芹沢あさひの「プロデューサー」について (original) (raw)

はじめに

本記事は今までの記事とは毛色が違い、感想でも読解でも解釈でもなく批評という立場をとる。その意味で明確に宣言しておきたいこととして、本記事は主にアイドルマスターシャイニーカラーズの芹沢あさひのコミュにおけるプロデューサーの批判を主な対象とするため、アイドルマスターを盲目的に信仰している多くのオタクにとって不快な記事になると思われる。したがって、今最初に宣言をしたため、この記事を読んだ後不快になったからどうとか言われても私の知ったことではない。自分から便所の落書きを見たのだ。自分の好きな人の悪口が書かれていようと自分で見たのが悪い。今更感があるが別に私はシャニマスのアンチをしているわけではない。出てきたものがよかったら当然ほめて、出てきたものが悪かったら批判するというただそれだけである。個人的には最近のキャラだと浅倉透とか樋口円香とかのコミュは本当にいいと思っているし、他にも本当に素晴らしいと思っているキャラが多数存在している。そのうえで芹沢あさひのコミュだけが明確にどうなのと思う点があったというただそれだけである。また、明確な批判や誤りの指摘は受け付ける。その場合は私の Twitter(@Hirasawa_Yui_3) にでも連絡をくれればよい。
そして、正確に言うならば、本記事は「芹沢あさひのプロデュースコミュにおけるプロデューサー」について論じる。したがってストレイライトの文脈、サポートの芹沢あさひ、イベントコミュなどは一切の言及はない。逆に言えばすべての既存のプロデュースカードのコミュ、wing、感謝祭、gradのコミュがその批評の対象となる。したがっていずれかのコミュを見ていない場合はネタバレを我慢するか、今すぐどうにかしてみてから見ればいいと思う。

本論

ひとつ質問をするが、君は「宴会の場で唐揚げが出て来たらレモンを掛けるだろうか」。宴会の場というのが外出自粛で想像するのが難しかったり、そういうコミュニティに馴染みのない場合は「どうしても食べたがらない野菜を生徒に食べさせるべきか」とか「運動の苦手な子供にそれが子供のためになるからと運動をさせるべきか」とか「自分の子供が勉強が嫌いでも勉強は必要だと思うなら無理矢理やらせるのが親の愛だと思うか」とか「自分はトランスジェンダーだと告白されたらそれを認めてあげることができるか」とか適当に似たような主張に置き換えてよい。質問を変えよう。「君は多様な価値観に対して、きちんと相手を認めることができるか」。私は Twitter というツールが日々新しい情報をインプットして気軽にアウトプットできるという意味で大変気に入っているのだが、Twitter をやっていれば似たような話題が多くの反響を得ているのを見たことがあるだろう。Twitter をやっていなくても現代の価値観というものに従来の価値観を教えるべきではない、教育に暴力はダメだし、どうしてもできない子はいるし、忘年会とかで後輩を無理に誘ったりしないしといった話題は今や多く目にする機会があるだろう。それにあなたはどう思っているだろうか。多くの人は「自分はそうしないと思う/しないようにしている」と答えるのではないだろうか。インターネットの発達によりそういった価値観の多様化が可視化されやすくなっているのが現状である。乱雑に枝分かれした趣味価値観を理解することができなくても「受け入れて認め合う」ことが現代においては必要で、そういう思想が差別を、社会に対する閉塞感を感じる人々を、減らすことができる、そう考えているのではないだろうか。
これは重要な視点である。

確かに一つの論点として、「芹沢あさひの性格のまま、価値観を歪めることなしに芹沢あさひの成長に持っていくのが難しい」というのがある。これはシナリオライターの側の話だ。当然芹沢あさひのやりたいことを尊重してやれば確かに価値観を押し付けることなく話を進めることはできるが、それでは芹沢あさひがやりたいことをやって終わりというコミュになってしまうからアイドルマスターとしてどうなのという論点だ。これはとてつもなく正しいと同時に一つ大きな勘違いをしている。この論点は論点たりえるが、それ以上でもそれ以下でもない。受け手、この場合はソシャゲプレイヤーにとっては「作品が全て」なのである。これはクリエイター軽視だなんだということではない。作品は、出てきたものが良ければ褒められ、悪ければ批判されるというただそれだけのことである。つまり、この人にわかりやすく説明するなら「現代の価値観として間違っているものを書いたから批判されても仕方がない」のである。それが批評というものであり、感想というものであり、作品だということだ。そもそも批判をわざわざする必要がないとか抜かす人間にはこの記事を読む資格はないし、その必要性もない。そんなことを抜かすくらいならどの作品だろうと別に何でもいいのだから適当にその辺の別のソシャゲとかに移動してわざわざ批判する必要ないしそこそこ楽しいよねとやっていればよい。正しい住み分けだ。私は「アイドルマスターシャイニーカラーズ」だからこそ、それに対する期待の逆説だったり、違うものは違うときちんと言わなくてはならないという宿命のもとに書いているのだ。
したがって受け手がこう思っているならそれはその論点は認められつつも作品として出された以上批判されても仕方がないということになるし、本当にシナリオライターがこう思っていてこの言い訳をするくらいなら今すぐシナリオライターをするのをやめるべきだ。書けないなら書けないのが悪いのだ。それが「作品」ということだ。

改めてもう一度問う。君は「宴会の場で唐揚げが出て来たらレモンを掛けるだろうか」。別に他の主張でもいいことは最初に述べた通りだ。大事なのは君がそういった価値観に対して、本当に認めることができるかどうかだ。「認めるように心がけているが、自分はできているかわからない」と答えれる人間は救いようがある。だが自信満々に、ちょっとネットでかじった程度の思慮深さで「認めるようにしている」などと答えるお前が、他人の本当の価値観の違いに気づいてやることができず、自分の価値観を押し付けて、それが相手のためになるとかそういうエゴイズムのもとに、無意識のまま他人を傷つけているのではないか。そういうお前が知らず知らずのうちに「芹沢あさひの空を狭めている」のではないのか。
当然、多様な価値観を認めようとする心がけはいいことだが、自分が本当に理解してやることができる限界があることを知らなければ、本当は理解できないのに理解した気になってしまうし、無意識のうちに君は差別主義者になりうるし、マイノリティを抑圧するし、そうやって君は社会の加害者になる。盲目的に芹沢あさひのコミュを支持するのは勝手だが、当然そのすべてが悪いというわけではないが何も考えることなしに芹沢あさひのコミュを認めることで自分は価値観の多様性を認めるなどというのとは全く矛盾した行動を取っていることをもっと自覚するべきである。