差別 (original) (raw)

10月7日に放送されたNHKアナザーストーリー「金嬉老事件 “ライフル魔”と呼ばれた男」を録画して見た。

半世紀以上前、日本中を震撼させた「金嬉老事件」。在日韓国人2世の男が人質をとり、山深い温泉地の旅館に立てこもった。男の要求は「民族差別に対する謝罪」。ライフル銃とダイナマイトで武装する一方、人質や記者らとコタツを囲む奇妙な姿も…。不可解な事件は88時間後に解決するが、後の裁判は日本社会へ大きな問いを投げかけることとなる。逮捕から31年後、韓国へ移送された晩年の金嬉老に待ち受けていた数奇な運命とは?

事件が起きたのは1968年2月20日。借金返済を求める暴力団への返済を約束して清水の相生町にあったクラブ「みんくす」で暴力団員2人ライフルで撃ち殺して逃亡、何故か寸又峡の「ふじみや旅館」に人質を取って籠城。88時間後に記者に紛れていた警察官に確保された。無期懲役判決。静岡刑務所内では、やりたい放題の特別待遇になっていたということについては番組では触れられていない。1999年9月に、韓国に強制送還し二度と日本に入国しないことなどを条件に70歳で仮釈放。韓国へわたる。韓国では彼の映画が作られていたこともあり、有名人だった。1979年に獄中結婚していたことも、その女性と韓国で同居していたけれど、金を持ち逃げされたことも番組では出てこなかった。2000年に愛人となった女性の夫を放火して殺そうとした殺人未遂事件を起こした。2010年3月に前立腺がんで死去。

金嬉老は逮捕されて以降、機会あるごとに、日本における朝鮮出身者およびその在日子孫に対する差別を語ってきた。そうした差別は日本ではずっと昔から絶え間なく存在した。なにしろ豊臣秀吉朝鮮半島に攻め入って、強制的に技術者や職人を日本につれてきていた。そうして日本に多大なる文化をもたらした。朝鮮の王妃を暗殺までしている。

関東大地震のときには、デマを飛ばして朝鮮人を、市井の人々が虐殺した。その人達の慰霊の言葉すら、現在の都知事はこれを拒否している。あの大震災で犠牲になった人たち全体を慰霊しているから、特に虐殺された朝鮮人の人達に対する異例が必要とは思わないというのが、あの学歴詐称小池百合子の説明であり、それ以上この国のマスコミはそれを指摘しない。彼女の主張を認めているのだろうか。

あれもこれもと取り上げていくのは容易ではないくらい彼らへの差別は日常的にこの国には綿々と存在している。それは一体どうしてなのか。
人間というものは自分よりも弱い存在を作り出すことによって自分の心の安定を図るものなのか。それがこの国に安定をもたらしているんだろうか。
子供の頃、つまりそれはアジア・太平洋戦争以降だけれど、周囲の文化、常識の中では、朝鮮人の人たちのことは差別しても良い、という雰囲気の中にあったことは否めない。

私の周囲には現在在日朝鮮人の人はいないけれど、それでもいまでもそうした雰囲気は平気であるように思う。なぜそうなのか。今でもその理由はわからない。

社会人になって初めてのお客の接待で「みんくす」に行ったことがある。多分1971年の秋かもしれない。

追記

和僑 農民、やくざ、風俗嬢。中国の夕闇に住む日本人 (角川文庫)

翌日この本を隣の区の図書館から借り出してきた。ウィキペディア金嬉老の項目で引用されていたからだ。そもそもこの本のタイトル「和僑」とは華僑じゃなくて、中国に暮らす日本人のことを意味していて、様々な日本人を取材している。その第5章に「組を作ってくれとお願いされたんや」とやくざは語った--上海」という章がある。
2014年出版のこの本の中で、この「やくざ」は60代前半と書かれているから、今だったら70代前半だということになるのだろう。

「いわゆる団塊世代に属するはずだが、日本国内のこの世代の人たちに多く見られがちな傲慢な物言いや身勝手な態度は、彼の挙措からはまったく感じられなかった。」という部分にまず私は引っかかったわけ。当時30代そこそこの彼から見ると団塊の世代は傲慢で身勝手に写っていたということだ。ひょっとすると60代はいつの時代でもそう見えるのかもしれないけれど、彼が「団塊の世代」とわざわざ断ることになにかあるのかもしれないと思ったが、こんなところで引っかかっている場合じゃない。

このいわゆる「やくざ」によると「金嬉老はねぇ。ありゃあ、刑務所の中では天皇陛下やったで、天皇陛下。職員は何でもあの野郎の言うこと聞くんや。」三時になればケーキが出され、所内労務では木工所で出た切れっ端をただ燃やすという楽な作業で時間を費やしていたし、刑務所の房をふたつ使って、ラジカセを鳴らしておったというのだ。(p.200)

金嬉老はほんとはね、借金が返せなくなって金貸しのやくざを撃ち殺しただの悪党野郎よ。けど、それをただの殺人事件じゃなく、在日朝鮮人の人権問題にすり替えよったのが賢かった。あいつ、刑務所から朴正煕大統領に手紙まで書きよって、国際問題になったもん。人権団体やら在日朝鮮人の支援者もようけいたよ」(p.203)在日二世だった金嬉老はほぼ韓国語がわからなかったとテレビではいっていたが、この手紙は何語で書かれていたのだろうか。

「彼が極刑を免れたのは世論に配慮したためであると見られた」と著者は書いている。金嬉老の裁判進行中に未決囚として収監されていた静岡刑務所で、ラジオ、カメラ(なんで刑務所でカメラが必要だったのだろう?)、金魚鉢、出刃包丁などの獄中への持ち込みが黙認され、衆院法務医で取り上げられ、刑務所の職員一人が自殺するという事態にまで至ったと書かれている。

1970年5月6日の法務委員会で自民党の元法務大臣だった田中伊三次が質問している。前歴があった金嬉老に対してどのような対処を考えたのかと。金嬉老は1963年から65年にかけて小菅刑務所に収監されていた間に作業技官を通じて、手紙のやり取り、金の受取があったことが発覚して、この技官は懲戒免職されている。それで、この時収監にあたって詳細な検討をしたと、勝尾鐐三法務省矯正局長が答えている。
「いわゆるやみの差し入れが非常に大量であった」とも矯正局長は言及していて、驚くことに「金の希望するものを役所のほうで購入をして許可をしてやる」「つけものと、それから豚足につきまして購入をして差し入れという措置がとられ」「職員が購入に行きまして、それを金に差し入れ」たと。「機械いじりが好きなのでカメラ、訴訟準備のためにテープレコーダー購入許可してほしいというので許可された」そうだが、新聞によるとカメラも8台も持っていたという。どうやって入手したのか詳らかではないが、多分職員が不正に入手せしめたといわれている出刃包丁を使って「なにかあったら自殺してやる」と逆に職員を脅していたとまで書かれている。

他にも、まな板やすりこ木は木工所から調達、ヤスリまで持っていたという。国会で明らかにされた品物は「写真機三台、キャノンFT、望遠レンズ、ケースつきの三脚、ストロボ一個、フィルム五本、接写リング一、テープレコーダーソニー一台、テープ一その他付属品、トランジスタラジオソニー一台、ステレオアダプター一台、乾電池六個、香水あきびん、写真の納品袋、かけ軸、ガラス製金魚ばち、活字その他シャツ類、ふろしき、百貨店の紙製の袋、品数にいたしまして約百点」と驚くべき品数。もはや収監された殺人犯とは思えない。

翌々日の法務委員会では当時の刑務所の規律の緩みというか、なぁなぁなあり方が議題になっているのがうかがえる。国会では金嬉老の収監から様々な様子が興味深い。