世間の片隅で、愛をさけぶ! (original) (raw)

ここでは、僕の備忘録的に、そして、いつかどこかで、賢治先生を訪ねたいと思ったどなたかの一助になりますように、それぞれの場所を訪れた僕の超個人的な感想を列記していきます。
僕の観点での、正直、かつ、「超」個人的な感想です。

・身照寺

賢治さんのお墓があります。旅の始めと終わりに訪れ、合掌し、旅を通して得た学び、気付き、出会い、ご縁に感謝。公演を見守ってくださいとお願いしてきました。

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・豊沢川

夕方、雨の中、ダッシュで『風の又三郎』のロケ地になったであろう、橋のたもとから河原に降りました。所の人から見たら、なんだあいつは?感が凄かったと思います。反省。

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大沢温泉

映画のセットのような、昭和の雰囲気がそのまま残っている風情ある旅館。自炊が基本で、宮澤家を始め、熱心な檀家さんたちが、ここで仏教講習会をしていたそうです。温泉に入っていると、地元の人らしきおじさんたちが、お二人でのんびり、話しているのが聞こえてきました。片方の人が出ようすると、相方さんが「もう少し入っていよう」と。何かと思って一緒に待っていたら、谷間に、『星めぐりの歌』の笛の音が。なんと、17:00の時報が、この曲だったのです。夕暮れ時の冬景色に、まろやかに笛の音が解けて行き、温泉も心地よく、とても幸運なひと時を過ごさしてもらいました。

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・鳥捕りのようなおじさん

花巻市内を歩いて歩いて、雨ニモマケズ詩碑、イギリス海岸、賢治さん生家、ぎんどろ公園などなど、様々なゆかりの地を訪れました。ここで訪れた雨ニモマケズの詩碑で、まるで鳥捕りおじさんのような不可思議な人と運命的な邂逅を果たしました。在野の賢治研究者で、近隣にご実家があるというこの方は、地元民ならではの様々な情報と、文献から得た情報、そして、松田氏(「土に叫ぶ」)の話しを教えてくれた。印象的だったのは、この時の空です。話の合間に空を見上げると、鶴が飛び、鷺が飛び、雁の群れが飛んでいました。ああ、ここは本当に、賢治先生が暮らしていた土地なんだとしみじみ思いました。

そして、この方は、僕の最大の疑問にも一つの示唆をくれた人でした。僕の最大の疑問、それは、『風の又三郎』の冒頭のあの文章、「どっどどどどうど」というオノマトペです。賢治さんの作品では、その独特なオノマトペが印象に強く残っていますが、この「どっどど」には参りました。「ビュービュー」「ゴーゴー」ではなく、「どっどど」という打撃音。この表現は、なんなのか、と。ある人は「戸口に打ち付ける風の音」、またある人は「耳に感じるく空気の圧力」と言いますが、正直、いまいちしっくりきませんでした。

では、この鳥捕りおじさんはどう話してくれたか。この方にこの疑問をぶつけてみると、開口一番、「ああ、分かりますよ」と。それは、『大地の上を走ってくるように、風が遠くから迫って来る音』と。遠くから風が吹くと、こんな印象を感じなくもない、というのです。これには、本当に感動しました。まず、この感性には、思考や解釈ではなく、ただシンプルに、その土地の生活実感が無いと出てこない言葉じゃないかと感じたからです。そしてまた、賢治さんが、外界をどれだけ広く捉えていたか、そこにもリンクするような気がしました。賢治さんが作品世界に表したという「身の周りの世界」の広さが、とてもリアルに感じられたのです。身の周りの事象を、そういう広大な世界感覚で受け止めていた超越的な感受性の豊かさを持っていてしかるべきだと、そう思いたい自分がいました。

「どっどど」の謎は自分なりに一つの解に至れました、次は、自分でそれを、直に感じてみたいです。

・羅須地人協会

ついに入れたという万感の思いと、2階には登れないのかという落胆と、黒板のある広間が、声楽を師事していたオペラの先生のレッスン室とダブって、切なくなりました。とても熱い焚き火の後の、残り火を見ているような。とても濃密な時間が詰まっていた気配だけが、残り香だけがただよっている感じでした。

来てから気付いたんですが、ここに来れば、なんとなく、賢治さんに会えるような気がしていた自分に気付きました。これも当たり前なんですが、ああ、もう賢治先生はこの世にはいないんだと痛感させられた瞬間でした。

ちなみに、この建物の玄関に、「マコトノ草ノ種マケリ」という、賢治先生の生徒さんたちの証言記録を集めた冊子があります。これ、超オススメです!平日にしか、農学校の事務局で購入できないので、頑張って仕事を調整して、開館期間中の平日に訪れるのがオススメです。

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雨ニモマケズ詩碑

羅須地人協会での喪失感のまま、帰路に着く気になれず、ふらふらと詩碑へ。花巻市を訪れる度に詩碑を訪れていましたが、春の風に包まれたこの日は本当に穏やかな雰囲気に包まれていました。こうした風の中、田畑を耕し、山河を眺め、賛同者を招いてレコードの鑑賞会をしたり、在所の子どもたちに童話を読み聞かせていた賢治さんの日々は、決して、恵まれた日々とは言えなかったかもしれないですが、でも、当人にとっては、この上ない充実感と高揚感に溢れていたのだろうと思いました。

僕にはやっぱり、詩碑の方が、賢治さんを身近に感じられる場所でした。

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5回に渡った公演後記、これだけ一つの舞台のことを、あれやこれやと書き続けるなんて生まれて初めてです。

クリエの復活公演として自分にとっての意味合いが大きかったこと、

この島国に生まれ育った者として、宮澤賢治さんという人物が強烈だったこと、

そして、その人が書いた「銀河鉄道の夜」という作品が、あまりに広大な思索の宇宙だったこと、

それらが挙げられると思います。

人として、舞台人として、振り返れば振り返るほど、自分にとってエポックメイキングとなった作品に、ああいう形で参加させてもらった幸運とご縁に、ただただ感謝です。

少なくとも今回のご縁は、僕にとっては、賢治先生との出会いの始まりだと思っています。

僕は、賢治先生の研究者や批評家、あるいは、信奉者やその思想の伝道者になりたいとは思いません。

ただただ純粋に、賢治先生の授業を受けてみたかった、ただそれだけです。

(終)

ここでは、僕の備忘録的に、そして、いつかどこかで、賢治先生を訪ねたいと思ったどなたかの一助になりますように、それぞれの場所を訪れた僕の超個人的な感想を列記していきます。
僕の観点での、正直、かつ、「超」個人的な感想です。
まず初めに断っておきますが、宮沢賢治記念館と近隣諸施設は、胡四王山という山にあります。車やバスでの訪問がお勧めです!

〇JR釜石線
まず、最初に岩手に行こうと決めたとき、散々、悩んだのが、まずどこに行こうか、ということでした。
いろいろな資料を漁り、賢治先生の取材旅行に行った経験者に話を聞きましたが、僕が最終的に「これだ!」と感じたのが、JR釜石線でした。
これは何かというと、旧岩手軽便鉄道が走っていた路線らしいのです。旧岩手軽便鉄道は、賢治先生が度々、詩の中で使用している重要な題材で、何より、「銀河鉄道の夜」の汽車のモデルになったと言われているものの一つだからです。モデルになったかどうかは所説ありますが、賢治先生が生前、この列車を何かと利用していたことは事実らしいのです。建物も風景も、当時とは全く違ってしまっていますが、でもせっかくだから、これを、太平洋側の終点である釜石駅から、内陸の終点である花巻まで乗って、想いを馳せてみたいと強く感じました。
出発の日。常磐道から復興ハイウェイを駆け抜け、釜石に到着。長距離運転で体力が持つか心配でいたが、「いよいよ本当に花巻に行ける」という興奮が勝り、あっという間に着いてしまいました。
そして、いよいよ、釜石線に乗車。動き出した瞬間に感動で涙が出てきて、やっぱり、自分はこれに乗るべきだったんだと、心から感動しました。感動しすぎて、運行中の電車内では、ずーっと、ずーっっっと、涙をウルウルさせながら、車窓からの風景を、写真で、映像で撮り続けてました。
花巻駅まで行ったあと、新花巻駅まで戻って、そこから徒歩で、宮沢賢治記念館やイーハトーブセンターを訪問。この駅から記念館までの間にある、地元の小学生たちが描いたのであろう、賢治先生の作品をテーマにした絵が、どれも個性的で童心に溢れ、徒歩の疲れを癒してくれました。そのあと、諸施設を訪れて、また、新花巻駅から、釜石駅へ戻りました。
実は僕は、この、夜の釜石線に、とてつもなく期待していたのです!夜の闇の中を駆け抜ける釜石線は、まさに、夜空を駆ける銀河鉄道のように、幻想的な何かが見られるんじゃないかと。結果は、見事に大外れ。車内の快適な明るさで、窓の外の景色はただの暗がりになり、何も見えませんでした(笑)。これもまた旅の楽しみ。それでも、停車駅が近づくと、その暗がりの中に少しずつぼんやりと、電灯に照らされた駅だけが浮かび上がり、これはちょっと期待した風景に近かったです!あとの運行中の電車内では、記念館でゲットした資料を読み漁ってました。

ja.wikipedia.org

宮沢賢治記念館
内容としては、賢治先生に関する展示が、広く、浅く、分かりやすく、親しみ易く展示されているという印象でした。純粋に、展示されている情報については、近所の図書館で色々な資料を借りれば、同程度の情報にはたどり着けると思います。ただし、貴重な現物が、これだけ大量に保管されているのはここだけかなと思います。自筆原稿はもちろん、手紙類、賢治先生のチェロやトシさんのヴァイオリン、死後に1000部配布されたという漢和対照妙法蓮華経などなど、見応えは抜群でした。
僕が特にありがたかったのは、「銀河鉄道の夜」の自筆原稿の企画展がされていたことです!しかも、公開されていたのが、なんと、カムパネルラの父が出てくる、最後のシーン。この作品をご存じの方は誰もが疑問に思う、あの「父」です。突然出てきて、二言三言だけ話して、去る。しかも、そこで話す内容も、「え?このシチュエーションで、それだけ?」という、謎が謎を呼ぶ人物で、識者や評論家や研究者は、その言動や人物像に、それはそれはいろいろな解釈をしているキャラクターなのです。
僕も、様々な解釈の迷路に入り込み、いくつかの表現の方向を演出家と話し合っていましたが、最終的には、ああなりました。あの日、あの時、あの場所で、実際にお客様に観て感じてもらったものが、あのときの僕や僕らの全てなので、ここで、あれこれと表現や解釈について述べることはしませんが、唯一、残しておきたいのは、やはり、この「銀河鉄道の夜」という作品は、特に後半にいくにつれて、未完成の度合いが強い、ましてこの「父」の部分は、構成や思いついた、とか、ラフ原稿、と言ってもいいような気がしました。これは、あくまで個人の見解です。
劇団クリエの銀鉄公演に関わるまで知らなかったのですが、「銀河鉄道の夜」に限らず、賢治先生の作品は、そのほとんどが、死後に作者本人以外の人が、本という形に整えて世に送り出したものがほとんどだったことにびっくりしました。有名な「雨ニモ負ケズ」も、手帳に書き記した超個人的な書き物です。本として整ったものに出会うと、さもそれが最終的な完成形のように受け取ってしまっていましたが、そうではないんだというのが大きな発見でした。整える前の乱雑な状態が、ある意味で、現時点でのこの作品の完成形なのだと思います。
気になった方はぜひ、この記念館やいくつかの関連施設でしか買えない、『図録 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』をゲットして読んでみてください。これを深く深く探求し、現在、定説となっている、第一次稿から第四次稿までの改定の流れを発見した研究者の方々の知識と努力に、本当に頭が下がる思いです。この『図録 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』と、筑摩書房から出ている『新校本宮澤賢治全集』を照らしながら読み、さらに、賢治先生の年表なんかも合わせると、「ああ、このときにこういう思想世界を持ってたのかなぁ」とか、「この年に大きな改定が加わったなぁ」というのが、自分なりに見いだせて、また作品がより深く味わえると思います!時間はかかりますが、作品と仲良くなった気になれて、ほんっと、オススメです!!

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イーハトーブセンター
イーハトーブセンターは、賢治先生や作品群に関する資料の収集と研究が主な存在目的のようで、僕は資料室で気になった資料を少し読んで、山猫亭Tシャツをゲットして、後にしました。後になって、訪問時にやっていたますむらさんの企画展示を、もっと真剣に見ておけばよかったと、今でも後悔しています…。

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宮沢賢治童話村
童話村は、家族や夫婦、カップルで訪れるのに向いてるなと思いました!自然の中でゆったりとした時間を過ごせます。ただ、正直、この日の僕のニーズには合いませんでした(笑)。
きっと、車で気軽に来てたら、また気持ちも違ったと思います。山道だって気楽に来て、「ちょっと違ったな~」と思ったら、また暖房で温まりながら、次の訪問地までサクっと移動できますから。ですので、繰り返しになりますが、記念館と近隣諸施設は、車かバスで訪れたほうがお勧めです。
でも、この日の僕は、お遍路さんのごとく、徒歩です。しかも、新花巻駅から記念館、記念館からイーハトーブセンター、そして童話村まで、約半日、歩き詰めで歩いてきたんですから。この記念館付近は、大げさに一言で言えば、山です!小さいですが、立派な山です。登山なんです。次は、ちょっと隣の施設まで歩いて行くかと決めたら、20分くらい高低差を歩き続けるのです。
しかも、パッキングが下手な僕は、リュックに図書館から借りてきた新校本が数冊入っている上に、記念館で資料を買い込んで更に重くしてしまい、お湯の入った2Lの水筒も持って、小雨の降る寒い中、傘をさして、歩き疲れて、それでも何かあるんじゃないかと期待を膨らませて、最終的に訪れたのが童話村だったんです。この苦労を吹き飛ばしてくれる何かが、そこにあってほしいと欲が出てしまうのが、人情というもの。自分で課した勝手な苦労に見合う、過度な報酬を勝手に欲した、欲深な僕の落ち度です。

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でも、この小雨降る、東北の寒さを、歩いて肌で感じられたのは収穫でした。本当に寒かったです。これと比べると、関東で感じる、「さむ!」ってのは、体調を崩すかもって程度の寒さな気がしました。東北の寒さは、生命活動を止めにくる寒さというか、命の灯を消しにくる寒さというか、本当に体の芯から冷えてくる寒さでした。だからこそ、春の訪れが一層、生命感や彩りや祝祭感に溢れるものになるだろうと思うし、しかしそこに、修羅としての苦悩を綴った賢治先生の思索の深さにも、実感として畏怖するものを感じました。
(続く)

これは行きたい!!!
いろんな版がありますが、田原さんの絵に惹かれて、田原さんの挿絵による「銀河鉄道の夜」を買いました。
「石と賢治のミュージアム」もオススメです。
展示されている鉱物の種類が本当に豊富で、暗室には、紫外線を当てると光が変わる石も鑑賞できます。
また、この施設内にある双思堂文庫がまたすごい!
イーハトーブセンターは、主に賢治先生の著作や作品・作家研究の資料が大量に保管されていますが、この双思堂文庫は、東宝区砕石工場に深い縁のある賢治研究者の方が集めた資料が保管されています。
賢治先生は、その作品世界に、幅広い様々な知識が織り込まれていて、言葉の意味一つを調べるのにも、果たしてなんの分野の言葉を用いているのか、調べるのに苦労します。
そんな、作品世界を探求するための、宗教や文学や化学や美術など、さまざまな学術書や歴史書が、壁一面、部屋中に保管されているのです!!!
この部屋でのんびり調べ物をしながら、賢治先生の作品に触れるのも、ファン的には至福のひとときに違いありません(笑)

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『This is us』素晴らしかったです!!!
俳優さんたちのナチュラルな演技、そして、構成の上手さとそこからくる感動的なシーンの連続に、シーズン6は本当に涙の連続でした。
人生とは、不思議な縁の連続で紡がれていることを改めて気付かせてくれたこの作品は、まさに「縁」という、とても仏教的な、東洋的な哲学や示唆に溢れているような気がして、そうした部分もとても新鮮でした。
誰かとの別れが、誰かとの出会いのきっかけになっていたり、
誰かと誰かの生死の別れや、
そこで出会った些細な会話のやりとりが、数年後、人生のどん底にいる誰かの助けになったり、
人間の一生を、こんなにも、美しく、重層的に、多面的に、感動的に描いている作品は初めてでした。
また、別れや死別を描くシーンが、とにかく、安らぎに満ちていて、演技やBGMの選曲、そして編集が、否応なく涙を誘います。
機会があれば、まとまった休みとかに、改めてシーズン1から一気見したいです(笑)

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今回の『銀河鉄道の夜』公演に向けて、ありがたいことにタイミングが合って、何回か岩手に取材旅行に行くことができました!
その中で、印象的だった場所やエピソードを、これから記していこうと思います。
まずはイントロとして、出発前の部分を。

そもそも、クリエの今回の作品が、宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』と決まったとき、僕の中での賢治さん像は、「雨ニモマケズ」から連想されるような、朴訥とした晴耕雨読の作家さんというイメージくらいしかありませんでした。

でも、そんなこんなで賢治さんを調べ始めると、
なんなんだ、この人は!?
と、想像を超える捉えどころのない人物像と、その独創的な人生に衝撃を受けてました。
こんな人物が、国内に、車で行ける距離で、現地に取材に行けるのなら、これはもう行くしかないんじゃないのか、という思いが生まれました。

でも、それと同時に、正直なところ、
「いやどうせ、行ったところで…。」
という思いも抱えていました。
というのも、その前に、別件で、とある記念館を訪れてみたのですが、
「え、これだけ…??」
っていう残念感がとても強くあったのです。
展示されてる資料は、たしかに原典資料ではあるけれど、記載情報はほとんど、文献や資料に載っているものばかりで、
「こんなに時間とお金と労力を使って、ここまで来たのにー!」(涙)
と、本当に心の中で泣いてました。

でも、今回のクリエの公演参加者の子と話していたのがきっかけで、とりあえず1回は行ってみることにしました。
久々のクリエの公演、遠方にも関わらず、出演することを決めたその子に、
「〇〇県に住んでるのに、よく出演するの決めたね~。」
と言うと、
「自分は、何かで、やるかやらないか迷ったら、やる方を選ぶようにしてるんです。」
と、なんか、すごい肝の据わったポリシーを、ポンっと言うのです。
でも、よくよく聞いてみると、本当に納得です。
アラフォーのおじさんが、二十歳そこそこの子に、本当に学ばせてもらいました。
そもそも、何かの物事をやるかやらないかって考えたときに、もう絶対に無理だってときは、人は迷ったりはしないもの。
でも、迷ってる時ってのは、何か一歩、足を踏み出すのを、何か理由を付けて、自分で踏み留めているときなんだと、その子は教えてくれました。
僕の場合は、特に、お金と世間体でした。
同年代と比べて、たいした稼ぎがあるわけでもない、ましては、衣食住になんの関係もない、ミュージカル公演のためにわざわざ、大仰に取材旅行に行く??
主催者や演出家ならいざしらず、一参加者のオレが取材なんて、世間的にどうなの??
今よりさらに輪をかけて、変人奇人扱いされるんじゃない???
でも、その子の言葉に触発され、そして更に、前回公演で実際に現地を訪れたことのあるメンバーの勧めもあって、行ってくることにしました。

目指すは、岩手県
賢治先生が生まれ育ち、イーハトーブという理想を夢見て、その人生を燃やし尽くした地へ。

先に結果を言っておきますと、結局、岩手に行く度に、
「これは、また来なきゃだめだ!!!!」
という謎の熱い使命感に駆られ、半年の間に、合計4回の取材旅行、総費用は約(Wow!)万という、自分の予想を遥かに上回る、とんでもない結果になりました(笑)。
でも正直、まだ、行き足りないのです。

公演を終えて感じること、それは、これは始まりなんだという思いです。
今回の公演を通じて、オレは、賢治先生が大好きになりました。
もし可能なら、
当時の羅須地人協会に賢治先生を訪ねてみたかったし、
花巻農学校で賢治先生の授業を教わってみたかったし、
賢治先生の指導と演出のもとに、『飢餓陣営』に出演してみたかったです。

この半年、様々な導きによって、賢治先生の作品世界に、本当にたくさん触れることができました。
岩手山では十一月の冷たい風に吹かれ、
花巻では、輝く四月の気層の底を、ニヤニヤしながら歩いたり、
3月末、季節外れの“あめゆじゅ”が空から振りそそぎ、銀世界と化した東北の冬景色も見れ、
偶然出会った在野の賢治研究者の人と、賢治先生が耕したとされている畑の近くで話しているときには、頭上の空に、鶴や鷺や、雁の群れが飛び交い、
そして、詩碑が立つ下根子桜の協会跡地で触れた、光り輝く花巻の山河と、優しい春の風。

教師の職を辞して、理想の農業を、理想の農民を、理想の農村社会を築こうと生きていた賢治先生は、きっと生きる喜びと活力に満ち満ちて、羅須地人協会の日々を送っていたのだろうと思いました。

今の目標は、ずばり、登山!!!
夏の岩手山に登って、天の川を見ることです。
無二の親友と歩んだであろう山登りの道と、二人が見たであろう星々を、身体が元気なうちに、追体験したいと、切に願います。

改めまして、劇団クリエ30+1周年記念「銀河鉄道の夜」を、無事に終えることができまして、本当にありがとうございました。
ご来場、ご観劇いただいた方々はもちろんのこと、いろいろな事情で劇場に足を運ぶことが難しかった方々にも、心からの御礼を申し上げたいと思います。
僕が案内を送らせてもらった方でも、やはり、遠方ということもあり、GWということもあり、観に行けなくて申し訳ない、というお返事をいただいたのですが、「ずっとずっと応援してます」という言葉に、胸から込み上げるものを感じました。
初めてミュージカルというジャンルで舞台に立った日から、ずっとご縁を紡がせて頂いて、共演してた小学生の娘さんは年頃の高校生になり、それでも遠方から時間と手間暇をかけて、昨年に出演させてもらった「桜の記憶」というストレートプレイのお芝居にも、観に来てくださってる方なんです。
きっと、今回の舞台には、出演者一人一人に、そういうアツイ、濃い、つながりの人たちがいて、そうした方々から、直接的に間接的に、いろいろな応援の力をもらって舞台が作られていたんだとしみじみ思います。
昨日、今回のカンパニーでの反省会と打ち上げが行われました。
その中で、カンパニーの一人一人が、公演に参加した感想や想いを発表する時間があります。
その中で繰り返し出てきたのが、「あたたかい」「家族のような」という言葉でした。
裏を返せば、この公演が動き出すまで、コロナ禍の中、泣く泣く解散したあの日から、ずっと、この、「あたたかい」「家族のような」場所を失ったまま、みんな過ごしていたんだということをしみじみ感じました。
4~5年という月日、小学校の低学年だった児童は高学年になり、中学生たちは大学生になり、高校生や大学生は社会人になり、長年クリエに関わって、クリエで育ってきた人たちも、戸惑いながらの復帰だったんだなぁというのを初めて知りました。
そういった意味では、この劇団クリエバージョンの『銀河鉄道の夜』という作品は、本当にうってつけでした。
アンサンブルミュージカルといっていいくらい、出演者がフルで舞台上に出てくるショーアップとも言えるようなシーンが連続して出てきます。
初めての人も、久しぶりの人も、長年やってる人も、みんなが助け合って、分からない振りを教え合って、支え合いながら作ったシーンが、いくつもいくつもあります。
きっと、初めて出演した子たちは、
あそこの振りは〇〇が教えてくれた!
あそこは、〇〇ちゃんが何回も練習を見てくれた!
ってシーンがいっぱいあったんだと思います。
僕自身は、このクリエには、まだまだ参加したばかりの新参者で、つくばカンパニーの第10回公演で『森は生きている』に初めて出さしてもらい、ひたちなかカンパニーで再演だ!と意気込んでいたときのコロナショックでした。
せっかく運命的な出会いを果たした劇団なのに、まさかここでこういう事態がきたか、という思いでした。というのも、クリエの前にも、舞台は少しかじっていて、公演が中止になったいろいろなトンデモ話を聞いていたので、いつかは自分にも…という漠然とした不安と心構えというのは常に持って、舞台に臨んでいました。
でも本当にその時が来るとは思っておらず、気持ちを切り替えるのに半年くらいはかかりました。
時間が少し経って、逆にこんな冬眠期間みたいな時間の使い方をできることは中々無いんだから、とことん自分の課題と向き合おう、そして、いつかこのトンネルの終わりがきたら、後悔の無いよう、あのレッスンも通おう、これも挑戦しよう、と思いながら過ごしたコロナ禍でした。
そうして始まったこの銀鉄の稽古は、本当に特別でした。
もう稽古場で過ごす一瞬一瞬が、とにかく愛おしくてたまらない(笑)。
稽古場で出す皆の一声一声、歌声の一つ一つ、振りの一つ一つ、それが本当に喜びと感謝と幸せに満ちていて、とても祝祭的な雰囲気の中で始まり、そして、昨日の打ち上げまで夢のような時間が過ぎていきました。
あまりに幸福感に満ちながら、順調に稽古が進んでいきすぎて、
「また直前で何かとんでもないアクシデントが起こるじゃないか…」
「もしかしたら今日、オレが交通事故でも起こすんじゃないか…」
そうした根拠のない不安が、本番が近づくにつれて高まっていくのを感じました。
事実、無事に幕が開いて、お客様がいて、本番をしているのが、
まるで夢でも見ているかのような、
今でもあれは、一夜の夢だったんじゃないかと思うような、
そんな気がしています。

あのコロナショックの中、劇団と名の付く団体は、みな、公演を打ち続けるのか、公演を打たないのか、選択を迫られました。
そして、クリエは、打たないことをみんなで決めました。
何が正解か分からない中、打たないと選択した未来を実際に4~5年過ごした想いが、あの公演には詰まっていて、劇場からもあふれ出て、賢治さんにも、もしかしたらちょっとでもいいから、届いてくれてたんじゃないかと思います。
賢治さんも、人生を掛けた農業運動の試みである羅須地人協会の活動が、病苦で頓挫してしまって、数年間、実家で寝起きするだけの日々が続きました。
想いだけが独り歩きして空回りしてばかりで、何もできない日々。
そうした共通点を慮って、このクリエの公演にもきっと、目に見えない力を貸してくれていたと信じています。

オレは、クリエに出会えて良かったと、心から思います。
神奈川や東京で夢に破れて、茨城に帰ってきて、
こんなオレ好みなテイストで、日本語のオリジナルミュージカルをやってる団体が、まさか茨城にあるなんて!
という感動から始まり、
上原先生を始め、演出家の順さんや振り付けの美穂さんが、
本当におおらかに、あたたかく、優しく、楽しく、でも真剣に指導してくれることへの感動が次に来て。
怒鳴る、叱る、否定する、責める、突き放す、などなどなどなど
こういう手法や、
「一度言ったことは二度言わせんな!」
「役者はチケット売りさばいてなんぼだから」
こういう言葉が無くても、
良い公演は作れるんだ、と目が覚める思いで、この人たちの舞台作り、子どもたちとの接し方を身に付けたいと心に決めた日でした。
そしてまた、クリエで出会ったプロフェッショナルたち。
発声のスペシャリストなオペラ歌手の塩塚先生。
身体のメンテナンスのスペシャリストな寺田先生とクリニックの先生方。
そして、クリエのご縁でお世話になれた、リリーベール小学校での日々。
私立の小学校ならではの独自の取り組みも多かったですが、でも、様々な幼児教育期の背景を持った子どもたちが、少しずつ少しずつ小学生になっていく様を見させてもらえたこと、ひいては、小さい大人である高学年になって、卒業していく様まで見させてもらえたお陰で、
卒園までにはこうじゃなきゃダメなのかな…??
という固定観念がはずせて、それまでに無い時間的な視野と価値観で子どもの育ちを想像したり、そこから遡って現状の課題を見定めたりと、本当に貴重な日々を過ごさせてもらいました。

舞台人の端くれとして、教育者の端くれとして、これまでの活動をまとめ上げて、大きく飛躍させてくれた、この大恩あるクリエ。
こんなに大恩があるのに、この不届き者はいくつになっても成長できずにやらかし過ぎて、恩返しなんてとんでもない、本当に反省の日々です…。
いつかちょっとでも恩返し、あるいは、恩渡しができるように心掛けて生きていきます。
一つ、思いつく恩渡しは、クリエで共に過ごした子どもたちが大きくなって、
もしも何か劇団でも作ったり、主催者として公演を打つときに、
おりとんに出てほしい!
なんてことがあったら、
オレで良ければ出ますよ!!!
本番とかゲネが重なってるとか、やむを得ない事情が重ならない限り、協力させてもらいます。
そんな恩渡しくらいしかできませんが、それでよければ、声かけてください。
公式な発言として、ここに記しておこうと思います。

僕にもいつか必ず、賢治さんや岡山先生が行った世界に旅立つときは来るし、舞台って本当に、立てるときしか立てない。
だからこそ、稽古は常に全力投球です。
ひたちなかが解散した、あの日のように、もしかしたら、この稽古で出すこの一声が、自分がこの世に想いを込めて放つ、最後の一声になるかもしれない。
ひたちなかカンパニーが解散してから、ずっとさ迷っていたあの公演への役者魂。
今回の公演が始まっても、やっぱり、もやもや、空中をさ迷っているのを感じました。
「あのときのオレを置いて、おまえはどこに行こうとしてるんだ」みたいな。
実は本番後も、もやもやしてたんですが、昨日の反省会でのみんなの感想を受け止めて、やっと”あいつ”は成仏できた気がしました。
やっぱり、想いを分かち合うって大事ですね。
お酒の無い打ち上げで、あんなに笑って盛り上がって心が満たされるってのも初めてで(笑)
出演者全員にメッセージカードを渡すなんてのも初めてで(笑)
ほんとに不思議な魅力のカンパニーです。

今回の公演には、本当に本当に生活の全てを捧げてきました、マジでいろんな意味で。
良い歳して何をしてるんだという思いに駆られる度に、
いやいや、かつて花巻に、もっとすごい次元でこども部屋おじさんをしてた人がいるじゃないか、と勝手に引き合いに出して励ましてました。
すみません、賢治先生(笑)
こんな話を上原先生にしたら、
「だったらあんたも、賢治さんくらい、世の中に価値あるものを残しなさいよ」と大笑いしながら叱られました。
ほんっと、そうですよね、すみません、上原先生(笑)

まずは、生活の立て直しを図りつつ、次年度公演へのオーディションに向けて準備しようと思います。
実は、「森は生きている」、本当に後悔していることがあります。
まだクリエに参加して間もなくだったし、初めてのひたちなかカンパニーということもあって、遠慮して言えなかったこと(作品世界の解釈について)があります。
それを言えなかったことをずっと後悔して、
なぜこの解釈を共有しないまま、離れてしまったのか、
思い返せば、このやり残した感の大きさがやはり、さ迷う役者魂となって残っていた部分も、なきにしもあらずかと思います。
もしまた機会が得られたら、どう受け止められるかは分からないけど、でもこれだけは伝えてみたい、ということがあったんです。
まずは、クリエのワークショップに行けるときに行って、各種レッスンにも行って、生活を立て直して軍資金も貯めて、オーディションに挑戦しようと思います!

改めまして、
劇団クリエのカンパニーの皆さん、
ご観劇いただいた皆さん、
応援して頂いた皆さん、
稽古の日々を支えてくれた家族と、
励まし続けてくれた友人、
そして、きっと見守ってくれていた賢治先生、
本当に本当に、ありがとうございました!!!!!!!!!

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