どんな組織でも起き得る事態~イルケル・チャタク監督『ありふれた教室』 (original) (raw)

仕事熱心で正義感の強い若手教師のカーラは、新たに赴任した中学校で1年生のクラスを受け持ち、同僚や生徒の信頼を得ていく。ある時、校内で盗難事件が相次ぎ、カーラの教え子が犯人として疑われる。校長らの強引な調査に反発したカーラは、独自に犯人捜しを開始。ひそかに職員室の様子を撮影した映像に、ある人物が盗みを働く瞬間が収められていた。しかし、盗難事件をめぐるカーラや学校側の対応は、やがて保護者の批判や生徒の反発、同僚教師との対立といった事態を招いてしまう。後戻りのできないカーラは、次第に孤立無援の窮地に追い込まれていく。

4月頃に観た映画の予告編でかかっていて気になった一本。*1
最近の映画鑑賞は、常に眠気の急襲を受けないか不安を感じているが、今回は全然問題なく、要所を逃さず見ることができた。(それが普通なのだが…)*2
考えさせられる映画ではありながら、サスペンス要素、主人公への共感要素が高く、純粋に面白い映画として楽しむことが出来た。

主人公の役回りは、生徒のためを第一に思いながらも、校長をはじめとする教職員の決定には逆らえない中間管理職的なもの。納得できない決定事項を自分の口で説明しなくてはならない場合など、我が身に照らしても何度も経験があり、非常に身につまされる。
ただ、その上で、教師は特殊な職業だと思ったのは、会社組織などの上司-部下の関係などとは異なり、教師-生徒(日本で言う中学1年生)の関係は、基本的に全員に対して強い信頼関係が必要とされる点。
また、それと同レベルで慎重さを求められる保護者対応もある。

さまざまなレイヤで、行動選択についての説明が必要となるというのは何処の組織も同じだが、対生徒と対保護者で、それぞれの事情に応じた対応(生活指導も含む)をするだけでなく、時に「カスハラ」的に特別対応を要求されたりする可能性が多い点は、やはり教師という職業独自のものと言えるだろう。

ただ、パンフレットを読んでいて「確かに」と気づいたのは、作家・樋口毅宏の、日本ではリメイクできそうでできないのではないか?という意見。
日本の中学生が先生に対して「おかしい」と指摘するだろうか。学校新聞を使って「文春砲」を炸裂させるだろうか。そもそも日本の中学生はここまで成熟していないのではないだろうか。
確かに、その通りだ。

パンフレット執筆者は多くの分野に渡っており、ドイツ在住ジャーナリストの高松平蔵さんは、この映画の背景となるドイツの特徴についていくつかキーワードを挙げている。

『ありふれた教室』は、これらのドイツの社会状況が非常にうまく集約されて表現されているのだという。高松平蔵さんの言葉を使えば「ドイツ社会の鑑としての学校」だ。
そう指摘されると、外国系住民は以前より増えても3割、4割、ということはなく、議論文化もジャーナリズムもほとんど機能していない日本でリメイクされても、結局、教師と生徒が和解する夢物語に変質してしまうだろう。

今回、最後の右目周りに怪我をした状態も含めて顔が、そして表情が印象的だった主演のレオニー・ベネシュ。
パンフレットのインタビューでの受け答えが明確で、映画の中心的テーマについて聞かれたときの答えも興味深い。

『ありふれた教室』は私たちの社会にあるディベート文化に対する批判なのだと思います。カーラ・ノヴァクは、全てにおいて正しい行動で対処したい人物ですが、様々な理由で失敗を繰り返す。それは意図的に、また無意識のうちに誤解されることから起こる。イルケルは、私たちの「今」に存在する根本的な事柄を捉えていると思います。

先ほども挙げた「ディベート文化(議論文化)」は、今は上手く行っていないという。これはおそらくTwitterなどSNSでの議論モドキで、お互いの意見が止揚することなく、別方向に先鋭化してしまうことを指しているのだろう。
今回の映画でも、議論が進んでいるように見せかけて、結局ラストに向かって傷つく人が増える方向に進んでいる。それでもカーラ先生の言葉がオスカーに届いていたことがわかるルービック・キューブのエピソードには希望を感じた。

それ以外で面白いと思ったのは、監督・脚本のイルケル・チャタクが、主人公教師カーラ・ノヴァクの人物設定を最小限で考えるところ。

彼女の私生活は、あえて見せませんでした。彼女がどんな車を運転していて、どこに住んでいるのか。恋人がいるかどうかも見せなかった。こういった要素は、意味を成さないのです。

人の個性は、難しい状況の中でその人が下す決断に表れます。ストレスを感じている時、間題に対処しなければならない時に顕著になるものなのです。

どうでもいい設定まで詰めておくことが演技にリアリティを産むのだと思い込んでいたので驚いた。
それと合わせて後半の文にはショックを受けた。つまり、どんな趣味があって、どんな家族構成、ということよりも「難しい状況の中で下す決断」が人物評価の一番肝要な部分ということで、その通りかもしれない。そういう時にこそ、自分が見られているのだと気がつき、襟を正す気持ちになった。

さて、パンフレットには日本の学校現場を憂うメッセージもある。(真金薫子さん:三楽病院精神神経科部長・東京医科歯科大学臨床教授)

しかし、今の余裕のない学校現場では、燃えつき寸前で倒れそうな教師かその数歩手前のゆとりのない教師、あるいは理想を手放し生活のために日々無難に過ごすことを優先する教師の3通りしか残らなくなるかもしれない。それは、現場の指導の質を変える。余裕のない指導、つぎはぎの指導、短絡的な指導、おざなりな指導、問題を見て見ぬふりで蓋をした指導...。余裕のない学校現場の被害者は、教師のみならず子ども達、将来的には社会である。そして今進行している社会の急激な変化に伴い、学校現場のさらなる変容も避けられない。今後新たな問題や教育課題が発生することは必定である。現場の裁量でどうにかやりくりできる範囲は、とうに越えている。もちろんうまくいっている現場もあるが、生身の人間である児童生徒や保護者に向き合う学校では、いつ何が起きてもおかしくない側面は、常にある。映画という「夢」から醒めた現実もまた、厳しい……

ちょうど先日、教員給与の半世紀ぶり引き上げ方針が提言としてまとまった一方「定額働かせ放題」と言われる「給特法」の枠組みは温存することになってしまったという報道があったところだったので、改めて「日本の教育は大丈夫なのかな」と心配になってしまった。*4

www3.nhk.or.jp

ということで、教師という職業の難しさを改めて感じる作品だった。
と同時に、窮地に陥ったときも、常に生徒のことを考えて行動選択をするカーラ先生のように、自分も気持ちの準備を、何かのときのための「素振り」をしておかなければと思った。