旅と映画 (original) (raw)

都立横網町公園で9月1日に行われる朝鮮人犠牲者追悼式典には、2018年からコロナ禍をはさみ、ほぼ毎年参加をしてきた。なぜ2018年かというと、その前年の2017年から小池百合子東京都知事が追悼文の送付を取りやめたからである。

追悼文は1974年以降、歴代の東京都知事が東京都民を代表して追悼式典に送付してきたものだ。それを取りやめる理由として、小池都知事は「都知事として、関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表してきた」と主張している。今年も都慰霊協会主催の大法要で「大震災の極度の混乱の中で犠牲になられた全ての方々に哀悼の意を表す」として、送付しなかった。

だが、地震やその後の火災による死者と、虐殺による死者では事情が異なっており、ひとくくりにするのが適切とは思われない。また、都知事が追悼文を送付しないことは、「6千人が殺されたというのは嘘」といった歴史修正主義的な言説の流布を助長しかねない。実際、小池都知事が追悼文の送付を取りやめた2017年から、「日本女性の会 そよ風」が「慰霊祭」と称する妨害を追悼式典に対し行ってきている。

このままでは、追悼式典そのものがつぶされてしまうのではないか。そのような危機感を持ったことが、私が追悼式典に参加するようになったきっかけだった。

確かに小池都知事は、今年も追悼文を送付しなかった。その一方で、今年は埼玉、千葉で行われている追悼の会に、両県の知事が初めて追悼文を送付した。

埼玉では、関東大震災時に殺害された姜大興(カン・デフン)さんの死を悼み、2007年から「姜大興さんの想いを刻み未来に生かす集い実行委員会」が追悼会を行ってきた。この会に初めて、大野元裕知事が追悼文を送ったのだ。内容としては「震災で犠牲になられた全ての方々の御霊に、衷心より哀悼の意を捧げます」と、虐殺に触れることなく曖昧なものだ。

しかし、9月3日の定例記者会見で、大野知事は「デマ情報にもとづいて、朝鮮人に対する虐殺があったことについては、県史にもすでに記述されているもので、痛心に堪えない」と発言し、虐殺が史実であることを明確に認めている。

千葉では、船橋市営馬込霊園で行われた朝鮮人犠牲者追悼式典に、熊谷俊人知事が追悼文を送付した。熊谷知事も、9月5日の定例記者会見で「これまでも、こうした朝鮮人の犠牲に関してあってはならないと申し上げてきた」「国籍や民族の違いを超えて、犠牲者を追悼したい」と話している。

東京の小池都知事は追悼文を送付していないが、埼玉や千葉ではそれぞれの知事が送付し、虐殺を史実と認めたり、「あってはならないこと」と非難する発言を行っているのだ。

追悼文を送付したのは、両知事にとどまらない。さいたま市で行われている追悼集会には、去年からさいたま市町が追悼文を送付している。熊谷市本庄市上里町の同様の会には、それぞれの市町長が出席し、追悼の辞を述べた。馬込霊園で行われた式典には、知事のみならず船橋市八千代市習志野市市川市鎌ヶ谷市の市長らも追悼文を送っている。

今年の都知事選挙で三選を果たした小池都知事が、任期中に追悼文を送ることはないかも知れない。だが、いずれ「送らないのは小池都知事だけ」という状況が生まれないとも限らない。小池都知事が送らないまま、任期を終えたとしても、次の東京都知事は「「この人は送るのか送らないのか」というプレッシャーにさらされるだろう。

さて、横網町公園朝鮮人犠牲者追悼碑である。台風の影響で今年の横網町公園での追悼式典は関係者のみで行われたので、私は夕方、個人的に手を合わせに行ってきた。夕方になっても同じように手を合わせに来ている人は多く、追悼碑の前で有志での小さな会も行われた。

途中で雨が降ってきたため、会はすぐにお開きになってしまったが、50年前、1974年に初めて行われた朝鮮人犠牲者追悼式典も、雨の降る中での開催だったそうだ。

関東大震災から101年目となる今年の9月1日は、台風の影響で様々な式典や集会が中止、あるいは規模を縮小しての開催となった。小池百合子都知事朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文の送付を取りやめた2017年以降、歴史修正主義者の団体「日本女性の会 そよ風」の主催で行われてきた自称「慰霊祭」も今年は中止である。

そよ風のブログによると、8月30日の夜9時頃、東京都から電話が入ったという。台風のため、本堂の慰霊祭は縮小開催、朝鮮人犠牲者追悼式典も実行委だけの少人数で行うという説明を受けた。そのため関係者で協議し、安全面を考慮して「慰霊祭」を中止することとした。東京都の求めに応じて公園の占有許可書を書き直し、幹部3名、警備3名のみで慰霊を行うとの書面を出した。書面にはそれぞれの名前と、慰霊の内容の詳細を記入した。

つまり、今年のそよ風の「慰霊祭」は一般の参加は中止、幹部と警備担当者計6名のみで行うこととし、名前と内容を記した書面を都の求めに応じて提出したということだ。

ところが、当日になってみると「規模を縮小して開催」のはずの、朝鮮人犠牲者追悼式典には200人(NHKの報道)もの人が参加しており、「正直者が馬鹿を見るということになった」というのが、彼らの弁である。

これだけを読むと、追悼式典側があたかも「だましうち」をしたかのような印象を与える。だが、私はライブ配信で追悼式典の様子を見ていたが、読経、宮川泰彦実行委員長の式辞、鎮魂の舞、短いメッセージの紹介のみで、例年より早く40分ほどで終了している。

私が「今年は規模を縮小しての開催になる」ことを知ったのは、前日8月31日の午後だった。ツイッター(現X)で追悼式典実行委員会の名による「お知らせ」が拡散されており、それで詳細を知った。

抜粋して紹介すると、「台風10号の接近に伴い、来賓と参加者の皆さんの安全を考えた結果、時間と内容を縮小したかたちでの開催とすることとなりました」「例年のようなテントと椅子は用意せず、メッセージのご紹介と献花を中心に、短い時間、実行委関係者のみで行うこととなります」「一般の参加者の方はご遠慮いただければ幸いです」「『鎮魂の舞』と読経については、雨の状況によっては、かたちを変えた形で行うことも検討しています」とある。この通りの開催であったと思う。(当日、その時間帯に雨は降っていなかった)

200人もの参加者があったことは、そよ風のブログで初めて知ったが、短い期間ではお知らせを十分に周知できなかったのではないか。皆がツイッターなどのSNSをしているわけではないし、追悼式典には私のように、なんらかの組織や団体に属せず個人的に参加している人も多いのだろう。縮小しての開催と知らずに来たり、知ってはいたがちょっと手を合わせるだけと考え来る人がいても、別におかしくはない。

さて、そよ風の「慰霊」の中身である。

慰霊が行われたのは、今年も横網町公園内にある石原町遭難者碑の前だった。石原町というのは、関東大震災時、町民約8千人の内およそ7千人が亡くなるという、甚大な被害の出た地域である。そよ風のブログには、碑の前で村田春樹氏と会長の鈴木由喜子氏がスピーチする動画がアップされている。そこで語られているのは、「6千人は根拠のない数字」「日本人が貶められている」という主張であり、石原町で亡くなった人々を悼む言葉は出てこない。

しかも、その後に永田秀次郎氏記念句碑のところまで移動した村田氏らは、「6千人虐殺という嘘の慰霊碑、これを我々は必ず撤去させます」「必ず破壊します」と大声で宣言した。永田秀次郎氏の句碑の近くには、朝鮮人犠牲者追悼碑が建っており、追悼式典の関係者がまだ残っていた。つまり、彼らはわざわざ追悼碑の近くまで移動し、式典関係者に聞こえるよう「追悼碑を撤去する」「破壊する」と言ったのだ。これのどこが「慰霊」なのだろう。

朝鮮人犠牲者に対する冒とくであるのは言うまでもないが、石原町の死者や復興に尽力した永田秀次郎をも自らの主張のために利用することである。さらに、「撤去」にとどまらず、「破壊する」とまで言うのは暴力の扇動に他ならない。

今年も9月1日に東京を訪ねた。都立横網町公園で行われる、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式典に参加するためである。今年で震災から101年。去年は100年の節目ということで、例年以上に関心を集め、多くの人が参加した。個人的には思いがけない出会いや、懐かしい人との再会があった。

今年はあいにく大型の台風が接近しているため、追悼式典は規模を縮小、関係者のみで行い、代わりにライブ配信するという。そこで式典は宿泊しているホテルの部屋で視聴し、終わってから個人的に朝鮮人犠牲者追悼碑に手を合わせに行くこととした。せっかくなので、亀戸の浄心寺にも足を延ばし、2年ぶりに亀戸事件犠牲者之碑にも立ちよろう。

ところが、亀戸駅についたところで、台風の影響と思われるどしゃぶりの雨。当時、亀戸署があった辺りで雨宿りをする。足止めはくったけれど雨が降ったおかげで少し涼しくなり、いつになく時間をかけてゆっくりと犠牲者之碑に手を合わせてきた。

亀戸事件犠牲者之碑

殺害された10人の名前が刻まれている

さて、両国へ移動し横網町公園に到着すると、警察官が何人もいてものものしく警備をしている。しかも朝鮮人犠牲者追悼碑のすぐ横に立っている、永田秀次郎氏記念句碑を囲むようにバリケードが張り巡らされ、句碑は白いシートで覆われている。これはどういうことだろう?

朝鮮人犠牲者追悼式典に対しては、これまで「日本女性の会 そよ風」という極右団体が繰り返し嫌がらせを行ってきている。具体的には、追悼式典が行われているのと同じ時間帯に、彼らも「慰霊祭」と称する集会を公園内で行い、追悼式典参加者に聞こえるよう外側にスピーカーを向け、「朝鮮人虐殺はデタラメ」といった侮辱的なマイクアピールを行うなどだ。

なお、この「慰霊祭」の中での参加者の発言は、東京都総務局人権部により2020年8月と今年8月の二度に渡り、不当な差別的言動、すなわちヘイトスピーチと認定されている。

そよ風の「慰霊祭」は今年も予定されていたが、台風の影響を考慮し中止になった。ただし、8月30日付のそよ風のブログは、中止のお知らせとともにこう結んでいる。

「本堂の慰霊祭や他団体の慰霊祭も縮小して開催又は中止、とのことなので、そちらに参加されたい方は各自HPなどでご確認下さるようお願い申し上げます」

横網町公園では、東京都慰霊協会の主催で毎年3月10日(東京大空襲の日)と9月1日に遭難者大法要が行われている。本堂の慰霊祭とはこの大法要のことだが、「縮小して開催」する「他団体の慰霊祭」とは何を指すのか。朝鮮人犠牲者追悼式典のことではないのか。

実際には、例年より短い時間で行われた追悼式典に対し、何かしらの直接的な妨害が行われることはなかったようである。だが、9月1日21時に配信された東京新聞の記事によると、追悼式典を行っている場所から数十メートル離れたところ(公園の外と思われる)から、「6000人虐殺はうそ」「根拠を示せ」「群馬の次は横網町だ」と書かれたプラカードや幕を掲げる人たちが十数人いたという。

「6000人」は朝鮮人犠牲者追悼碑に書かれている犠牲者数のことを指しているのだろう。確かに関東大震災時に虐殺された朝鮮人の数ははっきりわかっておらず、「数千人」というのが現在の定説だ。だが、6千人が何の根拠のない数字かというと、そんなことはない。

6千人という数字は「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」という朝鮮人留学生を中心とした団体が独自に調べ、それを1923年12月、上海に拠点を置く独立運動団体の機関誌「独立新聞」が報道したものだ。横網町公園の追悼碑が建立された1973年にはこれが定説であった。その後、調査研究が進み、現在では虐殺された朝鮮人、中国人、間違えて殺された日本人の数は千人から数千人と推定されている。

正確な人数がわからないのは、当時の日本政府が虐殺に関わった日本人の検挙や起訴を限定的にしか行わず、犠牲者の遺骨をわからないように処理するなど、事件の隠蔽を図ったからだ。問われるべきは6千人という数字の妥当性よりも、まともな調査を行わなかった日本政府の責任の方だろう。

「群馬の次は横網町だ」というのは、群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に建つ朝鮮人労働者の追悼碑が、今年の2月に撤去されたことを言っているのだろう。次は横網町公園の追悼碑を撤去しろと。

実は、そよ風の関係者もこの日、全く同じ主張をしていたのである。

朝鮮人犠牲者追悼式典に関する過去記事はこちら

■2023年
追悼する人々と百年目の東京1.[追悼文を送付しないことの波紋]

追悼する人々と百年目の東京2.[今年のそよ風]

追悼する人々と百年目の東京3.[横網町公園で起きたこと①]

追悼する人々と百年目の東京4.[横網町公園で起きたこと②]

■2022年

今年も9月1日を東京で過ごす2.[朝鮮人犠牲者追悼式典①]

今年も9月1日を東京で過ごす3.[朝鮮人犠牲者追悼式典②]

■2020年
9月1日を東京で過ごす1.[東京都議会と歴史修正主義]

9月1日を東京で過ごす2.[そよ風という団体]

9月1日を東京で過ごす3.[追悼する人々の反撃]

9月1日を東京で過ごす4.[9月1日の横網町公園]

KBCシネマで、ジェームズ・キャメロン監督の「ターミネーター2」を鑑賞。1991年に公開され、日本でも大ヒットした作品だ。私自身は劇場公開された時は観ていなくて、数年後にDVDで鑑賞したように思う。

ストーリーをごく簡単に説明すると、人間と人工知能との間で戦争が勃発している未来から、1994年(現代)のロサンゼルスに殺人マシーン「T-800」が送り込まれてくる。1作目(1984年)でのT-800の使命は、人間側のリーダーであるジョン・コナーの母親、サラ・コナーを殺すことだった。ジョンが生まれる前に母親のサラを殺してしまえば、必然的にジョンはこの世に生まれないからだ。

だが、2作目でのT-800の使命は「別の殺人マシーンから二人を守ること」である。未来のジョンが、現在のジョンと母親を守るために送り込んだのだ。1994年の時点ではジョンはまだ10歳の少年であり、母親のサラは精神科の病院に入院している。

サラは前作で、未来に人間と人工知能の戦争が起き、核によってとてつもない数の命が奪われることを知ってしまう。彼女はそれを阻止しようとするのだが、誰も彼女の話を信じず、精神疾患による妄想と片付けられ、病院に収容されてしまったのだ。ジョンは母親から引き離され養父母に育てられているが、幼い頃から母親に聞かされ続けた人間と人工知能の戦争の話が「妄想」であったことに深く傷つき、養父母にもなじめず非行に走っていた。

このように社会から孤立した二人が、圧倒的な力を持つT-800に守られながら、「運命を変える」ために行動を起こす話だ。

公開当時はSFX(特殊撮影)を駆使した映像や派手なアクションが話題になっていたが、改めて見てみると登場人物のキャラクターがとてもよい。

前作では「守られるヒロイン」だったサラが、今作では病院に収容されながらも身体をきたえ、自ら武器を持って立ち上がる「闘う女」になっている。その息子であるジョンは、やんちゃで賢い少年だが、複雑な生い立ちのために心を閉ざしている。一方で、「人を殺してはならない」という倫理観を身につけており、殺人マシーンであるT-800にも「人は殺すな」と命令する。そして機械であるT-800は、それをきっちりと守るのだ。

1作目では悪役だった殺人マシーンのT-800が、ジョンと接する中で情報をアップデートし、フランクな言葉遣い(「地獄で会おうぜ、ベイビー」)やハイタッチを覚える。そのギャップがほほえましい。だがパワーは絶大で、どんなに絶体絶命の場面でも母子を守り抜くのだ。

ところで、この母子(とT-800)の戦争を阻止するための行動に、途中から加わる人物がもう一人いる。コンピューターの技術者であるダイソンだ。彼が近い将来に開発する技術が、未来の戦争の発端となっているのだ。最初はサラに命を狙われるが、自分の発明が多くの人命を奪うことになると知り、ダイソンもこれを阻止すべく立ち上がる。ダイソンは黒人の男性である。つまり、「おんな子ども」と黒人のチームが未来を変えるのだ。それを白人男性の姿をしたT-800が強力にサポートする。

社会は行動を起こすマイノリティによって変わり得る。そしてマジョリティはそれをバックアップすることができる。そのように解釈するのは、うがちすぎだろうか。

KBCシネマで、二村真弘監督の「マミー Mommy」を鑑賞。1998年7月に起きた「和歌山毒物カレー事件」で死刑判決を受けた林眞須美死刑囚の長男を中心に、事件の関係者に聞き取りを行い、真相に迫るドキュメンタリーだ。

この事件のことは私も覚えている。地区の夏祭りで提供されたカレーを食べた人たちが、「食中毒」で救急搬送された。カレーには猛毒のヒ素が混入しており、小学生を含む4人が亡くなる。カレーの準備に関わっていた林眞須美氏が、夫の林健治氏と保険金詐欺を行っていたことや、健治氏自身もヒ素中毒での入院歴があることなどから疑われるようになる。メディアの報道が過熱する中、眞須美氏が逮捕、起訴される。眞須美氏は保険金詐欺は認めるものの、カレーにヒ素を入れたことは否認。だが、2009年5月、最高裁で死刑が確定した。

今でも鮮明に覚えているのは、眞須美氏が取材に訪れた報道陣に向かって、ホースで水をかけるシーンだ。当時、テレビのワイドショーでは繰り返し、この場面が報道された。半笑いで水をかける姿は、彼女のふてぶてしい「毒婦」ぶりを世間に強く印象づけた。

だが、映画館で久しぶりに見たこのシーンは、ずいぶん違っていた。連日、自宅を多数の記者やテレビカメラに取り囲まれ、眞須美氏は明らかに困惑し、怯えているようにすら見えた。怖いから、追い払おうとして水をかけた。考えてみれば、当たり前のことだ。だが、その当たり前に当時の私は気付かなかった。私も「この人がやったのではないか」と疑惑の目を向けた一人だ。だから、この映画を観に行ったのである。

林眞須美死刑囚に冤罪の疑いがあるということは、2012年公開のドキュメンタリー映画「死刑弁護人」を観て知っていた。二村監督の「マミー Mommy」では、より具体的にその可能性に踏み込んでいる。目撃者の供述調書が取り替えられ、供述内容が変わっていること。科学鑑定の妥当性に疑いがあり、事件に使われたヒ素と林家にあったヒ素が同じものだとは断定できないこと。動機のあいまいさ。林夫妻が行った保険金詐欺の内幕。

最も重い事実は、「林眞須美は冤罪かも知れない」ことを、少なからぬマスコミ関係者が知っていることだ。映画のパンフレットによると、特に主要メディアの記者やディレクターは、二村監督が知り得た内容のほとんどを既に把握していたという。にもかかわらず報道しない。取材がある程度進んだところでテレビ局に打診したが、「死刑判決が確定している事件を扱うのは難しい」「再審が始まったらできるかも知れないですね」と、どこも取り上げてくれなかったという。当時はあれほど繰り返し報道しておいて、この他人事のような態度は何だろう。

一方で、忘れてはならないのはこの事件には被害者がいることだ。2018年に和歌山市保健所が事件の被害者を対象に行った健康調査では、今も回答者の1割が急性ヒ素中毒の後遺症と見られる手足のしびれや痛みに苦しんでいる。遺族は犯行動機がわからず気持ちの整理がつかずにいる。近隣の住民は固く口を閉ざし、今なお事件について語ることはタブーである。そこには未だ癒えぬ深い傷があることがうかがえる。

苦しんでいるのは被害者とその周りの人々だけではない。林眞須美氏の長男は壮絶ないじめと差別を受け、映画の公開にあたっては生活の安全を脅かされるような激しい誹謗中傷を受けている。長女は2021年6月に自殺をした。眞須美氏は長女の死の11日後に、再審請求を取り下げている。(2024年2月に、3回目の再審申し立てを行っている)

多くの人の人生をめちゃくちゃにしておいて、自分は何食わぬ顔で生きている者がいるのかも知れないのだ。

[追記]

映画の中に、事件当時メディアスクラムに加わっていた元朝日新聞記者がインタビューを受けるシーンがある。報道するだけしておいて、その結果どうなっても自分は関係ないと言わんばかりの態度にはらわたが煮えくり返るのだが、この元記者こそ、2022年、週刊「ダイヤモンド」に対し、故・安倍晋三首相に関する記事を公表前に見せるよう、圧力をかけた記者だった。この行為は報道倫理規定に抵触するとして、元記者は停職1か月の懲戒処分を受け、のちに朝日新聞を退社している。現在はネットなどで活躍しているようだ。峯村健司。覚えておこう。

映画「オッペンハイマー」の見せ場の一つは、1945年7月16日に行われたトリニティ実験を再現した場面だろう。

トリニティ実験は、ロスアラモスから約320キロ離れたニューメキシコ州中南部の砂漠地帯ホルナダ・デル・ムエルト(スペイン語で「死者の旅」の意)で行われた。人類史上初めて行われた核実験で、のちに長崎に落とされる「ファットマン」と同型のプルトニウム原子爆弾が用いられた。

ロスアラモス研究所から遠く離れた場所で行われたのは、核実験により深刻な被害が生じかねないことを、連邦政府も科学者も理解していたからに他ならない。

1993年11月、ニューメキシコ州アルバカーキーの新聞「アルバカーキー・トリビューン」に衝撃的な記事が連載された。1945年から47年にかけ、連邦政府の指示により、プルトニウムが人体に与える影響を知るための実験が行われていたことを伝えるものだ。実験はカリフォルニア大学、シカゴ大学ロチェスター大学などで行われ、研究者らが18人の市民にプルトニウムを注射していた。この実験も、マンハッタン計画の一部だった。

にもかかわらず、放射性物質の危険性について、トリニティの周辺に住む人々には何も伝えられなかった。映画では荒涼とした砂漠のように描かれているが、当時、周辺には約13万人もの人が住んでいた。多くはメキシコ系か、先住民のメスカレロアパッチ族だった。実験後、これらの人々の居住地にも放射性物質は降り注いだが、軍は「心配ない」と言うのみだったという。人々はこれまでと同じ生活を続け、被ばくした。

捨て置かれたのはトリニティ周辺に暮らす人々だけでない。ロスアラモスに国立研究所ができると、土地や生活の糧を失った先住民のプエブロ族やスパニッシュ系の人々が、職を求め研究所内でも働き始めた。だが、清掃などに従事する彼らに、放射性物質に対する十分な説明や安全面での配慮が行われることはほとんどなかった。

実験で使用した器具や廃棄物の処理もずさんだった。捨てられているものを、何も知らずに廃材の回収をしている人が拾うこともあった。やがて研究所で働く人や付近の住民の間で、乳がん前立腺がんの罹患率が増加し始める。

地元の環境団体が2006年に行った調査報告によると、ロスアラモスの周辺地域では、甲状腺などを傷つける原因になるポリ塩化ビフェニルの数値が、人体の健康への影響に関する基準値の実に2万5000倍にも及んでいるという。循環器や神経を傷つける六価クロムも、ロスアラモス研究所の帯水層には多く含まれており、ロスアラモス郡の飲料用の井戸が閉鎖される事態にもなった。にもかかわらず、付近住民の健康被害に関する調査は十分に行われておらず、関連性は不明確なままだ。

映画「オッペンハイマー」の中に華々しく描かれていたマンハッタン計画は、計画以前からその地に暮らしていた先住民やヒスパニック系の人々から土地を奪い、彼らが培ってきた伝統や文化を破壊し、アメリカ型の資本主義を持ち込んだ。それにより人々の生活の利便性が向上した面はあるが、それは望んで行われたものなのだろうか。核開発のために周辺の環境は破壊され、住民に深刻な健康被害すらもたらした。

この人たちがマジョリティであったら、これほどの不利益を被っただろうか。マイノリティだから省みられることもなく、踏みつけにされてきたのではないか。

オッペンハイマー」に登場しない、不可視可された人々にこそ私は目を向けたい。

[参考資料]

鎌田遵「アメリカ核開発における植民地主義と環境破壊 マンハッタン計画国立歴史公園の設置をめぐる一考察」

https://core.ac.uk/download/pdf/76203115.pdf

石山徳子「アメリ原子力開発と犠牲区域の空間構築 ―ナバホ・ネーションにおけるウラン開発を事例に―」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2013/26/2013_5/_pdf

「核実験場の風下には人が住んでいた」 アカデミー賞オッペンハイマー』が描かなかった被曝の真実

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2024/04/post-104213.php

ロスアラモスはニューメキシコ州の州都サンタフェから北西に約40キロ、標高2200メートルの高地に位置する。ネットで検索すると、澄み切った真っ青な空と岩山、赤や黄色に色づいた広葉樹などの画像が出てくる。シカやコヨーテ、プレーリードッグなどの野生動物も生息している。

この地に昔から住んでいたのが、プエブロ族の人々だ。16世紀にスペインの探検隊がアメリカ大陸を訪れた時には、既に居住していたので、それより前から住んでいたことは疑いない。1943年にマンハッタン計画の一環として、ここに国立研空所が建てられることになった時にはプエブロ族のほか、スパニッシュ系アメリカ人が牧場や農園を営んでいた。

連邦政府はこの人々に立ち退きを命じた。時にブルドーザーで農地をつぶし、暴力的に追い出すこともあったという。フェンスが張り巡らされ、自由に立ち入れなくなった。特にプエブロ族の人々は、山での狩猟や採取、長年執り行ってきた伝統行事などができなくなってしまった。

代わりに与えられたのは賃金労働である。ロスアラモス研究所が建設されると、6千人以上の科学者や技術者、その家族が移り住んできた。プエブロ族の人々は男性は建設労働者、女性は家政婦として働き始めた。彼らの生活スタイルは大きく変わり、山で狩猟をするのではなく、働いて得たお金で食料を買うようになった。電気などのインフラが整備され、生活の利便性は向上した。

こうした変化を、移り住んできた白人たちは「文明化」と捉えていたようである。1945年12月、つまり第二次世界大戦終結後に開催されたクリスマス・パーティーには、プエブロ族の人々と移り住んできた白人たちが一緒に参加をした。ともにダンスを踊り、パーティーが最高潮に達した時、プエブロ族の男性の一人がテーブルの上に立ち、「今は原子力の時代だ!」と叫んだ。

確かに、研究所ができたことでロスアラモスは都市化され、人々の生活は便利になったかも知れない。一方で、プエブロ族の人々が長年に渡り培ってきた独自の文化や伝統、価値観などは損なわれていった。彼らの生活はアメリカ型の資本主義に取り込まれ、先祖代々受け継いできた土地も大きく姿を変えていった。それは果たして、彼らにとって本当に望ましいことだったのだろうか。

もっと深刻なのは、核廃棄物による健康被害と環境破壊である。ロスアラモス研究所周辺に暮らす住民や研究所で働く人たちの間で、乳がん前立腺がんの罹患率が増加し始めたのだ。

[参考資料]

鎌田遵「アメリカ核開発における植民地主義と環境破壊 マンハッタン計画国立歴史公園の設置をめぐる一考察」

https://core.ac.uk/download/pdf/76203115.pdf

石山徳子「アメリ原子力開発と犠牲区域の空間構築 ―ナバホ・ネーションにおけるウラン開発を事例に―」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2013/26/2013_5/_pdf

「核実験場の風下には人が住んでいた」 アカデミー賞オッペンハイマー』が描かなかった被曝の真実

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2024/04/post-104213.php