奄美大島&鹿児島旅行記 2024GW 4日目前篇 桜島が見える仙巌園を見物 (original) (raw)

みなさん、こんにちは。

今回は、フェリーで奄美大島から鹿児島まで移動しまして、仙巌園せんがんえんを見物します。

なお、4日目では前篇と後篇に分けてお送りします。

フェリーから見る薩摩半島

夜に奄美大島を出発し、深夜にトカラ列島、屋久島や種子島を越え・・・。

夜が明けると、フェリーは鹿児島湾に入ってきました。

鹿児島湾は、九州(本土)南端に存在する湾で、姶良カルデラおよび指宿カルデラによって形成された湾です。薩摩半島と大隅半島の2つの半島に囲まれた、地形的に珍しい内海ですが、水深は一番深いところで237メートルあります。

ところん:おはようございますビクティニさん、薩摩半島が見えてきましたよ!

ビクティニ:ところんおはよう。お、とうとう本土に来たのか・・・。見る限りあれが知林ヶ島だね。ということは、もうすぐ鹿児島港に到着だ・・・

鹿児島港に到着

予定通り8時30分、鹿児島港に到着です。

港の向こうには、桜島が見えます。

ビクティニ:さて、鹿児島県本土にやってきたよ。これから、仙巌園で少し観光してから指宿へ向かいます。ちなみに、指宿へは『例の観光列車』に乗車して向かいます。

ところん:『指宿のたまて箱』ですよね?楽しみです!

作者:とりあえず、仙巌園まではタクシーで移動しましょう

鹿児島港から見える桜島

鹿児島港のフェリーターミナルから出口に出ると、目の前に桜島がそびえ立ちます。

この日の天候は曇っていて頂上は見えませんが、今でも山頂から煙を吹きまくっています。そして、桜島の周りを取り囲む雲は、おそらく火山からの煙でしょう・・・。桜島は言わずもがな鹿児島県を代表する火山の1つで、シンボルにもなっています。また、桜島は活火山で今でも火山活動が続けられており、時期によっては噴火する場合があります。そのため、鹿児島市にも火山灰が降ってくる可能性があるのだとか。

とまあ、フェリーターミナルから仙巌園までタクシーで移動します。ちなみにフェリーターミナルから仙巌園までの運賃は2,200円です。

仙巌園 鶴嶺神社

仙巌園の入り口までやってくると、立派な神社がお出迎えです。

ここは『鶴嶺神社つるがねじんじゃ』という神社です。

この神社には、島津家の分家こと玉里島津家の歴代当主とその家族らが祀られています。

鶴嶺神社の御祭神の一人には亀寿姫かめじゅひめがおり、豊臣秀吉に捕らわれていた際に、秀吉も驚くほど美貌であったとされ、心優しく賢明であったことから、この神社でお参りをすると心身ともにきれいになるという説があるそうです。

ビクティニ:仙巌園まで来たら立派な神社があるよ。ここでお参りしていこう。・・・ウクライナの戦争が終わり世界中が平和になりますように・・・

ところん:埼玉が治安のいい県になりますように・・・

集成館機械工場

仙巌園のすぐ近くには、『集成館』という施設がありました。

海に囲まれ大陸との交流もあった薩摩には、鎖国の時代にも海外の情報がいち早く届いていたのです。

幕末の薩摩藩は欧米列強のアジア進出や植民地政策に危機感をつのらせて藩主島津斉彬しまづなりあきらが中心となり、積極的に西洋技術を導入して軍備ならびに産業の近代化に取り組みました。それがいわゆる『集成館事業』です。

現在の仙巌園のある『磯地区』には、かつて集成館事業の中核を担ってきた工場群が存在しました。当初こそ水車動力や在来の技術を活かし、洋書を参考に試行錯誤を繰り返します。艦船の建造や蒸気機関の製造、反射炉による鉄製大砲の鋳造に挑戦しました。文久3(1863)年の薩英戦争さつえいせんそうを経てさらに西洋の蒸気機関や機械類を導入。明治維新後もその技術が各地に伝えられ、集成館は我が国における産業革命の先駆けとなったのです。

これは、日本近代化の先駆けともいわれる『集成館事業』を加速させた建造物の1つ『集成館機械工場』です。

薩英戦争後の復興の際、元治2(1865)年に建てられた機械工場です。当時、鎖国反対派を押し切り、オランダやイギリスから輸入した機械や道具を使用して蒸気機関を用い、金属加工や船舶装備品など様々な部品をこの工場から生産されました。この機械工場自体も明治維新ならではの建築技術の粋がつまっており、長さ78.2メートル、高さ5メートル、奥行き幅13.6メートル、壁の厚さ60cm、窓の数51ヶ所、そして屋根には小屋組みのトラス設計を用いたものが使われました。これは、他に類を見ない洋式工場建築物で、群馬県富岡市の富岡製糸場も、この建築技術が活かされたのではないかと思われます。

反射炉跡

反射炉図

仙巌園のエントランスから入ると、大きな遺構を見つけました。

これも集成館事業の遺構の1つ『反射炉跡』です。

反射炉自体は見る影もありませんが、基礎部分である石垣だけは残っています。かつてここには耐火レンガを使用した西洋式の反射炉が築かれました。

嘉永4(1851)年、薩摩藩主となった島津斉彬は、日本が西欧列強から植民地化されるのではないかと危惧していた時代で、それを防ぐべく西欧の科学技術を導入し『集成館事業』近代化事業を推進します。その中核となった日本初の洋式工場群『集成館』を建築します。

薩摩藩は、欧米列強の艦船から国を守るため、大型のカノン砲を並べた砲台要塞が必要であると考え、オランダ人ヒュゲニンの図面を頼りに自力で反射炉建設に着手します。それこそ、集成館で最初に築かれたのがその『反射炉』です。

反射炉は、ドーム型の炉の天井で炎を反射させた強い熱で鉄を溶かし、大砲の鋳型に流し込むための施設です。在来の石工技術で切石を組み、薩摩焼の技術で耐火煉瓦を焼き、炉の材料としました。1号炉は耐火レンガが崩れるなどして失敗に終わるものの、完成した2号炉で大砲を製造することに成功します。さらに、反射炉の周囲には溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備されていました。

3枚目の写真は、反射炉建造の手本となったヒュゲニンの反射炉図です。

反射炉跡の中央部には『焚所たきじょ風入口(灰穴)』があり、上部焚所への自然送風口であると同時に焚所で燃えた燃料の灰を落とすためのものです。その上部には火床(ロストル)があり、火床の上に燃料を置いていました。

近代薩摩焼発祥の地

石垣の上には薩摩焼の窯などが立ち並び、金爛手きんらんしゅとよばれる華麗な絵付けを施した陶器のほか、反射炉に使われた耐火レンガも造られていたそうです。斉彬時代に生み出された金爛手は、19世紀末から20世紀初期にかけて海外では高い評価を受けていたのだとか。

仙巌園の木造建造物群

仙巌園の売店やカフェには昔ながらの木造建築が用いられていて、とても味があります。
まるで、明治時代にタイムスリップしたかのようです。

ビクティニ:いい雰囲気のお店にカフェが立ち並んでいるよ。ここでゆっくり喫茶とか楽しみたいね

ところん:そうですね。見た目もおしゃれですし。でも我々が乗るべき列車に乗るので、少なくとも11時半までに鹿児島中央駅へ行けるようにしないと・・・

正門

仙巌園の『正門』です。

これは、明治になり道路の開通に合わせて29代目忠義が建てさせたものです。材木には裏山のクスノキを使用し、上部には『丸十紋』と『桐紋』が彫られています。

名勝 仙巌園

仙巌園十六景図(1787年頃)

仙巌園は万治元(1658)年、19代目島津光久しまづみつひさによって造られた島津家の別邸です。

“仙巌園”という名前が付けられたのは、中国江西省の景勝地“竜虎山仙巌”の名前にあやかったのが由来となっています。歴代当主に愛されたこの庭園は、桜島を築山に、錦江湾きんこうわん(鹿児島湾)を池に見立てた『借景庭園』です。昭和33(1958)年には『仙巌園 附 花倉御狩屋庭園』として国の名勝に指定されています。

ビクティニ:そして、ここが鹿児島の名所の1つ『仙巌園』だ

ところん:美しい庭園ですね

ヤドキング:見事な和風庭園じゃのう

サンドパン:とてもきれいなお庭だな

ビクティニjr:すてきなお庭!

仙巌園の脇を通過する列車

仙巌園と錦江湾の間にはJR日豊本線の線路が通っています。

ちょうど特急列車が庭園を横目に通過していきました。写真を見る限り特急『にちりん』で使われている787系ですね。

仙巌園の庭園

仙巌園の庭園はとても清楚な風景です。

薩摩の歴史と自然の風景が調和した庭園といった感じですね。

仙巌園は“美と静寂の庭”ともいわれ、錦江湾と桜島の風景から薩摩半島の開聞岳までの風光明媚な風景を残し、薩摩の自然を表現した仙巌園こそ、鹿児島屈指の景勝地です。江戸時代の面影を色濃く残した伝統的な日本庭園は、京都に劣らぬ美しさです。四季によって様々な表情を見せ、心が洗われます。訪問当日はそこそこ暑かったので、池や小川のそばにいるだけで涼しく感じました。

ビクティニ:5月なのに暑いな~。でもここの庭は涼しい・・・

ヤドキング:涼しいのう・・・

サンドパン:気持ちいいぜ

ビクティニjr:池の向こうに大きな火山が見えるよ

ところん:あれは『桜島』ですね

獅子乗大石灯籠

とりわけ一際目立つ大きな灯籠もまたいい味を出しています。

これは『獅子乗大石灯籠』という庭園の中では一番大きな灯籠で、29代目島津忠義が明治17(1884)年に造ったものです。灯籠の上には鯱のようなものが乗っかっています。それは江戸時代の別邸『花倉御仮屋』にあった飛獅子の像(?)で、「獅子は空から飛び降りてきて、着地後に桜島の方を振り返った姿」を意識して造られたものと思われます。そして、笠石の大きさはなんと8畳分もあるそうです。

仙巌園の撮影スポットから見た錦江湾と桜島

仙巌園の奥にある広場からは錦江湾と桜島が見えます。

雲に包まれた桜島もまたいい風景です。

ビクティニ:海の向こうに桜島が見えるよ!今でも煙を吹いているのかな?

ところん:ここから見ても大きいですね!

ヤドキング:雲に包まれた桜島も見事じゃな

サンドパン:海の見える庭園ってなかなかないぞ!

ビクティニjr:あれが桜島なんだ。けっこう大きいね

桜島と錦江湾をバックに通過する列車

桜島と錦江湾の景色を背景に日豊本線の列車が駆け抜けていきます。

これは日豊本線の普通列車で、キハ40系という車両です。ちなみに、仙巌園の近くに『仙巌園駅』という新駅が設置されることが決まり2025年度から運用されるそうです。

島津家水天渕発電所記念碑

ここは明治40(1907)年、金山採掘のために建てられた水天渕発電所の一部だった場所です。写真左側の石碑は施設が昭和58(1983)年に九州電力へ譲渡された後、取り壊される前に壁の一部を九州電力から『記念碑』として譲り受けたものです。石碑のマークは『薩摩藩島津家』の紋章と思われます。

仙巌園の鯉のぼり

訪問時には、GWの時期ということもあり仙巌園の広場には鯉のぼりが掲げられていました。

ビクティニ:鯉のぼりだ!

ところん:すてきな鯉のぼりですね

水力発電用ダム跡

ここでは、明治時代に仙巌園内の電気は集成館から送電されていましたが、明治25(1892)年、ここにダムを築き水力発電を行い、就成所や園内の照明に利用されていました。これは日本における草創期の水力発電用施設に使われたダムの跡です。

曲水の庭

ここは『曲水の庭』という場所で、その名の通り『曲水の宴』を催すために設けられた庭園です。

曲水の宴は、上巳の節句の日、上流から流された杯が自分の元にたどりつくまでに和歌・漢詩を詠み上げるものです。仙巌園の曲水の庭は21代目島津吉貴しまつよしたかの時代に造られたといわれています。昭和34(1959)年に発掘された江戸時代の姿をとどめる、日本唯一にして最大の曲水の庭です。今でも毎年4月にはその曲水の宴が行われます。

猫神社の絵馬

仙巌園には、猫の神様を司るというちょっと変わった神社があります。

ここは猫神社という、文字通り猫を祀った神社です。

戦国時代に17代目島津義弘しまつよしあき が、朝鮮出兵の際に7匹の猫を連れて行き、猫の目の瞳孔の開き方を見て時間を推測していたという逸話があります。朝鮮から無事に生還した2匹の猫が祭られているそうです。

近くの土産屋で絵馬が購入できますが、願い事は人間ではなく猫に限定した願い事なら叶えられます。なお、今回は福島県にある芦ノ牧温泉駅の猫駅長“さくら”ちゃんが駅長として頑張れることを願い事としてお参りしました。

仙巌園 御殿

仙巌園の中央にある立派なお屋敷があります。

ここは『御殿』という場所で、仙巌園が19代光久が別邸として万治元年に造られたのと同時に築かれました。その後、数百年の歴史の中で、建て直しや増改築などがなされ、歴代の藩主に受け継がれてきたのです。

29代忠義が鹿児島に住んでいた12年間は、『本邸』として使用され、国内外の要人を招くための『迎賓館』としての役割も果たしました。公爵の爵位を得た忠義は、仙巌園を本邸と定め、『御座の間』などの改築。さらに30代島津忠重しまつただしげ が跡を継ぎ、住まいを東京に移したことで、明治17(1884)年に改築された部屋を中心に、当時の3分の1に縮小されましたが、鹿児島に戻ってきた時の宅邸として残されています。

そして、ここの仙巌園自体も『迎賓館』としても使われ、幕末には篤姫や幕臣の勝海舟、明治維新後もロシア皇帝ニコライ2世、英国国王エドワード8世が皇太子時代に訪れています。

ところん:立派なお屋敷ですね!

ビクティニ:これは『御殿』といって、かつては外国からのお客さんも招待されたんだって。もっとも、今では外国人観光客には大ウケだけど・・・

島津家29代忠義以降 略系図

これが島津家29代忠義以降の略系図を示したものです。

これだけ多くの子孫がいますね。中には皇后さまになられた方も・・・。

鳳印の間(忠重の部屋)

ここは島津家30代忠重が、誕生した明治19(1886)年から同31(1898)年に東京に移り住むまでの12年間を過ごした部屋です。忠重は明治30(1897)年に父の忠義の死にともない家督を継ぎ、公爵となりました。その後、海軍に進み、海軍大学校教官、英国大使館付武官を勤めました。現在、この部屋自体は玄関となっているものの、大正時代には改築されています。

薩摩焼蓋付き壺

島津家29代忠義が、ロシア帝国最後の皇帝であるニコライ2世の戴冠式の時に贈った薩摩焼の複製です。四季折々の草木で彩られたそれぞれの花瓶の正面には、ロシア皇帝の王冠と、『H』の文字が描かれています。これはニコライのキリル文字からとったものです。

御殿の中庭

御殿の内部は回廊式の廊下で構成され、中央には中庭が設けられています。

池の真ん中には八角形のくぼみがあります。これは、中国の文化から伝わった影響であるものと考えられます。

ビクティニ:お屋敷の中庭もいい雰囲気だね

ところん:池がいい感じですよ

ヤドキング:見事なもんじゃのう

サンドパン:涼しいぜ~

ビクティニjr:水の音が涼しい

薩摩から蝦夷地の開拓へ・・・

実は、鹿児島と北海道は深い交流関係にあったといいます。

江戸時代のこと、日本が『鎖国大国』だった中、当時の薩摩藩は琉球王国(現在の沖縄県)を通じ中国などどの交易を行っていたのです。

薩摩から交易で海外へ輸出していたものが『俵物』といわれる蝦夷地(現在の北海道)からの産物です。そして、北の大地で手に入れられる煎海鼠いりなまこ(ナマコの煮干し)・干し鮑・フカヒレ・昆布などはいずれも中国料理の食材として重宝されたことから、それらを北前船を経て入手し、琉球から手に入る海外の産物を国内市場に出していました。1830年代には、毎年薩摩の舟が6隻ほど蝦夷地の品物を入手するために新潟へやってきたそうです。

このようにして、当時の薩摩藩はそれらの交易品などを用いて藩の財政を立て直していたのです。

幕末になると、西洋諸国が東アジアに迫る中、ロシア帝国も我が国や蝦夷地にやってくるようになります。

島津家28代斉彬は、“日本の南西部は、薩摩藩が守備を担うのに対し日本の北東部にあたる蝦夷地では手薄である”という認識をしていたことから、蝦夷地において開拓構想を持ちかけます。

大政奉還の後、新政府は蝦夷地統制のため『箱館府』を設置。府知事は公家こと清水谷公考しみずだにさんなるが務め、それを支える府判事は松浦武四郎まつうらたけしろうと井上長秋いのうえながあきが務めました。井上は、明治元(1868)年に『蝦夷地開拓建言書』を提出し、大地の開拓の際には機械導入ならびに人員作業の削減という近代的な開発を案として訴えます。しかしながら、同年9月には、井上は樺太や択捉方面の巡視の帰路の時に遭難し行方不明になりましたが、同僚の松浦によって、その北の大地が『北海道』と命名されその名前が現在に至っています。

明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、明治政府によって北海道における開発を推進していきます。開拓ならびに行政を担う『開拓使』がおかれ、初代長官には佐賀藩主こと鍋島閑叟なべしまかんそう(直正)が就任。閑叟は斉彬のいとこであり、共に幕末から蝦夷地開拓を唱えていました。のちの3代には黒田清隆くろだきよたか(のちの2代総理大臣)、4代には西郷従道さいごうじゅうどう(隆盛の弟)が就任し、薩摩の関係者が開拓使長官として蝦夷地開拓をすすめていきました。

明治6(1873)年、開拓使は札幌に工業局器械所を創設、蒸気器械所、水車器械所、鍛冶場などの工場群を建てます。さらに物産局管轄のビール醸造所(現在のサッポロビール)・紡織所・製網所などの工場も建てられ、40近くものの施設が完成しました。味噌・醤油醸造・木工所など、道内に需給されるものをはじめ、ビールやワイン・生糸など国内・輸出向けの製品にまで力を入れていたのです。なお、それらの工場群は『集成館』がモデルになったという説があるそうです。

明治時代の北海道において多くの薩摩出身者が活躍していました。

調所広丈ちょうしょひろたけ(幕末の家老・広郷の子)北海道大学の源流・札幌農学校の初代校長に就任。初代教頭にはウィリアム・スミス・クラークを開拓使長官だった黒田清隆が招聘しました。

明治15(1882)年、開拓使は廃止され、函館・札幌・根室の3県が行政区域として誕生。函館県令は時任為基、札幌県令は調所広丈、根室県令は湯地貞本ゆじさだもとといずれも薩摩出身者が中核を担います。更に、明治19(1886)年にはそmの3県も廃止され、『北海道』として1つの行政区域になります。その際、岩村通俊いわむらとしみち(元鹿児島県令)、2代長官は永山武四郎ながやまたけしろう(旧薩摩富士)、3代長官は渡辺千秋わたなべちあき(初代鹿児島県知事)と鹿児島関係者が抜擢されます。

前田正名まえだまさなも北海道の自然や文化の保護につとめた人物の一人です。

彼も薩摩生まれで、16歳の時に長崎へ留学し、兄たちとともに『和訳英辞典』を発行した後、明治2(1869)年にフランスへ留学、農業および産業政策を学び、帰国後は明治政府の外交ならびに殖産興業に力を入れました。そして、明治23(1890)年に政府から退き、全国各地の地方産業の育成に携わったのです。また、釧路に前田製紙合資会社や釧路銀行を設立。さらに木材確保のため道内視察の際、阿寒湖を見て“この景色はスイスにも劣らないものである”と語ったことから、明治39(1906)年、自然保護のために国から払い下げられた阿寒湖一帯は正名の死後、阿寒国立公園に指定されました。

明治35(1902)年には、島津家30代忠義はイギリス人家庭教師エセル・ハワードとともに北海道を旅行しました。その際、函館の五稜郭や札幌のビール醸造所、小樽や室蘭を視察しています。また、札幌近郊のアイヌ集落(コタン)にも訪問します。

ハワードの記録によると、アイヌの外見や服装、暮らしぶりが詳しく記され、アイヌの人々は物静かかつていねいで、特に女性たちの笑顔は人を引き付けるほどの魅力があったそうです。さらに、忠重のために『イオマンテ(態祭)』と呼ばれる、飼い態を神の国に送るための儀礼も執り行われました。

明治維新後の島津家は、北海道において大規模な牧場を構えていました。

明治31(1898)年に、北海道炭礦汽船ほっかいどうたんこうきせん株式会社の副社長こと園田実徳そのださねのりが島津家の土地購入交渉嘱託員として農場開拓購入交渉。翌年には富良野原野(上富良野町)・馬追うまおい原野(由仁町)の農場開発が始まります。富良野農場は、旭川第七師団に納入する牧草地として利用され、アメリカから農機具を輸入していました。

しかしながら、昭和3(1928)年、十勝岳爆発によって土石流が流入、莫大な被害が生じました。今度は水田の再生復興をようやく終え、8年後の昭和11(1936)年、富良野原野は、忠重一家の視察後に小作人へ払い下げられます。その翌年には記念碑が建立され、表面上部には島津家28代斉彬が語ったという『農為国本のういこくほん(農は国の本なり)』が刻まれています。

このような背景から、薩摩(鹿児島)と蝦夷(北海道)は古くから深い交流で結ばれているという関係で今でも成り立っているといえるでしょう。

謁見の間

ここは、来客者を応接に使用された『謁見の間えっけんのま』という部屋です。

二間続きで、廊下も畳敷きであることから、一度にたくさんの人と会うことができたそうです。

謁見の間から他の部屋への境には杉戸が備えられ、天井の照明器具は、明治期からこの御殿で使われていたものです。当時は水力発電で電気供給しており、照明器具の傘には島津家の家紋『丸十紋』が施され、平易でありながら美しい仕様になっています。

ちなみに、この屋敷のどこかに『釘隠』という、釘を隠すための飾りが11種類あるそうですが、滞在時間が限られているせいか、なかなか見つけられませんorz

御居間

ここは忠義が一日の大半を過ごしたという部屋で、書類の決裁を行ったり食事をしたりした場所です。

この部屋からは桜島をはじめ、亀石、鶴灯籠、梅の花、ヤクタネゴヨウの松が見えます。また、裏山にはモウソウチクの竹林、江南竹林もあることから、仙巌園は中国の理想郷『蓬莱山』の象徴である松・竹・鶴・亀のすべてが揃った、風水的にも良い場所とされています。

御寝所(寝室)

ここは忠義の寝室です。この部屋の床下には、もみ殻が敷き詰まれた層が設けられており、それが『断熱材』の効果を果たしたそうです。

御湯殿(お風呂)

これは、当主専用の浴室でいわゆる『お風呂』だった場所です。当時は、別の場所でお湯を沸かして、ここへ運んでいたそうです。この浴槽はあくまで再現したもので、水道管も後から設置されました。

御不浄(便所と洗面所?)

ここは忠義専用の便所だった場所です。

小用の便器を設置し、芳香剤の代わりとして杉の葉を束にしたものを中に入れていたそうです。ここには木製の便器があり、写真の柄杓と桶(?)のある場所は洗面台として使われたものと思われます。

御小座(披露の間)

この部屋は、島津家への贈り物が届いた際、その御披露目が行われていた場所です。円型のテーブルと椅子は、昭和天皇・香淳(こうじゅん)皇后が行幸啓された際に使用されたものです。

御殿の廻り廊下から見る桜島

御殿の廻り廊下から見た庭園と桜島です。

この角度から庭園や桜島を見ると、当時の島津家はこの景色を見て吟味されたのでしょう・・・。

ビクティニ:ここから桜島を見るのもまた乙なものだ。こんな家に住めたら最高に違いない・・・

ヤドキング:さよう、この屋敷に住んどった島津家もこの景色を見て感動しとったじゃろうな

ところん:まさに熱帯に和風庭園ですね。でも、桜島からの火山灰がちょっと心配かもしれませんね・・・

サンドパン:うらやましいな。おれもこんな家に住んでみたい

ビクティニjr:田舎のおばあちゃんの家みたい・・・。なんかおばあちゃんが恋しい・・・

ブランドショップで売られている薩摩焼

仙巌園のブランドショップでは、薩摩焼が売られています。

店内では自由に見学や撮影はOKとのことだったので物色してみます。

見てみると、どこか高級感を思わせる品が多いです。薩摩焼のほか、『薩摩切子』という切込みガラスのブランドもあります。中にはマグカップといった気軽なものもありますが、やはり高級なものだと1万円や2万円はします。普通に高いので買える気が・・・。もっと高いものだと10万円を超えるようなものもありました。でも、外国人観光客たちは、物色しては躊躇いもなくブランド品を購入しているようにも感じます。やはり最近は円安が進んでいる影響もあって外人さんが多かったですね・・・。

自分はとりあえず、隣接の『体験コーナー』にて弓矢体験をやることにしました。一回500円だったので、短時間で体験できるようなプログラムで楽しみます。しかし、その弓矢体験では、通常の的の他に大きく熊を的にしたものが用意されていました。なんでも、『ゴールデンカムイ』とのコラボだそうで、その作品に出てくる熊のイラスト(?)を的にしているのだとか。ちょっとユニークなコラボ企画でしたが、おもしろかったです。

仙巌園のカフェでお抹茶をいただく

さて、一通り仙巌園を回ったところで、喫茶タイム。

『島津のれん』では食事のほかカフェも楽しめます。カフェの内装も薩摩焼や生け花が並んでたりでとてもおしゃれでゆっくりしたいのはやまやまですが、これから『指宿のたまて箱』という観光列車に乗車しなければならないので・・・。

とりあえず、お抹茶をメニューで注文し、その抹茶を立てる体験をします。

立て方としては至ってシンプルで、お椀に入った抹茶にお湯をかけ、それを『茶せん』をつかって泡立てるまで混ぜます。するとお抹茶の出来上がり。

ビクティニ:和菓子と抹茶いただきます・・・おいしい!

ところん:おいしいですね!・・・でももう11時なのでもう鹿児島中央駅に行かないと・・・

ということで、この後は『指宿のたまて箱』という観光列車に乗車します。

ここから鹿児島中央駅までは路線バスでもいけますが、各観光地を回るため駅までは40分ぐらいかかるそうなので、やむなしでタクシーで送ってもらうことに・・・。ちなみに運賃は2,200円。でも、来年には仙巌園付近に新駅ができるので、鹿児島中央駅へのアクセスは今後スムーズになるでしょう・・・。

ということで、4日目後篇へ続きます・・・。

『桜島が見える仙巌園を見物』 おわり

To Be Continued

指宿へ・・・