2024/10/16 (original) (raw)

今日は子どもの運動会だった。くもりときどき雨、という絶妙な天気でぎりぎりまで開催がわからず、八割型開催されないのでは、という気持ちで構えていたので開催の報を聞き慌てた。ばたばたと準備をする。

子どもが家を出ると入れ替わりに義父がやってきて一緒に運動会に向かう。夫は仕事のため、あとで合流するとのこと。低気圧とむわっとした湿気で、夢の中のような心地。

開会式から参加したが、保護者席に人はまばらでたくさんの子どもの中から自分の子どもも見つけられず、義父と二人でだらだら話す。

他の学年の競技を見ながら夫がなかなか来ないのでそわそわしてしていると、ようやく入り口のほうから歩いてくる夫の姿が目にはいる。黒いTシャツと新しく買ったUNIQLO:Cの黒いズボン。今日もかっこいい。なんなら保護者用の首から下げる 蛍光グリーンのカードすら夫が着けるととても素敵な装飾物に見えるから不思議。

50m走。誰よりも早くスタートダッシュをきった子どもだが、途中からキョロキョロしはじめて結局二位でゴール。こういう注意散漫なところは本当にわたしにそっくりだと思う(さらにわたしはスタートダッシュすらきれなかったけれど)。

二つ目のダンスは位置的にほとんど見れず、一旦お昼ごはんのために帰宅。午後は見どころがないこともあり、義父も家へと帰って行った。近所のパン屋さんでコッペパン祭りをしていて、様々なコッペパンサンドが売っていた。夫にサーモンバジル、海老カツを自分にはソーセージとマロン・カシス・クリームを買った。カシスは少しすっぱくて、マロンとクリームだけの甘ったるいところがおいしいなと思ってしまうあたりに自分のイケてなさを感じる。

昨年の運動会のときに子どもに「まわりはみんなおかあさんとおとうさんがむかえにきてた!わたしだけ1人かえりだった!」と責められたのを覚えていて今年は迎えに行こう、と閉会式の時間に学校に向かう。すると帰宅の保護者の波と逆行しており、ほんとうに大丈夫なのだろうか、と不安になる。何人か知り合いのお母さんとすれ違い軽く経緯を話すとみんな「あらー、やさしいわね!」といって颯爽と帰っていった。

待っている人はほとんどいなかったが、約束は約束である。ポケットにあった『競売ナンバー49の叫び』の文庫を読みながら待ってみる。30分ほどするとぱらぱらと子どもたちが出てくる声がしたので顔を上げると、周りにたくさんの保護者が待っていて驚く。おそらくわたしは早すぎたのだろう。いつだってわたしは早すぎるか遅すぎるかふたつに一つで、ちょうどいい時間というのがよくわからないのだ。

子どもは仲良しの友だち(ともだちてゆうかしんゆうね by 子ども)と一緒に出てきて、そのまま家で着替えて、その子(Kちゃん)と一緒にお絵描き教室に行く。

運動会ということもあり、普段は二人で行ってもらうのだが、今日はわたしもその子のお母さん(Mさん)も仕事が休みということで親子二組で向かう。

子どもを送り届けた帰り、Mさんと話しながら家まで歩く。話の流れで年齢を聞かれたので答える(32歳)。「なんなら20代かと思った〜」というMさんにどう返していいかわからずヘラヘラしていたら「年齢、聞かないんですか?」と聞かれたので「いいんですか?」というと教えてくれた。見かけ的に5歳くらい上だと思っていたら想定以上に歳上で、それを素直に伝えると「やだ〜」と嬉しそうに思いきり二の腕を叩かれる。その力強さが距離感の近さに感じられて痛嬉しい。ほんの数分だけどお互い少し込み入った家庭の話をして、家庭って、子育てってやはり複雑で難しいなと思う。

「こんな風に親子で仲良くできるママ友ができて嬉しいです。」というとMさんは「ほんと、この年になって友だちができて嬉しいわ〜。」と返してくれた。思い返せばMさんは何度か話したタイミングでわたしの下の名前聞いてくれて、それ以来ずっと下の名前で呼んでくれていた。〇〇ちゃんのママ、ではなく、わたしとしてのわたしを友だちだと思ってくれているのだな、と思ってママ友なんて枠組みで話してしまった自分を恥じた。

そのままお互い家に帰り、またお迎えに行く途中であったので、喋りながら教室へ向かう。

今日はデッサン、ということでKちゃんは堂々と絵を持ってきて見せてくれた。先生をモデルにした絵で少し漫画チックにデフォルメしていた。相変わらずの繊細で丁寧な筆致でKちゃんらしいいい絵だった。一方の我が子は少し目のまわりが赤くなっていて何も差し出してこない。「うまくかきたかったのに、かけなかったの。みせたくない」とご傷心の模様。少し思い当たるところがあり、そっか、と言ってそっと渡された粗雑に折られた絵を受け取ってカバンにしまった。

家に帰って子どもに許可をとり、絵を見せてもらうと思ったとおり。写実的に書いた素敵なデッサンだった。「まわりの子がアニメみたいにじょうずにかいていて、ぼくだけへんなの」

デッサンなので見たまま描きましょう、という指示通りに描いたはずが周りと違うものができてしまう。わたしも子どものころによく同じような現象にさいなまれた。例えば小学校一年生のとき、先生に「明日は特別な会なので気合い入れてきてね」と言われたので、翌日、特別にかっちりしたワンピースをひっぱり出して学校に向かうと、みんなはいつも通りのTシャツ姿で、異様に浮いた姿で縮こまっているとクラスの男子に揶揄われてしまったこと。

指示は聞いているがまわりを取り巻く空気を察することができないのだ。

それでもわたしは子どもの絵はモデルの特徴を捉えながら、子どもらしさが出ているとてもいい絵だと思ったのでそれを伝えた。

すると子どもも「先生もいろいろいってくれた」と教えてくれた。

「どんな言葉を言ってくれたの?」

「なんか、かなしくて、文字がおおくてわからなかった」

空気への敗北はいつだって尽くされた言葉よりも重たいのだ。

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