勘は最後に自分の身を助けるモノである (original) (raw)

怒ったりも羨んだりもするものです。
快楽もあれば苦痛もあります。
そうした身体や心に起こる大波小波を日々乗り越え、また乗り越えてゆくのが『人間の日常』なんだと思います。

そういった『人間の日常』に根ざしたありふれたバランス感覚を先ず大切にすることが心がオカシげな方向を向いて突っ走らないようにするための最終的な羅針盤になるのです。 それは例えば「(理由は分からないけど) 何だかこれ食べたら危ないぞ⁉︎」という所謂『勘』や「(特に何があったわけではないけど) この店何か良くないなぁ(ー ー;)」という感覚のことです。 生きるためにこの世の動物に遍く与えられた危機察知能力と申しましょうか…

つまり、勘ってのは選ばれた特別な人だけが持つ特殊能力などではないということです。
それどころかどこにでも誰にでもある、もっと言えば人間以外の生物も持っている『生きるためのチカラ』です。

『生きるためのチカラ』というのは『死なないためのセンサー』でもあります。
言い換えるなら、いざという時の危機察知能力というのは、ごく普通の日常生活の中にあるバランス感覚に支えられているということです。
日常のバランス感覚を磨くことが『勘』を鋭くすることに通じているわけです。

逆に理屈、それも他人の作った理屈にばかり頼っていると勘はドンドン鈍くなっていきます。
勘より理屈が先に出てくる心のクセがその人のバランス感覚を鈍くするからです。

バランス感覚が鈍くなると「これって何だかオカシイぞ」という皮膚感覚(勘)が素直に働かなくなります。
思考というノイズが邪魔をするせいです。

古来より人間関係において勘というモノは重要視されてきました。

社会的にはその勘のことを『人を観る眼』という言葉で表されることが多いでしょうが…

実際第一印象で人に感じる違和感や共感などは結構当たっていたりするものです。

この根拠のない違和感や共感といったモノは大切にした方が良いって話です。

そこんところを「単なる気のせいにしてしまうか、それとも少しでも気に留めるようにしておくのか」は長い目で見れば大きな差になって現れますので。(勘という観点から)

これまでもこのブログで申し上げてきましたが、最後の最後に己が身を助けるのは『自分の勘』だけです。

天変地異のような非常時はもちろん、日常の人間関係においても最後の場面で役に立つのは理屈ではなく勘なのだと思います。

だから、勘を出来るだけ磨いておくのに越したことはないのです。
それが最終的に自分の身を助けてくれる『お守り』になるモノだからです。

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