空手のススメ、徳島の田舎道場から (original) (raw)
一昨日の日曜日(6/22)は東京都世田谷区で、第3回東京都空手道選手権大会が行われました。
大会を主催・運営された新極真会世田谷・杉並支部<支部長>塚本師範、塚本道場スタッフの皆さん、素晴らしい大会に参加させていただきありがとうございました。
新極真会徳島西南支部からはイッシン君、ウタ君が出場、イッシン君が型で優勝、組手で2位、また徳島北東あわじ支部のケンゴ君も組手で優勝でした。
東京遠征、皆んな、よく頑張りました!!
今回の経験を来月のカラテドリームフェスティバルに、活かして欲しいと思います。
保護者の皆様もお疲れ様でした。
さて先日、指導前の空き時間にある球場の駐車場に車を止め、車内で休憩していると、いきなり怒声が聞こえてきました。
驚いてあたりを見回すと、その怒声はある一団から聞こえてきましたが、その一団とは中学生らしい野球チームでした。
怒声を発してしいたのは監督とおぼしい中年男性で、私はその光景を少し車内から伺っていましたが、20 名くらいの選手たちは監督を中心に円陣を組み、監督の怒声に恐怖で顔を硬直させていました。
先週も地元紙で報道されていましたが、新聞紙面で後を絶たず見かけるスポーツ指導者の暴力や暴言。
最近は元バレーボール選手の益子直美さん、元プロ野球選手の桑田真澄さんなどが、スポーツ指導者の暴力、暴言の根絶を訴え、盛んに活動、発信されています。
なのに「こんな指導者、やっぱり、まだいるんだ。」と思い、その光景を見ていましたが、監督の怒声以上に異様に思ったのは、選手と監督を取り巻いている保護者と思われる人たちでした。
監督の狂ったような怒りに、どんな理由があったのかは知りません。
その怒りが例えば、危険をもたらす選手の悪ふざけなどであれば、監督の怒りにも一分の正当性もあるように思います。
しかし、試合で負けたことやプレーミスであれば、その怒りに正当性はありません。
スポーツの精神は〝楽しむ〟ことです。
特に中学生のような思春期世代へのスポーツ指導は、体を動かすことの楽しさを伝えることを最重要視すべきです。
競技の勝ち負けは向上心などを培い、競技で勝つことを目標とすることは、人間の成長に必要な部分もありますが、スポーツにおいては勝敗も〝楽しむ〟ことから逸脱してはなりません。
スポーツで、負けやミスを怒声を浴びるほど怒られることは理不尽なことです。
先日、朝の連続テレビ小説の戦時中を扱ったシーンが、軽くSNSで炎上しているのを見かけました。
そのシーンは私もたまたま見ましたが、軍隊に入隊した登場人物が上官から理不尽な暴力を受けるシーンでした。
「理不尽な暴力に朝から気分が悪い」などの投稿がSNSでは見受けられましたが、戦時中の軍隊の暴力は一種の集団統制方法です。
良い悪いは別にして軍隊のシステムほど集団を統制するのに適したシステムはない、といったことを以前何かの本で読んだことがありますが、暴力、暴言を用いる現代日本のスポーツ指導者は、現代の日本人が見ていて気分を悪くするような、戦時中の軍隊の集団統制方法を踏襲しています。
私が監督、選手を取り巻く保護者に異様さを感じたの、戦時中をうかがわせる理不尽な指導方法を黙して許容していることでした。
おそらく、その保護者たちも、前述の朝の連続テレビ小説の炎上したシーンには不快を感じると思います。
しかし「テレビのシーンには不快を感じても、実際の目の前の光景には何にも感じないのか」と疑問に思うと、日本社会の様々な問題が私の疑問には集約されているように思います。
スポーツ指導者の暴力、暴言の根絶のためには、選手の保護者への啓蒙にも注力したほうが良いように思います。
ところで武道の精神性は、スボーツの精神性とは違います。
武道の精神性は先のブログで書いたように〝押忍の精神、自制心〟などであり、およそスポーツの精神である〝楽しむ〟ことは対極的です。
武道精神はスポーツ精神とは対極的あるとは言え、かといって武道においても指導者の暴力、暴言が許されるものではありません。
ブログでよく書くところですが、武道精神とは〝武士道精神〟です。
武士道精神の中核は〝惻隠の情(相手の心に寄り添う心)〟です。
私も空手指導者として小・中・高校生を中心とした道場生に、時には厳しい言葉で指導します。
しかし、厳しい言葉を用いる時には、道場生の心に寄り添うことを心がけています。
その寄り添う道場生の心とは、人が誰しも持っている〝心の弱さ〟です。
例えば、話を聞いていない道場生に厳しい言葉を投げかける時、話を聞けないある種の自分の弱さを気付かせることを心がけています。
道場生の〝弱い心〟を見据えることが、武道精神に則した指導方法と思いますが、厳しい言葉を投げかけるとしても道場生の顔を恐怖で硬直させてはなりません。
私は道場生に厳しい言葉を投げかけるとき、投げかけられた道場生の表情に集中力が宿るように努めています。
新極真会徳島西南支部の保護者の皆様には、私の厳しい言葉に晒される時のお子さんの表情を注視して欲しいと思います。
6.24.2025 記
一昨日の日曜日(6/15)は、愛媛県西条市で四国岡山合同稽古でした。
いつも四国岡山合同稽古を企画、準備してくださる三好師範、野本師範代、近藤師範代ありがとうございました。
長雨で比較的、涼しかった先週とは打って変わり、一昨日は湿度が高く蒸し暑かったですが、参加した道場生の皆んなはよく頑張りました。
皆んな、お疲れさまでした。
また、付き添いの保護者の皆様もお疲れ様でした。
さて、「自制心とは知性」、最近SNSで見かけた往年の有名芸能人の方の言葉ですが、個人的に大いに共感できる言葉です。
〝自制心〟は「自分の感情や欲求を抑え、行動をコントロールする力」です。
一方、〝知性〟とは「物事を知り、考えたり、判断したりする能力」です。
自制心を働かせるには〝何のために〟自制心を働かせるか、といった判断が必要です。
その判断に至るには、自制心の必要な状況の把握(知ること)、自制心を働かせることによってもたらされる展開(考えること)が連なり、知ること→考えること→判断の流れは、まさしく上記の知性の定義に適合します。
昨今、大げさにまたは怒りに任せ、時には他人を見下し、自分の意見を主張する動画をSNSなどでよく目にします。
そういった動画には個人的に好感を持てないのですが、意見の内容よりも口調自体に聞き心地の悪さを感じます。
また、主張者が誰もいない部屋で一人、スマホに向かって感情を昂らせしゃべっている様を想像すると、いぶかしい違和感も感じます。
私が感じる聞き心地の悪さや違和感は、おそらく自制心のない感情のままの口調から漂う、知性の無さから生じているように思います。
感情のままの口調が面白おかしく大衆的に受けるから、彼らはそうした口調で自分の主張を発信しているのだと思いますが、知性のない面白おかしいだけの主張を受け取る聴衆は、ただ面白おかしく思っているだけで、その主張は聴衆の心には響かないと思います。
心に響かない主張をある意味もてはやす、最近の世相にも違和感を感じますが、声の大きさや面白おかしさに惑わされずに、聴衆が知性で様々な〝声〟を判断する世相であることが社会にあっては望ましいと思います。
などと、以上のような小賢しい私の社会通念はさておき、我々の空手では「押忍(オス)」の言葉が用いられます。
オスは一説には「おはようございます」の略語と言われています。
実際、我々の空手でも挨拶や返事で多用されますが、オスの言葉には「押して忍ぶ」の〝押忍〟の漢字を当てがい、挨拶や返事においても精神性を響かせています。
「押して忍ぶ」の〝押忍〟は武道精神の一つであり、その武道精神とは〝自制心〟です。
近年、ゆとりから多様性へと時代は変遷しています。
その変遷は、従来の価値観により抑圧されていた人たちの解放、許容である素晴らしい面が多々あります。
しかし行き過ぎた許容は、自制心などの曲解を生じさせており、自制心である押忍の精神などは、アレルギーを持たれつつあるように空手指導者をしていて感じることがあります。
また押忍の精神は、古臭い時代錯誤的な観念の代表にもなりつつあるように感じたりしますが、押忍の精神は自制心がもたらすところの武道的意義を認識する知性です。
空手において稽古のみならず、あらゆる困難に〝押して忍び〟向き合っていくことは、人間としての強さをもたらしますが、その強さは単なる肉体的な強さだけでなく、武道的意義を帯びた人間の品格としての強さとなります。
許容は何でもかんでもが許されて良いものでなく、自制心や慎みをともなった許容であってこそ、許容の時代的象徴である多様性なども社会発展の基軸になると思います。
空手道場においては、ありふれて使われている〝押忍〟の言葉ですが、押忍の言葉が言霊として自制心、知性を道場生にもたらす道場に新極真会徳島西南支部をしていきたいと思います。
6.17.2025 記
< ご案内>【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
次の日曜日(6/22)に開催される東京都大会に逢坂が出席するため、以下の道場はお休みとなります。
美馬道場・鴨島道場…6/21㈯
阿南道場…6/23㈪
よろしくお願い致します。
一昨日の日曜日(5/24)は長野県松本市で、第32回全中部空手道選手権大会が行われました。
大会を主催・運営された新極真会長野支部<支部長>藤原師範、藤原道場スタッフの皆さん、道場生が参加させていただきありがとうございました。
イッシン君が組手で準優勝、型で優勝でした。
コタロウ君も入賞には至りませんでしたが、初戦は突破し、よく頑張りました。
遠方への遠征、二人ともよく頑張りました!!
全中部大会での経験も、今後に活かしていきましょう。
保護者の皆様もお疲れさまでした。
さて本年、2025年12月7日㈰、鳴門・大塚スポーツパーク<アミノバリューホール>で第1回徳島県空手道選手権大会を開催致します。
同大会は新極真会徳島北東あわじ支部、徳島西南支部で実行委員会を立ち上げ、同委員会が主催し、正式名称を武道ツーリズム in Tokushima 第1回オープントーナメント徳島県空手道選手権大会とする予定です。
空手道普及ための競技大会に加え、交流人口の拡大による地域振興として武道ツーリズムを盛り込んだ空手の大会を目指します。
武道ツーリズムとしては、インバウンドに対応できる大会を企画中ですが、武道ツーリズムの主体には大会観戦を据え、大会観戦での最大のセールスポイントは〝武道精
神〟とします。
インバウンドの方々には、空手の武道精神を感じ、観ていただく大会にしたいと思います。
<大会ポスター案>
空手の大会において代表される武道精神は〝正々堂々〟と戦うことです。
空手、特に我々の空手の大会で正々堂々と戦う選手の姿の観戦は、単なる観光や消費目的からマインド的なことにトレンドが変わりつつあると言われるインバウンドにおいて、これからのインバウンド、また、これからの空手の大会にマッチングするものと思います。
ただ、戦う姿を見てもらうだけでは、インバウンド目的にかなう大会観戦にはなりません。
武道精神が伝わりやすい大会づくりが求められますが、それに関しては現在、様々な思案をしています。
また大会に参加する選手の皆さんにも武道ツーリズムである大会を念頭においてもらい、自分たちの正々堂々と戦う姿を来場者に観てもらう意識を持つ大会にしたいと思
います。
自身の武道精神が大会の基幹となることを選手自身が意識することは、選手それぞれが本来、空手を修練する目的であるはずの武道精神の修養を大いに深めるものであり、
空手修練の一環である試合の意義も高めるものです。
大会における選手の武道精神の意識付けには、まずは私自身が指導する徳島西南支部の選手が武道精神をもって競技できるように、大会に向けて鍛えていかねばなりません。
武道精神、正々堂々の〝心〟をもって競技するには高度な〝技〟と強い〝体〟が必要ですが、これまで以上に道場生の心・技・体を練る指導を行いたいと思います。
第 1 回大会は本格的な武道ツーリズムとせずにプレ大会としますが、今後の本格展開を目指して、なるべく整備された武道ツーリズムとしての大会を整えていきます。
大会を主催する徳島県空手道選手権大会実行委員会には、当然、私も名前を連ねますが、私自身、大会準備に年内いっぱいは多忙が予想されます。
そのため基本、週一ペースでアップしてきたこのブログも、今回以降は不定期で投稿させていただきます。
第 1 回徳島県空手道選手権大会は武道ツーリズムとしてのボリュームのある大会を目指しますが、今後決まってゆく諸々の大会内容は私のインスタグラムで発信していき
ます。
さまつな私の近況なども、インスタでお伝えしていこうと思うので、このブログをご覧の皆さまには、私のインスタのフォローをしていただければ幸いです。
今年のはじめ大病したばかりですが、身体には重々気をつけて、武道ツーリズム in Tokushima 第1回オープントーナメント徳島県空手道選手権大会にむけて頑張ります。
関係各位の皆様、よろしくお願い致します。
5.27.2025 記
今週末、東京・有明アリーナにてKARATE EXPO 2025が開催されます。
私は大会審判員として参加しますが、それにともない以下の道場の稽古はお休みとなります。
5/30 ㈮…徳島市加茂道場
5/31 ㈯…美馬道場・鴨島道場
6/2 ㈰…阿南道場
またKARATE EXPO 2025 にはJFKO第2回国際大会部門に徳島西南支部より梅本泰成1級、今春、新潟支部石川県金沢道場に移籍した桒島十輝初段が出場いたします。
応援のほど、よろしくお願いいたします。
一昨日の日曜日(5/18)は大阪府門真市で、第3回大阪東部錬成大会が行われました。
大会を主催・運営された新極真会大阪東部支部<支部長>阪本師範、阪本道場スタッフの皆さん、素晴らしい大会に参加させていただきありがとうございました。
新極真会徳島西南支部からは4名が参加、うち、リノちゃん、リトちゃん、タイシン君が組手で優勝でした。
入賞には至りませんでしたが、ユウセイ君もよく頑張りました。
大会は勝った人も負けた人も、次に向かっての課題が得られます。
皆んな、第3回大阪東部錬成大会、よく頑張りました!!
今大会で得た課題を見据え、また今週から頑張っていきましょう。
保護者の皆様もお疲れ様でした。
さて、先日ある大会を観戦された保護者様からご質問をいただきました。
これまで空手の試合をあまり観戦されたことのない保護者様で、先日ご覧になられた試合のレベル高く、そのレベルの高さに感銘を受けられたそうです。
試合観戦の感銘から、ぜひ、お子さんに空手を長く続けて欲しいと思われたそうですが、「空手を長く続けるには、どうすればいいのでしょうか?」といったことがご質問の内容でした。
空手を長く続けるうちには、お子さんにもレベルの高い試合ができるような強さを見つけて欲しい、との保護者様の思いを感じましたが、空手指導者としては空手へのご理解が伺える非常にありがたいご質問でした。
「楽しく空手に取り組ませるのが、長く続けるコツでしょうか?」とのご質問もいただきましたが、〝楽しく空手に取り組む〟ことでも遠征先で観光を満喫するような楽しさは大いに必要であり、そういった楽しみは保護者として、都合が合えば積極的にお子さんに与えてあげるべきです。
しかし、根本的に空手はスポーツのように楽しいものではなく、楽しさとは対極的な厳しいものです。
空手においていくら楽しさを求めたとしても、空手の本質的な厳しさは消えるものではなく、本質をごまかし空手を楽しいものに染めてしまうと空手の本質は失われます。
空手の厳しさの本質からブレずに、お子さんが厳しさに向き合うようにサポートすることが、最終的に空手を長く続ける道筋になるといったことを、私の考えとして保護者様の質問に対してお答えしました。
空手の本質的な厳しさは、我々の空手の組手(自由攻防による技の応酬)試合に表出されます。
直接打撃(画面への手技攻撃、急所攻撃は行わない)による組手を行う我々の空手の試合は、子どもの試合といえどもお腹をかかえてその場にうずくまるような、いわゆるKOが発生します。
KO が有効技によるものであれば、当然試合は勝利しますが、KO、我々の空手の試合では一本勝ちと言われますが、一本勝ちは我々の空手競技では至高の勝利です。
我々の空手の組手試合では、選手は至高の勝利のため一本勝ち、いわば対戦相手を倒して這いつくばせるような非情の覚悟で試合に挑みます。
非情な覚悟は相手に向けたものだけでなく、自分も倒されるかもしれないことへの覚悟もはらみます。
我々の空手の試合においては、選手双方の倒し、倒される覚悟が対戦相手を尊重する礼にのっとり交錯する姿に、観るものはご質問をいただいた保護者様のように感銘や感動を受けます。
観るものに感銘や感動を与えることは、武道しての空手の重要な意義の一つですが、武道としての意義のない空手は、空手そのものが本質を踏まえて成り立たず、本質を持たない空手は楽しさにあきるまでは興ずることはできても、長続きはしないように私は思います。
空手の厳しさからブレないことが、空手を長く続けるコツですが、空手を学ぶ修練者にとって空手の全てが厳しいものであれば良いのかと言えば、そうではありません。
前述のような楽しさも必要であり、私は空手の厳しさは組手のみにあれば良いと思います。
組手のための稽古全般にも当然厳しさは必要ですが、組手の厳しさは〝倒すか、倒されるかの覚悟〟を持つことで厳しさに向き合うことができ、組手への覚悟を持つことは倒すか、倒されるかが組手、ひいては空手の本質であることへの〝理解〟にもなります。
空手の本質への理解としての組手の覚悟は、組手での〝技〟を生み、組手に応じられる〝体〟を作ります。
組手の技と体となる覚悟は、空手の〝心〟でもありますが、心・技・体からなる組手への覚悟は一朝一夕にできるものではありません。
私などは空手を本格的にはじめて34年になりますが、組手への覚悟のために今も自身の稽古を続けており、組手への覚悟が心に宿るには相応の長い時間が必要です。
組手への覚悟を心に高めることが、組手の実力を高め、試合競技おいては高いパフォーマンスを発揮する力量になります。
お子さんに空手を長く続けて欲しいと思う保護者の方々においては、空手の修練には組手への覚悟が必要であり、その必要性を理解したうえでお子さんの覚悟を引き出すようにサポートしていただきたいと思います。
空手で身につける覚悟は、お子さんの多方面での様々な可能性を引き出す力になると思いますが、覚悟の引き出し方は無数にあり、唯一無二の正解もありません。
しかし絶対条件として覚悟の引き出し方で一つ言えることは、空手を修練するのはお子さんであり、厳しい修練をするお子さんの気持ちに寄り添って、保護者も組手の厳しさを理解することが大切です。
保護者において空手の組手の厳しさが理解できるのであれば、暴力、暴言などでお子さんを追い立てるようなことはしないでしょう。
空手への深い理解によるお子さんへのサポートは、家族の絆となるものに思います。
家族の絆が深まる空手の競技活動を、指導者として私は目指していきたいと思います。
5.20.2025 記
一昨日の日曜日(5/11)は徳島県三好市池田町で第7回徳島県フルコンタクト空手道選手権大会・オアシス杯でした。
大会を主催・運営された聖空会山本道場・山本師範、山本道場スタッフの皆様、大会に参加させていただきありがとうございました。
新極真会徳島西南支部からは17名が出場。
組手でユイト(本田)君、リノちゃん、レナちゃん、タイト君、ユイト(白川)君が優勝、クウガ君、ユウセイ君、ヒノキさんが2位、タツキ君が3位でした。
入賞した人、出来なかった人、勝ち負けは色々ありましたが、出場した皆んなが良くがんばりました。
皆んな、お疲れ様でした。
保護者の皆様も、お疲れ様でした。
また応援に来てくれた道場生の皆さんも、ありがとうございました。
さて、我々の空手は自らの誤りを自らの体が示し、自らの体で感じることができます。
例えば空手の稽古の一つである型(想定した敵との対戦を一連の技で構成する一人稽古)は、動作の順番、手足の位置などが決められています。
最初の動作で左に体の向くのが決められた動作の順番であれば、左に向かなければ誤りとなります。
型に未熟な修練者は、左に向くべきところを右に向いたりしますが、これは自らの誤りを自らの体が示していることになります。
また組手(試合形式による自由攻防での対戦)では、顔に蹴りが飛んでくる上段回し蹴りに対しては、その蹴りを受けなければなりません。
我々の空手では、受けなければ当然被弾しますが、上段回し蹴りの被弾には痛みが伴います。
その痛みは対戦相手の誤りによるものでなく、自分が相手の蹴りを受けるべきところを受けなかったがために感じる、自らの誤りによる痛みです。
空手において自らの誤りを自らの体が示し、自らの体で感じることは、空手における心と体の修養の根幹となるものであり、心においては真摯な心の修養となるものです。
明らかな誤りを自らの体が示し、体で感じることは、自らの誤りに対して言い訳が効かない、誤りを認めざるを得ない状況となります。
その状況を素直に受け止め、誤りを繰り返さないように意識を高めることが〝心の修養になり〟〝体を育て〟〝技の習得〟に繋がりますが、そういった心・技・体の繋がりは真摯な心の他にも向上心なども育み、武道精神となります。
体育という言葉をネットで調べると「身体を動かすことで健康増進や体力向上、そして精神的な充実を目的とした教育活動」と表示されます。
心の修養の根幹となる空手における〝自らの誤りを自らの体で感じる〟ことは、体育の〝精神の充実〟に適うものです。
また、自らの誤りが点数などで表れ、勝敗が決まるスポーツ競技も同様に思いますが、かつてある国では学校の教育科目から音楽と体育が除かれていました。
個人的に学校教育から体育と音楽を外すことは、良いことと思えません。
音楽は人と人の心を繋ぐような情操を育むことから良いことと思えず、体育において良いことと思えない理由の一つは、空手やスポーツ競技のように体を通して自らの誤り感じ、自らの誤りを体で感じることによって、素直に自らの誤りを認めるような真摯な心が育まれないからです。
特に体育を外すことにおいては、体で自らの誤りを感じない分、頭のみで誤りを捉え、誤りがあっても理屈で誤りを正当化してしまう危惧を個人的に感じます。
かつて学校教育から音楽と体育を除いていた国の資源は、国民の頭脳と言われていました。
学校教育から体育、音楽を外した理由は、他の教科の時間を増やし、頭脳を高めることにあると思いますが、高い頭脳でこねられた屁理屈ほど、タチの悪いものはありません。
日本の学校教育が同国にならうことはないと思いますが〝体と心を育てる体育〟は、権力者の屁理屈が一端として世界を乱している昨今において、これからの国際社会を担う人材を育てるのに重要に思います。
空手は体育を担うことのできる武道です。
私は空手指導者として、空手の体育的意義を心掛けて日々の指導を務めたいと思います。
5.13.2025 記
今週の土曜日(5/17)の美馬道場の稽古はお休みです。
また今週の土曜日(5/17)の鴨島道場は時間変更で稽古を行いますが、変更は以下の通りです。
少年部<10時~11時>
選手クラス<11時15分~13時15分>
一般部クラス<19時~20時30分>
以上、よろしくお願い致します。
連休中の一昨日の月曜日(5/5)は大阪北支部錬成大会でした。
大会を主催・運営された新極真会大阪北支部<支部長>前田師範、前田道場スタッフの皆様、道場生が参加させていただきありがとうございました。
徳島西南支部からリトちゃん、レナちゃん、コタロー君が出場。
リトちゃんが組手で優勝、レナちゃんが組手、型で優勝でした。
結果はそれぞれでしたが、試合内容は3人とも良い内容でした。
3 人とも、よく頑張りました。
保護者の皆様もお疲れ様でした。
また、昨日の連休最後の火曜日(5/6)は四国岡山合同稽古でした。
いつも四国岡山合同稽古を企画、準備してくださる三好師範、野本師範代、近藤師範代ありがとうございました。
参加した道場生、付き添いの保護者の皆様もお疲れ様でした。
さて、我々の空手の組手(試合形式による自由な技の攻防)は、直接打撃(フルコンタクト)で行われます。
直接打撃ゆえに怪我のリスクは免れませんが、リスクを下げるために私は稽古組手であるスパーリングでは、上級者による下級者への〝手加減〟をうるさいくらいに指導します。
免れないリスクだからこそ、リスクは最小限に抑えなければなりませんが、上級者による下級者への手加減のないスパーリングは身体の怪我のみに止まりません。
手加減のないスパーリングは、下級者の心理的リスクにもなります。
スパーリングでの心理的リスクは場合によっては下級者の稽古意欲、空手への志を削ぐもので、無用な心理的リスクを下級者が受けないように指導者は留意しなければなりません。
しかし心理的リスクは、ストレスとして一概にして無用ではありません。
何事においてもストレスには、有益なストレスもあります。
下級者が空手の組手、スパーリングにおいてストレスを感じると、それを〝不条理〟と感じることがあると思います。
近年の小学校の運動会の徒競走には順位がないと聞きますが、そういった事に象徴されるように昨今の世相では、良くも悪くも全てにおいて皆んなが平等であることが正しいと喧伝されています。
それゆえ組手、スパーリングでのストレスを不条理などと、感じやすくなっていると思います。
先日の支部内の組手強化稽古では、いつもどおり上級者に対し下級者への手加減を指導しましたが、下級者に対してもスパーリングで感じるストレスに対する指導を行いました。
その内容を実際の指導での、言葉のままに綴ると以下の通りです。
下級者の人はスパーリングを怖いと思うかもしれません。
そしてスパーリング怖さを不条理、低学年の人にも分かりやすく言うと平等ではないと思ったりするかもしれません。
しかし残念ながら、その不条理、不平等は〝現実〟です。
世の中には現実として逃れられない不条理、不平等がありますが、我々の空手は現実に向き合う空手です。
スパーリングが怖くても、現実に向き合う勇気をもってスパーリングにのぞんでください。
以上のことを下級者に対し指導しましたが、空手における有益なストレスとは、現実に向き合う勇気を引き出すストレスです。
空手における有益なストレスは、上級者の手加減、下級者の勇気がうまく折り合って生じるものです。
〝手加減〟〝勇気〟はともに〝情操〟であり、手加減、勇気を生じさせる情操は〝武道精神〟です。
私は自身が指導する空手が、武道足らんをこと常に心に銘じています。
武道を示す有り様は様々にありますが、その一つは空手の修練者は老若男女を問わず、武道精神の具現者、発信者であることを修練の目的とすることです。
空手の指導者は、道場生を武道精神の具現者、発信者へと導くことが責務と私は任じています。
そのためには武道精神の格式を代表的に示す挨拶の指導も大切に思いますが、それ以上に質の良い稽古の必須条件ともなる手加減や勇気などの道場生の〝心の折り合い〟
を重視しています。
私は空手指導者として、若輩ながらも自らが武道精神の具現者、発信者であることに務め、稽古指導において多数ある武道精神の一つである、上級者と下級者の心が折り合う稽古指導を心掛けたいと思います。
5.7.2025 記
一昨日の日曜日(4/27)は昇級審査会及び組手強化稽古でした。
参加した道場生、付添いの保護者の皆様、お疲れ様でした。
また進行、稽古補助をしていただいた黒帯・指導員の皆様、ありがとうございました。
さて、結果は何事においても、人間関係を位置付ける一面を持ちます。
例えば空手の試合において、試合結果は順位で1位、2位、3位・・・と、ある意味の強弱における人間関係を位置付けます。
空手の試合結果のような順位は、1位が一番上の表彰台に上がるように上下の位置関係と捉えられがちです。
試合結果からは上下の位置関係が現れるために、下位者の上位者に対する劣等感が生じやすくなります。
下位者が上位者の圧倒的な実力を直接の対戦から肌で感じたり、または目の当たりにし、それが順位として位置付けられると劣等感を抱くのも無理はありませんが、劣等感は端的には負の感情であり、劣等感から逃れたいと思うのは人の自然な情です。
それゆえ人は、劣等感を抱く場所から劣等感を感じない場所へと、自分の居場所を鞍替えをしたりします。
人には色んな可能性があります。
自分の可能性を発揮させる場所は、色んな場所を巡るうちに見つかる場合があります。
劣等感を感じない場所へと鞍替えすることも、自分の可能性が発揮できる場所を見つけ出す一つの有効な手段と言えます。
しかし、どのような場所でも先達(せんだつ)はいるもので、人はどのような場所でも、それが自分にあった場所であっても、先達によって大なり小なりの劣等感は感じるものです。
自分にあった場所であっても、大なり小なりに感じる劣等感から逃げてしまえば、自分の可能性は自分自身で閉ざすことになります。
自分の可能性を開花させるには、劣等感から逃げてはなりません。
劣等感を覚える自分の無力、非力を真摯に受け止め〝自分の無力、非力こそが実力となる伸び代〟とポジティブに劣等感を捉えることが大切です。
ポジティブに自分の劣等感を捉えるためには、劣等感を生じさせる位置関係において視点を変えることが有効に私は思います。
劣等感をもたらす位置関係を上下に捉えるのでなく、フラットな前後の位置関係と捉えることで、そこからの視点は大きく変わります。
〝先達〟という言葉は「先にその道に通達して、他を導く人。先輩。」と言う意味であり、年齢的なことを示す言葉のようですが、年齢は関係ありません。
先達の対義語は〝後進〟ですが、先達と後進の位置関係は上下を示すものでなく、文字どおり前後を意味するものです。
空手において位置付けられる人間関係の間尺の 1 つは強弱ですが、強弱を上下に捉えてしまうと体格や身体能力などの先天的な要因から、抗えないような劣等感を感じがちになります。
しかし、フラットな前後の位置関係から強弱を捉えると先天的な要因よりも、先達が強さを身につけるために歩んできた道、または歩んできた道において乗り越えてきた試練が見えてきます。
どのような先達も最初から強かった訳でなく、強さを身につけるには相応の努力を重ねてきたものです。
先達の道を見据えると劣等感を持つ自分がすべきことも見えてきますが、先達が拳立て 100 回を出来るように努力したと知れば、自分も 100回出来るように努力することが劣等感を拭い、自分の可能性を開花させる自分のすべきことになります。
劣等感は視点を変えると、自分の可能性を引き出す契機となるものです。
空手、特に我々のフルコンタクト空手は強弱からなる劣等感が生じやすいために、その分、劣等感での視点を変える契機を掴みやすいものです。
空手を学ぶ人は、強弱における人間関係を上下と捉えず、フラットな前後の人間関係と捉えて欲しいと思います。
4.29.2025 記
全中国錬成大会が下記の通りに開催されます。
とき…7/6 ㈰
場所…ジップアリーナ岡山(岡山県総合グラウンド体育館)
支部内締切…5/31㈯
出場希望の道場生は指導員まで申し出てください。