甲子園でスカウト計測「158キロ」も…寺原隼人の“後悔”「松坂さんの記録を超えなければよかった」…あの夏から21年、“現役復帰”するまで【 】(田尻耕太郎) (original) (raw)

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甲子園でスカウト計測「158キロ」も…寺原隼人の“後悔”「松坂さんの記録を超えなければよかった」…あの夏から21年、“現役復帰”するまで<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

2001年夏の甲子園でベスト8に進出した日南学園時代・寺原隼人

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高校野球真っ盛りの夏。

今から21年前の8月16日。21世紀最初の夏に、甲子園で“158キロ”の剛速球を投げ、「21世紀の怪物」と日本中を沸かせた右腕がいた。

寺原隼人(宮崎/日南学園高校出身)である。

その後はドラフト会議で4球団競合1位指名の末にダイエー(現ソフトバンク)でプロ入りし、18年間で計4球団のユニフォームを着た。NPBでは通算73勝と23セーブ。最後に所属したのはヤクルトだった。2019年シーズンをもって引退。すぐに指導者人生を歩みだした。昨年までの2年間は沖縄県に設立された琉球ブルーオーシャンズで投手コーチ。そして今年よりプロ野球独立リーグ「ヤマエ久野 九州アジアリーグ」に参戦した新球団・福岡北九州フェニックスで投手コーチを務めている。

なぜ今、「現役復帰」したのか?

年月を重ねて2022年、あの頃17歳だった寺原は38歳になった。

もうプロへの未練は欠片も残っていなかった。それでも引退から約3年が経過した今、寺原は突如マウンドに戻ってきた。

コーチ兼任による「現役復帰」と「翌日には先発すること」が所属球団から発表が行われ、その予告どおり8月7日、北九州市民球場で行われた同リーグ公式戦の火の国サラマンダーズ戦に先発したのである。

寺原によれば、その経緯には2つの理由があった。1つはチーム内にコロナが蔓延して投手が不足したこと。独立リーグ球団は所属選手数が少なく、フェニックスの場合は30名(寺原ら5名の首脳陣兼任も含む)。NPBの支配下選手枠の半分にも満たない。「それで、このタイミングというのはありましたけど……」と寺原。そしてもう1つ、現役復帰を強くプッシュする人物がいたことが大きな理由だった。

「うちの“スキッパー”ですよ。西岡(剛)監督が春先くらいには『夏くらいに現役復帰しますか?』と話してきて。いつものノリだったし、僕も最初は『ウソでしょ』って返していたんですが、彼は『いや、本気ですから』と。それで何度かブルペンには入っていたんです」

フェニックスは、ホリエモンこと実業家の堀江貴文氏が創設した球団。そして選手兼任で監督を務める西岡剛は、自身はチームの舵取り役だからと周囲に「監督」ではなく「スキッパー」と呼ばせるなど、いわゆる過去の慣例にとらわれず新たなことにチャレンジする空気がグラウンド内外から伝わるチームだ。

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