サザエのお裾分け (original) (raw)

【契約神学】…パウロによるイスラエル学によると『置換神学』となります。

十七世紀に完成した釈義が間違った神学体系です。

※みことばを託されたのは、神の選びの民であるイスラエル民族です。

詩篇147:19~20ー主はヤコブにはみことばを、
イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、
このようには、なさらなかった。
さばきについて彼らは知っていない。
ハレルヤ。

***ヤコブ**…イスラエル民族と同義語

***イスラエル**…ヤコブと同義語

*おきて…律法の書/モーセ五書/トーラー

*さばき…預言書

*どんな国々…異邦人諸国

*彼ら…異邦人

置換神学の源流は、みことばを託されていない二人の異邦人です。

※オリゲネス…AD185年頃〜254年頃/異邦人信者、ギリシャ教父と呼ばれる神学者のひとり。
ギリシャ思想によるみことばの比喩的・霊的解釈を試みた人。
みことばを字義通りではなく、背後の意味を汲み取ろうとした解釈です。

※アウグスチヌス…AD354年〜430年/異邦人信者、ローマ帝国時代のカトリック教会の司教、ラテン教父の神学者のひとり。
オリゲネスの解釈を、聖書預言や特に『イスラエル』に適用しました。

イスラエル民族がメシアを拒否したため、聖書中の『イスラエル』を『教会』に置き換え、イスラエルの祝福の約束は教会に与えられると解釈した人。

『教会』こそが、『真のイスラエル』と解釈しますが、
祝福→教会
呪い→イスラエル という都合の良い解釈をしました。

千年王国』を比喩的に解釈し、「キリストの初臨と再臨の間にある=私たちは現在、千年王国に住んでいる」と主張しました。(無千年王国派)

カトリック教会の解釈となっていきました。
今日のプロテスタント教会も『イスラエル』に関しては置換神学の教えを受け継いでいます。←宗教改革の時に、正しい解釈に立ち返るべきでした!

しかし、ローマ人への手紙9~11章でパウロは、字義通りに学ぶことを教えていますが、置換神学者たちには理解できず、重要視されません。どちらかというと、無視されている内容です。
ローマ書9~11章は、ローマ書の中心テーマ(挿入句ではない)であり、著者パウロ新約聖書の中で初めて語った『神の義』を弁護する『最初の組織神学』としての内容となっています。

救いには、三つの側面があります。ローマ4:1~5:21

①義認:「義である」という神からの宣言を受け取ること。
そのとき、御霊(御父、御子)の内住が起こる。
罪の責めから、信者を解放します。

②聖化:内住の聖霊によって変えられていく過程。
罪の力から、信者を徐々に解放します。
そのためには、みことばを学び、学んだことを実践するという信仰生活が必要不可欠です。

③栄化:栄光の姿である神の御子のかたちに変えられる。
肉体の死によって起こるのではなく、携挙の時に栄光のからだとなります。
罪が存在するという事実から、信者を解放します。

イスラエルは、霊的傲慢と自己満足によって失敗しました。
しかし、イスラエルのメシア拒否は、最終的なものではなく、患難時代の最後の三日間で民族的に回心し、メシア受容に至ります。

ホセア5:15~6:3ー彼らが自分の罪を認め、
わたしの顔を慕い求めるまで、
わたしはわたしの所に戻っていよう。
彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。
さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また、包んでくださるからだ。
主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。
私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現れ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。」

ディスペンセーショナリズムでは、聖書のみことばに基づいて『八つの契約』があるとします。

osusowake.hatenablog.com

一方の置換神学では、二つ、もしくは三つの契約を基礎とする神学体系となっています。
これは、聖書を釈義した結果ではない『神学的契約』であるため、同じ置換神学の中でも契約によっては、支持派と不支持派とに分かれます。

〜契約(置換)神学における三つの契約〜

契約神学体系:神はイスラエルの代わりに『教会』をお与えになった、とします。
だからイスラエルの祝福はもう取り去られてしまった。
契約という概念を人間的に作り上げて、聖書を押し付けているため、みことばで
証明することができません。

①行ないの契約…創世記から釈義的に聖書箇所を示すことはできないため、アダムが置かれた『契約状態が推定される』だけの契約です。

内容は、神とアダムの契約とされますが、ディスペンセーショナリズムの『エデン

約』とは別物です。

osusowake.hatenablog.com

神の命令に服従すれば、永遠のいのちを得、不服従なら、死をもたらすとします。
アダムが罪を犯したとき、この契約は破棄されました。

置換神学者たちが引用する聖書箇所とそれに対する反論
詩篇1篇…アダムとは関係ない、モーセ契約に関する聖書箇所です。
申命記6:5~12…ここも律法の書のため、モーセ契約に関するものです。
申命記30:15~20…神とアダムではなく、神とイスラエルの関係の聖書箇所です。
・ローマ2:7~9…アダムの時代には、ユダヤ人も異邦人も存在していません。

置換神学は、このように聖書箇所を自分たちに都合よく適用しているのが特徴です。

②贖いの契約…御父と御子の契約だとする聖句が無いため、支持派と不支持派とに分かれます。

これは人間が導き出した契約へと導こうとするものです。

人類創造のはるか昔に、父なる神と子なる神とが結んだ契約だとします。
その内容は、御父は御子に選民イスラエルの頭とすることを約束し、御子は選民のために自発的に死ぬことを了承したとする契約です。

③恵みの契約…『贖いの契約』と違い、全ての契約神学者たちが同意しており、現在有効に機能している契約だとしています。
聖書の中に暗示されている、という立場です。

永遠の昔に、御父が『選民』と結ばれた契約だとします。

内容は、御父が御子を通して『選民』に救いを与えるために、御子が死ぬ。
『選民』は、神が提供したその『救い』を受け取る、とされています。

これには疑問があります。
・人類創造以前になぜこのような契約が必要となるのか?
・契約は、相互間であるのに、まだ存在していない『選民』とどのように契約を結ぶことができるのか?

契約神学者たちが最も重要視するのが『恵みの契約』であり、実際は複数の契約があるのではなく、種々の契約はこの『恵みの契約』の諸側面であるため、実際はこの契約ひとつだけだとされます。

「旧約時代の人々は十字架を仰見て救われ、新約時代の人々は十字架を振り返って救われる。」
「全ての時代の人々は『イエスが自分の罪のために身代わりとなって死んだ』と信じれば救われる。」
アブラハムモーセなど旧約時代の人々も、私たちと同じ知識を持っていた。」
「信仰の内容(福音)はどの時代も同じ。神の選びの民、それが『教会』である。」 などと言われるため、『イスラエル=教会(霊的イスラエル)』とされ
ます。

旧約聖書における『教会(霊的イスラエル)』は
・個人としての教会…アダムからアブラハムまで
・族長たちが教会…アブラハムからモーセまで
・国家的教会…モーセからキリストまで、とする。

しかし、ヘブル書の著者が、最初に『信仰によって』と紹介したのは、アダム
ではなく、その子のアベルです。

ヘブル11:4ー信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

また、置換神学の立場の人々の中には、聖書の一部、創世記を神話、もしくは御伽話だとする人たちがいますが、創世記に記述を否定するならば、例えば、ノアを否定するならば、その息子セムから出るアブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、十二部族も、ダビデも、マリヤも、受肉された神の御子イエスもすべて、神話/御伽話となり、実在しなかったことになります。

しかし、彼らはそのことに気づいていません。

『教会』の誕生は、使徒の働き2章のペンテコステからであり、『教会』は新約聖書で初めて明らかにされた奥義であるため、旧約時代の人々には知らされていませんでした。

最初の『恵みの契約』として拠り所とされる聖句は、

創世記3:15ーわたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼の踵にかみつく。」

ここはサタンに対する神の宣言であり、メシアに言及した原福音ではありますが、十字架預言の聖句ではありません。
十字架の死が初めて預言されたのは、イザヤ書53章であり、それ以前の人々は十字架の贖いについては知らされていませんでした。

知らされていない情報を当てはめたり、新約聖書の内容を旧約聖書に読み込んでなりません。
旧約聖書旧約聖書の文脈で解釈し、旧約聖書を土台に新約聖書を解釈すべきであって、『霊的解釈』や『比喩的解釈』を中心にすべきではありません。

どの程度の比喩的解釈をするかによって、携挙の時期やキリストの地上再臨、千年王国の時期が変わり、みことばではなく、解釈者が最終的な権威者となることが置換神学の大きな問題点です。

問題だらけの置換神学の立場で、聖書を理解しようとせず、みことばをみことばで確認しながら、神が言わんとする意味を掴むことができるようになりますように。ー祈ー