神の恵みが私たちを生かす (original) (raw)

「何事にも時があり天の下の出来事には全て定められた時がある」コヘレトの言葉3:1

「すべてに時がある」というメッセージは1節から8節まで続き、9節では「人が労苦したところで何になろう」という結論が出る。今の私には、この箇所が私たちに「心配するな」というメッセージを送っているように感じられます。少々安易すぎるかもしれませんが、この「心配するな」というメッセージは聖書の中で度々わたしたちに語られるメッセージではないでしょうか。ルカによる福音書6:25ではイエス様自身が「食べるもの着るもののことで思い悩むな」とこれ以上ないほどに簡潔に語っておられます。また、マルコによる福音書4:35~41のエピソードでは弟子達がパニックになっている中イエス様は眠っておられました。ここでも、ある意味イエス様は「心配するな」と弟子達に示したのではないかと思います。一方、そのメッセージを受け取る側はどうでしょうか。悩む時、病む時、不安な時や怒る時、「心配するな」という言葉をもらっても、当事者である私たちはなかなかその言葉を信じられないでしょう。実際、先に例に出したマルコ4:35~41では弟子達はイエス様に苦言を言います。しかし、これは私たちが人間である以上仕方のないことなのだと思うのです。思うに、ここで大切なこと、それは心配しないことというより「心配するな」という言葉を信じること。つまり、信仰なのです。

私は「神の恵みを感じる時、神の恵みを感じないとき」という対になる状況について考えてみました。調子がいい時でも悪い時でも「なんか最近、神様の恵みを感じないな」と思う時には神が自分から離れてしまったような気持ちになります。特に、よくないことが重なったりした時には私は神様に嫌われてしまったんじゃないかなどと——。しかし、これだけははっきりと言いたいのです。神の愛と恵みは絶えず私たちに注がれています。思うに、「神様の恵みを感じない」という気持ちは神が私たちに恵みを与えないことによって起こされるのではなく、絶えず注がれる神の愛と恵みに感謝できていないという状態によって起こされるのだと思います。例えば調子の悪いとき、あなたが神様に感謝できないのは神があなたに祝福された恵みがあなたの欲するものではなかったからかもしれません。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

(マタイによる福音書6:22~23)

私は「目の澄んだ状態」、これは神様からの恵みを受け入れ、従順である状態だと考えました。あなたが神から頂いたものがあなたの欲するものではなかったとしても、神は最も良いものを私たちにお与えになるのです。神の計画は人の計画よりもはるかに優れたもので、それを信じ、それに従順である人はその光によって、より多く見えているのです。

神は私たちの歩む道を整えられ、また道中においては私たちを守ってくださいます。また、神は全ての時を定められます。だから、「人が思い悩もうが何をしようが何にもなりえない」のではないでしょうか。恵と愛の神の無条件の恩寵によってのみ私たちは生きるのです。ひたすらに神様の愛と恵み、御計画を信じて歩もうではないですか。また、信じるというのは思いの外難しいものです。ですから聖霊の働きを信じ、神様の助けによってそれを行なっていこうではないですか。絶えず祈っていきましょう。アーメン。