意味のイメージ説と指示対象説とは何か?——青山拓央『分析哲学講義』講義2 読書メモ (original) (raw)
私がまともな卒論を書くためには、どうやらドナルド・デイヴィドソンの真理条件意味論を理解する必要があるらしい。真理条件意味論の重要性を理解するためには、ゴットロープ・フレーゲの文脈原理の重要性を確認する必要がある。そして、文脈原理の重要性を理解するためには、意味の心的イメージ説と指示対象説についてきちんと理解しておく必要があるだろう。よって、意味の心的イメージ説と指示対象説について解説されている、青山拓央の『分析哲学講義』の講義2の文章を再読することにする。
意味のイメージ説とは何か?
意味とは、私がたとえば「アセロラの実は赤い」と言うときに思い浮かべている心理的イメージのことであり、意味の伝達とは、話し手の頭にある心理的で私秘的なイメージを聞き手に届けることである……。
以下のような意味伝達のモデルが「意味のイメージ説」の基本的な発想であり、19世紀までのいくつかの学説にもこうした発想が見出せる。しかし、分析哲学という哲学的潮流の始動と観念論からの離脱を決定づけたのは、意味伝達はけっしてそのようなものではありえない、という哲学的直観だった、と青山は述べる。
言葉の意味の同一性が、その言葉と結びついた心的イメージの同一性によって支えられているならば、心的イメージというものがその持ち主にしか確認できないものである以上、言葉の意味は客観的ではあり得なくなってしまう。
フレーゲの心理主義批判と、意味の指示対象説
フレーゲは、少なくとも「2+3=5」のような数学的文の意味は客観的でなければならない、という直観を数学・論理学的文以外にも拡張し、「心の中に意味は存在しない」という批判を展開した。この批判は「心理主義批判」と呼ばれる。
心の中という私秘的な空間から追い出された意味が客観性を持つためには、公共的空間に置かれなければならない。いかにしてか?
一つの説得力のある見解は、「言葉の意味とは、その言葉によって指示される対象である」とする「意味の指示対象説」である。たとえば、「東京タワー」という語の意味は指示対象としての東京タワーそのものである。
意味の指示対象説が抱える問題
しかし、意味の指示対象説にはいくつもの問題点がある。
抽象的概念の指示対象とは何なのか問題
しかし、「東京タワーは赤い」と言うときの「赤い」の指示対象は何だろうか。「赤い」は抽象的概念なので、特定の具体的対象を指示する語としては理解できない。
個物と普遍者という区別をすることがこの問題に答える第一歩である。個物とは、東京タワーのように、ある時間・ある場所に存在する具体的なものであり、普遍者とは、赤さのような抽象的存在であり、特定の時間・場所には位置していない。普遍者は特定の個物のなかに見出されるが、あくまでも普遍者がその一例としてその個物のもとに現れているだけである。哲学では、このことを「例化」と呼ぶ。
普遍者はどこに存在するのか。物理的世界でも心理的世界でもない世界に普遍者が存在する、といった考えは「プラトニズム」と呼ばれる。これは怪しげな見解に思われるが、フレーゲもラッセルも指示対象説を視野に入れた一種のプラトニズムを取ったという。
プラトニズムを否定し、存在するのは物理的世界だけであると考えるならば、抽象的概念の意味も物理世界の中に置いてやる必要がある。
そのための一つのアイデアは、「赤い」の指示対象は赤さの普遍者ではなく、赤い個物の集合である、とするものである。
しかし、このアイデアには、いくつもの問題点がある。
- 「『赤い』の意味は『赤い』と呼ばれるものの集合だ」という説明は循環している
- その集合はどうやって得られたのか、という疑問(「赤さをもつものを集めたのだ」という答えは論点先取である)
- 「赤い個物の集合」は可能的なものも含むのか、という問題(「もし机に赤い本があれば」とい仮想的文は明らかに意味を持っているが、その赤い本は現実の赤い個物の集合には含まれていない)
他にも指示対象が何なのか問題になる言語表現はたくさんある
指示対象説を文字通り受け入れるならば、意味のある言語表現はすべて指示対象を持つことになり、「赤い」のような性質的概念以外にもたくさんの言語表現が問題となってくる。
「すべての人間は死ぬ」の「すべて」「の」「は」は、どのような指示対象を持つのか。
文全体も意味を持つため、文の指示対象も存在するはずだが、真の文(正しい文)の指示対象は現実の具体的な事実であるとしても、「すべての人間は死なない」などの偽の文(正しくない文)の指示対象は何なのか。
このように、意味の客観性を説明できる良いアイデアと思われた意味の指示対象説は、少なくともその素朴なバージョンにおいては、いくつかの問題を抱えている。
この問題に哲学者たちはどう対処したか、というのが『分析哲学講義』講義3,4で論じられているテーマの一つである。