人生ナメたろうのゲーム日記 (original) (raw)
私がまともな卒論を書くためには、どうやらドナルド・デイヴィドソンの真理条件意味論を理解する必要があるらしい。真理条件意味論の重要性を理解するためには、ゴットロープ・フレーゲの文脈原理の重要性を確認する必要がある。そして、文脈原理の重要性を理解するためには、意味の心的イメージ説と指示対象説についてきちんと理解しておく必要があるだろう。よって、意味の心的イメージ説と指示対象説について解説されている、青山拓央の『分析哲学講義』の講義2の文章を再読することにする。
意味のイメージ説とは何か?
意味とは、私がたとえば「アセロラの実は赤い」と言うときに思い浮かべている心理的イメージのことであり、意味の伝達とは、話し手の頭にある心理的で私秘的なイメージを聞き手に届けることである……。
以下のような意味伝達のモデルが「意味のイメージ説」の基本的な発想であり、19世紀までのいくつかの学説にもこうした発想が見出せる。しかし、分析哲学という哲学的潮流の始動と観念論からの離脱を決定づけたのは、意味伝達はけっしてそのようなものではありえない、という哲学的直観だった、と青山は述べる。
言葉の意味の同一性が、その言葉と結びついた心的イメージの同一性によって支えられているならば、心的イメージというものがその持ち主にしか確認できないものである以上、言葉の意味は客観的ではあり得なくなってしまう。
フレーゲの心理主義批判と、意味の指示対象説
フレーゲは、少なくとも「2+3=5」のような数学的文の意味は客観的でなければならない、という直観を数学・論理学的文以外にも拡張し、「心の中に意味は存在しない」という批判を展開した。この批判は「心理主義批判」と呼ばれる。
心の中という私秘的な空間から追い出された意味が客観性を持つためには、公共的空間に置かれなければならない。いかにしてか?
一つの説得力のある見解は、「言葉の意味とは、その言葉によって指示される対象である」とする「意味の指示対象説」である。たとえば、「東京タワー」という語の意味は指示対象としての東京タワーそのものである。
意味の指示対象説が抱える問題
しかし、意味の指示対象説にはいくつもの問題点がある。
抽象的概念の指示対象とは何なのか問題
しかし、「東京タワーは赤い」と言うときの「赤い」の指示対象は何だろうか。「赤い」は抽象的概念なので、特定の具体的対象を指示する語としては理解できない。
個物と普遍者という区別をすることがこの問題に答える第一歩である。個物とは、東京タワーのように、ある時間・ある場所に存在する具体的なものであり、普遍者とは、赤さのような抽象的存在であり、特定の時間・場所には位置していない。普遍者は特定の個物のなかに見出されるが、あくまでも普遍者がその一例としてその個物のもとに現れているだけである。哲学では、このことを「例化」と呼ぶ。
普遍者はどこに存在するのか。物理的世界でも心理的世界でもない世界に普遍者が存在する、といった考えは「プラトニズム」と呼ばれる。これは怪しげな見解に思われるが、フレーゲもラッセルも指示対象説を視野に入れた一種のプラトニズムを取ったという。
プラトニズムを否定し、存在するのは物理的世界だけであると考えるならば、抽象的概念の意味も物理世界の中に置いてやる必要がある。
そのための一つのアイデアは、「赤い」の指示対象は赤さの普遍者ではなく、赤い個物の集合である、とするものである。
しかし、このアイデアには、いくつもの問題点がある。
- 「『赤い』の意味は『赤い』と呼ばれるものの集合だ」という説明は循環している
- その集合はどうやって得られたのか、という疑問(「赤さをもつものを集めたのだ」という答えは論点先取である)
- 「赤い個物の集合」は可能的なものも含むのか、という問題(「もし机に赤い本があれば」とい仮想的文は明らかに意味を持っているが、その赤い本は現実の赤い個物の集合には含まれていない)
他にも指示対象が何なのか問題になる言語表現はたくさんある
指示対象説を文字通り受け入れるならば、意味のある言語表現はすべて指示対象を持つことになり、「赤い」のような性質的概念以外にもたくさんの言語表現が問題となってくる。
「すべての人間は死ぬ」の「すべて」「の」「は」は、どのような指示対象を持つのか。
文全体も意味を持つため、文の指示対象も存在するはずだが、真の文(正しい文)の指示対象は現実の具体的な事実であるとしても、「すべての人間は死なない」などの偽の文(正しくない文)の指示対象は何なのか。
このように、意味の客観性を説明できる良いアイデアと思われた意味の指示対象説は、少なくともその素朴なバージョンにおいては、いくつかの問題を抱えている。
この問題に哲学者たちはどう対処したか、というのが『分析哲学講義』講義3,4で論じられているテーマの一つである。
とりあえず序文と1節の翻訳を作りました。明らかな誤訳などあれば、コメントで指摘して頂けると嬉しいです。
原文はこちら↓
序文
額面通りに受け取れば、ナイジェルには約束を守る道徳的義務があるという主張は、ニュクスが黒猫であるという主張と同様に、事実を報告しようとするものであり、主張が報告する通りの事実であれば主張は真である。道徳実在論者は、このような観点において、これらのことは額面通りに受け取られるべきだと考える人々である。すなわち、道徳的主張は事実を報告しようとするものであり、事実を正しく報告していれば真である。さらに、道徳実在論者は少なくともいくつかの道徳的主張は実際に真であると主張する。この点だけは、道徳実在論に共通であり、およそ定義づける基盤となっている(けれども、道徳的実在論のいくつかの説明では、道徳的事実が人間の思考や実践から独立していることや、それらの事実が特定の方法で客観的であることなど、道徳実在論はさらなるコミットメントを含んでいるとみなしている)。
その結果として、道徳実在論を拒絶する人々は、(i) 道徳的主張は、それが真か偽かを考慮して事実を報告することを意図していないと考える人々(非認知主義者)と、(ii) 道徳的主張は事実を報告することを意図していると考えるが、ある道徳的主張が実際に真であることは否定する人々(錯誤論者)に、有効に分類される。
道徳実在論者たちは、認知主義(の採用)と錯誤理論の拒絶という点では一致しているが、どの道徳的主張が実際に真であるかということだけでなく、そうした主張を真にさせるのは世界に関する何であるかについても彼らの中で意見が分かれている。
道徳実在論は特定の実質的な道徳的見解ではなく、道徳的主張が真あるいは偽であり得、いくつかの主張は真であると考えることに伴うコミットメント以上の、特有の形而上学的なコミットメントを含んでもいない。それでも、道徳実在論に関する議論の多くは、主張が真あるいは偽であるために必要なもの(道徳的主張には必要なものがないという意見もある)や、道徳的主張が真であるために具体的に必要なもの(道徳的主張には世界が提供しない何かが必要だろうという意見もある)をめぐって展開されている。
しかし、道徳実在論者と反実在論者の間の議論は、共有された探究の対象があることを前提としている。この場合においては、関係者全員が道徳的主張として認めることに依存がない主張の範囲である。このことについて、二つの問いが提起され、答えられる。これらの主張は、主張が真あるいは偽どちらであるかを考慮して、事実を報告することを目的としているか? それらの主張のいくつかは真なのか? 道徳実在論者は両方とも「はい」と答え、非認知主義者は最初の質問に「いいえ」(そして、自動的に2番目の質問にも「いいえ」)と答え、錯誤論者は最初の質問に「はい」、2番目の質問に「いいえ」と答える。(真理と事実に関する「ミニマリズム」の導入により、物事はやや複雑になる。意味論のセクションを参照。)道徳に関わらない主張のいくつかが、事実を報告する意図を持たない(または持つ)こと、あるいはそれらの主張のどれも(またはいくつか)が真ではないことに注目することは、主題を変えてしまうことである。とはいえ、どの主張が道徳に関するものであり、したがって議論において問題となるのかを正確に確定することは、非常に難しい。概して、道徳実在論が真であるかどうかに関心のある人々は、どの主張が問題となっているかを直観的に把握することと、それらの主張について実在論が擁護可能あるいは不可能であるような、それらの主張が共通して持つものについての明確だが論争的な説明の間を行き来して取り組むことを強いられる。
どうみても、道徳実在論は常識と第一印象を味方につけて正当に主張し得る。しかしながら、その優位は容易に覆されるかもしれない。道徳的主張を真であると考えるのは誤りであることを支持するための強力な論証がたくさんあるためだ。
第1節 道徳的意見の相違
おそらく、最も長く続いている議論は、道徳的意見の相違の程度と深さに見出せる。単に意見が一致しないという事実だけでは、道徳実在論に対する挑戦にはならない。意見の相違は、問題となっているその主張が事実を報告することを意図していることを誰も疑っておらず、いくつかの主張が真であることを誰もが認めている場合でさえ、事実上あらゆる分野で見られる。
しかし、意見の相違はさまざまであり、道徳に関して見出される意見の相違は、次の2つのうちのどちらかを仮定することで最もよく説明できると考える人も多い。すなわち、(i) 道徳的主張は、実際には事実を報告することではなく、むしろ感情を表現する方法、他者のふるまいを制御する方法、あるいは少なくとも特定の物事に対して賛成または反対の立場を取る方法である、または (ii) 道徳的主張は事実を報告することなのだが、必要とされている事実が(実際には)見つからないだけだ、というものである。
一番目の路線をとる多くの論者が、人々が感情、態度、関心において異なっていることに注目し、道徳的な意見の相違は、人々が抱いている道徳的主張は(見かけとは裏腹に)本当はさまざまな感情、態度、関心を表現するための装置である、という事実を単に反映しているのだ、と主張する。
二番目の路線をとる他方の論者は、主張は純粋に事実を報告することを意図し得るが、完全に失敗し得ることに注目し(例えば、フロギストンや占星術の力、あるいは存在すると信じられていた神話上の人物に関する主張を考えてみよう)、道徳的な意見の相違がそのような主張がもつ形式をとるのは、主張に秩序と方向性を与えるために必要とされる事実が見出されないからだと主張する。
いずれの見解に立つにしても、道徳的意見の相違に特有な性質は、道徳実在論が偽であり、認知主義が偽であるか、あるいは錯誤理論が真であるかによって、十分に説明できると考えられている。
興味深いことに、この2つの議論の路線は実際には両立しない。道徳的主張が事実を報告することを意図していないと考える場合、そのような主張が報告しようとしている事実が存在しないことを明瞭に支持することはできない。しかし、重要な点において、それぞれの議論が引き出す考察は、互いを裏付けるために利用できるかもしれない。例えば、錯誤理論を擁護する者は、道徳的主張が人々の感情、態度、利益を表現したり、それらに役立つために用いられることを指摘し、道徳的事実が存在しないにもかかわらず、人々がなぜそのような議論を続けるのかを説明するかもしれない。また、非認知主義を擁護する者は、道徳的事実があるかのように語ることに実践上の利点があることを指摘し、実際はそうでないにしても、道徳的主張が事実を報告しているかのように見える理由を説明するかもしれない。
さらに、ほぼ確実に、これらの見解のそれぞれは、一部の人々や彼らの道徳的主張のように見えるものの使用について、重要な点で正しいことを示唆している。人々の道徳的主張がしばしば彼らの感情や態度を表現していること、彼らの関心のために働くことは疑いなく、少なくとも一部の人々は、私たちがそのような事実は存在しないと考える理由がある種類の事実を、道徳的事実として考えているのではないかと疑うことはもっともである。
しかし、道徳実在論者は、どんな程度であれ道徳的主張が他の使用を持ち、道徳的事実の擁護しがたい説明を持つ人々によってなされるかもしれないとしても、正しく理解された道徳的主張の中には実際に真であるものもあると主張する。道徳的意見の相違の性質に訴える議論に対抗するために、道徳実在論者は、意見の相違が実際には彼らのコミットメントと両立しうることを示す必要がある。
魅力的な第一歩は、上述したように、単なる意見の相違は(道徳実在論にとっての)欠陥ではないと指摘することである。実際、人々の間の差異を単なる違いではなく意見の相違と見なすには、彼らが互いに矛盾する主張をしているように考える必要があるように思われ、そして、このことはお互いが相手を誤った主張をしていると見なす必要があるように思われる。道徳的な意見の相違が単なる違いにとどまらない程度まで存在する場合には、少なくとも非認知主義を拒絶する必要があると道徳実在論者は主張する(人々が抱く見解が、感情、態度、関心によって大きく影響されるかもしれないことを認めるとしても)。これはもっともらしい主張であるが、非認知主義者は、認知的不一致を他の種類の不一致と区別し、道徳的な不一致は認知主義を必要としない種類のものだと反論し得るし、実際に反論している。実在論者はこの可能性を簡単に退けることはできない。けれども実在論者は、参加者がその主張を事実の報告しようとすることとみなすことに暗に訴えることなく、道徳的議論や意見の相違がどのように続けられているのかを、非認知主義者がうまく理解することを正当に要求することができる。
いずれにせよ、意見の相違の性質が認知主義にいくらかのもっともらしさを与えるとしても、道徳実在論者は、議論と意見の相違はすべて、主張のいくつかが真であるために存在しなければならない種類の事実が実際に存在するという、ある誤った想定に基づいているという錯誤論者の主張にも反応する必要がある。そして、道徳的実在論者がどのように反応するにせよ、誰もが認める広範囲にわたる道徳的意見の相違(または少なくとも違い)を謎にさせるような仕方で対応することは避ける必要がある。
道徳実在論者の中には、意見の相違は広く見られるが、それほど深刻なものではないと主張する者もいる。つまり、道徳的意見の相違は、共有された基本原則を背景にかなりの程度まで生じ、意見の違いは、道徳的原則に照らして重要な非道徳的事実に関する意見の相違に起因することが多い、と主張する。彼らの見解では、道徳的意見の相違の説明は、人々が直面するさまざまな非道徳的意見の相違の優れた説明となる全ての説明と同じものになるだろう。
しかし、他の道徳実在論者たちは、意見の相違は時に根本的なものであるとみなしている。彼らの見解では、道徳的な意見の相違は、事実に関する非道徳的な問題についての相違に起因するケースもあるが、常にそうであるとは限らない。それでも、実在論者たちは、残る意見の相違は非認知主義や錯誤理論によって十分に説明できるとする反実在論者の主張を否定する。その代わり、彼らは意見の相違について、別の説明を提示することが多い。例えば、実在論者たちは、意見の相違の多くは、道徳的な問題と不可避的に結びついている感情、態度、関心の歪ませる影響に起因し得る、と指摘する。あるいは、意見の相違に見えるものは、実際には人々が噛み合わないまま議論しているケースであり、主張が適切に理解されれば、それぞれが正しいと主張するものである可能性が高いと主張する(Harman 1975, Wong 1984)。そして実在論者たちは、しばしばこれらの説明戦略を組み合わせて、道徳的意見の相違の全範囲は、今述べたすべての考慮事項に偏りのない訴えをすることでうまく説明できると主張し、いくつかの意見の相違は根本的に道徳的ではないと扱い、他の意見の相違は感情や関心の歪んだ影響の反映と扱い、さらに他の意見の相違は人々が実際に主張していることの明晰な理解が不十分であることに起因すると扱う。これらの説明のいくつかの組み合わせが機能する場合、道徳実在論者は、道徳的意見の相違の存在は、それがどのようなものであっても、道徳実在論に対する反論ではないと主張することにおいて確固たる立場に立つことになる。もちろん、そのような説明が機能しない場合は、非認知主義または錯誤理論(つまり、何らかの形の反実在論)に訴えることが最善の代替策かもしれない。
以下は、デイヴィドソンの論文「客観性の問題」の読書メモである。
認識論的基礎づけ主義が直面する二つの問題:実在論を擁護することと、客観的実在という概念の獲得を説明すること
「すべての知識がそれぞれの心に媒介なしに与えられたデータを基礎とする」と主張する認識論的基礎づけ主義は、二つの問題に直面する。「私たちの心から独立の世界が存在する」という信念をいかに正当化するか、という問題と、私たちはいかにして「客観的実在」という概念を獲得したのか、という問題である。後者は、「私たちはいかにして、私たちの信念が偽でありうること、つまり私たちが信じることと実際にそうであることのあいだには基本的な違いがあることを認識できるようになったのか」という問いである。この問いが論文の主題である。
「思考に何が必要か」という問いは、「真理概念をもつとはどういうことか」という問いを要求する
生き延びることを目標とし、競争者や敵に脅かされながら必要なエネルギーを自力で集めてくるロボットは、それだけでは必ずしも思考を持っているとは言えない。ロボットは誤りを犯すかもしれないが、それは私たちの観点からの誤りにすぎない。「競争者や敵に脅かされながら必要なエネルギーを自力で集めてくる」ことは誤謬や誤りの概念をロボットに帰すことを正当化しない。
デイヴィドソンのねらいは、「世界に対処する私たちの能力のうちどれほどが思考を必要とせず、したがって思考を説明することがどれほど困難であるかを強調すること」である。
思考の必要条件は、「客観的真理という概念を把握しており、思考されていることが真または偽であり得ることを認識している」ことである。しかし、真理概念の把握は思考の十分条件でもある。では、真理概念をもつ、とはどのようなことなのか。
他者の心と世界の実在についての懐疑論者を反駁するのでなく、退散させること
「私が確実に知っているのは思考が存在することであり、そこから何が帰結するのか」という問いを出発点とする点で、デイヴィドソンはデカルトと共通している。しかし、「自分が知っていると思っていることの大部分を疑うふりをする」デカルトの方法的懐疑にデイヴィドソンは何の意味も見出さない。「誤謬が可能であるのは真理が十分多く捉えられている」ときであり、自身が持っている信念の大部分を疑うならば、「私が確実に知っているのは思考が存在することであり、そこから何が帰結するのか」という問いをそもそも問うことができない、とデイヴィドソンは主張する。デイヴィドソンによれば、まず、私たちは周囲の事物や心を持つ他者の存在についておおむね正しい見解を持っている、と仮定すべきである。
このような態度と方法は自然主義と呼ばれてきた。自然主義は、常識を受け入れることから出発し、そのような知識の本性と起源のある描写を追求する。そのような描写が成功すれば、他者の心と外界についての懐疑論は理解不能であることが示されるだろう、とデイヴィドソンは述べている。というのは、「思考を持つ、あるいは疑いを持つためには、すでに他者の心および他者と共有している環境の存在を知っていなければならない」ということが証明可能だと彼は考えるからである。それは懐疑論を論駁することではなく、他者の心や世界の実在を真剣に疑うことは不可能だ、と示すことである。
「私たちの信念の大部分が真である」と仮定することは、懐疑論に対する論点先取ではない
懐疑論のどこが間違っているかを認識するためには、判断と真理の概念の本性を理解することが必要である。「私たちの信念の大部分が真である」と仮定することは、懐疑論に対する論点先取ではない。たとえば、ラッセルは「科学は私たちが世界の知識だと考えているものが感覚によって媒介されていることを示しており、したがって私たちの(実在する世界についての)知識の主張は根拠のないものになってしまう。なぜなら、知られていることから知られていないことを導く妥当な帰納的推論は存在しないからだ」と主張している。つまり、科学を真だと仮定することから懐疑論が導かれる、という論証を彼は行っている。
信念を持つためには、誤謬の概念や真理の概念を把握していることが必要だ
思考の最も基礎的な形式は信念である。信念を持つためには、誤り得るということを理解していなければならない。驚く可能性を承知していることや期待を抱くことは、信念に本質に伴っている。つまり、信念を持つということは、主観的な信念と客観的な真理が一致していない(考えていることと事実が一致していない)可能性を理解していることを前提としているが、私たちはどうやって客観的な真理という概念を獲得したのか。
「概念」という語をどのように用いるか:概念を持つこととは、命題を抱くこと、判断を形成すること、真理概念の行使能力を持つことである
概念を持つということと、一定の性質を持つ事物を識別する能力を同一視するような、「概念」の用法をデイヴィドソンは拒否する。ひまわりは昼と夜を識別する能力を持っているが、昼と夜の概念は持っていない。
概念を持つというのは、判断を行うこと、すなわち、ある仕方で対象や事象、状況を分類したり特徴づけたりすることであり、それは真理概念の適用を必要とする。誤った判断は下すことがつねにあり得るからである。すると、概念を持つこととは、命題的内容(たとえば「Xという主張は真である」)を抱くことができるということになる。
これらのことは、概念を持つこと、命題を抱くこと、判断を形成すること、真理概念の行使能力を持つこと、といった心的属性はすべて等価である、という主張を導く。生物は、これらのどれか一つの属性を持つならば、他の全てを持つ。この主張を受け入れることは、「心的なもののさまざまな側面の全体論、つまりそれらの本質的な相互依存性」を認めることへの第一歩である。
真理概念はどんな概念よりも中心的な概念である。命題を理解するためには、命題の真理条件が何であるかを理解していなくてはならない
命題を把握したり抱いたりするためには、その命題が真であるとはどのようなことかを知らなくてはならない。「この男は背が高い」と主張しながら、どの男も指示していなければ、その命題は真でも偽でもないが、どのようなことが主張されているのかを理解することは可能である。それは、「この男は背が高い」という命題がどのような条件のもとで真になるのかを知っているからである。命題の真理条件を知るためには、真理の概念を持つ必要がある。なぜなら、どのような概念を持つにしても、あるものにその概念が真に当てはまる、というのがどのようなことかを知っている必要があるからだ。
思考の全体論:生物が一つの孤立した思考だけを持つことはできない
デイヴィドソンはある種の全体論を主張する。全体論の一つのテーゼは、「思考の同一性がそれと他の思考との関係によって部分的に規定される」、というものである。このテーゼに関して提起し得る問いは、生物が一つだけ思考を抱くことはあり得るか、という問いである。
「いま日が差している」とある生物が信じている、と主張するためには、日が差しているとはどのようなことかをその生物が理解しているという証拠が必要である。そのような証拠が存在するためには、生物が日が差していると誤って信じ得る(事実と信念が区別されている)ことをその生物自身が実証できなくてはならない。それを実証するためには、日、「いま」、差す、といった概念を別途に理解していることを示すことができればよい。
そのような理解を持つためには、日が差しているという信念のほかに多くの信念を持つことが明らかに不可欠だ、とデイヴィトソンは考える。
生物が思考を持つためには、いくつの思考が必要か:思考の本質的な創造性
生物が一つだけ思考を持つことが不可能であるならば、いくつの思考が必要なのだろうか。はっきりした答えはあり得ない。しかし、ある概念の集合を持つためには、思考や判断の形成における概念使用の能力が必要であり、そのためには述語づけや量化、記述の形成、複合的な述語づけの形成、同一性の概念の習得、その他もっと多くのものに対応する心的語彙が必要である。
これらの装置が動き出せば、思考の数を云々することはほとんど意味がない。私たちは有限個の概念を可能的には無数の仕方で組み合わせられるため、言語は本質的に創造的である。
また、十分発達した思考には、論理学における量化の装置に相当するもの、あるという観念とすべてという観念の行使の能力が含まれると想定しなくてはならない。クワインが主張し、タルスキが証明したように、そのような観念がなければ、生物に存在論を帰す根拠が失われてしまう。
態度内全体論という概念によってデイヴィドソンは何を考えたいか
態度内全体論と態度間全体論について。前者は、信念のカテゴリーのなかでの信念間の関係や欲求のカテゴリーのなかでの欲求関係に関わる。後者は、あるカテゴリーの思考と別のカテゴリーの思考の間の関係、たとえば思考と欲求の関係や、両者と意図の関係に関わる。
デイヴィドソンは、「態度」という語によって、命題的内容を捉えたり抱いたりする仕方を意味する。たとえば、ある命題が真であると思うこと(信念)、ある命題が真であると欲すること(欲求やその多くの種類)は、一つの態度である。
「態度内全体論」という概念によって、デイヴィドソンが主張したいのは、一つの態度のなかで多くの思考が存在する必要がある、ということだけではない。彼が考えたいのは、これらの思考が互いに関係づけられる仕方、すなわち、信念の組織や意図の組織、そのほか任意の態度の組織を構成するような構造である。
クワインの全体論は、何を主張して、何を主張しなかったか。全体論の真の重要性
クワインは「経験主義の二つのドグマ」やその後の多くの著作において全体論を強調したが、「一つの信念(あるいは一つの文の意味)の変化がかならず他のすべての信念の変化を伴う」とはけっして主張しなかった。
むしろ対照的に、クワインは「ある人の信念の全体が経験によって放棄せざるをえないような帰結を含意するとすれば、もともと持っていた信念の多くを保存するような仕方で自分の理論を変更することができる」ということを強調した。
全体論は、「私たちが信じ、意図し、欲するすべてのものが新しい情報の到来や反省の衝撃とともに不断に流動していること」を含意しない。全体論の重要性は、全体の動的な流動ということには少ししか依拠していない。
全体論の真の重要性は、「いかなる態度であれ、その内容はネットワーク全体におけるその位置に依存している」ということにある。
個々の思考や発話に実体化可能な内容があるわけではない。思考や発話の内容を規定する過程は、思考者や発話者の心のまえに何らかの対象が存在する、という仮定を必要としない。「二人の人が同じ思考を持つ」と言うとき、同一であるか、同一であり得るような事物が存在する必要はなく、「彼らが互いに相手を解釈できるくらい、つまり少なくともある程度までお互いを理解できるくらい、彼らの心の状態がよく似ている」と言っているのである。
態度内全体論を支える原理が重要になるとき:分析/総合の区別を断念する
態度内全体論を支える原理は、以下である。命題的態度と呼ばれる心の状態は、他のそのような心の状態との諸関係によって同定され個別化される。
たとえば「私はヘビを見ている」という信念は、ヘビについての私の多くの信念が偽であったとすれば、もはやヘビについての信念とは言えなくなる。こうした明白な論理的関係に限定されれば、ほとんど誰もその原理を否定しないだろう。
しかし、この原理が重要になるのは、クワインが主張したように、分析/総合の区別を断念することをこの原理を全面的に認めることが帰結するときである。
そのとき、私たちは、心の状態(あるいは発話の意味)を定義するような関係と「たんに」偶然的でそれゆえ内容に関わらないような関係とを区別することができなくなる。
偽なる信念は諸真理の存在によってはじめて可能になる
分析/総合の区別という考えを放棄したからといって、思考間のあるつながりが他のつながりよりも心の状態を特徴づけるにはるかに重要であるという考えを断念する必要はない。
たとえば「今日、雨が降っている」という私の信念は、それと論理的に関係のあるものを除いて、雨についての私の他の信念に本質的には寄与しない。しかし、「水分で飽和した大気における水滴の凝縮によって雨が生じる」という信念は大きな寄与をなしている。
以下のことから、私たちの信念の多くが真でなければならないことが帰結する。その理由は、信念の同一性は部分的に他の真なる信念との関係に依存しているからである。ヘビについての信念がヘビについての信念であるためには、ヘビや動物、世界の物理的本性にかんする真なる信念を背景としていなければならない。
「多くの信念が真でなければならないとはいえ、大部分の信念は偽であり得る」ことをデイヴィドソンは認める。この主張が意味することは、「私たちの信念の全体にかんして、その大部分が偽であり得る」ということではなく、「私たちの信念の全体にかんして、その特定の一つも偽であり得る」ということである。
偽なる信念は諸真理の存在によってはじめて可能になる、とデイヴィドソンは主張する。だが、彼が述べるように、この点はもっと詳しい論証を必要としている。
態度間全体論:さまざまな態度はお互いを必要とする。欲求、願望、意図、絶望、期待などのすべての態度は、信念に依存する
信念や欲求など、「命題的内容を捉えたり抱いたりする仕方」を意味する「態度」はお互いを必要としている。たとえば、私たちの欲求の大部分は信念に依存する。必要なものや価値あるものがお金によって手に入る、という信念を抱いていなければ、私たちはお金を稼ぎたい、という欲求を抱くことはできない。
また、デイヴィドソンは、「主観的確率すなわち信念が、選好ないし選択から抽出されることは、意思決定理論の研究から帰結することは明らかだ」と主張する。
信念と欲求、およびその他のすべては言語に依存する
「信念と欲求、およびその他のすべては言語に依存する」ということはアメリカのプラグマティストによってしばしば当然のこととみなされてきた。ミード、デューイ、ジェームズ、パース、セラーズは実質的に「いかなる思考も明らかに言語を必要とする」と述べている。デイヴィドソンはこのことを自明視せず、強力な論証をいずれ提示したいと述べる。
この論文で述べられたことと、述べられていないこと
デイヴィドソンはこの論文において、「私が考える」という事実から出発し、その事実から、「その多くが真でなければならないような多数の信念が存在する」ということ、「思考が可能であるためには、客観的真理という概念を持っている必要がある」ということが帰結する、と主張した。
デイヴィドソンは、「経験的知識が不可謬な信念や心に与えられる不可疑なものに依存するとも、また私たちの信念の内容が原理的に私たちの外にあるものから独立であり得る」と想定しない点において、知識についての反基礎づけ主義者であり、ある形の外在主義に門戸を開いている。
また、この論文において、懐疑論が維持できない見解であることを示すことをほとんど何もしなかった、とデイヴィドソンは述べる。
というのは、思考を持つためには多くの真なる信念を持たなければならないことが認められたとしても、そのような信念が心から独立した世界のあり方に直接関わっているということが帰結するわけではないからだ。「『私はいまヘビを見ている』という思考を持つためには、ヘビについての多くの真なる信念を持っていなければならない」という主張において、真でなければならないと主張されている真理とは、「ヘビが実在するとすれば、脚や腕を持たないだろう」という真理であって、「ヘビが実在する」という真理ではない。
また、客観的真理の概念を行使する能力が何によって説明されるのか、あるいは可能になるのか、というデイヴィドソンにとっての中心問題についてもまだ答えていない。
まとめ
この論文の末尾には、デイヴィドソン自身によるまとめがある。デイヴィドソンの知識観を示唆する重要な文章であり、かつこれまでの単なるまとめに留まらない主張をしているので、まるごと引用する。
デカルト以来、認識論は一人称の知識をその基礎としてきた。よくある話によれば、われわれはもっとも確実なもの、すなわち自分自身の感覚と思考についての知識から出発しなければならない。つぎに 何らかの仕方で、われわれはできれば、客観的な外界にかんする知識へと進む。それからさらに他者の心についての知識に向かって最後の心許ない一歩を進める。
私はこの構図の全面的な改訂を主張する。命題的思考はすべて、確信的であれ懐疑的であれ、内的なものについてであれ外的なものについてであれ、客観的真理の概念の所有を必要とし、この概念は他者と意思疎通する生物にのみ使用可能である。したがって、他者の心の知識はあらゆる思考にとってその基礎となる。しかし、そのような知識は共有された世界、つまり共通の時間と空間のうちにある諸対象から成る世界についての知識を必要とし、それを前提とする。したがって、知識の獲得は主観的なものから客観的なものへと進んでいくわけではない。それは全体論的に出現し、最初から共同的なものなのである。(『合理性の諸問題』邦訳pp. 41-42)
卒論に必要なので、SEPの「フィッチの認識可能性のパラドクス」2節を訳しました。
原文はこちら↓
Fitch’s Paradox of Knowability (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
論理学わからなすぎて翻訳ズタボロだと思うので、有識者の方教えてください。
(7)から何やってるのかまったくわからねー!!!
フィッチの推論は、文の地位を量化することを含む。 命題変数pとqは、宣言文を置換可能なものとして受け入れる。Kを認識演算子「いつか誰かによって知られる」とし、♢を様相演算子「可能である」とする。
認識可能性原理(KP)——あらゆる真理はいつか誰かによって知られ得る——を仮定する。
(KP)∀p(p→◇Kp).
そして、私たちは集合的に非-全知であり、未知の真理が存在すると仮定する。
(NonO)∃p(p∧¬Kp).
この存在論的主張が真であるならば、その例も真である。
(1)p∧¬Kp.
ここで、KPの変数pに(1)を代入したKPの例を考慮する。
(2)(p∧¬Kp)→K(◇p∧¬Kp)
(1)で表現された連言を知ることが可能であることはトリビアルに出てくる。
(3)K(◇p∧¬Kp)
しかし、この連言を知ることが不可能であることは独立に示される。(3)は偽である。
その独立の結果は、次の2つの非常に控えめな認識論的原理を前提としている。第1に、連言を知ることは、その連言の各項を知ることを含意する。第2に、知識は真理を含意する。それぞれ、
(A) K(p∧q)⊢Kp∧Kq
(B) Kp⊢p
また、次の2つの控えめな様相原理も前提されている。第1に、すべての定理は必然である。第2に、必然的に、¬pは不可能であることを含意する。それぞれ、
(C) If ⊢p,then ⊢□p.
(D) □¬p⊢¬◇p.
その独立した結果を考慮する。
(4) K(p∧¬Kp)Assumption [for reductio]
(5) Kp∧K¬Kp from 4, by (A)
(6) Kp∧¬Kp from 5, applying (B) to the right conjunct
(7) ¬K(p∧¬Kp) from 4-6, by reductio,discharging assumption 4
(8) □¬K(p∧¬Kp)from 7, by (C)
(9) ¬◇K(p∧¬Kp)from 8, by (D)
(9)は(3)と矛盾する。したがって、KPとNonOから矛盾が導かれる。すべての真理は知ることができるという見解の支持者であれば、私たちが全知ではないことを否定しなければならない。
(10)¬∃p(p∧¬Kp).
そして、すべての真理は実際に知られていることが出てくる。
(11)∀p(p→Kp).
すべての真理は(あるとき誰かによって)知られ得るという見解の支持者は、すべての真理は(あるとき誰かによって)知られていると認めることが不合理にも強いられる。
ジョン・マクダウェルの論文「価値と第二性質」は、ジョン・マッキーが著書『倫理学』において展開した「価値は実在しない(価値は主観と独立して存在するものではない)」という主張を反駁することをめざしている。
この記事は、「価値と第二性質」1,2節の論旨を理解することが目的である。
第1節 論文の目的:価値に関する日常的な見方を擁護する
まず、マクダウェルは、価値に関する私たちの日常的な見方についてのマッキーの見解を認めている。
J・L・マッキーは、日常的な評価的思考は世界の諸特徴にたいする感受性の働きというすがたで現れると強調している。そして、この現象学的テーゼは正しいと思われる。
(『徳と理性』邦訳、p. 103)
マッキーが価値に関する日常的な思考について述べている『倫理学』1章7節において、「感受性の働き(a matter of sensitivity)」という語は出てこないので、マッキーのどの見解にマクダウェルが賛同しているのかわかりにくいのだが、おそらく以下のような箇所だと考えられる。
しかし、価値についてのこの客観主義は、哲学の伝統の特徴であるばかりではない。それは通常の思考の中にも、そして道徳用語の意味の内部でさえも確固とした基盤を持っている。(『倫理学』邦訳、p. 33)
道徳的に当惑している人、例えば、細菌戦争の研究に携わることが自分にとって間違っているかどうか迷っている人は、この具体的な事例について、すなわちこれらの実際の環境でこの時にこの仕事を行うことについての何らかの判断に辿り着きたいのである。(中略)彼は、この行動の筋道が本質的に(in itself)間違っているかどうか知りたいのである。こうしたことが日常の客観主義者の概念であり、非自然的な特性についてのお話しは、そこから哲学者が再構成したものなのである。(同上、p. 36)
私たちは、日常的に価値を実在するものだと考えている。この点に関しては、マッキーもマクダウェルも同意見である。
また、「事実の表象が、それ自体で人間の態度や意志と関係することは、事実という概念からしてあり得ない」とする非認知主義の見解を退ける点でも、自身とマッキーの意見は共通している、とマクダウェルは述べる。
むしろ、そう主張する際の非認知主義の見解は、こうである。そもそも表象が評価的とみなされるには「態度」や意志との内的関係が必要である。しかし、事物のあり方を表している表象が、なんら水増しされることなしに、同時になおそうした関係をもつという可能性は、認知的あるいは事実的という概念からいってそもそもありえない、というのである。(中略)しかしマッキーが見て取っているように、事実的なものは定義上、態度や動機にかんして中立的であるという想定を正当化する十分な理由はない。
(『徳と理性』邦訳、pp, 103-4)
マッキーとマクダウェルが意見を異にするのは、価値に関する日常的な見方が誤りに基づいているかどうかである。
マッキーの見解は、〔日常の価値の現象学が錯誤でしかないことを明るみに出して〕その誤りを指摘することが必要だ、というものである。しかしマッキーは、彼の見解に抵抗する者がどういう立場を引き受けることになるのかについて誤った描写を行うことによって、彼の見解に分不相応の説得力を与えている。本論文で、私はこのことを示したい。
(同上、p. 104)
つまり、マクダウェルはこの論文で価値に関する日常的な見方の適切さを擁護したいのだと考えられる。
第2節 第二性質経験についてのマッキーの理解は誤りである
マッキーの見解によれば、価値に関する日常的な見方は、知覚のモデルを用いて価値の現れについて考えており、さらにそれは「第一性質」についての知覚モデルである。
第一性質とは、ジョン・ロックの用語であり、物体の大きさや形状などを指す。私たちに色や匂い、味などの感覚を与える力能である第二性質とは異なり、第一性質は、私たちの知覚の有無にかかわらず、物体に内在している性質である。
たしかに、価値が第一性質のようなものとみなすならば、そのような見なしは誤謬だろう、とマクダウェルは認める。
価値の現象学についてマッキーが正しいなら、価値の現れを受け入れようと試みるときには、なんらかの知覚モデルに訴えないですませることはほとんど不可能である。マッキーによると、そのモデルは第一性質についての知覚的な意識でなければならない。この場合には、価値の現れが誤謬であると論じるのは比較的やさしい。その理由はこうである。価値が人間の感性とは独立にただそこにあるという点で第一性質と似ている何かでありながら、しかし、それ自体として(すなわち、人間の感性の偶然的事情に左右されることなく)、それを意識した人から一定の「態度」や意志状態を引き出せるなどということが、どうして考えられるだろうか。少なくともよく吟味してみるなら、このような考えは真剣に受けとるに値しないように思われる。
(同上、pp, 104-5)
しかし、なぜマッキーは、価値に関する日常的な見方が、価値を第一性質のようなものとしてみなしている、と考えるのか。マクダウェルは以下のように述べる。
(前略)マッキーは、ロックに従って、哲学以前の素朴な意識において第二性質の知覚として理解されているものには投影による錯誤が含まれると考えているのだが 、マッキーはさらに、それと類比的な錯誤を日常的な評価的思考のうちにも見ているからである。
(同上、p. 105)
「哲学以前の素朴な意識において第二性質の知覚として理解されているものには投影による錯誤が含まれる」とは、どういうことか。おそらく、「私たちは物体の色や匂い、味を物体に内在している性質であるかのように考えがちだが、本当は色や匂い、味は私たちの感覚器官と相関的な性質であって、それを物体に内在する性質として物体に投影してしまっているのだ」ということだろう。
注がないので厳密にどこらへんを参照して言っているのかわからないのだが、マッキーはこの誤りと「類比的な錯誤を日常的な評価的思考のうちにも見ている」のだ、とマクダウェルは述べる。
そして、価値を第二性質のようなものとしてみなすならば、価値を実在として考えることは困難になるとマッキーは考えるのだが、このような第二性質経験(secondary-quality experiene)の理解は間違っている、とマクダウェルは主張する。
しかし私の見るところ、第二性質経験のこのような捉えかたには重大な誤りがある。
(同上、p. 106)
では、第二性質経験の正しい理解とはどのようなものか。3節以降でそれについての主張が展開される。
ジョン・ロックは、『人間知性論』第二巻八章二十三節で、物体の三種類の性質を区別している。
そこで、物体にある性質は、正しく考察すると三種である。 第一、物体の固性ある部分のかさ・形・数・位置・運動もしくは静止。それらは、私たちが知覚すると知覚しないとにかかわらず物体にあり、私たちに発見できる寸法〔の大きさ〕のときは、この性質によって事物自身のあるがままの観念がえられる。この点は、人工の事物でだれにもわかるとおりだ。私はこれを一次性質と呼ぶ。
第二に、ある物体にあり、その物体の感知できない一次性質によって、ある特定の仕方で私たちの感官のどれかに作用し、これによって私たちのうちにいろいろな色・音・匂い・味などのさまざまな観念を産む力能。通常、これらは可感的性質と呼ばれる。
第三に、ある物体にあり、その物体の一次性質の特定構造によって他の物体のかさ・形・組織・運動を変えて、私たちの感官へのこの物体の作用を前と違わせる力能。たとえば太陽はろうを白くする力能をもち、火は鉛を溶かす力能をもつ。通常、これは力能と呼ばれる。
これらのうち、第一は、すでに〔本章第九節で〕述べたとおり、実在的性質、本原的性質、あるいは一次性質と呼んで、適切であろうと思う。なぜなら、知覚されると知覚されないとにかかわらず、事物自身にあり、そのさまざまな変容に二次性質が依存するからである。
他の二つは、他の事物へさまざまに働く力能にすぎず、その力能は、それら一次性質のさまざまな変容の結果なのである。(ジョン・ロック『人間知性論(一)』大槻春彦訳、pp, 196-7)
道徳的事実の実在や、客観的な価値の存在をめぐって、一部の倫理学者たちは今日も論争を続けている。
そのような問題が倫理学の問題なのかについて、私は半信半疑である。
この記事では、考えを整理するため、さしあたり、客観的な価値が存在するかどうかは倫理学の問題である、という立場に立って、なぜそうなのかを説明してみよう。
1. 客観的な価値が存在するかどうかは、倫理学の問題である(少なくとも真理の対応説をとるならば)
なぜ、客観的な価値が存在するかどうかが、倫理学の問題になるのか?
それは、「真理の対応説」という考え方を採用すると、客観的な価値が存在するかどうかが、道徳的な真理が実在するかどうか、という問題に関係してくるからである。
真理の対応説とは、何らかの事実に対応することで、真理が成り立っているという考え方である。対応説によれば、「手を離せばリンゴが落下する」という物理的な真理は、そのような物理的に観察可能な事実が存在し、その事実と対応することで、真理として成り立っていることになる*1。
真理の対応説を採用するならば、「客観的な道徳的価値が存在しないならば、道徳的な真理も存在しない」ということになる。そして、もちろん客観的な道徳的価値は客観的な価値の一種である。
つまり、真理の対応説を採用し、かつ、たとえば「理由なき窃盗は道徳的に悪い」は道徳的な真理である、と主張したい論者は、客観的な価値が存在する、ということも主張しなくてはならない。したがって、客観的な価値が存在するか、は倫理学の問題になるのである。
2. 客観的価値の有無は問題ではないとするヘアと、問題だとするマッキー
次に、倫理学者の具体的な主張に即して考えてみよう。
ヘアは『倫理と現代社会』という著作で、以下のように言っている。
価値が世界の構造に客観的に組み込まれている一つの世界を考えてみよう。そして、そうした価値が否定される別の世界を考えてみよう。そして、二つの世界で、それぞれの人々が同じものに関心をもち続けると考えてみよう。つまり、彼らの「客観的」価値を除いては、彼らが物事に向かっていだく「主観的」関心にはいかなる相違もないと考えてみよう。さて、私の尋ねたいのは、こうした二つの世界の事態の間の相違は何かである。「相違などまったくない」というほかに、どんな答えが与えられるだろうか。それゆえ、両世界のどちらに私たち自身の世界が似ているかなどという疑問に、どうして悩まされることができようか。
(ヘア『倫理と現代社会』小泉仰監訳、pp, 75-6。)
つまり、ヘアは、客観的価値は倫理学の問題ではない、という立場である。
このヘアの主張に対して、マッキーは『倫理学』で以下のように批判している。
ところで、確かに、主観的な関心、すなわち価値づけたり物事を不正だと思う活動が、客観的価値が存在するかどうかにかかわらず、同じ方法で行なわれるということは論理的に可能である。し かしこのように言うことは、第一階と第二階の倫理学の間に論理的な区別があるということをただ 繰り返して言うだけのことである。第一階の判断は、第二階の見解の真偽によっては必ずしも影響されない。だからといって、これら二つの世界の間には何らの相違も存在しないということにはならない。[そう考えるのは誤りである。]一方の世界には、人々が物事に対して抱く主観的関心の一部を支持し、確証するものがあるのに、他方の世界にはない。
仮に二つの世界で、人々が一階の道徳的信念についてまったく同じ主張を抱いていたとしても、二階の道徳的信念(そもそも道徳的信念や道徳的主張とは何なのか?についての信念)について抱いている主張は明らかに異なっている。一方の人々は、客観的な道徳的善さというものはあり得ると考え、他方の人々はあり得ないと考えているからだ。
これがマッキーの批判である。私はこの批判に賛成である。
このマッキーの主張に対して、もし反論を試みるならば、「そのような二階の道徳的信念についての問題は倫理学者にとってのみ問題であり、他の人々にとっては大して問題ではないのだ」と言うことができるだろう。
ここで問題になってくるのは、たしかにマッキーの言うように「第一階の判断は、第二階の見解の真偽によっては必ずしも影響されない」けれども*2、第二階の道徳的見解を前提とせずに、第一解の道徳的判断を下すことができるのかどうか、である。
私はいまのところ不可能だと考えている。道徳的非難や道徳的主張を行うあらゆる人は、意識しているかしていないかを問わず、なんらかのメタ倫理学的見解(二階の道徳的信念)を前提としている、と私は考える。
よって、道徳的真理や客観的価値が存在するかどうかは、倫理学にとって論じるべき問題だと私は(さしあたり)考える。
もし、「道徳的真理や客観的価値が存在するかどうかは論じるべきではない」という主張が有意義な提案になり得るならば、それは「道徳的真理や客観的価値が存在するかどうか、よりも、道徳的真理や客観的価値が存在する/しないと人々が信じるとはどういうことか、を考えたほうが建設的だ」という提案だろう。
その提案に従う場合は、事実の問題として「道徳的真理や客観的価値が存在するか」は問題にならないとしても、意味の問題として「道徳的真理や客観的価値が存在する、とはどのようなことか」は問題になるだろう。