小説 沖縄サンバカーニバル2004 (original) (raw)
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「ははは、アキさん、それとっても贅沢な夢だって。ブーテンさんと、リンスケさんにフォーシスターズ。いま、そんなステージがあったらチケットとれませんよ、絶対に」
昨晩見た夢の話をすると、倉敷さんはやはり大笑いをした。今日は仕事が早く終わったと開店時間の30分前にふらっとやって来ては、いつも通りカウンター席の一番奥に座っている。
「誘えばばよかったですねー、倉敷さん、リンスケさんの大ファンですからねー」
カウンターの中でオリオンの生ビールの樽をサーバーにセットしながら、わたしも面白おかしく受け応えする。夫のユージは奥の厨房で野菜を切りながら会話に耳を澄ましているようだ。
ここは「サンバ居酒屋オ・ペイシ」というブラジル料理店。「オ・ペイシ」とはポルトガル語で魚という意味で、沖縄市の中央パークアベニューという商店街のビルの一階にある。テーブル席が7つ、カウンターには4席。
サンパウロに5年間滞在した経験のあるわたしたち夫婦は、現地で覚えた料理と、趣味で習っていたサンバを組み合わせたお店をやってみようと、4年前に沖縄へやってきた。わたしは加藤亜紀、そして夫は祐司。
「でもフォーシススターズは、そのころ一番上のお姉さんですら生まれてませんよ」
「そうでしたっけ、でも四姉妹のコーラスが聞けて良かったです、ははは」
カウンターに座る倉敷俊介さんは、東京の海洋土木調査会社から沖縄に単身赴任で来ていて、辺野古の米軍基地建設にも関わっているそうだ。だから長身の体から伸びる二本の腕は漁師のように日焼けして、40代ながら花柄のアロハシャツがよく似合っている。キープしているブラジルのラム酒、ピンガをロックで飲んでくれるで、接客の手間がかからずありがたい。
「それはそれは。アキさんに本を貸した甲斐があったというものですよ」
「ありがとうございます。ああいう本を読むと、地元を見る目が変わってきますねー。リンスケさんのことは少し知ってましたけど、ブーテンさんのことは初めて知りましたから」
「命のお祝いをしましょー、のところでしょ」
「それそれ、なんたってわたしステージの真ん前ので見ましたから、ははは」
倉敷さんから何日か前に「てるりん伝」という本を借してもらった。リンスケさんの半生について書かれた本だ。
わたしたちがリンスケさんと呼んでいる照屋林助さんについては、ご存じの方もいらっしゃるはず。
沖縄古典民謡の重鎮、林山氏を父に持つかたわら、1950年代に放送されたラジオのお笑い番組「ワタブーショー」では、戦争で傷ついた人々の心を癒し、人気を博したそうだ。ついた愛称はてるりん。
その後も三線の工房を構えながら、「網走番外地」や「ウンタマギルー」といった映画に出演。ポリカインという水虫の薬のCMは全国に放送され、わたしも見た覚えがある。だから音楽家、漫談家とくくるより、タレントといった方がいいのかな。
そして、ブーテンさんこと小那覇舞天さんとともに、戦後間もなくの難民収容所でも、家族を失った家々を訪ねては「いつまでも悲しんでいても仕方がない、生き残ったことをお祝いしよう」と歌と三線で励ましていたということを、そのお借りした本を読んで知った。
ちなみに、フォーシスターズはブーテンさんが名付け親の四人姉妹の民謡グループ。だけど、デビューは1960年だった、はは。
「ところでリンスケさんは、この店、来てくれたの?」
「オープン初日にお客さん第1号で来てくれました。そのときもう車椅子だったんですけど。それで、ブラジル料理で一番有名なのは何って聞かれて」
「フェイジョアーダ出したの? あの豆と肉の煮込んだやつ、脂っこくなかったのかなー」
「いま思えば無理して食べてくれたのかもしれませんねー、でもおいしいって言ってくださって。それで、それっきりです」
「そーだねー、ずいぶん前に、入院しちゃったからねー、糖尿だっけ、太ってたから心配だねー。そうそう、ちゃんとお見舞いには行ったの?」
「いや、そこまで親しくないですから、かえってご迷惑じゃないですか」
「行けばいいのに、なんたってこの店出せたのも、リンスケさんのお陰なんでしょ」
そうなのだ。リンスケさんのお陰といえば、お陰ではある。
2004年頃の中央パークアベニュー、コリンザ(現BCコザ)屋上より撮影
わたしたちが沖縄にやって来た2000年、ここ沖縄市の胡屋地区ではシャッター街化、つまり商店街に空き店舗が目立つようになり問題になっていた。
胡屋地区とは米軍の嘉手納基地の門前町として、ベトナム戦争時代に大いに栄えたところ。基地と国道330号線に挟まれた南北1キロほどの地域に、北から順に中央パークアベニュー、沖縄市一番街、空港通り、中の町社交街と、大きく4つの商店街がある。
どこもアメリカ兵を目当てにした洋品店や宝飾品店、Aサイン・バーやAサイン・レストランと呼ばれた、米軍の許可を受けた飲食店が軒を連ねていたんだけど、それが70年にアメリカがべトナムから撤退し、73年以降、変動相場制だっけ、それによってドルの価値が下がっていくと、アメリカ兵があまり基地の外に出歩かなくなったそうだ。
すると、次第に商店街は寂れていき、それならば地元の人を呼ぼうといっても、ジャスコやサンエー・シティといった郊外型のショッピングモールが、北谷や具志川など沖縄市周辺に次々とできているので、すでに時遅し。無料駐車場が無かったこともあり、特に中央パークアベニューと沖縄市一番街の衰退はひどかったらしい。そこで、商店街のための活性化事業が、行政を挙げていろいろ企画されていった。
そのひとつにドリームショップ・グランプリという企画があった。これは、どんなお店をするかといった企画書を書いて応募し選ばれると、開店資金50万円の賞金と一年分の家賃全額がもらえるというもの。
ドリームショップグランプリ 募集ちらし
夫がテレビの地域ニュースでそのことを知り、「ほんとは那覇でやりたいけど、どこでお店やっても、潰れるときは潰れるからなー」と応募。企画書にはブラジル料理のお店を拠点にサンバチームを作り、商店街でサンバ・カーニバルを開催すると書いた。もちろん女性サンバ・ダンサーの写真もたくさんつけて。すると、見事グランプリに選ばれたという次第。あとで聞いた話では、お店の内容より、サンバ・カーニバル開催が決めてだったらしい。
そして、そのときの審査委員長がリンスケさんだったというわけなのだ。
リンスケさんは沖縄市の文化人が集まって「建国」されたコザ独立国の初代大統領に選任されるなど、地元のシンボル的存在。ということで記念すべきドリームショップ・グランプリ第1回目の審査委員長を務められたそうだ。
そうそう、コザとはこの辺りの古い呼び方。74年に美里村と合併するまでは、この街はコザ市だった。
そしてオープン初日の9月8日、リンスケさんがお祝いだとお店に来て下さった。そしてその際、
「ここはチャンプルーの街だから、好きなことをなんでもしなさい。あなたたちが楽しんですらいれば、それを見に人が寄って来てくるから。サンバカーニバルでしたっけ、私も参加してみたいものだねー」
確かそんな様なことを言われたっけ。ちなみに、リンスケさんの自宅はここ中央パークアベニュー、通称アベニューの一本裏の道にあり、現在は次男のリンボウさんが、てるりん館という小劇場と三線の工房を継いでいる。それと、長男は有名なりんけんバンドのリーダー、照屋林賢さん。
「倉敷さん、他にオススメの本あったら貸してくれませんか」
「そうだねー、とりあえず次は映画のウンタマギルー借りたらいいよ。ツタヤにあったから。最初のシーンでリンスケさんのワタブーショーが再現されてていいんだ。いま読んでいる本と照らし合わせて見たらいいよ」
「ワタブーショーって、コミック・バンドみたいなやつですよね、違うか、ボードビルか」
「ぼくら世代からいうとクレージーキャッツかなあ、アキさんは30代だから、わからないかー」
てるりん館
やがて開店時間の6時。いつものように「遅れてすみませーん!」と言いながら、リサちゃんが出勤してくる。
我那覇リサちゃんはハーフで、お父さんはプエルトリコ系のアメリカ人だそうだ。短いソバージュ風の黒髪に、ぱっちりとした目とうっすら光る褐色の肌は、塩ビの着せ替え人形みたい。おおらかな性格からなのか、遅刻をしてもまったく悪びれることはないんだけど、まあ、ぺこぺこされるよりはいいか。
ここアベニューはシャッター街とは言われてるけれど、週末はまあまあ人通りはある。なので金曜日と土曜日には、リサちゃんにウエイトレスのアルバイトをお願いしている。特に米軍のペイ・デイに当たる毎月1日と15日のあとの週末は、嘉手納基地や軍港のあるホワイトビーチからアメリカ人のお客さんが結構やってくるのだ。そして今日は16日の金曜日。
「やー、リサちゃん、昨晩はアキさんの夢の中で踊りまくったらしいねー」
「何の話ですか倉敷さん、やだー、もう酔っぱらってるんですかー」
リサちゃんが倉敷さんの肩をポンとはたく。だけど昨晩わたしの夢の中で踊っていた赤い羽根のサンバ・ダンサーは、確かに彼女なのだ。
もともとリサちゃんは、お店のオープンとともに立ち上げたサンバチームのダンスメンバー。ウエイトレスの方は、たまたま忙しいときに手伝ってもらったのが始まりだった。だから、お店にお客さんがいないときには、営業時間中でもふたりでダンスの練習をしたりする。その様子をガラス越しに見た客さんが入ってきてくることもあるんだけど、それが若い女の子だったりすると、
「筋がよさそうですねー。どうですか、一緒にサンバしましょー」
と誘うのも、彼女の立派な仕事なのだ。
開店と同時に、ひと組の外人客がきていたので、早速、リサちゃんには注文とりをお願いした。彼女は普通に英語が話せる。さっき、おおらかと言ったけど、おっとりではなく案外はきはきしている。だから外人客には受けがいい。
「3番のお客さんBセットふたつです。それとブラーマとガラナお願いします」
ブラーマはブラジルビール、ガラナはアマゾン原産のフルーツのソーダ。どちらもこの辺りではうちのお店でしか扱ってないドリンク・メニューだ。
料理の注文伝票は厨房の夫に渡し、ドリンク類はわたしがカウンターの中で用意をする。
「ところでアキさーん、奥に方に座ってる人、どこ出身だと思います。カーボ・ベルジだって。知ってます?」
「確か大西洋の島だったかな、ポルトガル領の」
「じゃあ、ポルトガル語も話すんだ」
「一応、公用語だからね。それで来てくれたのかな、あとであいさつしに行くね」
5年間のブラジル生活で、わたしは英語とともにポルトガル語もそこそこしゃべれる。それで来てくれるお客さんもいる。ちらりと見ると肌の色の濃い、人懐っこい顔つきの青年だった。
「最近、いろんな国の人来ると思いません。昔はアメリカ人以外はメキシコ人くらいしか見なかったけどー」
「そういえば、おととい、コロンビア出身の女の子が来たよ。アメリカではいま兵隊が足りないから、軍隊に入れば市民権がすぐにもらえるんだって」
「やっぱイラク戦争と関係あるんですかねー。それに最近この街、ラテンづいてますよね。アキさん、ふん、あたしたち絶対サンバ、沖縄ではやらせましょうねー」
リサちゃんは、会話の途中に「ふん」と入れることがある。子供の頃の話し方が残っているらしいけど、なんだか可愛らしく感じられる。
やがて七時を過ぎると、シロさんがやって来てくれた。倉敷さんの横に座り生ビールを注文すると、すぐにタバコに火をつける。
「なになに、今日はナイチャーふたりでリンスケさんの話をしていたの。うーん、おれら地元の人間は、あの人をそんなに意識したこと無いけどねー。ご近所さんだから当たり前すぎちゃうのかなー」
シロさんは仲間弘行さんというのだけど、おでこが禿かかっているところが、最近ドラマで人気の佐野史朗に似てるとシロとあだ名されている。40代半ばで、沖縄市役所の健康福祉部に勤務。わたしのことをナイチャー、つまり内地出身と呼ぶんだけど、よく言われるような悪意はなく、むしろ親近感の表れだと感じる。実家が復帰前から葬儀用の花屋を営んでいて、自分も配達を手伝っていたから地元のことには詳しいそうだ。
「おれが前に聞いたのは、リンスケさんのお父さんが戦後すぐに照屋楽器を始めたとき、弟さんは外語大卒で英語がしゃべれたけど、リンスケさんはしゃべれなかったから、外人客の多い楽器屋は継がずに三線屋を始めたっていう話かな。昔はこの通り、英語しゃべれないと商売にならなかったからね」
照屋楽器は同じ商店街、というか、うちからすぐ北に5軒先だ。いまの店はリンスケさんの弟さんの長男が継いでいる。
「いまも英語は大事ですよ、ひどい日は外人のお客さんだけで、売り上げがドルだけのこともありますからねー」
「そうだろうねー、アキさんもリサちゃんも英語ぺらぺらだから、この街に向いてるよ」
わたしが英語を話せるのは、父親の仕事の関係で高校時代シンガポールにいたから。一方、リサちゃんはというと、中学生になってから先生に「あなた見かけが外人なんだから、英語話せないときっと損するわよー」と言われたからだそうだ。小学校の頃にいじめにあっていたことを思い出して、急になんだか悔しくなって、キリスト教の教会の無料英会話教室に通ったと言ってた。
だけど、だからこの街に向いていると言われてもなー。沖縄に来てから、こうして嘉手納基地の門前で商売していると、いろいろ思うところがある。毎日のように基地関係者の窃盗なり暴行なりと、よくないニュースがテレビで流れるけど、かといって基地がなければ商売が成り立たないし。それでこの街のことをもっと知らなくちゃと、いろいろと本を読みだした。倉敷さんから本を借りたのも、そういうわけなのだ。
「わたしね、こうしてこの街で米軍相手に商売していると、時々、自分は基地賛成派なのかなって思ったりするんですよ」
「ははは、リンスケさんの次は基地問題かー。沖縄に来てもう四年だよなー、そんなこと、もうあんまり気にしなくていいんじゃないかー」
シロさんはそっけなくそう言うと、ビールを口に含む。倉敷さんからは、
「アキさん、罪を憎んで人を憎まず、基地を憎んで客を憎まずでいいんじゃない」
「倉敷さんは割り切れていいですよね、なんたって日の丸バックに辺野古に基地作ってるんですから」
「なに言ってんの失礼な、僕たちは海洋調査だけですよー。たまにブイを浮かしてるだけだってー」
「まあ、わたしも声を上げて基地反対ってわけではないんですけど、ただ辺野古は反対なのかといわれれば反対。わたし大学のダイビング部で泳ぎが下手で、いっつも先輩にサンゴ折るなよーて怒られていました、自然破壊って」
「ははは、実際、埋め立て始まったらそんなレベルの話じゃないですよ。まあ、この街で商売するならノンポリが一番じゃないの」
「そんな、ばかみたいじゃないですか」
「じゃあ辺野古までいって反対運動にでも参加したらどうです、今日だってキャンプ・シュワブの前にプラカード掲げた反対派がいっぱいやってきてましたよ、反戦、反戦って」
そこまではできないなーと思う。すると、シロさんがここぞとばかりに口を挟んできた。
「アキさん、これ知ってる。基地なのに、キャンプ・ハンセンとはこれいかに」
「もー、使いまわしのおやじギャグは結構です」
キャンプ・ハンセンは金武町にある米軍基地。沖縄では定番のジョークなんだそうだ。
そのうち、8時になりリサちゃんのアルバイトはここまで。彼女の本業は中の町社交街にあるスナックのホステスで、9時までには出勤しなくてはならない。うちのお店にいるときは、それほど派手な恰好ではないけれど、夜の町ではワンピースに着替え、ばっちりメークをしてるらしい。
何やら彼女のお母さんは、中の町ではナンバーワンと言われたほどの有名ホステスだったらしく、彼女もそれに負けじと頑張ってるんだとか。
「もう、あたし上がりますけど、倉敷さん、シロさん、いっぱい飲んでいってくださいね」
「なんだー、リサちゃんあんまり話しできなかったよー、ところでアキさんから聞いたけど、新しい彼氏できたって」
「もー、アキさんおしゃべりですよねー。それより倉敷さんもシロさんも、たまには中の町のお店に遊びに来てくださいねー、サービスしますよー」
「彼氏持ちに誘われてもなー、まあいいか、今度行きましょうよシロさん」
「バカいうなって、リサちゃんのお店行ったら、奥さんに怒られちゃうよー」
ちなみにリサちゃんには二十歳(はたち)の時に産んだナナという8歳の娘がいる。リサちゃんはシングルマザー、うちは共働き。お互い深夜まで仕事なので、そのナーナーとうちの息子、勇魚とは、近くの安慶田夜間保育園で預かってもらっているという間柄でもある。
「ところでアキさん、あの人の格好、どうなってるの?」
シロさんがちらちらと見てるのは、ブラジルのカーニバルのビデオ。カウンター席の正面には18インチのテレビがあり、ビデオを流しっぱなしにしている。サンバ居酒屋ということで、これは一応、お店の売りでもある。
その画面いっぱいに踊っているのは、ボディーペイントをした黒人の女性ダンサー。顔だけ残し、全身に虹色の渦巻き模様が描かれている。赤く塗られた乳房に、乳首がちょこんと飛び出しているのがはっきりわかる。サンパウロのモシダージというチームの一九九七年のパレードだ。(youtube)
「すごいなー、これ下はどうなってるの」
「ちゃんとつけてますよ。あたりまえですけど、全裸だと退場させられちゃうんです。えっと、タンパ・セストっていうんですけど、日本語だとフタ、フタになるのかな」
「フタ? あそこのフタ?」
「それじゃー、リボン仮面みたいなもんですかね」倉敷さんも、喰いつくように画面を見だした。
「ちがうよ、リボンの志士だよ」と、シロさん。
「なんですか、それ?」一応わたしもお付き合いで尋ねてみると、
「ケッコウ仮面だよー」と、奥の厨房から夫の声。
「ユージさん、聞いてたんだー」
思わず顔を見合わせ、ハハハと笑うカウンターのふたり。ケッコウ仮面とは30年前の少年向けのお色気漫画らしい。このスケベ中年どもめ。
すかさず倉敷さんがロックグラスを掲げ、
「さあ、難しい話もしましたけど、飲み直しましょう。今夜はケッコウ仮面にカンパイ!」
そのとき、店の前でアメリカ人が大声を上げながら駆けていく気配がした。続いて「ドン!」という大きな音。すぐに夫が厨房から飛び出し、店の外を見に行く。
「あー、また看板倒されちゃったよー」
そうなんだよねー。この街ではぺイ・デイあとの週末は、酔っ払いの外人が暴れるからねー。
第3話に続く
ブーテンさんが名付け親のフォーシスターズ
サンバ居酒屋オ・ペイシのフェイジョアーダ
※この小説は実際あった出来事をヒントにしたフィクションです
「みんな元気かーい! さあ、『ヒカリのピカッと音楽』が始まるぜぃ!」
地元で活動する男性ギタリスト、桃原ヒカリさんがDJを務めるのは、FMコザで毎週土曜日、夕方6時から放送されている音楽トーク番組。FMコザは今年の4月にFMチャンプラーから名前が変わったミニFM局だ。
「今夜のゲストは中央パークアベニューのブラジル料理店、サンバ居酒屋オ・ペイシのアキさんでーす!」
「こんばんはー、みなさん。ボア・ノイチ・ジェーンチ!」
そして、わたしはこの番組に月1回のペースで呼んでもらえることになった。ラテン音楽をかけるコーナーで、ブラジルの話をして欲しいとのことで。わたしとしても、ようやく今年から開催しようと準備している沖縄サンバカーニバルの告知ができるので、まさに渡りに船だ。放送スタジオはお店からすぐのパルミラ通りにある。だから、リサちゃんにはちょっと悪いけど、お店を30分だけ抜けさせてもらってる。
「さて、ドリームショップ1号店としてオープンして、かれこれ4年になるけど、どう、沖縄にはもう慣れたー」
「そうですねー、最近ようやく『はっさびよー』と『あぎじゃびよー』との違いがわかるようになりました。7歳の息子から教えてもらったんですけどね」
「はっはっは、じゃあ息子さんはもうウチナンチューだねー」
ヒカリさんはわたしと同じく30代前半。本職は同じアベニューで音楽スタジオを経営している。ちょっとずんぐりとした体形で、長い黒髪を後ろでまとめている。耳と鼻にはピアスがじゃらじゃら、二の腕にはタトゥーがびっしり。ただし、見た目にかなわずギター片手にチャリティー活動もしているそうだ。ちなみに嘉手納基地前のこの街には、タトゥーのお店が何件かある。「琉球彫よし」が人気だと言ってたかな。
「ほかにはどう、それこそ『はっさびよー』って驚いたこととかない?」
「そういえば、その息子が今年、小学校に入学したんですけど、入学式で国家斉唱、ご起立下さいって言われるでしょ」
「えっ、もしかして立っちゃったの?」
「だって、知らなかったですよ。内地では普通に立ちますし、君が代だってきちんと歌いますし」
「はっはっは、県外の人にはありがち、ありがち。でもその場合は『あぎじゃびよー』かなー、あれどっちだろー」
確かに、「おかしいな?」というより「やっちゃたー!」て感じではあった。
「ほかにもっとない、なんかナイチャーあるあるみたいになってきたけど」
「そーですねー、その反対に、基地の友達に映画見に連れて行ってもらったことがあったんですけどねー」
「基地の中の映画館、キャンプ・フォスターのかな?」
「はい、それで映画が始まる前に星条旗が画面に映って、アメリカの国歌がかかって…」
「今度は立たなかった」
「だって、映画館じゃないですか。ワールドカップの応援に行ったわけでもないのにー」
「はっはっは、ちょっとちょっとー、話面白く作ってなーいー?」
もちろん、慌てて立ちはしたけどね、はは。
「さてさて、今日はサンバのことを話してもらおうねー。えっとブラジルには5年間?」
「はい、サンパウロにいました。最初は研修ビザで入って、住んで3年目に息子が生まれたんで、永住権が取れたんです」
「で、現地のサンバチームに参加してたって聞いたけど」
「ええ、シース・ノービというチームで、わたしはパシスタといっていわゆるサンバ・ダンサーを、夫はバテリアという打楽器のグループにいました」
「で、ダンスコンテストに出て入賞したとか」
「はい、頑張ってなんとか3位に入賞しまして、それでカーニバルではバテリアの前で踊らせてもらえたんですよー」
「いや、すごいすごい、それって名誉なことなんだってね。言葉も壁もあったんじゃない?」
「外人枠で選ばれたところもあったでしょうから、言葉はかえって下手な方がよかったかもしれませんねー」
まあ、言葉の壁は、沖縄の方言の方が厚いんじゃないかなー。文法の教科書がないからねー。
2000年3月8日付けカルナバル紙のシース・ノービ優勝の記事「日本女性バテリアの前で活躍」
「ところで、今日、是非とも言いたいことがあるってなに?」
「あのですねー、サンバってなんか裸踊りみたいに思われているじゃないですか。よく、サンバチームに入りませんかって誘うと、あんな格好じゃ恥ずかしくて踊れないって逃げられたりして。でも、それってほんと違うんです」
「違うって?」
「それはですねー」
わたしが言いたいのは、まずサンバというと多くの人がダンスだと思っていること。まあ、まったくの間違いではないけど。ただし、アフリカ音楽がアメリカに伝わってロックが生まれたように、ブラジルに伝わって生まれたのがサンバ。だからロックとサンバはいわば腹違いの兄弟なのだ。ロックがダンスだけではないように、サンバもダンスだけではない。
「前にお店でお客さんから、奥さんはサンバチームで頑張ってるみたいだけど、旦那さんにはやることあるのかって聞かれて。夫は作詞作曲もするし、楽器も演奏しますって答えたら、それってサンバなのかってびっくりされて」
「あー、なんとなくわかる。テレビなんかでリオのカーニバルが紹介されると、セクシーな女性ダンサーばっかり映し出されて、これぞサンバだって語られちゃうからねー」
「そうなんですよー。なんでもかんでも陽気なブラジル人って紹介されて。でも、カーニバルのパレードって、参加チームが優勝目指して頑張る真剣勝負なんです。陽気なだけじゃダメなんです。うちの夫が言うにはカーニバルって、あることにすっごく似てて燃えるっていうんです」
「あること? その燃えるあることって、何?」
「高校の体育祭なんですって」
「体育祭かー。えー、なんか急に身近な話」
「クラスごとに分かれて、1年かけてエール作って、アーチ作って、いっぱい練習して、優勝を争って」
「あーそれかー。俺なんか3年の時、泣いた覚えあるなー」
うちの夫は応援団長をやってて、しかもエールの作詞作曲もしたというから、その話をするともう止まらなくなる。
「さてと、そろそろ時間なんで最後に、気になる沖縄サンバカーニバルの開催、どうなったか教えてちょうだい!」
「はい、11月の沖縄国際カーニバルの二日目に、沖縄サンバカーニバルという県内初めてのサンバのイベントを開催する予定です」
「去年までは民俗芸能大パレードだっけ、あれに一般参加してたそうだけど、あれじゃダメなの?」
「大パレードだと、ほかのチームと音源が混ざっちゃってダメなんです」
特にエイサーと鉢合わすとぐちゃぐちゃになってしまうのだ。エイサー同士が競い合うことはガーエーと言って醍醐味なんだそうけど、サンバとエイサーじゃガーエーにもならないしね。
「それで、わたしたち一団体で空港通り全面が使えないかと実行委員会にお願いしてまして。でも、他のイベントとの時間調整が難しいらしく、まだ完全に開催決定ではなんです」
「そうかー、それで決定したらどんなイベントにしたいの? そうそう、テーマがあるんだってねー、サンバカーニバルには」
「テーマはいま話し合っている最中なんですけど、沖縄だからこそのテーマ、もっと言えばコザだからこそのテーマにしたいと思ってます」
「そうだねー、コザで生まれたサンバ、どんなかなー、楽しみだねー。では、最後にメッセージを。この放送、ミニFMだけど、一応、読谷や首里まで届いてるからねー」
「はい、毎週日曜日午後1時から、お店の前の遊歩道で練習してますので、ダンスや歌、打楽器に興味がある人、是非とも遊びに来てください!」
「それではアキさんから今夜のおすすめのサンバ、曲の紹介お願いします」
「わたしがバテリアの前で踊らせてもらった、2000年のサンパウロのカーニバルの優勝曲です。シース・ノービで『ケン・エ・ボセ・カフェ?』。コーヒーがいかにブラジルを豊かにしたかを歌った、明るい曲です」
「ラジオ聞いてるみんな、明日、日曜日はアべニューに集合だぜぃ!」
第4話に続く
※この小説は実際あった出来事をヒントにしたフィクションです
サンバ居酒屋オ・ペイシ
お店のオープンとともに結成したのが、サンバチーム「オ・ペイシ・キ・ヒ・ダ・コザ」。コザの笑う魚という意味で、夫が「不思議の国のアリス」に登場する猫の名前をもじってつけた。ふざけた名前だと言う人もいるけど、楽しい感じがしてわたしは気に入ってる。チームのマークはピンク色の笑っている魚。胸びれで口元を押さえている。
その練習会は毎週日曜日、午後1時から。場所はラジオで告知した通り、お店の前の遊歩道。アベニューは車道を挟んでその両側にアーケードが架けられていて、その下には幅5メートルと、まずまず広い遊歩道が続いている。2年前のワールドカップ決勝戦の時には、ここに大型のテレビを出し、サッカーファン50人を集めてブラジルを応援したものだ。
さて、練習会には見物客が来くることもあるので、少しでもお店の売り上げを伸ばそうと、ドリンク類を販売することにしている。そこで、早めにお店について準備していると、
「アキさーん、聴きましたよラジオ。牧港のA&W(エンダー)に車止めて、はは。いよいよ沖縄サンバカーニバル、スタートって感じですねー」
まだ12時過ぎなのにやって来たのは国吉尚子ちゃん。二年ほど前から練習会に参加している。小禄といって那覇空港の方に住んでいるので、電波が届かないとわざわざラジオを聞きに浦添のドライブイン・レストランまで出掛けてくれたそうだ。カウンター席に座ると、気を遣ってかガラナを頼んでくれた。
「アキさんたちのサンバに対する思い、なんかよかったですよー、わたしーなんて不純ですよね、ダイエット目的なんですから、ははは」
「ダイエットでもいいじゃない、大事なのは練習すること。尚ちゃん皆勤賞だよね、遅刻もしないし。りっぱりっぱ」
まん丸顔でちょっと太めの尚ちゃんには、今年からポルタ・バンデイラというチームの旗を持って踊る役をお願いしている。旗はチームの顔、応援団でいえば団旗に当たるので重要な役だ。夫がパレードは体育祭みたいだと言うのは、パシスタ以外にもこういったいろいろな役割があるからでもある。このポルタはブラジルでは太めの女性がつくことが多いのだけど、まあ、そのことはあまり言わないでおこう。
彼女はちょうど30になったばかり。真面目な性格で、電力会社のOLをしている。自分のことを「わたしー」と伸ばして話すくせがある。
「わたしー、沖縄市に来るたんびに思うんですけど、ここってやっぱアメリカって感じしますよねー、英語の看板多いですし」
「アメリカ人向けの看板ってことよね、うん、わかるわかる」
「内地の人って、沖縄はアメリカっぽいって言いますけど、那覇の人間からすると、那覇なんてアメリカじゃないです。アメリカっぽいのはやっぱりコザです」
確かにわたしもこの街に初めて来たとき、異国情緒を随分と感じたものだ。この辺りにはインド人経営のテーラーが十数軒あるそうだけど、そういうお店の値札はすべてドル表示。空港通りに多いライブハウスに入れば、サインペンで何やら書かれた1ドル紙幣が壁中に貼られている。
「アキさーん、こんな外国の雰囲気でサンバしたら、きっと沖縄中の人が見に来てくれますよ、頑張りましょー」
そんな会話をしているうちに、練習会の開始15分前になった。すると夫は店の奥の倉庫からドラムを運び出し、緩めてあったヘッドを張り始める。それをちゃんと見計らって、バテリアのメンバーのムーネーがやって来てくれた。ムーネーこと高良宗行さんも確か30過ぎ。華奢な体形で、長めに伸ばした前髪をいつもかき上げている。
「ユージさん、ドラムいくつ作るー」
「今日は5つかな、ひとり見学に来るって電話があったら、ひとつ多めに」
昨日のラジオの放送直後、うれしいことに大学生の男の子から問い合わせの電話があったのだ。
「それにしてもユージさん、沖縄市がすごいのは、商店街で太鼓叩いて練習しちゃうところですよー、那覇じゃ考えられないです」
尚ちゃんも手伝わなくてはと、慣れた手つきでドラムにストラップを付けてくれている。
「そうだねー、みんな大目には見てくれてるよなー、ムーネー」
胡屋地区にあるインド人が経営するテーラー
「ええ、こっちの店主は、文句なんて言いませんよ。ベトナムへ行く兵隊が最後の夜にどんちゃん騒ぎしようって、この辺のAサインバーで飲み明かしてたでしょー。兵隊に大騒ぎさせて金儲けしてたんだから、いまさらサンバチームが太鼓叩いたくらいじゃ、怒ったりしませんよねー」
ムーネーの家は昔から空港通りでPAWN(ポォーン)、つまり質屋を経営していて、そのどんちゃん騒ぎの飲み代を作るために、アメリカ兵がカメラや時計を売りに来ていたそうだ。
ちなみに空港通りとは、嘉手納基地第二ゲートを挟んで空軍基地につながっているのでこの名がついている。別名はゲート・トゥー・ストリート。
ところで、ムーネーのおでこには大きな赤いあざがあるんだけど、昔、前髪をかき上げながら話してくれたのは、
「70年のコザ暴動の時、ぼくー、お袋のお腹の中いたんですけど、お袋、ひっくり返されたアメリカ人の車から燃え上がる炎を見ちゃったらしくて、それでなんですよー」
この街で昔の話を聞いてると、ときに本には書かかれてないことがあって、ほんと興味深いものなのだ。
その後もバテリアの卓が「すみません、まだ、手伝うことありますかー」とやってきた。浜比嘉卓さんは去年大学を卒業して、小学校に教材を納入する会社に勤めている。お笑いのガレッジセールのゴリに顔が似て性格もひょうきんなので、夫などはそのままゴリと呼んでいる。
「そうだ、卓もなんかコザの面白い話知ってるー」早速、尚ちゃんが興味津々といった感じで話しかけると、
「うちは父親も会社員だったんで、商店街の昔のことはあんまり知らないですねー。まじめな話、テレビで初めて知ったりするんですよー。筑紫哲也のニュースの特集でだったりですかねー」
普通の沖縄の人は、案外そんなもんかもしれないなー。
肝心の練習会の方はというと、1時ちょっと過ぎには、ほとんどのメンバーが集まって来てくれた。
ダンサーの平良いずみちゃんは20代後半で、いわゆるサンバステップを踏むパシスタ。色白で細身なので、ビキニを着るなら、もう少し日に焼いて、ふくよかにもなった方がいいかな。いまは沖縄市内の郵便局に勤めているけど、5年間東京で働いたことがあるそうだ。その時、在京のサンバチームに出入りしてたので、すぐにチームの中核になってくれた。
ジャニースはただひとりのブラジル人パシスタ。彼女も細身で、肌の色はリサちゃんよりもう少し濃いめ。家族3人で浦添のキャンプ・キンザーに住んでいる。夫はベンジャミンといって海兵隊(マリーン)のお偉いさんだそうで、いつもひとり娘をベビーカーに乗せて一緒にやってくる。だけど、自分の奥さんが人前でビキニ姿で躍ることを、軍人として面白く思ってないみたい。それと、彼女はうちの息子のポルトガル語の先生でもある。週に1回、彼女の家でABCの書き方から教えてもらっている。
外国人といえば、イギリス人のジェームスもバテリアで頑張ってくれている。まだ20代前半。まったくの白人だけど背はあまり高くない。お隣の具志川市の中学校で英語のチューターをしているそうだ。カポエイラというブラジルの格闘技を趣味でやっていて、サンバにも興味があると参加してきた。あだ名はジャイミ。ジェームスのポルトガル風の読み方だ。
そして、リサちゃん。もちろんパシスタで参加していて、8歳の娘のナーナーも練習に連れてくる。でも、今日はまだ来ていない。また遅刻かー。このメンバーにわたしたち家族3人が加わるので、普段練習に来るメンバーは11人といったところ。
ちなみにバテリアの編成なんだけど、うちのチームでは五種類の打楽器を使っている。大太鼓のスルド、中太鼓のカイシャとヘピーキ。カイシャにはスネアドラムのように響き線が3束付いている。小太鼓のタンボリンは手の平サイズ。それと小さなシンバルをたくさん並べたショカーリョ、これはガンザともいう。
それぞれ、スルドは卓、ムーネーはカイシャ、ジャイミはヘピーキ、タンボリンは夫のユージ。息子の勇魚にはショカーリョを振らせている。息子はほかの習い事は嫌がっても、サンバだけはきちんと参加する。ブラジル生まれの息子には、どこかブラジル人としての自覚があるようだ。
左からスルド、タンボリン(上)、カイシャ(下)、ショカーリョ、へピーキ
さて、今日の練習会はというと、二週間後に予定されている夏祭りのためのもの。アベニューでは7月31日の土曜日に、商店街の車道を一部通行止めにして、夏休みに入ったばかりの子供たち向けに、いろいろな出店やステージを催すことになっている。
そこで、普段は弦楽器ができる人を呼んでバンド形式のステージをするんだけれど、今回はサンバクィーン・コンテストをすることにした。
これはわたしを含めた4人のパシスタが、バトゥカーダと呼ばれる打楽器だけの演奏に合わせてひとりずつ踊り、誰が一番か決めるというもの。合間合間にインタビューを入れたり、応援の拍手をもらったりと、案外、バンド演奏するよりもお客さんの受けがよかったりする。
また、どんな形でも11月の沖縄国際カーニバルには出場するので、そろそろサンバクィーン、つまりバテリアの前で踊るダンサーを決めなければという事情もある。ただし、わたしとジャニースは過去に選ばれたことがあるので、内々の話だけど、今回はいずみちゃんとリサちゃんのどちらかが選ばれることになっている。なのにだ。リサちゃんが練習に来ていない。なにやってるんだ、あの女はー。
とりあえず、パシスタ3人で「出ハケ」の練習、つまり誰がどの順番でステージに上がり、何をしてどのタイミングで下がるのかを確認する。その際、立つときはきちんと足を交差させ胸を張る。お辞儀は右手を胸に当てて膝を折り曲げるなど、エレガントな動作が大切。ラジオでも話したけど、サンバは決して裸踊りではないからね。
ひとり当たりの持ち時間は2分としたので、夫は腕時計をちらちら見ながら、細かく指示を出していく。
「入退場はもっと時間をかけていいよ、お客さんから拍手もらう時間もいっぱい欲しいし。あと、一番の楽器は人間の声なんだから、みんな、とにかく声を出そうよ。ブラジルに何年もいたけど、無言でサンバしている人なんて見たことないよ」
なんて偉そうなことを言うのは、高校時代、応援団長だったからなんだろうね。ダンサーはステージに上がる時には元気よく一声を、バテリアもダンサーの踊りを盛り上げるため掛け声を、としつこく念を押す。
ちなみに当日の司会は尚ちゃんが担当。アメリカ人も見に来るだろうから英語の司会は当然、ジャイミがすることになっている。もちろんバテリアと兼任になるけれど。
ところで、こうやって遊歩道で練習をしていると、通り掛かりにせよいろんな人が見てくれる。立ち止まって見てくれるのはアメリカ人が多いかな。それも多分、立ち振る舞いから見て田舎町出身の。それでいつものように卓が「一緒にやってみませんか」と迷彩服の3人組に声をかける。すると、その中のひとりが「OK、OK」と言いながらスルドを叩き出した。
ドン ドン チャ… ドン ドン チャ…
リムも使ってなかなかリズミカルに叩いてる。あれ、このリズムって…。
「これ、クィーンだぞ。はは、まあいいか。みんな合わせようぜ」
夫はバテリアにそう呼びかけると、楽しそうに手に持ったタンボリン叩き始めた。わたしもダンサーたちに向けて、ステップ、ステップ、クラップ、とやって見せた。さすがに女の子はノリがいい。すぐにみんな同じようにやり始めてくれた。見ればジャニースの夫のベンジャミンも。すると、見物人の数が増えだして、ちょっとした人の輪ができたと思ったら、
♪
ウィ ウィル ウィ ウィル ロック ユー!
ウィ ウィル ウィ ウィル ロック ユー!
サンバチームのメンバーも、見物人も、みんなが一緒になって歌いだした。
「ジャイミ、この続き歌ってよ、お前イギリス人だろ」
さびの部分だけでは面白くないと、せかしだす夫。
「早く、ハリ・アップ!」
するとジャイミはかなり困った顔をしながら、
「ノー! この歌の歌詞、イギリス人だって全部知らないよー。アイ・ドント・ノー・エニモアー」
夫とジャイミとの滑稽なやり取りに、日本人もブラジル人もアメリカ人も、みんなが大笑いだった。
さて、そんなこともあり、練習はさらに活気づいてきたんだけど、30分ほどすると、突然、夫が両手を大きく振ってバテリアの演奏を止めさせた。
「うーん、残念だけど、みんな、しばらく休憩しよー」
見ると、アベニューと国道との交差点から警察のバイクが近づいてくる。いや、今日も近づいてくると言った方がいいのかな。やって来たのは生活安全課の花城信江さんという若い婦警さん。もう何回も注意を受けているので顔見知りだ。ショートヘアーがボーイッシュでかわいらしいけど、いまはそんなことを言ってられない。
「すみませんが、ご近所からまた苦情が来ているので、少し練習止めてください」
ご近所とは国道の向こう側に建つライオンズマンションのことだろう。うちのお店は交差点から三軒目なので、まあ、うるさいのかもしれないなー。
それでも警察には練習を禁止するまでの権限がないのか、いつも30分ほど中断すること、絶対5時までには終わることをなどを条件に、許してもらってはいる。
「ゴリー、婦警さんにちゃんと謝るんだよー」
「何言ってるんですか、責任者はユージさんでしょ、まったく」
文句を言いながらも、卓は花城婦警から素直に注意を受けている。遊歩道に置かれた楽器もどけなさいと指導されながら、なぜか照れ笑いしているようだ。というのも花城婦警は卓の顔見知り。それどころか、高校の剣道部の1学年先輩なんだそうだ。
「3学年で部員5人しかいなくて、もちろん男女合同だったんです」とのこと。そりゃ仲が良いいだろうなー。
ちょうどその時、離陸したばかりのF15戦闘機2機が、轟音を響かせながらアベニューの上空を横切った。みんな一斉に空を見上げる。
「婦警さん、あっちの方がうるさいですよー、注意しないんですかー」
「ユージさん、やめてくださいよー、もー、ごめんなさいねー、信江先輩、リーダーあんなバカでー」
卓が泣きそうな顔をして謝っていた。
今日は、ほかにもいろんな出来事があった。
悪い方の出来事はというと、結局、リサちゃんは練習には顔を出したものの、すでに5時を回り、楽器の片づけをしている時だった。
「アキさん、ごめんなさい、ちょっと別の用事が出来ちゃって」
リサちゃんは赤いノースリーブのワンピース姿で、卵型の色の濃いサングラスをかけている。うちでアルバイトしている時とは別人で、ホステス、いやいや、どちらかというとギャルの恰好だ。
横にいるのはアントーニオというそうだ。最近、新しい彼氏ができたとは聞いていたが、どう見ても彼女よりも若い白人男性。名前からするとラテン系かな、呼び名はトーニオ。着ているマイアミ・ドルフィンズのTシャツせいか、なんとなく子供っぽく思える。
「で、今度のコンテスト出るの、出ないの。出るなら段取り覚えなくっちゃだめだって」
わたしがリサちゃんに詰め寄ると、
「出ます。ほんと、すみません、来週は必ず練習に来ますから」
そう言い残すと、ペコリを頭を下げて、トーニオに肩を抱かれながら一番街の方へ行ってしまった。うーん、なんだかなー。
その一方で、いい方の出来事はというと、大学生の男の子が彼女を連れて練習に見学に来てくれた。浜田悠仁さんといって、琉大の3年生。サッカー好きだそうで、
「ブラジル代表のロナウジーニョが試合の後、移動のバスの中でサンバの演奏しているのを見て、かっこいいと思いました」
体格がいいので夫はスルドをさせたいようだ。早速、卓がいろいろと手ほどきをしてた。
彼女の方は大城由紀ちゃん。ちょっと背が低いけどアイドルのようなかわいい顔つきで、ショートカットを茶色く染めている。ユキちゃんは大学では体操部に入っていて、器械体操をやっているそうだ。今日は彼氏に連れて来られただけと言うけど、来週の練習には踊れる格好で来たらと誘ってみた。
もうひとついいことがあった。練習が終わると、隣のお店のBCスポーツの金城さんが、
「疲れてるだろー、さー食べなさい」と黒糖ピーナッツを差し入れてくれた。金城さんは70手前。ベトナム戦争時代からこの通りで商売をしているので、言ってみれば大先輩だ。ちなみに、うちのお店の大家さんでもある。
「あんたたちがサンバをやってくれると、この街にカリーが付くよー」
カリーがつくとは「縁起がよくなる」でいいのかな。「うるさいよー」とは言わず、誰かが楽しくしていればこの商店街にも福が来ると言ってくれる。同じこと、確かリンスケさんにも言われたっけ。
第5話に続く
BCスポーツ店
黒糖ピーナッツ
※この小説は実際あった出来事をヒントにしたフィクションです
嘉手納基地に降りたつ米軍哨戒機 国体道路より撮影
お店の製氷機から氷をすくってアイスボックスに詰め込むと、夫が運転する中古の日産セレナは嘉手納基地のフェンスに沿って国体道路を進んでいく。飛行機の進入路を横切る時に、助手席に座るわたしからは着陸態勢の哨戒機がサンルーフいっぱいに見えた。
嘉手納ロータリーから国道58号線(ごっぱち)に入り、大湾の交差点で一旦左折。地元のスーパー、サンマートに寄って、詰め放題300円のお惣菜弁当をふたつ買う。レジのおばちゃんから、
「いっぱい詰めたねー」と今日も笑われる。
再び車を走らせ県道6号線に入り、坂を下って琉舞道場の看板を左へ。行き止まりまで進めば、そこに広がるのはユーバンタの浜。東シナ海が見張らせる小さいが美しいビーチだ。
「さあ、着いたぞー、ゆっくりしよー」
夫はハッチバックを開けて、クーラーボックスとキャンピングチェアを取り出す。わたしはお弁当とおまけにもらった味噌汁をこぼさないように持ちながら、CDラジカセを運ぶ。
そう、毎週月曜日は、わたしたち夫婦が朝から海に出かける日。お店は月曜定休というわけではないけど、どうせ暇なことはわかっている。来て常連さんだけだ。だから、昼間の仕込みはほとんどしない。定休日のことを言うならば、うちはお正月以外、年中無休。その代わり、カーニバルの時期にまとめて2週間お店を閉めて、家族でブラジルに行くことにしている。
ユーバンタの浜は読谷村の楚辺という部落の中にある。観光地では決してなく、周りには民家と畑しかないので、泳いでいる人など誰もいない。週末に近くの米軍住宅に住むアメリカ人家族を見かけたことはあるけど、今日は月曜日だ。
読谷村楚辺のユーバンタの浜
つばの広い帽子をかぶり、キャンピングチェアに深く腰かける。ラジカセのスタートボタンを押して水平線をぼんやり見つめる。そしてゆっくりと読みかけの本を開く。
「ふーっ、ほーんと、沖縄に来てよかったー」そう思う瞬間だ。
わたしが沖縄に初めて来たのは、大学1年生の時。ダイビング部の合宿で、本島を経由して慶良間へ行った。ほぼ20年前のこと。夫とはその頃からもう一緒だった。
海に潜って、日焼けして、友達と騒いで。民宿では手作りのサーターアンダキーを遠慮なくほうばった。生まれて初めてのルート・ビアーは、恐る恐る口にした。それだけのことで大笑いをした。あの頃は、ただただ楽しい島だった。
そして、お店をやろうと沖縄にやってきたときも、きれいなビーチのある観光地でと思っていた。夫は那覇が現実的だと言ってたけど、わたしはリゾートホテルが建ち並ぶ恩納村とか、若者に人気の北谷の美浜とか、そして、ここ読谷も考えていた。それがわたしの中での沖縄だった。
ところが夫がドリームショップグランプリに応募し選ばれてから、すべてが一変したのだ。わたしたちは海のない、いや基地のあるアベニューにお店を開くことになった。そして4年が経った。
結論から言えば、アベニューでよかったと思う。
「昨日の練習で思ったんだけど、いまのメンバー、アベニューじゃなかったら集まらなかったと思うの」
「あの通りは、サンバの練習しても怒られないしなー」
夫は日焼けするんだと、短パン一丁で白い砂浜に寝転んでいる。
「わたし、1年の家賃補助が終わったら、やめたらって言おうと思ったけど、結局言わなかったな」
お店を開いてしばらくして、店から歩いてすぐの高台のマンションに空室が出たというので、ここぞとばかりに申し込んだことがある。5階の2LDKのその部屋からは、太平洋が一望できるのだ。海といっても4キロも先だけど、それでも見えるのがうれしかった。そのことをお店の常連のシロさんに話すと、
「やっぱりナイチャーはばかだなー、海なんてすぐに見飽きちゃうぞー。その分、家賃高く取られてるのにー」
確かに引っ越してからそう経たないうちに、ベランダから海をゆっくり見ることはなくなった。やることがたくさんできたし、海が見たいときはこんな風に車で行けばいいんだから。
夫はしばらくするとバケツと熊手を持って浅瀬へと入っていく。貝を獲るようだ。ちゃんとTシャツを着ていくところはウチナンチューっぽくなってきた。この浜では地元でアサリと呼ばれる、細長い紫色の貝がよく取れる。丸一日きちんと砂抜きをする必要があるけど、バターで蒸し焼きにするとなかなかいける。30分もすると、重たそうなバケツをうれしそうに運んできては、
「ほら見て見て、今日は大漁だ、こんなに獲れたぞ」
ここでは他にも、ハマグリと呼ばれるシジミほどの大きさの白い貝もとれる。お吸い物の出汁にするとおいしい。この貝は手で掘るのではなく、波打ち際を足の親指でさすると簡単に出てくると、地元の年配が教えてくれた。夫は、そんなことで時間を費やすのが楽しいという。
わたしには、潮騒に乗って流れるサンバが心地いい。今日もクラーラ・ヌーネスという女性歌手を聞いている。彼女の海辺を歌った曲が好きだ。海風がページをめくろうとする、足の指先をヤドカリがくすぐる。
しばらくぼんやりしていると、ガチャガチャと音がした。見ると、夫がクーラーボックスから缶ビールを取り出して、山盛りのお惣菜をつまみにぐびぐびやっている。しまった、今日も帰りの運転はわたしか。
ユーバンタとは、夕日のきれいな崖(バンタ)という意味。三方を崖で囲まれていているので、周りの土地からは低くなっている。南側の崖の上にはゲートボールのコート、北側の上には大きな民家が建っている。
そして、その民家がある方の崖には、深く掘られたトーチカ(※1)の跡がいまでもいくつか残っている。もちろん日本軍のものだ。
「米軍は無血上陸したというから、多分使われなかったんじゃないか。砲弾で破壊された跡もないし」
歴史物の本が好きな夫が、そんなことを話してくれたことがある。
※1 コンクリートを固めて造った小型の防御用陣地
地元でアサリと呼ばれる紫色の貝 奥の白い小さな貝が通称ハマグリ
離島の慶良間を占領したアメリカ軍は、その後、ここ読谷の海岸に上陸。沖縄本島を南北に分断するために、太平洋側の石川まで進んだ。それでわたしが夢で見た石川収容所ができたのだ。とはいっても、そのことは、この前読んだ本でようやく知ったばかり。アベニューに来てから、戦争の話をたびたび耳にするようになり、わたしなりに色々調べるようにもなった。
「大学時代は沖縄のこと何にも知らなかったよね」
再び砂浜に寝転んだ夫に話かける。
「ダイビングしてると海底に日本兵の亡霊が出るから気を付けろ、なんて、バカなこと言って笑ってたなー」
だけど、と夫は言う。
「まあ、人は変わるよ。いま聴いているクラーラ・ヌーネスだって、ブラジルに行くまで俺たち全く知らなかったじゃん。でも、NHKの歌番組に出てたらしいよ。俺たちが高校時代かなー。」
「お互い、サンバが好きになったの、大学卒業してからだもんね」
ただし、ブラジルの歌姫と称されたクラーラ・ヌーネスは、わたしたちが大学に入るか入らないかの頃に、40歳の若さで他界している。
そうやってしばらく海を見ながら話しをしていると、ゲートボールの崖の上から呼ぶ声がした。
「うーりゃー、お前たち来てたのかー」
ダイビング部のふたつ上の先輩の案野明則さんだ。先輩は大学を中退して沖縄に住みつき、このそばに自宅兼ダイビングサービスを構えている。この浜を知ったのも、もちろん先輩のおかげ。体格がよく年中日焼けしている顔に、銀縁の眼鏡。話す時には白い前歯を必ずのぞかせる。うーりゃーというのが学生時代からの口癖だ。
「これ、ミーコの家でたくさんとれたから持ってけ」
浜辺に降りて来て、スーパーのビニール袋に入ったゴーヤーをくれた。大ぶりのものが5本。嘉手納の奥さんの実家の庭には、沖縄の古い家らしく広い自家製菜園があるそうだ。
「こんど、イベントに出るって? 海が荒れてたら写真撮りに行ってやるよ」
プロの水中カメラマンもしている先輩は、わたしたちがイベントに出るときに写真を撮りに来てくれることがある。ただ水中カメラマンといっても、きれいな魚の写真ばかりを撮ってるわけではなく、海中の電話ケーブルの状態とか、人工漁礁の様子とかの撮影も多く、倉敷さんの仕事を手伝うこともあるそうだ。
それと、高校ではコーラス部に入ってたということで、サンバチームのボーカルをお願いしたいこともあった。ただし土日は海に行くことが多いので過去に2、3回といったところだけど。
案野さんは用事があると、すぐにどこかへと行ってしまった。去り際、「それとな、もうちょっと車寄せとけよ」と言われた。この浜の周りには駐車場がないので、毎回、先輩の家の前に停めさせてもらっている。それで、わたしたちがこの浜に来ていることに気が付いたんだろうけど。
少し陽が傾きかけると、その陽に照らされて沖合を飛ぶ旅客機が目立つようになってきた。次々と飛んでくる機体は海面すれすれだ。高度300メートルと本に書いてあったかな。「この辺りは嘉手納基地の離着陸のコースがあるために、旅客機はそのコースの下を飛ばなくてはならい」なんて文章を思い出す。嘉手納ラプコンという空域があるそうだ。
そうだなー、この4年間で沖縄のいろいろなことを知ったし、実際に見てきた。だけど、だからといって反戦運動など考えたことはない。でも、昨日の練習のように、いろんな国の人が一緒になって笑ったら楽しいってことだけはわかる。そして、わたしにはその程度のことしかできない。でも、それでいいと思う。
「そろそろ帰ろー」
夫が椅子をたたみ、軽くなったクーラーボックスを携えて歩いていく。わたしもラジカセを持って後を追おうとすると、ふと、「てぃん」という音が聞こえてきた。三線の音だ。もう一度「てぃん」。トーチカのある崖の方からだ。確かその辺りには赤犬子(あかいんこ)の墓があったはず。三線の神様とされる伝説上の人物の石碑だ。
よく見ると、そのかたわらに、まさに三線を抱えた人が立っていた。背は高く、ふくよかな体つきだ。そしてまた「てぃん、とぅ、てん」とつま弾く。
(リンスケさんに似ているけど。ちゃんと両足で立ってる。でも、あれはやっぱりリンスケさんだ)
その人影は、レコードのジャケット写真で何度も見たことのある、紅型(びんがた)の着物に紫の頭巾をかぶったリンスケさんだった。夫に呼びかけようとして、目をそらし、でも、もう一度確かめようと墓に目を向けると、そこにはもう誰もいなかった。
照屋林助氏
お店のカウンター正面の18インチのテレビには、今日もカーニバルの映像を流している。ブラジル滞在中の5年間はもちろん、沖縄に来てからもブラジルに旅行するたび、現地のテレビ中継は欠かさずビデオに録画しているのだ。だからテレビの横には、120分テープが山のように積み重ねられている。
いま画面に映っているのは2003年のサンパウロのカーニバル。モシダージ・アレーグレが「水」をテーマにパレードして、15年ぶりの準優勝に輝いた年の映像。
水が人の営みの本質だということを、黒人宗教の神様を通して歌にしている。だから参加者の衣装には、宝貝だったり獣の牙だったりと、アフロ系の装飾が目立つ。褐色の肌に直接白の塗料でボディペインティングしたダンサーも見られる。山車の上に大きく作られた海の神様や川の神様の像は、芯の強そうな黒人女性を象っている。
「わたしも黒人宗教って、よくわからないんですけど、カンドンブレーって聞いたことありますか?」
「あーなんか聞いたことがありますよ、あれでしょ、『黒いオルフェ』でしょ」
ユーバンタの浜から帰ってきて、のんびり店を開けていると、今日も一番に倉敷さんが来てくれた。アロハシャツを着て、いつもの様にカウンター席に座っている。
「そうそう、あの映画の中に出てくる儀式がそうです。アメリカではブードゥー教になるんですかね。西アフリカから奴隷とともに伝わったそうですよ」
「なんか不思議な映画だったよねー。えっ、だから理屈ではわからない、不思議なことはあるって言うわけ、ははは」
「笑わないで聞いてくださいよー、ほんとに見たんです。リンスケさんでした。今度は夢じゃなかったんです」
「べつに嘘だなんて言ってませんよ、よかったじゃないですか、また会えて、ねー」
倉敷さんは笑うだけで、もちろん信じてはいない様子。そんな話をしていると、シロさんが、そしてこの時間には珍しく、同じ通りの照屋楽器で働いている照屋林栄さんが来てくれた。
「ということで、何はともあれ、オ・ペイシがアベニューで商売できるのも、リンスケさんのおかげなんで、われわれ常連も感謝ですよねー」
いままでの話のいきさつを、わたしに代わって倉橋さんがふたりに話し終わると、
「いや、リンスケさんのせいで、こんな寂れた商店街に店を出すはめとなったともいえる」
横に座るシロさんからは、皮肉とも冗談ともつかないひと言。すると、ちょっと真顔になって倉敷さんが、
「まさか、リンスケさん、お亡くなりになりになったってわけじゃないですよねー」
「いやいや、大丈夫です、でも叔父は糖尿が悪化して足切ってから、昔ほど元気はないですけどねー」
ふたりに挟まれながらカウンター席に座る林栄さんは、リンスケさんの弟さんの二男で、甥っ子に当たる。30過ぎでリンスケさんに似て、体格がよく少しふくよか。丸顔に眼鏡をかけているところもそっくりだ。
するとシロさんが、うちはもともと親父が葬儀用の花を売ってたから、その手の話はいろいろ聞いていると前置きしてから、
「それ、ほんとの話だったらイチマブイじゃないかな、アキさん、マブイってわかるでしょ」
「沖縄の人がよく落とすやつでしょー、くしゃみしてとかさー」
わたしに代わって夫がそう答えながら、厨房から出てきた。手には今日もらったゴーヤーをリングイッサと呼ばれるブラジル・ソーセージと炒めた小皿が。常連の3人にそれぞれ振る舞うらしい。
「よくは落とさないよー、ユージさん、バカにしてるんじゃないのー沖縄を。マブイは魂だから、イチマブイは生霊。おれも高校生の時見てさー。昔、この辺のちょっと金持ってる家の子は、熊本の全寮制の高校に行ってたんだけど、ある日、夜中に目を覚ましたらおれの部屋の隅に立ってたんだ」
「いったい誰なんですか?」と、わたし。ちょっと気味が悪い。
「同じクラスメートなんだけど、おれ、いじめてたのかなー。それでうらみつらみを晴らそうと出たんじゃないかな」
「となると、アキさんはリンスケさんに、なんか悪いことしたんじゃないの」と倉敷さん。さっきは全然信じてなかったくせに。
「してるわけないじゃないですか、直接お会いしたのは1回だけなのに」
「じゃあ、アキさんって、もしかして霊感強い方?」
「いや、そんなこと言われたこともなければ、考えたこともないですよ」
だけど、前にリサちゃんから聞いたことがある。アベニューの北の端に建つコリンザという商業施設にはどうしても入れないんだとか。その場所は昔、大半が墓地だったそうで、
「あそこ、入ろうとするとなんか見えちゃうんで、あたしだめなんです」。
中部工業高校裏の比謝川周辺もだめらしい。そこには昔、火葬場があったからだと言ってた。リサちゃんは霊感が強いんだろう。ということは霊感はあるってことかな。
すると、林栄さんがにやにやしながら、
「アキさん、シロさんの頭が薄くなっちゃたの、どうしてかわります」
「変な質問、正解したって外したって、シロさんに怒られるだけじゃないですか」
「正解は、猫の交尾を見たから。沖縄では、猫の交尾見るとはげるんですよ、ははは」
「バカをいっちゃいけないよ、林栄。犬のは見たことあるけど猫のなんて見たことないよ。それにいま、迷信の話してるじゃないだろー、イチマブイの話だって」
薄くなった前髪を照れくさそうにかき上げるシロさんに、わたしはさっきの話の続きを聞いてみた。
「で、その寮の生霊の話、イチマブイでしたっけ、その後どうなったんですか」
「まあ、そんなことがあったから、おれも反省して、なんやかんやで仲良くなったかなー」
「では、イチマブイで決定ということでいいですか、みなさん」
倉敷さんが話のまとめに入ろうとする。一同、笑いながらグラスに手を添える。
「リンスケさんからお店頑張れってことでいいじゃないですか。シャッター街を救いたまえ、オ・ペイシに乾杯!」
「カンパーイ!」
「アキさん、とにかく楽しい方に考えたらいいよ、うちの叔父、そういう人ですから」
林栄さんがそう付け加えてくれた。
それからは夫もビール片手に話に加わって、倉敷さんがホンダのビートを中古で買った話、長嶋ジャパンは中畑監督代行でいいかなど、しばらくはたわいのない世間話が続いたのちに、
「それより、今日も自殺があったらしいですよ、330号線の沖銀の斜め前あたりで」
たまたま通りかかった林栄さんは、救急車が来ているところを見たらしい。
「どんな人だったんですか?」
「近くの専門学校の学生らしいって。就職難でも苦に自殺したんじゃないかって」
これでわたしがこの街に来てから、知っているだけで4回目。毎年1回の割合でこの近所で自殺があるって多すぎやしないだろうか。
「そうそう、アキさん、知ってる? 防災無線って放送」と、今度はシロさん。
わたしが「5時になったらよい子は帰りましょうという放送でしょ」と、答えると、
「それじゃなくて、『本日午後3時、なになにさんが行方不明となりましたが、心当たりの方お知らせください』ってやつ。アレ全部じゃないけど、ほとんどが自殺なんだよ」
「あんなの、しょっちゅうじゃないですか」
「そう、だから、しょっちゅう自殺が起きてるってこと。沖縄は他県より多いからねー」
シロさんは市役所の健康福祉部にいるので、いろいろと詳しい。
「なんか、もっと違う話しましょー、今日はなんか息苦しい話ばっかり」
「アキさん、沖縄に住んでればもっとわかってくるはずよー。でもその息苦しさ、オレたちは昔から感じてることさー、ははは。この街、いろんな人のマブイさまよってるからねー」
「もー、怖いこといわないで下さいよー」
シロさんは笑いながら携帯を操作しだした。そして指の動きが止まったかと思えば、真顔になって、
「ありゃー、嫁さんからだ。月曜日から飲むなんて信じられないってメールが来たよー」
「ほーら、人をからかうから、ばちが当たったんですよ」
シロさんが一番怖いのは、やっぱり奥さんのようだ。まあ、よくある笑い話だけどね。
第6話に続く
ブラジルの歌姫と呼ばれたクラーラ・ヌーネス
※この小説は実際あった出来事をヒントにしたフィクションです
シャッター街にお店を出したんだから、さぞかし大変な思いをしてるんだろうと言われるけど、まあ、確かにこの4年間、山あり谷ありだったかな。
2000年9月、ドリームショップ1号店としてオープンした時には地元のマスコミ各社が大きく報じてくれて、連日満席御礼といった盛況ぶりだった。それに合わせて名古屋からブラジル人ミュージシャンを呼んできて、2週間だけだったけどライブを開催したら、これまた大当り。そういったいろんな相乗効果があって、その年の年末までは、びっくりするぐらいの売り上げがあった。
ただし、いま思えば、それはブラジル料理やサンバが、ただ単に物珍しかっただけの話。あの店は1回行けばいいやという感じで、年が明けたころからお客さんはどんどん減っていって、すぐに売り上げゼロの日がやってきた。来ても1日ひと組だけだったり。
そんな中、お客さんになってくれたのが米軍関係者。どうやらアベニューにブラジル料理のお店ができたということが、マスコミではなく口コミで少しずつ広がっていったようだ。彼らの中には中南米出身者も多く、豆料理などブラジル料理が難なく口にあう。気が付くと日本人のお客さんにとって代わっていった。ただし、ほとんど週末しか来てくれないけどね。
まあ、そういうわけで、平日など待てど暮らせどお客さんが来ないときは、もうどうしようもない。昨日もあのカップルが帰ったあと、夫は暇だ暇だといってカーニバルのビデオを消して、テレビのお笑い番組を見ていたほど。
そんな時、いきなりお店のドアが開いたので慌てて立ち上がり、椅子につまずく夫。
「客が来てびっくりする店って、どーなってるの」
なんて、照屋楽器の林栄さんに笑われていた。
Dサイン証贈呈式(沖縄タイムス2000年7月7日付け)
そうはいっても、うれしい悲鳴を上げたくなるほど忙しい日もあることはある。
今日は7月30日の金曜日。米軍はペイ・デイの週だけど、それに加えて日本は夏休みに入り観光シーズンに突入。しかも連日の晴天。すべていい条件が重なった。そうそう、ペイ・デイが土日に当たる時には、給料は金曜日に前払いされるのだ。
「忙しくなりそうですねー、空港通りの方は、もう結構人出てますよ」
リサちゃんも珍しく、遅刻せずに来てくれた。
さて、6時や7時といった比較的早い時間に来てくれるのはアメリカ人。若者グループというよりは家族連れが多い。6時半からふた家族が揃って会食会をするという予約があり、テーブルを3つくっつけて8人掛けの席を作っておいた。
「リオ・デ・ジャネイロには何度か行ったことがあるよ、懐かしいなー」
そのグループの体格のいい方のお父さんは、うちのメニューを家族にいろいろと説明しながら注文してくれる。メインにはもちろんフェイジョアーダを選んでくれた。
ところで、わたしが「ブラジルにはどんなお仕事で?」と聞いては見たものの、そこは軍人なのであまり話したがらない。あとでそのことを夫に話すと、
「リオではギャングと警察との抗争が激化してるから、米軍の特殊部隊(グリーンベレー)がアドバイスに行ってるらしいねー」
と、ひとり納得していた。ほんとかなー。
もうひと組、若いアメリカ人夫婦が来てくれた。彼らもうちのお店をきちんとしたレストランとして選んでくれたようで、コース料理とブラジル産の赤ワインを頼んでくれた。
「なんかの記念日で来てくれたみたいですよ。ラブラブでした」と、接客してくれたリサちゃん。こういったお客さんは、たいていチップを置いていってくれる。最後まできちんと接客してくれたので、チップはそのままリサちゃんにあげた。
一方、日本人の観光客は、20代のグループが多いかな。一応、お店は「るるぶ」や「まっぷる」といった観光ガイドに掲載されているので、それを見て来てくれる。ただし、ブラジル料理を目当てというよりは「サンバ体験ができるお店」の紹介文が、引っかかってくれてるようだ。だから、どちらかというと、きちんとした食事というよりはお酒や一品料理を頼んでくれる。
7時を過ぎたころから、日本人のお客さんがひと組、ふた組とやってきてくれて、アメリカ人のお客さんとも重なって8時前には満席となった。
「おい、もう注文がもうバラバラだよー、他の席と同じ注文をとってきてよー」
厨房の夫は、1度に3つの鍋を火にかけながら怒鳴っているけど、こればかりは仕方がない。お客様は神様なのだ。炊いたご飯が底をついたというので、わたしは近くのしまちゃん弁当というお弁当屋さんに白米だけを10人前買いに行く。
「今日は儲かってるみたいだねー」
弁当屋のご主人が声を掛けてくれる。やはり店が流行ってるときは気持ちがいいものだ。
やがて8時を過ぎ、切りのいいところまで手伝ってくれたリサちゃんが上がり、アメリカ人のお客さんもひと組、ふた組と帰りだすと、ようやくわたしの本領発揮だ。わたしは客席を回りながら。特に女性客に話しかける。
「どうですか、サンバステップ習っていきませんか?」
サンバステップは見たことがあるけど、どういう風に踊るのかなと興味を持ってくれる人は多い。というか、そういう人だからうちのお店を選んでくれてるんだろうけど。
「初めてでも踊れるんですかー?」
「もちろん、踊れますよ。さ、どうぞ、どうぞ」
厨房から夫が出てくると客席を壁際に寄せて、ちょっとしたダンススペースを作る。すると、それぞれのテーブルからひとり、ふたりと立ち上がってくれるので、即席のサンバ教室が出来上がる。すかさず照明を暗くして、BGMの音を上げる。曲はもちろんカーニバルのサンバだ。
「はい腰をひねって、みぎー、ひだりー、右ー、左ー」
「できましたかー、次は足を、まえー、うしろー、前ー、後ー」
お客さんは多少お酒も入っているので、たいがいノリはいい。「キャーキャ、キャッキャ」と声が上がる。冷房が入っているとはいえ汗をぬぐう人も。濃密な10分間の最後には、ひとりひとりキメのポーズを作ってもらう。
「はーい、みなさん、ほんとお疲れ様でしたー」
すると一斉に拍手が起きる。お客さん同士が仲良くなって話を始めだす。「サンバ居酒屋」をやっててよかったと思えるひとときだ。
BGMの音を落とし、客席を元の位置に戻したころ、倉敷さんとシロさんがやってきた。
「さっき入ろーと思ったら、いっぱいだったから、別んところ行って時間潰してきたよー」
「すみませんねー、なんかサービスしますよー」
「いや、そんなことより、今日はお客さん入ってよかったねー」
シャッター街の実情を知ったる常連さんからのこういうひと言、ほんと心に染みるんだよねー。
やがて観光のお客さんも帰り、倉敷さんとシロさんがカウンター席でグラスを傾けるだけになった11時過ぎ、リサちゃんから電話があった。
「ナーナーが熱を出したみたいで。保育園から連絡あったんですけど、ちょっと行けないんですよ。すみません、今日もお願いできませんか」
うちの息子も預かってもらっている安慶田夜間保育園は、通常は午前2時まで面倒を見てくれるんだけど、体温が37度5分を超えると保護者が引き取らなくてはならない規則になっている。以前も同じことがあってナーナーを引き取って、うちの家に寝かせたことがある。
「リサちゃんのお母さんはいけないんだよね」
「ずっと腰を悪くしてまして」
「わかった、いいよ、まかせて。で、明日のイベントには来るんでしょ。3時からよ」
リサちゃんは先週の練習会には遅刻はしてきたものの、一応ステージの「出ハケ」を覚えて帰っていった。
「イベントにはちゃんと出ます。ほんとすみません、ナーナーのことお願いします」
まあ、しょうがないか、今日は頑張ってくれたし。お店の方も、常連さんだけだから大丈夫だろう。夫は付き合いですでにビールを飲んでいるので、車の運転はできないしなー。
自宅の駐車場から車を取り出し、夜間保育園へと向かう。消灯で薄暗くなった教室には子供達が並んで眠っている。新幹線やキティーちゃんなど、色とりどりの模様の毛布がかわいい。
「37度5分ちょうどで、ナーナーは平熱が高い方なんで大丈夫だと思いますけど、一応規則なのですみません」
今日の夜勤の担当は、うちの息子が一番好きだという美奈子先生だった。
「いえいえ、大丈夫です。いつもありがとうございます」
「アキさんはすぐ来てくれて助かります。呼んでも来ない親の方が多いですからねー」
ここに通う児童のお母さん方とはもちろん顔見知りだけど、わたしを含めて全員、遅くまで飲食店で働いている。だからまあ、すぐに来るのは難しいだろうなー。
もう一度、子供たちの寝顔を見る。クリスは白人系のハーフ、お母さんの宮城さんは小料理屋のママ。愛ちゃん、麗ちゃん姉妹はアフリカ系のハーフで、お母さんの京子さんはリサちゃんと同じ店で働いている。京子さんはもともとは横須賀の人なんだけど、いじめを気にして沖縄に来たんだそうだ。でも、聞いた話では沖縄のいじめもひどいらしいけど。そしてナーナー。ナーナーの父親もアフリカ系だと聞いている。もちろんここにはハーフじゃない子供たちのもいるんだけど、不思議とわたしと仲のいいお母さんの子供はハーフだったりする。
「ところでこんな時になんですけど」と、美奈子先生。
「今年も運動会で園児がエイサー踊るんですけど、保護者の参加をお願いしてまして」
この夜間保育園では毎年10月に、併設の幼稚園と合同で運動会があるのだ。ただ、地元出身じゃないんでエイサーなんかやったことないですよと答えると、
「いえ、男の人に頼みたいんで、旦那さんに聞いてもらえませんか。お父さんいるの、アキさんのとこだけなんです」
そうか、そう来たか。そう言われると断り切れないなー。
ナーナーは美奈子先生に抱っこしてもらい、子供ふたりを車に寝かせる。もちろん今夜はこのまま家に連れて帰ろうと思う。
国道330号線を運転していると、海兵隊(マリーン)らしき若者3人組が、大声を上げながらふらふらと歩いているのが見えた。そのひとりがロングネックのビール瓶をコンクリート塀に投げつける。そのバリーンという破裂音をフロントグラスで聞きながら、わたしはつい、
「ああ、今日はどこも儲かっているんだろうなー」と、独り言を言った。
あれっ、これって、ちょっと感覚おかしくなってるぞー。
ところで、今日のお昼、幸江さんに言われた通り日めくりカレンダーを作って、さっそくボトルキープの棚に吊るしておいた。
沖縄サンバカーニバルまで、あと100日。
第8話に続く
地元グルメ誌掲載記事
※この小説は実際あった出来事をヒントにしたフィクションです