掘っくり返し屋のノートー埋もれた競技記録―『最初の国産チャンピオン』 (original) (raw)

1919年度の日本アマチュア選手権(以下日本Am)は横浜根岸競馬場内の日本レース倶楽 部GA(NRCGA)で行われた。
前置きをせねば成らないのは競技内容についてリアルタイム記事にすら書かれておらず、 大会前に英字新聞で書かれた記述や参加者の大谷光明が後年記した回想等を基に構築してこ の項を書いている事をご容赦頂きたい。

前年駒澤の東京GCで行われた日本Amは、外国人選手の参加が通常の半分以下で在ったと はいえ、アメリカ仕込みの井上信による日本人最初の優勝だけではなく上位6位タイまで日 本人が順位を占め、本邦ゴルフ界の転機と成った。
日本人の初挑戦である横浜のNRCGAでの1916年大会は(東京GC会員一色虎児の参加)豪 雨だけでなく外国人選手の難癖に苦しめられたと云われ(ここで川崎肇などは練習次第で勝 てると確信をした)
神戸GCで行われた1917年大会は、大谷光明が参加しているが、六甲特有の濃霧に苦しめ られて棄権の憂目に遭った。そう云った経緯からの日本人の勝利であったので、井上と駒澤 雀達の奮戦はゴルフ界に一大センセーションを齎し、彼ら自身にとっても“外国人プレーヤ ーに伍して闘う事が出来る”と自信を付ける事になった。

この根岸での大会は、前年の様にローカルナレッジという大きなアドバンテージの在る (実際外国人プレーヤーはコースの特色である松林と木立に苦しめられた)ホームコースで はなく敵地での戦いと成り、此処で勝利を収める事が出来れば神戸横浜の外国人ゴルファー 達と同じ条件下でのチャンピオンとして、前年度大会での日本人の活躍はフロックではない 事を示す事の出来る重要なモノであった。
尤も、“敵地”と云っても根岸はNRCGAとの掛け持ち会員という特に熱心な駒澤雀達がチ ョコチョコ出かけているコースではあり、その意味でも優勝のチャンスは十分にあった。

その会員でもある大谷光明と川崎肇は攻略の為コースを研究し、大会の開催が近くなって からは(1カ月前からという記述を読んだことがあるが原文の再確認が出来ないので取り敢 えず伝聞とする)葉山に在る川崎の別荘に泊まって毎日のようにコースに通って居た。

西本願寺出身で同寺に関する事業をしている大谷は兎も角、保険会社や銀行の重役であ る川崎は出勤前にプレーをしていたのであろうか。と筆者は気に成っている。

『Golf Dom』1923年3月号に大谷が“ある東京の住人”のペンネームで寄稿したとみられる コラムにおける回想によると、この時の川崎の調子は非常に良く、根岸の9ホールを32~34 で廻って居た(1936年に『Golf(目黒書店)』に連載した日本Am史の回想では36~37と 記)というから、パーを少しオーバーするスコアで、コースレコードのレベルのあった様 だ。(筆者が確認出来た一番新しいコースレコードは1912年の“7月メダル”におけるアルフ レッド・ラッゲの70)
川崎は非常にストイックなゴルファーで在ったのと、前年大会で最後の2ホールでプレッ シャーに潰されて苦杯を舐めた事から今年こそ勝利を掴もうと、後年大谷が“斯道に対する 精進振りは物凄く”と表現するほど打ち込んだのだろう。

そして大会の開催日は近付いた.

参加者は26人で『The Japan Advertiser 』1919年10月14日付6面の『Amateur Championship of Japan to Be Decided on Negishi Links-』に掲載されている組合わせは以下の通り ※日本人選手のフルネームと選手各位の所属倶楽部は筆者の調査による加筆

8:45 E・クーツ(Coutts、NRCGA )& F. W・マッキー(Mackie、神戸GC)
8:50 G. N.メージャー(Mauger、東京GC) & W・ギャラウェイ(Galloway、神戸GC)
8.55 A.・ロバートソン(Robertson、NRCGA) & E. C・ジェフェリー( Jeffery、NRCGA) 9.00 田口一太(東京GC)& G. H・ベル(Bell、NRCGA)
9.05 F. E・コルチェスター(Colchester、NRCGA) & J. P・ウォーレン(Warren、神戸GC) 9.10 T. D・ライト(Wright、神戸GC )& A. E・ピアソン(Pearson、NRCGA)
9:15 G. A・ローパー(Roper、神戸GC) & 川崎肇(東京GC)
9.20 H. E・ドーント(Daunt、神戸GC) & H. C・マックノートン(Macnaughten、神戸GC) 9.25 E. A. サマーズ(Summers、神戸GC )& R. N・ポスツルワイト(Postlethwaite、 NRCGA)
9.30 C・バイロン(Biron、神戸GC)&浅野良三(東京GC)
9.35 福井藤吉(東京GC)& G. G・ブレディ(Brady、NRCGA)若しくは A. N. Other, 9.40大谷光明(東京GC)& 田中善三郎(東京GC)
9.45 A. P. W・ブレンコゥ(Blencowe、NRCGA) & 高木喜寛(東京GC)

ご覧の通り参加者26人の内訳は、ホームクラブのNRCGA会員が9人、神戸GCの面々9人は 大会の翌日に行われるNRCGAとのインターポートマッチ及び翌々日の東京GCとのインター シティマッチの代表(各マッチ8名)。そして前年勝者の井上は不参だが東京GCからは合宿 をしていた大谷・川崎の他に田口一太、浅野良三、福井藤吉、田中善三郎、高木喜寛ら日本 人ゴルファーと、後のJGA創立会議時に東京GC代表者の一人として名が残っているG.H・メ ージャー(Mauger, 当時はモーガーとも読まれた)の8名が参加している。
一方、南郷三郎、羽山銓吉、久保正助、伊地知虎彦(彼は東京GCとの掛け持ちだが)と いった関西の鳴尾GAや神戸GCの日本人会員達は、倶楽部ハンディが参加資格の10以下に成 って居るはずだが、まだ自信が無かったのか交通の関係でか不参で、彼等の大会参加は翌年 以降となる。

なお、記事には午後のラウンドは1時からスタートで、参加者への昼食は競馬場のグラン ドスタンドで振舞われる。と報じられている。(クラブハウスは競馬トラック内に在る小さ な物で、飲食所はバーカウンター位しかなかった為に通常は弁当持参か5番ホール脇のシェ イクスピアホテルで食事をとっていて、大競技の時にグランドスタンドの休憩所で特別な食 事が振舞われた)

上記の様に大会前に組み合わせ表を報じている『The Japan Advertiser』だが、大会結果を 報じる10月21日の記事は非常に小さな囲み記事であった。
会場のある横浜で発行されていた『The Japan Gazette』でも大会二日後の10月20日に上位4 名の速報、21日はインターポートマッチ及びインターシティマッチの結果、23日に棄権者以 外の15名の全スコアを挙げているのみ。神戸の英字新聞である週刊版『Japan Chronicle』は スコアのみと非常に素っ気ない報道をしているのだ。

その『The Japan Advertiser』の記事によると試合当日の金曜日の天気は素晴らしく東京GC の川崎肇が156で優勝、二位に同じ倶楽部所属の大谷光明が159で続き、A.E・ピアソンの162 と、G.H・ベルの163というスコアは横浜のプレーヤー達が彼等の事を為すことが出来なか ったのを示している。と
なお『The Japan Gazette』10月23日号(5面)に掲載の順位は以下の通り ※順位の数字およびフルネームと所属倶楽部は筆者の調査による補足

1:川崎肇(東京GC) 36・40・40・40=156

2:大谷光明(東京GC) 44・38・39・38=159

3:A. E・ピアソン(NRCGA) 41・41・44・36=162

4:G. H・ベル(NRCGA) 43・41・41・38=163

5:F. E・コルチェスター(NRCGA) 45・42・42・35=164

6:G. A・ローパー(神戸GC) 40・42・40・44=166

7:R. N・ポスツルワイト(NRCGA) 170

8:F. W・マッキー(神戸GC) 171

9:W・ギャラウェイ(神戸GC) 173

9:E. C・ジェフェリー(NRCGA) 173

11:M・フィッツジェラルド(NRCGA) 174

12:H. E・ドーント(神戸GC) 177

13:田口一太(東京GC) 185

14:E. A. サマーズ(神戸GC ) 186

14:E・クーツ(NRCGA ) 186

上位陣の9ホール毎のスコアを見ると、出だしは良かったけれどもスコアが伸びなかった 川崎に、出だしが悪かったけれど安定したスコアで回った大谷が追い詰め肉薄し、ピアソ ン、ベル、コルチェスター等NRCGAの3人はスコアが伸ばせない中最後の9Hで好スコアを 出した。という形に成って居る。
最下位の14位Tで186(18H平均93)というスコアである事は、選手の力量だけでなくコー スのコンディションに何か問題が在ったのであろうか。

また11位に、前日の組み合わせ表に記載されていないNRCGAのフィッツジェラルド(M. Fitzgerald)というプレヤーが記載されているが、彼についてはブレディの替りに出場した A.N. Other=An otherというコトなのだろう。

(なお、ブレディは翌日のインターポートマッチに参加)

川崎のスコアについて、大会から3年5か月後に(この書き物の冒頭で挙げた)『Golf Dom』1923年3月号掲載のコラム上で、著者の“ある東京の住人”氏(大谷)は大競技に於て 平時の技量の様にコトが運んでくれない例としてこの試合について触れているのだが(以下 序盤での内容と重複する箇所があるがご容赦頂きたい)
川崎は熱心に練習をして根岸の9Hを大概32~34で廻っているので、彼以外の優勝者を考え られない程であったのに本番では36・40・40・40で2打差(当時の記事では上記の通り三打差で ある)という僅差の勝利。他に有力な候補がなくて良かった。という危うい物であったとい う。

大谷が本名で書いた『Golf(目黒書店)』1936年1~3月号における日本アマチュア選手権史では、スコアが156で9ホール平均39。練習ラウンドでの36~37に比べると2~3打悪かった がこれは致し方が無い。と述べているがその前の文章では、安易に川崎の勝利となり、『天 才は兎も角もスポーツは努力する者勝つの鉄則は動かし難い(仮名を漢字に変換及び現代送 り仮名追加)』と彼の猛練習を賞し(その練習に随伴した自身もそのお陰で意外の好成績を 得て、彼に三打差で終わったのは大出来であった。と述べている)、1919~21年大会の章の 題を『川崎肇氏の精進振り』と記している。

川崎は元々有名なスポーツマンで留学経験もあったが、ゴルフは駒澤の東京GCが開かれ てから始めた人物で、ゴルフ経験者のメンバーやコースを設計したNRCGAのコルチェスタ ーやブレディから基本を教わるなどしたが、ほぼ独学で自分のゲームを創り上げた人物であ り、本当の意味での純国産チャンピオンと成った。
何しろ彼は、平時他の会員達が宴席などの愉しみに引き込まれる中それらを断ってせっせ とプレーを愉しみ精進していた人物であり、前年の駒澤大会では朝夕コースに日参していた 程なのだから勝つべくして勝った人物と云える。

井上に続くこの川崎の勝利によって日本アマチュア選手権における日本人プレーヤーの活躍 の道は開かれたと云って良い。

本来ならばここで文章の締めとなる ―了― を記すべきなのであるが、追記としてこの 大会における伝説に就いての疑問を記したい。
それは根岸の“難癖連中”がプレーを終えた川崎に対して『ルール違反をしたから失格 だ。』と言い出すも、今回は観戦にまわっていた前年勝者の井上信が『くだらない言い掛か りは止めてスポーツマンらしくしろ』と一喝して黙らせた。という話が伝わり、一部書籍に も出てくる。という件だ。

確かに当時の在留外国人ゴルフ界、特に横浜のゴルファーを見ると、日本人ゴルファー達 を好意的に思い、彼等の発展の為色々尽力する者と、プレーの際に牽制やクレームを付ける など難癖じみた行動をする様な連中に分かれていたのは間違いが無く、後者への対応が日本 人によるルール研究やJGA発足の要因の一つとなっている。
(奥さんが日本人で親日家であったA.H・グルームが纏め、創立時から日本人にも間口を 開いていた神戸GCと違って排外性が強かったと云われるNRCGAに関しては、会員で横濱育 ちであった『古き横浜の壊滅』の著者O.M・プールの云う現地外国人コミュニティの気風
“日本人達とは隔絶された存在として居留区で生活をし、皆が一つの船員として、とても 和やかに協調していた。”
がそれに関係しているらしく、経験の浅い日本人ゴルファー達を場を荒す異分子の様に観 ていた節がある)

しかしこの事と同じNRCGAに於ける1916年大会で一色虎児が難癖をつけられたという二 つの伝説に関して。まず、一色の件は『東京GC75年史』に記されているが(50年史では“も とより外国人ゴルファーに太刀打ちできる腕前では無かったが参加した事に意義があっ た。”という趣旨の表現がされ、難癖説は記されていない)、応援観戦に出かけていた川崎 肇や高木喜寛が参加した1930年2月のパイオニア座談会での回想に出てこない事、(この際に後者がNRCGAでのキャプテンカップ決勝戦でクレームを受けて突っぱねた話をして居 る)

1919年大会の話にしても、川崎を失格に追い込んだとしても、二位の大谷光明による邦人 優勝に変わりは無く、大谷も試合の回想を本文で取り上げた様に1920~30年代の間に数度雑 誌に執筆したが、この様な記述は残していない。それに日本人選手が彼らを含めて7名参加 していたのだからそんなことをしたら騒動に成っているだろう。
また、当事者の一人とされる井上信がゴルフマガジン1954年7月号に寄稿した回想文『ゴ ルフ生活44年』に書いているか。と先年筆者はJGAミュージアムの書架で調べてみたが、以 前1918年大会の書き物で述べた様に文のほとんどがアメリカ時代の思い出に費やされ、1918 年の日本アマチュアについて少し触れている位で、更に1919年大会の話は皆無であった。
この他井上に依る程ヶ谷CC50年史に掲載された遺稿や『霞ヶ関二十五年』掲載の寄稿文 は自身が勝った際の事が少し触れられているが、1919年大会のそのような事は触れられてい ない

ゴルフ記者・JGA職員としてパイオニア達と付き合いが長かった史家の小笠原勇八も『週 刊パーゴルフ』で長期連載した『真相日本のゴルフ史』や最晩年に編集に携わった『東京ゴ ルフ倶楽部75年史』等における大会の記述で触れておらず、同時代の史家・摂津茂和も書い ていない事から、この話は伝説なのか。それとも筆者が未見の倶楽部会報や雑誌の囲み記事 の中にのみ記された話なのだろうか。と十年近く気になり続けている。
もし後者であるならばご存知の方にご教示を願います次第です。

―了―

2024年5月30~9月3日記

主な参考資料 ・・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン社 1977 ・東京ゴルフ俱楽部50・75・100年史 東京ゴルフ倶楽部 1964,1991,2015 ・日本ゴルフ協会七十年史 日本ゴルフ協会 1994 ・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松堂 1995(復刻第二版) ・日本ゴルフ全集7 人物評伝編 井上勝純 三集出版 1991
・『The Japan Advertiser』
1919年10月14日付6面 『N.R.C. Golf Matches Commence on Friday- Amateur Championship of Japan to Be Decided on Negishi Links-』
1919年10月21 日付6面 『Kawasaki Champion Amateur Golfer of Japan-』 ・『The Japan Weekly Chronicle』
1919年9月30日号P666『Golf Champion Ship in Japan.』 ・『The Japan Gazette
1919年10月20日付8 面? 『Golf Championship of Japan. - Won by a Japanese. -Yokohama defeats Kobe in Interport.』
1919年10月21日付8 面?『The Score in the Interport Golf.-』 1919年10月23日付5面 『Local Sport.』N.R.C. Golf.より『Full Scores in Golf
Championship.』 ・『Golf Dom』
1923年3月P18-20 ある東京の住人『ゴルフ界無駄話』 ・『Golf(目黒書店)』
1936年3月号 大谷光明 『日本アマチュア選手権物語(三)』※JGA『五十五年の歩 み』収録(P31-38)より
・『Golfing』
1937年5月号P16-23 N.F.生『全日本アマチュアの由来』
・『Golf(報知新聞)』 1953年7月号 井上信『ゴルフ生活44年』 ・『ゴルフマガジン』
1954年8月号P43-47 高島文雄 『日本アマチュアゴルフ50年 駆け足で描いた日本のゴ ルフ史』
史料はJGA旧本部資料室及び現本部書架、同ミュージアム、国会図書館、横浜開港資料館で 閲覧及び筆者蔵書より

(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)