詩と哲学とアンティークのブログ (original) (raw)

石破新総理の衆院代表質問が本日行われた。

総裁選挙の時、あれだけ誇らしげに「守る」と連発していたにも関わらず、「守る」の言葉を避けるように少なかった。むしろ「守る」と言っていたのは質問側の野党だった。不思議なことではない。そもそも石破氏は「守る」という言葉に酔っていただけで中身はなかった。彼の「守る」には優先順位があった。それに気付いたのだろう。石川の被災民を守ることよりも瀕死の自民を守ることが優先なのだ。だからすぐに解散、選挙をする。今なら勝てると。選挙期間と選挙費用を使っても金権まみれの自民党を守りたいと。被災されされた県民の救済は後回しにされたのだ。震災により地盤は軟弱化していた。しかも復興には何も手がつけられていなかった。そこに大雨が土砂をいとも簡単に流していった。これは人災だ。

「守る」ことには優先順位があったのだ。国民よりも国。そのために軍備を増強して兵隊を徴兵する。そのために自衛隊の役割を憲法を改正して変えてしまおうと。火器を持ち戦える自衛隊にする。国民のためではない。国のために。権力者のために。私のためにではない。あなたのためでもない。あなたも私も国を守るために命を差し出せと。火器をもって突進しろと言っているのだ。国が私たちの命よりも最優先なのだ。

空前の収益で話題をさらってるトヨタだが、それと並行してデータの改竄が問題になっていた。何年にも及ぶデーター改竄は日本でのみ起こったのではない。アメリカでも秘密裏に行われていて集団訴訟になっている。それはドライバーの安全に関わる改竄だった。日本ではトヨタ純正のナビに不良品が発覚したのが一例だ。突然、地図データーを読み込まずブラックアウトする。旅行先ではとても危険な状況だが、トヨタはそれをHPで公開しただけで購入したドライバーにはその危険を告げていない。HPで不良品であるといっているのに、秘密裏に故障として処理していた。危険性のある純正ナビの存在はほぼ隠蔽された。損害を最小限に止めるための隠蔽だ。CMでトヨタイズムを強調するトヨタ社長。空前の収益でほくそ笑む。マスコミはCM欲しさにこの事実を黙っている。長いものに巻かれ、沈黙をしたマスコミの罪は重い。もちろんCM画面で微笑むトヨタは問題外だ。金と権力が悪を隠蔽し、空前の収益を握っていた。

袴田さんが無罪判決を勝ち取った。地裁での判決だが死刑からの無罪判決はとても重い。何より3件の証拠が警察側の捏造だと認めた。「捏造」は個人のミスによるものではない。明らかに集団の意図をもって行われたものだ。組織的であることが捏造の根深い問題だ。「社会的に弱いものを捕まえて犯人に仕立てる。証拠は後から作ればいい」。数々のギャング映画で見聞きしたことが現実には起こっている。組織的にやっていることが問題なのだ。悪とわかっていても誰も口を挟まない。誰も咎めない。そんな社会が問題なのだ。
トヨタは空前の収益を得ていると報道されて久しい。コロナ禍にあってもトヨタは収益を伸ばした。社長がテレビのCMに何度も登場し「トヨタイズム」を広めようとした。その裏で、トヨタは車の安全性に影響するデータを10年以上も改竄し続けていた。アメリカでは集団訴訟にもなっている。命を守らなくてはいけない企業が、収益を優先し顧客の命を蔑ろにしている。そのような不祥事が報道されてからも未来の車社会を社長は語っていた。日本のマスコミはトヨタからの圧力がかかっているのか、それとも放送局の忖度なのかほどんどこの問題を深く掘り下げようとしなかった。
一部のトヨタ純正の地図ナビゲーターに不良品が見つかっていたにも関わらず、トヨタはそれを隠蔽していた。突然、地図データーを読み込まなくなるという致命的で危険なナビであるにも関わらず、アナウンスを避けリコールを避け、秘密裏に症状が出たナビだけを修理をし損害を最小限に抑えた。その事実を販売店も本社も知りながら、データ改竄と同じように倫理的な間違いを指摘しなかった。
「捏造」に「改竄」。政治の世界では当たり前すぎてしまい誰も驚かなくなっている。麻痺をしている。声を上げても潰される。挙句、自殺に追い込まれる。だったら見て見ぬふりを決め込もう。「私は貝になりたい」の主人公のように。
今、日本の社会は少しづつ、そんな主人公ばかりになりつつあるような気がする。政治に無関心。選挙に行かないなど。日本の社会環境は民主主義を育てる環境から遠ざかっている。自由な発言ができる環境、政治的な発言が自由にできる環境からも遠ざかっている。
「捏造」や「改竄」を拒否する勇気。その勇気を認める社会。それが失われないように発言をしよう。またあの時代がやってくると思う。

天井桟敷の人々」をBSの放送大学講座でやっていた。完全版でそのスケールに圧倒された。様々な三角関係の中で、生と死が交錯する。でも時は何も解決することなくすぎていく。脚本のジャック・プレヴェールの言葉が全編に耽美な香りを放ち、水面に反射する真鱈な光のように、ライティングが役者達を眩しく照らしていた。これこそ芸術。これこそ人生。全ての喜びを集約した稀有な映画だ。

この映画がナチの占領中に作成されたことにも驚く。フランス人は占領されたことを卑屈に思わず、また征服者に遠慮もしない。むしろナチに立ち向かう不屈な精神で、消すことのできない芸術への情熱、命の輝きを描いてみせた。力による征服がいかに愚かで、醜いことかと諭すように。勝負は既に決していた。この映画の上映後、程なくしてパリは解放される。歓喜に満ちたパリ。それは「若者たちのパラダイス/天井桟敷の人々」なのだ。

金子辰也 新作ジオラマ展「カモメ」

会期: 2024年9月21日(土)~9月30日(月)

時間: 11:00~19:00

※最終日30日は16時close

会場: Au Temps Jadis @au_temps_jadis

(オ・タン・ジャディス)ギャラリー

東京都渋谷区神南1丁目5−4 ロイヤルパレス原宿102

◉金子くんと出会ったのは美術の予備校だった。お互い当時は高校生だから、既に半世紀以上経っての再会。彼がジオラマ作家として活躍しているのは、テレビ番組でジオラマチャンピオンになっていたので知っていた。また彼の容姿が予備校時代と全く変わっていないのでFBで見つけた。屈託のない笑顔は健在で、時間を飛び越えるのは容易だった。当時の彼の色彩感覚は非凡で、飛び抜けていた。全く追いつけない私は、ひたすら本や理論に頼ったのだが全く歯が立たない。結局、外国の絵具を使うことを発見。ひたすらお金で色彩感覚を手に入れようした。パントンマーカー、スピードライマーカーなどなど。おかげでフリーになってからは色彩に苦労はしなかったが、あの時の金子くんの色彩感覚には、足元にも及ばない。そんな彼のジオラマ展が渋谷の桑沢の裏のギャラリーで今月30日までやっているので、お時間のある方は是非見てほしい。意欲的な作品ばかりで面白いのでおすすめ。市販されているプラモデルをアレンジしているのも身近に感じていい。

小津映画の覚書

小津映画はあの時代の中産階級プチブルジュアの家族の物語を映画にしている。また中心には笠智衆演じる父親がいる。言ってみれば家族の中心にいる男親から見た家族を描いている。それが小津が最も近くあって、共感する世界で、最も描きたい世界なのだ。

政治的な何事も、イデオロギーの何事もそこに入ってこない。経済的な何事もそこにはない。社会的な地位や人権的な問題もそこにはない。そこには何の社会的、経済的なトラブルの必要はなくむしろそれらは彼の描こうとする家族には邪魔な要素なのだ。

あくまでも家族の問題を描いている。純粋に家族を描こうとしている。アングルは余計な要素を入れないための座った時の目線が中心だ。あえて俯瞰をすることなどない。父親の目線が大切でその高さとアングルが見るものを固定化する。安心して見ていられるのだ。

彼の遺作となった作品のみが唯一社会性を見せるものとなった。

なぜそのような世界を描いたのか。それが彼にとって最も身近で真実を描くことができたからに他ならない。彼の美意識や彼の構図、それらの全ては彼の責任の範囲にあったからだ。また同時に当時の彼の映画を見ることができた社会的な層が家族を持った父親だった。映画は父親を中心に鑑賞をされたのだ。父親に共感してもらい家族の問題に一喜一憂をするノンポリの富裕層が映画の消費者だったのだ。彼の映画は当然のように彼らの要求を反映し、家族のありうる問題を提示して見せたのだ。それが彼の映画の本質なのだ。

山中貞雄との関係について云々する方がいた。苔猿の壺と呼応するように笠智衆原節子が深夜に会話する背景に月の光に輝く壺が捉えられているという。残念ながら間違っていると思う。あれは壺ではなく花瓶だ。しかも陶器ではなく磁器だ。苔猿の壺とあの花器ではあまりにも格が違いする。小津のように骨董の知識のある方がそのような間違いをすることはあり得ない。あの場面は月の輝きの中であの磁器の艶が絵として欲しかったと思う。また真ん中で球体になるあの形態が欲しかった。しかも高級な格の違う花瓶でなければあのシーンをもたせることはできなかった。陶器の安価な黒い壺であってはならない。

また鶏頭の花が山中の影響だと言っていた。それも誤解だ。小津にとってのあの季節を象徴するのが鶏頭なのだ。確かに山中との思い出の影響があったとはいえそれは山中云々ではなく小津に刷り込まれたあの季節の象徴が鶏頭だった。またモノクロの中に何らんかの色彩を感じさせるのに小津の最もふさわしい花が鶏頭だったし、そこに嘘はない。彼は彼の映画の中で最も避けたかったのは嘘と妥協なのだ。彼の世界はそのことで稀有な存在なのだ。

「出処進退」は政治家自身が決めることだと岸田首相をはじめ多くの首相が発言してきた。それがまるで法律で決まっているかのように発言していた。その発言に誰も疑問を挟まない。それどころかその発言を聞くと、野党もジャーナリストもそれ以上の追及をやめてしまう。「出処進退」についての決まり事だと思っているのだ。

首相が指名した大臣の不祥事。政治家の不祥事。政党が推薦し当選を果たした知事たちの不祥事。それどころか首相自身の不祥事にも「出処進退」は政治家自身が決めることだと言っている。

なぜその言葉に納得をするのだろう。

「出処進退」は自身が決めることだというのはルールではない。単に帝王学での美徳でしかない。帝王の責任の取り方を語ったもので不祥事の中身については何も語っていない。不祥事の中身によって責任の取り方が違うのに、そのことについては何も語っていない。その言葉に簡単に誤魔化されてはいけない。中身を問うべきなのだ。責任ある立場の責任の取り方を問うべきなのだ。

兵庫県知事、斉藤氏の今回の問題で、彼を知事に押した維新の会と自民党は「出処進退」は自身が決めることだと発言していた。彼らが推薦をして誕生した斎藤知事である。その不祥事が表面化するとまるで他人であり関わりのないものとして突っぱねていた。その時言い捨てたのが「出処進退」は自身が決めることだという言葉だ。私たちに何も責任はない、知事個人の問題だという意味の言葉だ。しかし、聞きたいのは公人において推薦した人が当選して不祥事を起こしたことへの道義的な責任をどのように感じているのかということなのだ。

日本の選挙は候補者の公示から2週間ほどで投票をしなければならない。でも通常2週間程度で知事を決められるものではない。会ったことも話したこともない立候補者の適性をどのように判断するのか。有権者の判断基準の多くは推薦者だ。誰が推薦しているのか。何党が推薦してるのか。推薦や公認は日本の選挙においては重いし責任を持つ。しかし推薦し当選した人の不祥事に、彼らはなんらのペナルティーも負わない。そして利用できるなくなると分かると突然あの言葉が飛び出す。「出処進退」は自身が決めることと。私どもに責任はないと。帝王にだけに与えられた「出処進退」という言葉。日本では残念ながらこの言葉は誤用によって無責任の隠れ蓑になっている。帝王にもちあげ、得るものを得たら棄てる。私が問いたいのは帝王の「出処進退」だけではない。今の選挙制度で推薦をした政党の責任も問うべきだと思う。