げるように就職をした一人であった。理事長はおそらく私たちがどんな人間であるかも当然知っていたうえで入職を受け入れ続けてきたと思う。だからこそ、どのような人々とも十分に関係を深められるであろうその女性が、なぜ教職というキャリアを捨ててまでその法人に入社を決めたのか疑問に思っていた(夫も、彼女が社会を通常通り渡れる力を持っていると考えていたようだった)。けれども初老にさしかかるその男性と30歳になる私より年下のその女性が結婚して子どもができていたことからするに、自らの選択でレールを外れ我が道を進んだことは明らかであった。

また、その法人では障害のある人々のアート活動を支援しており、地域との繋がりを形成するためのカフェも併設していた。男性も、奥さんである女性のつてで自身のもつ畑を貸しながら利用者と関わったことがあった。地域側としてそうした人々の受け入れの役割を果たしていたからこそ、地域の人々がもつ利用者へのまなざしもよく理解していた。私は、そのカフェが一義的な生涯のある人々の居場所としての機能だけを望まれて運営されていたわけではないし、人々が根源的に持っているありのままの表現に対してリスペクトし、それを「アート」という語を介して広めようとしたことも、今ならば男性に対して説明ができた。そうしたものに向ける眼差しが世間であるならば、世間にいる人々を少しでも振り向かせるために何ができるのかを考え行動することが私の役割であったことも、今ならばわかる。自分はその役割を果たすことはなく、そこではない普通の会社がどんな会社なのか知ることを口実にしてその法人を辞めた。退職日に理事長から言われた最後の言葉は「私たちの関係性は変わらないから」ということだったが、その後私からその法人の人々に対して近況を伝えたことは一度もなかった。

浅く焙煎された豆の酸っぱいコーヒーを飲みながらの雑談もつかの間、「あなたはきっといい人だよ」と言いながら、彼は今度キャンプファイヤーをやるからよければ来てはどうかと例のコミュニティに私を誘った。そして、参加してみて気に入ったら来るといい、苦手な人がいれば距離をおいてもいいしその後はもう参加しなくてもいい、とも念押しした。願ってもない機会だったし、なぜ自分がこのような生き方をしているのかを知りながら、それでも関わりを持ち続けてくれそうな夫婦が突然目の前に現れたのであった。けれど、自分からだれかを信じ、自らの力で人との関係を深めてこなかった私にとっては、依然として人と繋がることが恐ろしくもあった。私はそのコミュニティに関心を示しながら連絡先を交換し、キャンプファイヤーの日付を尋ね、焙煎所を去った。ただ、ふたたびその焙煎所に現れるかは、まだ分からない。こうして文章にこの出来事を起こしている今でも、ふたたびその焙煎所を訪れるか迷っている。

どんなに落ち目にあってもああなりたくないと思うような反面教師をかつてブロ解したアカウントのなかに見出した。基本的に他人に何も期待しない生き方をしている自分が、時と相手と場所を選ばずに人を見下し続けているそのアカウントに対して、「自分は絶対にああなりたくない」と願うことは珍しいことなのかもしれない。かといって自分自身の、座して待ちながら相手の出方を伺うだけで仲良くなりたい人と仲良くするための努力を尽くさないあり方も、客観的には不可思議で決して見ていて気持ちよいものではないだろうと思っていた。

会社でちゃんと礼や感謝などを交しあって親睦を深め合っているほかの従業員の姿を見ていると、それが叶わなかった自分の何かが間違っているような気がして、ここ数週間は得も言われぬ焦燥感があったことは認めなければならない。そうした中でラジオから聞こえてきた桜林直子氏とジェーン・スー氏によるPodcast『となりの雑談』では、人を信用するということについて語られていて、まるで週刊連載漫画雑誌の好きな作品に刮目するかのように、繰り返し聞いていた。そこでは、スー氏が「人を信用できる土台は、そもそもあなたが他者を信用できる、その力があるかということですよね?」と投げかけ、桜林氏が「その通り!」と答えていたのだった。

同番組の次章ではその続きについて話されていて、スー氏が「どのタイミングで誰と出会うかはコントロールできない」一方で、「どのタイミングで誰と過ごすかは選べる」とも語っていた。私の対人関係のスタンスは従来から"来る人を拒まず去る人を追わず"で、高校時代から今までずっと仲良くしている人というのは、自分に近づいてきてくれた人であり、私が仲良くしようと思って近づいたわけではなかった。そして皆優しく、自分が何かヘマをしても、笑って見過ごしてくれる人たちであった。でなければなにかとドジな私との関係は続けられまい。ともあれ、ただ自分に歩み寄ってくれた人々を受け入れ迎合してゆく自身の姿勢は、明らかに消極的であった。

誰にも歩み寄ろうとしなかったということは、付き合う人を自ら選ばずに一生を終えたいということになるが、それはある意味で間違っていないのかもしれない。自身の根拠のない発言や行動に信用がおけなくて人と仲良くなることが怖いだとか、あるいはふとした失言よって信用を失うのが怖い、という恒常的な不安が私の根底にはきっとあるのだ。突然思いつめては所属していたサークルから距離を置いたり連絡先を絶ったりしたこと、苦しい時に手を差し伸べてくれた人々に自ら連絡をとることや礼を言うこともせず、当初の連絡のないままの状態を保とうとしたことも、俄かに思い出してきた。私は自分自身はもとより、誰のことも信用していなかったのかもしれなかった。それでも今年が始まってから無性に人と話がしたくなってスペースを開いたり何かとリプライを送るようにしているのは、やはり自分の好きな音楽の話や身の上の話をできる相手を求めているからに他ならないように思う。

このようなことを表明するのは、きっと恐ろしいことなのかもしれない。選べるはずの相手を積極的に選ばずに生きてきたその結果として今の会社、友人関係、SNSの繋がりのすべてがあることを自ら打ち明けることになるのだから。けれど、かといって私はこれまでできた繋がりを、この日記を皮切りにしてないがしろにしようとも思わない。自分の好きな音楽に興味を示してくれたことへの喜びを知る人が今のXの繋がりのなかにはいて、それによって関係性が築けたかもしれない人々もいるのだから。

この自分の人生の間違いを、美談にして終えることはしたくない。スー氏が語るように、本来信頼関係というのは時間をかけて構築できるもので、自分はそれを明らかに怠ってきたから。私は、何度かコミュニケーションを取るだけで親睦を深められることが当たり前のようにできる人々の存在や、最近起きたことを直接話したい欲求を持つ人々の存在が常に疑問で、彼らと自分の違いが単なる性格の違いということだけでは説明できないような気がしていた。そうしたやりとりが自然にできる関係というのは、まさに信用の土台が育っている人々ならではのことなのかもしれない。私はやっとスタートに立ったが、彼らの景色にありつけるのは遥か先のことで、歩みを進めるのは途方もないことのように思える。

いつも私がコーヒー豆を購入している店が来月末に閉店することになった。その店はご夫婦が経営しているのだが、老後をより楽しく過ごすためと別の県へ引っ越すことにしたのだという。幸いにも豆の焙煎はその県で行い、配送もできるらしかった。ご主人の焙煎する豆は私の体によく馴染み、飲むと体調がよくなるのが自覚されるほどだった。医学的な根拠には乏しいのかもしれないが、私にとってその店のコーヒーは薬のようなもので、ありがたく飲んでいた。

最近は生活の繰り返しが自身の背丈を超えて迫り来る大波のように感じられ、店に入る前も随分と参っていた。しかし、引っ越しの発表を終えて吹っ切れたのであろうご主人から「ここ何ヶ月かで太ったんじゃない?」と言われたり、「あなたは真面目だからもっと貸しをつくるぐらいに頼ったほうがいい」「もっと手を抜くくらいでいいと思うよ」と言われ、気持ちが軽くなった。就職や今後の生活など気がかりなことはいくつもあったが、核心には触れられなかったからこそ、安堵したのだった。人を頼れない性格であることは本当にその通りだ。けれども、肝心な時に手を抜きすぎるからこのような情けない人生になったし、それはご主人の言葉がどうこうではなく、当然自分自身の問題なのであった。きっとご主人も奥様も幸福なのだろう。だから私は伊藤潤二版『人間失格』の葉蔵の台詞よろしく「このご夫婦に幸福を。ああ、もし神様が自分のようなものの祈りでも聞いてくれるなら...」と、引っ越し後の2人の幸運を心の内で願ったものである。

その店にはほかにも思い入れがあり、書きたいことも沢山あるのだが、来月にそれをご夫婦に伝えた後で、また日記として書こうと思う。

私もよほど思いつめていて堰が切れたのだろう、今まで海を見ることを目的に出かけることなどなかったのだが、ついに海を見に行くことにした。砂浜にまで行けるという地点に着いたが、すでに18時を回っており、暗く何も見えなかった。その後、たまたま迷い込んだ行き止まりの道路に路駐してある車が2台ほどあったので、私も車を出て約1mほどあるコンクリートの壁を降りるように歩いた。さらにガードレールを越えると、港の向かいの岸に出た。

写真だと光の反射が少し綺麗に見えるかもしれないが、肉眼では光がぼやけていて海は青黒かった。一度早朝に沖で海釣りをしたことがあったが、そこでは船の周囲の海原や空が死の世界のように感じられた。そしてこの時間の海も一歩近づくほどに死が感じられ、不用意に近づきたくなかった。スマホのライトを海に当ててみたが、海の方がどす黒くて光を吸い込み、海中を見通せない。ほかには魚が水面で泳ぐ音が聞こえ、釣り人の男性も1人いた。肌寒かったが、波の音に全身を包まれるのは心地よく、皆が海を求める理由が少しわかったような気がした。

帰りは海辺の土に生えていたススキらしき枯れ草を何本か抜いて持ち帰った。自身の部屋に飾っているが、この部屋にはあまり合わないような気がする。数年前に訪れた仙台のコーナーハウスというカフェでススキが飾られていたのを真似したかったのだが、そのススキはもみが立派で一輪挿しももっと美麗だった。就職したらハードオフで一輪挿しを探したい。

音楽は、今回ご主人から2枚のCDをいただいたうちの1枚から。