林檎好きの戯言ログ (original) (raw)
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思えば、最初にライブというイベントのためにわざわざ日本に訪れたのは、2016年3月31日~4月1日に開催された『ラブライブ!μ's Final LoveLive!~μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪~』がきっかけだったなぁ。
当時大学生だった自分は自分一人で遠征できるほどの財力などなく、また時期的に学期の真ん中であり、わざわざ海外のコンサートに行くために授業をジャーすることなんて厳しい親から許可が降りられるはずもなく、そのためわざわざ4日ぐらい地元から離れてもいいような授業スケジュールを意地でも作り、一般発売で1時間半ぐらい粘りに粘ってようやくチケットを勝ち取り、最終的に春の海外旅行という名目でFinal Day 2に参戦することができた。なんなら海外旅行のスケジュール的にもDay 2にしか行けないし、6年後の今当時を振り返ってみると、「よくあそこまで勝ち取れたなぁ」とやはり感心する。
一人で東京ドームに向かい、入場前にファンの方々のグループを淡々と眺めながら、物販スペースに足を運ぶ。参加させていただいたフラスタの確認もする。ライブ参戦でどれぐらい体力が使われるかがわからないから、念の為コンビニで食料を調達する。UOも二本ぐらい買う。色々準備を終わらせてから入場。会場の中めっちゃ煙たいけど大丈夫か…?でも楽曲が流れてるしなんか皆も曲に合わせてペンライトを振ったり色を変えたりしているから、自分も真似して練習しよう。SLSLとかの色変えめっちゃ楽しそうだし上手くできるようになりたいなぁ。輝夜の城のコール、絶対に正確にできるもん。
っと、そんな時間を過ごしていたのが6年前だったのだが、そのあとに続く時間は次世代のグループであるAqoursが齎してくれた最高の思い出の連続。とは言え、大学から卒業したところでいきなり金持ちになることなんて夢の夢であり、3rd埼玉と5thはフォロワーさんの好意のおかげで現地に行くことができ、それ以外(1st、2nd、函館UC、4th、アジアツアー、ラ!フェス、CYaRon! 1stまで)は全部地元のLVでの参加だった。また世界がコロナに襲われている今、大体のライブは在宅公演として生配信を観させていただいた。虹のシャッフルフェスや3rdも生配信だったなぁ。
また、ラ!シリーズ以外に、逢田梨香子さんのソロ活動のイベントも幾つか現地参戦いただいた(2019年バースデーイベント両部、with Us vol.1)し、2020年のバースデー生配信ももちろん拝見させていただいた。1stライブツアーの思い出が円盤由来で僅か全体の10%もないのがとてもとても残念ではあるが、仕方あるまい。
人は何故、現場に足を運びライブに参戦するのだろう?
円盤はともかく、コロナが原因で半強制的に流行らせられた生配信という文化。インターネット技術の発展により、様々な事情や考慮により現地参戦することを選ばなかったファンが、時間と基本の設備さえ備えていれば現地参戦の方々とほぼ同じ時間でライブを楽しめることができ、なんなら座席という運要素に囚われることなく、配信カメラによってアーティストの姿がよく捉えられている映像を楽しめたり、音量を自分で調節できたり、ライブのためにわざわざ移動時間や宿を確保する工夫をしなくても良いなどなど、そう言った利点が挙げられる。(そういえば2019年の逢田梨香子さんのバースデーイベント、昼の部は一階立ち見766番であって夜の部は一階二列というとんでもない経験をしたんだよなぁ…マジで昼の部の時はほぼ何も見えなかったぞ…笑)(with Us vol.1の時は3階だったし。たかいたかーい!)
オタク曰く、「帰るまでがライブ」。それはどういう意味かと考える時、やはり2019年の時の経験を元に推測すると、「ライブというパーフォマンス自体はもちろん、そのイベントの前後でのファン同士の交流もライブの一部だよ」ということだろう。クロヒョウ委員会ファンミという謎イベント、ライブ後の食事、急遽カラオケ…ああもう、楽しいことばかり。えっ、メラドでの鬼ごっこ?そういえばそんな鬼畜イベントもあったなぁ。(震え声)
そう、それらこそが思い出の共有。アーティストが目当てでライブに参戦するのは当然至極のことだと6年前の自分はそう考えていて、その同時にあの頃の自分では手に入れられなかったことこそが「思い出の共有」。まぁ当時はツイッターもやってたから、SNS上思いを綴ること自体もある意味思い出の共有ではあるけれども、やはり体に刻まれる思い出に比べると遥かに物足りないーーというのは2019年の自分の結論だった。
2022年になった今。人は何故現地参戦するのだろう?
コロナによってかけられた観客人数の制限。ひどい時は無観客。だからこその無観客生配信。一海外ファンとして、生配信文化が流行ることはこれ以上のないありがたいことではあるし、上記に言及した在宅公演の良さやチケットの料金のことを考えると、生配信は本当に便利で便利で。期限内ならアーカイブを何度も観てもいいし、現地参加で見逃した瞬間をアーカイブで何度も再確認できるし。なにより日本に行けなくても、自分の部屋でライブ観戦できるという利点は本当本当に大きい。
なら人は何故、現地参戦に拘るのだろうか?
2020年から始まった嵐に揺れながら、今頃ファンの方々はもう気付いている、もしくは気付かされているはず。「観客の存在はいかに演者を支えているのか」。
私個人は昔ステージに立つ機会がそこそこあって、自分の経験から「観客がいないステージだと、おそらく演者は多少デバフ喰らうなぁ」と推測できたのだが、本質はおそらくもっと深いところにある。すなわち、
「思い出の共有」って、ファン同士のみではなく、ファンとアーティスト双方のことでもあるということーー
ーーという概念は、やはり当然至極であって、今更提唱することにあまり大きな意味はないなぁ、っとここで思う私である。
でもおそらく、昔に比べると、その概念は頭の隅ではなく、もっと大きな空間を占めているんじゃないかな。それこそ6年前の今日に、そんなこと微塵も考えていなかったし、Aqoursに関わり始めてそこそこ意識始めたとは言え、こうして改めて考えるきっかけを見つけていなかったなぁ。
だって、今になっては、現地に行きたくても行けない身になっているのだもん。
前述通り、生配信に数々の利点があり、「楽ちん!快適!経済的!」というインドアオタクにとってこれ以上のない素敵な特徴があっても、今でもいつになるかがわからない現地参戦を夢見ているんだ。
ファン同士との交流然り、アーティストを支持すること然り。
なんなら本当のことを言うと、こういうご時世ではなく、少し前の世界で生配信をやってくれていたら海外ファンとしてはとても喜ばしいことになったことに違いないが、条件が揃っているのであれば、きっと私は楽ちんよりも現場の暑さを選んでいる。ライブというイベントに、それだけの意義と価値があるのだから。
自分に、ファン同士に、演者に。
オタクだから、私は欲張りなんだ。
私だから、つい自分のことを現地ファンのスタンダードで見てしまうんだーー現地参戦できることが当たり前だと、つい錯覚してしまう。
だから仮に生配信があっても、きっと私は現地参戦できないことに悔やむ。
私は円盤よりもリアルタイムを求めてしまう、生配信よりも現場を求めてしまう、そんな身の程知らない海外オタクなんだから。
それがライブなんだ。
公演スケジュールに悩む君よ、きっと様々なことを考えて悩んでいるのだろう。
でもどうか忘れないで、その悩みは、君のオタクとしての幸せと恵みとも言えるものなのだ。
悩み重ねた最後に選んだ選択肢は、きっと君に適った結論だろうし、「私たちみたいなやつがいるから、無理しても参加してこい」みたいなことを言いたいわけじゃないけどね。
ただ願わくば、未来のどこかで会おう。
その時に出会える私はおそらく、もっとライブの意味を噛み締めているはず。
【FINE】
「頭オーロラ」ならぬ、「頭アヴァロン」状態、というのが最近の私である。
どうもこんにちは、こんばんは。
ここんとこラブライブ!シリーズに関する呟きが2割、ウマ娘のが1割、「アヴァロン・ル・フェ」のが8割以上になっていて、さすがの自分自身もそろそろアウェイ感を体感できている頃なのだが、まぁ、「『好き』に出会えた途端語り口が止まらなくなるのがオタクの性」ということで、私は普段通りよろしくやっているということさ☆
それはさておき、「アヴァロン・ル・フェ」についての文字アウトプットは実はこれで二回目のトライである。一回目のトライはいまだに落書きにとってあるのだけれども、久しぶりに読んでみて、「んーーーー、重い!なんならちょっとくどい!」となり、それを公開するのはまた今度にしようと決めたわけだ。
上にあるスクショはあくまで一部抜粋なのだが、結局「アヴァロン・ル・フェ」を知らない人に紹介するにはまず背景知識から話さなければいけないし、それを簡略化するとしても微妙な結果しか残さない予感しかないから、「まぁ、おいおいね」と。なんなら実際に読んでほしいし実際に読んでもらった方が早い...というのは嘘です。FGOの仕様とストーリーのボリュームを考えるとどう足掻いても無理です。ある程度人理を救ったけれどまだ妖精國に辿り着いていないマスターでもない限り本当に無理です。でも読んでほしい、知ってほしいのは本当であり本望です。やはりアニメ化か小説化されるべきだと思うんだよなぁ.................(本気の切望)
それもさておき。
ほぼ全てのマスター(当社比)が口揃いして「心に傷が残された」と評するストーリー、「妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ〜星の生まれる刻〜」。妖精の国という世界でどこまでもファンタジックな雰囲気、その雰囲気に蓋をかけられたどこまでもおぞましい澱みと汚れ。
クリア当時は三日間ずっとそれに心が侵されていたから二週間ぐらいずっと魂が抜けた状態だったけれども、半年過ぎた今いろんなアウトプットの助力もあって、ようやくここまであのストーリーが好きな原因が言えるようになった気がする。何故いまだにところどころ泣いてしまうのは未だにわからないままなのだけれども。
誇り高き悪の女王-偉大なる救世主-が描いた絵本ーーその絵本にある世界は、最初から破滅しか待ち受けていなかった。
迫害される予言の子ーー心から世界の全てを嫌悪していて、それでも自分でもよくわからない理由で最期まで走り切った。
身勝手になることが最初から決められ、それでしか生きられない住人たちーー数多な悲劇はそこから生み出され、やがて破滅を招いた。
醜いもの。おぞましいもの。心を抉るもの。それらを見せられ、なお問いをかけられる。「私の国は美しいでしょうか。夢のような世界なのでしょうか」と。不思議なことに、「醜いに決まってる」と言い切れない。
偉大なる(元)救世主を推していることもあり、依怙贔屓をしていて当たり前の立場にいるけれども、それを取り除いた上に答えようとしても、私の口から「あなたの國は醜いよ」という言葉だけは出てこない。
たぶんだけど、世界は醜いけど、物語自体は美しい。
悪性を抗う誰か。思いやりができる誰か。約束を守るために頑張る誰か。弱いと思い知らされても立ち上がる誰か。感謝を忘れない誰か。澱みの中に輝く、たった1割の「本物」ーー偶然にその世界に漂流してしまい、それでもそういう芸術品のために留まり、最後に世界と共に滅ぼされた国家大臣の気持ちがそれだったら、彼に裏切られた女王がそれでも彼を評価したことも頷けられなくはない。
ぶっちゃけると、妖精國ブリテンの住人である妖精を現実世界に生きる人間-私たち-に取り替えても、あの物語に一切の違和感が生まれないはず。なんならもっとエグくなる。妖精なんかよりも、人間の方が遥かに知恵を持ち、敵とみなした相手を翻弄する方法なぞいくらでも思いつくーーこの説が提唱された瞬間*1、「あぁ、そういうことか」と理解してしまった。
自分たちの生きる世界とそんなに変わらないから、私は「アヴァロン・ル・フェ」が好きなんだ。
欺瞞と憎悪と嫉妬と嘲笑と嘘と絶望。毎日が辛く、毎日が苦しい。しかし誰もが心の底では「助けて欲しい」と願う、そんなどうしようもない世界。
それでも世界には、「本物」の存在が許されるーーそんな希望を抱くことが許されている。そういう希望を抱えながら走り出すことが許されている。
そう思うと、思わず言葉を溢してしまう。「この世界は美しい」と。
このセリフは、バレンタインイベントのモルガン個別ストーリーの最後に来た言葉。
「うん、そうだね」、と、つい答えてしまう。
『でも、ここで並んでみせる。
この玉座を護り続けた無慈悲な女王ではなく。
偉大な、尊敬されるべき救世主。
その人生に報いるために。』
予言の子が女王の残した玉座の前に、そう宣言する風景に胸がぎゅっと来たと同じように、
自分の国を失った女王に語り掛けられたことに、心が打たれる。傷が抉られる。
たぶんもう、一生、キャメロット物語を、妖精國ブリテンを忘れない。忘れられない。だってーー
あの物語は、本当に美しかったから。
【FINE】
前書き
遅ばせながら、ようやく逢田梨香子さんの1st LIVE TOUR 2020-2021「Curtain raise」に参戦できた。
おそらく世間では色んなライブレポートが発表されており、今更ライブ内容の詳細について語る文章なんて必要ないのだろう。その代わりに、私が今回の参戦にあたって得た発見をいくつかピックアップし、ここに並べてみよう。場合によってはつまらないものになると思うが、少し付き合ってくれると嬉しい。
- 前書き
- 1. Mirror Mirror、アズライトブルー
- 2. REMAINED
- 3. 光と雨
- 4. Tiered、ME
- 5. ステラノヒカリ、for...、FUTURE LINE
- 6. Lotus
- 7. ORDINARY LOVE
- 後書き
1. Mirror Mirror、アズライトブルー
それぞれ赤と青の楽曲なのだが、
- 初披露 vs.再披露
- 新曲 vs. 既存曲
- 内なる葛藤 vs. 外部に対しての困惑および展望
と言った違いがあって、その対比を照明や観客席のペンライトの色彩を通して、よりいっそ引き出すことによって、観客は無意識でもこの二曲だからこその繋がりを肌で感じられたのではないだろうか。
...が、私個人の着眼点は主に別のところにあった。
1stライブツアーのアズライトブルーは、笑っていたんだ。
...ぶっちゃけるとこれはただの妄想話に過ぎない。
でも、割と思った。「昼の部ではおそらく緊張にやられる」と。
(中略)
身長の問題でやっぱりあまりスクリーンがよく見えない。ステージも見えない。震えている声が聴こえた。懸命に歌う姿がきっとそこにあった。アーティストとして小さな一歩を命かけて踏み出そうとしている人がいた。
私の中で数少ない「誇れる」現場記憶と言えば2019年8月8日に開催されたバースデーイベントなのだが、当時ステージで懸命にアズライトブルーを初披露した姿こそが、2年経った今でも私の脳に残っている映像なんだ。
もちろん夜の部の楽しさ全開かつ魂を熱くさせ揺さぶったアズライトブルーもはっきりと覚えているのだが、あの時に感じたピリピリとした緊張感と違って、1stライブツアーで披露されたアズライトブルーはもはや「手放して楽しめるもの」になったのだ。
軽やかに舞い、青の中で手を伸ばし、微笑みながら青を描くーーそれがこの二年間を経験した逢田梨香子さんの成果(結論)だ。
それはそれとして、Mirror Mirrorの赤き世界でぎらりと光った逢田梨香子さんの眼差しは、相変わらず心臓に冷たい灼熱の一撃を与えたのだけれども、コワレヤスキを思い出させると同時に、もはやGuilty Kissと関係なく、逢田さん本人が持っている固有スキルだと確信してしまった。いいぞいいぞもっとやれ。
2. REMAINED
主に舞台セットがずるいというか、そもそもREMAINEDには「部屋に一人っきり」という世界観を確立させるような描写があり、その描写に合わせて作られた舞台セットにより、観客側は「REMAINEDの主人公がいる部屋、および主人公の心を覗き込む」という立場に置かれてしまった。
未練ましましの赤みある紫に、惨憺な電球色。脆い空間が客観的に見て惨めではあるが、その中で見せられた肌白い腕のゆっくりとした、そしてなよやかな動きが、主人公の諦観をうまく表現したと思う。ベタベタとした「戻ってほしい」ではなく、「戻りたいし会いたいけど、もう戻れない」という、細い砂のさらさらとした感触みたいな。
ちなみに私の中では「REMAINED=失恋ソング=ドロドロな紫」という印象があったのだが、調べてみたところ、紫は「上品さや神秘的な印象を喚起させ、優雅さや妖艶な大人の女性をイメージさせる色であると同時に、不安な印象を持たせる色でもある」[*1](#f-339762ba ""色で感情が動く!?色が持つ心理効果と活用方法". 伝つくラボ. https://kimoto-sbd.co.jp/tsutatsukulab/2018/01/21771/, 2018年1月17日更新(最終閲覧日:2021年8月28日)")らしい。
3. 光と雨
今すぐライブ音源をCD化してほしい。そして今後この曲に関しては必ず生バンドでやってほしい。以上。
あと、次に光と雨が披露される現場に行けるとして、そこでミラーボールがまた使われるとしたら、曲中会場の天井を見上げてしまうと思うのでご了承を。
…っとまぁ、光と雨のライブバージョンに関しては以前もツイッターで語ったことがあったから、これ以上繰り返す必要もないと思う所存。関連ツイートだけでも貼っておくよ。
RIKAKO AIDA 1st LIVE TOUR 2020-2021「Curtain raise」 https://t.co/pyiZWjVfme @YouTubeより
セトリから数曲を選んで公開する映像だけど、楽曲チョイスからセンスを感じる...
特に生バンドの光と雨は本当にたまらない。音や光の降り注ぐステージが「光と雨」そのもので見ててすごく惹き込まれる。
— 林檎好き🌸🎹🐈⬛🐠🟥 (@R_g_jol) May 1, 2021
4. Tiered、ME
最大の問題点である、Tiered→MEの流れ。
以前Tieredの歌詞を中国語に翻訳するためにいつも以上に歌詞と向き合ったわけだが、年上のお姉さんに憧れた男の子の秘められた想いやその現れであるシフォンドレスによってかなりダメージを負ってしまったことがあった。切ないなぁと。報われないと知ってても、自分の想いを伝えず、その代わりに最大の祝福を形にし、作品として彼女に贈ったという恋が切ないなぁと。
さて、女性である逢田さんが男性視点を持つTieredを歌うのは「梨香子さんが登場するとしたらきっとこんな物語になるだろうなぁ」と、本曲を提供されたやなぎなぎさんのアイデアがあったためだが、ライブで本曲を披露するにあたって物語のキーアイテムである白いドレスを身に纏うのだろうと推測したファンの方々はいたと思うし、実際のところ本当にその通りだった。
だからこそ、ライブツアーのみに提示された世界観がこの世に生まれてしまったーー「自分に憧れた男の子からドレス(祝福)を受け取り、その男の子の恋(想い)を歌声で代弁する」お姉さんが、ステージの上に姿を見せたのだ。
ティアードに潜ませてる
微かな想い
見つからなくてもいい
あの日のまま
記憶の中 鮮やかに 綴じておけるならTiered/逢田梨香子
ステージで提示された世界観だと、男の子の想いは結局見つけられてしまったが、その想いに、なんと彼女は「反応した」のだ。
「What I can do for you(君のために私にできることは)」ーーこの英語のフレーズはTieredではサビ直後の間奏にコーラス形式で歌われたのだが、ステージ上の彼女はそのフレーズを声出さずに呟いたのだ。
Tieredのコーラスの話でふっと思い出した。
「What can I do for you (?)」だったら「私は君に何をできるのか?」の疑問文になってたけど、「What I can do for you」だから、「君のためにできるのは」という平叙文なんだね。つまり「私」は最初から「君」のためにできることを確定している。
— 林檎好き🌸🎹🐈⬛🐠🟥 (@R_g_jol) April 13, 2020
本来の楽曲の内容であれば、この「私は君のためになにかができる」は男の子の気持ちだったはずだが、(今後の現場はともかく)1stライブツアーに披露されたTieredに限って、
「そんな君のために、私にできることはあるよ」と語りかけた人物は彼に祝福されながら人生最高に幸せな瞬間を迎える彼女になったのだ。
本当にびっくりした。楽曲の本来の世界観をライブで再現されることが当たり前の目標だと思っていたのだが、こんなひっくり返すようなやり方もあったんだなぁ。ある意味本来の世界観を壊すような演出でもあるのだが、これなら納得するし素直にいいなぁと思える。
そしてその「君のためにできること」の答えが、まさかまさかのMEだったという。
ME(「私」)という楽曲は曲中の主人公が「自分らしさ」を語りかける楽曲だけれども、この楽曲の一番の魅力はおそらく「逢田梨香子のME」と「聴き手のME」、どちらの物語を本曲に当て嵌めても違和感を感じせないところだと私は感じている。
言い換えれば、MEの「私」は特定の誰かの人生を指定する主語ではない。むしろ誰でもこの曲の主役になれるのだ。
Tieredと同じドレスを身に纏い、そして同じくスタンドマイクの前で歌う彼女。祝福を受けて優しい眼差しと微笑みを見せる彼女。そんな彼女がMEを歌ったことが、自分に憧れた男の子に提示した自分の答え(未来)を提示するための儀式かのようだと感じた。
優しく、まっすぐに。目を逸らさずに、笑う。
これまでの道のりが
決して嘘ではないと
これからは少しずつ
証明するよ
でも 心細いから
そばで見守っていてね
私らしい私で愛おしい毎日を 生きていくよ
ME/逢田梨香子
このライブツアーの性質上、本来なら「逢田梨香子のME」という側面が一番出ているはずだと思うのだが、Tiered→MEの流れによっての限定的な読みができてしまうことについては、私自身もすごく驚いている。あまりにも予想外だ。
でも、たまにはそういうのも悪くないだろう。「必ず正解とは限らない。ただ、その正解じゃない可能性を持つ観測結果が美しい」と思わせられたことだって、これが初めてというわけではないしね。
ちなみにMEに関しての各方面のコメントのうちに、特にお気に入りの内容があって、ここで引用させてもらおう。(なんなら若干影響を受けたところもあったんだなぁ)
さて、『ME』を聴いて『Principal』を連想した理由はもう一つあって。『Principal』は、「自分が主役だと思わなくてはならない」って想いを背負ってリリースされましたが、この曲、すごく主役らしい曲です。「自分が」「私が」っていう意思をはっきりと出しているんですよね。すごく『Principal』らしい。
逆に、『Principal』の曲たちって、テーマは確かに「Principal(主役)」なんですけど、『FUTURE LINE』と、強いていうなら『君がくれた光』以外の3曲って、主役=歌い手っていうイメージがなかったです。主役に向き合う人間(梨子ちゃん、琴姉なんかはこういう立ち位置でしたね)の生き様を歌った曲だって思っています。
『Principal』リリース当時、私は「主役として引っ張っていく」「アーティストとして無色透明」と語る逢田さんがどんな主人公像を提示してくれるのか見せてくれると思っていました。でも、今は逆にそこで提示して固定しないことが一番あの人らしいんじゃないかって思います。
例えば、逢田さんのファンクラブ『Us』のコンセプトって、「集まれるお家」「心のよりどころ」なんです。特別な空間ではないんですよね。日常に、優しく寄り添うような、そんな場所。逢田さんが作品の受け取り手に対してどう発信するのか、また私たちがそれをどう受け取ったのか。それそのものだと思います。私たちの日常に『Principal』があって、私たちはそれを自分や誰かに重ねて過ごしていく。
5. ステラノヒカリ、for...、FUTURE LINE
ステラノヒカリの振り付け、覚えること多くね????
それはそれとして、スクリーンに映るちびりかこはめっちゃ可愛いし好きだけど、ステラノヒカリのサビ締めの「キラッ☆ 」のポーズ、完全にアレじゃん、マクロスFのそれじゃん。*2それを逢田さんがやるということはきっと新しい必殺技が覚えたというわけで。
自分でやるよりも逢田さんがやるキラッ☆ を堪能したい!!(クソデカ声)
さてそれはさておき…この三曲の連続コンボによって「ライブはここから本番だ!!」と伝えられた気がするのだが、やっぱり声出し禁止のライブになっていることがとても残念に思ってしまう。それぐらいぶっ飛びたい内容と流れだったし、ステラノヒカリ→for...の流れで「死んだ」と遺言を残した知り合いの言い分もわかってしまう。楽しい楽しいステラノヒカリのアウトロで見せられた綺麗な背中に気を取られていて、いきなりfor...の「まーだ誰もー!」に打たれたら死ぬのも当たり前と言えるだろう。
ガチな話です。メモが残っていません。遂に…遂に息絶えました。
真面目な話、膝に力が入らなくて、そのままズルズルっと崩れ落ちたんですよね。多分、後ろの席の人は「急に視界広けたなぁ……」くらいに思っていたのか、「は?目の前のやつ、崩れたんやけど?え、おかしくね?」と笑われたかの2択だとは思いますが、そんなことを気にしている暇などありません。
(中略)
逢田さんのが圧倒的な支配力をもって、ファンを飲み込もうとする表現力をぶつけられて、なぜファンの皆さんは正気を保ち、立ち続け、ブレードを振れるのか。私は理解することが出来ません。
気付いた時には、目の前に見えたのは前の座席の後頭部でした。少しずつ身体を起こしていくと、連番者も同様に崩れ落ちてるのが見えました。多分…お互いに同じ目線の位置にいるのは自分たちしかいないことを把握したのでしょう。
ありふれた日常に色を灯す〜『逢田梨香子 1st LIVE TOUR 2020-2021「Curtain raise」 東京公演』に寄せて〜 - ほのぼのとした田舎暮らし
そして、for...の強襲を受けてしまい大してキャパシティーが残されていない状態でさらにFUTURE LINEを聴かされるーーこの流れは暴力的だと言わざるおえない。
より正確に言うと、それは懐かしさと嬉しさによる暴力だった。アップテンポの曲調がテンションを上げ、しかしながら若干哀愁を帯びるストリングスの存在感を看過できるわけもない。なんならサウンドにもすごく馴染みがあるし*3、今まで何度もイベントで歌われてきた曲だからこそ、FUTURE LINEから歴史を感じてしまうし、その歴史に参加できた自分がかつて持っていた感情も呼び起こされる。「あぁ、懐かしいなぁ。楽しかったあの頃が恋しいなぁ。」、っと。
そもそもFUTURE LINEという楽曲の立ち位置的にも、読み取れることがたくさんあるからこそ、前2曲で感情が忙しくなっているところでいきなりこの曲をかまされると、思わず「おいおいおいおいおいおいおい」って文句を言ってしまう。もちろんいい意味で。「今なにかを読み取る余裕がないからちょっとタンマ」的な。
そして、「FUTURE LINE」によって映し出された逢田梨香子像。不安あり戸惑いあり、しかし「一緒に」を強調してくださる逢田梨香子さんは、確実に「主役」として先頭に立ち、ファンの皆と歩んでいると私は感じているし、彼女が描かれる未来の線がどんな色をしているのか、いつもすごく楽しみにしているのだ。1st EP『Principal』と1stシングル『for...』を引き続き、今度は1stアルバムを3月31日に出し、そして4月に初めてのワンマンライブツアーを開催されるのだが、バースデーイベント、アニサマ2019と「with Us vol.1」を経験してきた逢田梨香子さんが今度見せてくれる景色を、私は一瞬たりとも見逃したくない。
可愛い&踊ってて楽しいし忙しい→かっこいい&ぶち上げて忙しい→懐かしくて感情が忙しいという3コンボ。それがこの三曲が作ったとんでもない流れだった。
6. Lotus
この曲、笑顔しながら歌う曲という認識はなかった。
嘆きの歌であると同時に自我成長の楽曲でもあるからそう言った「前向きになった内容」が歌詞に込められているのだが、この曲は決して明るい曲ではない。
むしろ今のご時世だからこそすごく、ひどく響いたという、いかにもタイムリーな楽曲ではあって、「今のご時世は楽しい?」と100人に聞いて、「楽しくない」と99人は答えるのであろう。それぐらいの世界になってしまっているのだ。(2020年に比べたら多少は改善したと思うのだけれども)LotusのMVの逢田さんだって、オチサビまでは明るい表情を見せなかったし、アウトロではまた憂い顔を見せたし。
なのに、このライブツアーというステージでは、笑顔で「また始めよう もう一度 この場所で」と伝えた。
想うほど遠ざかっていくこの瞬間
壊さぬように そっと誰かへ繋げ歩こう
“終わらないで” もう少しだけ願うけど
遠い先でいつの日か知るだろう
永遠の中にある、切なさを
Lotus/逢田梨香子
次はいつになるのかがまだわからないけど、次を展望し、今を大事にする。時間が過ぎていって、この瞬間が愛おしいほど遠ざかっていくけれど、共有する相手がいれば、過ぎたとしても壊されることはない。
おそらく有限に生きている限り、逢田梨香子さんが掲げるLotusは毎分毎秒証明されて行く。そう言った素晴らしい魔法が私たちを包み込んでくれる。守ってくれる。どんなに辛くても、否定したくなっても、そこで静かに守ってくれている。
そういう深みこそが、Lotusという楽曲の真髄だと思う。
ちなみにの話、Cメロ(「色鮮やかな〜」から「生まれ変わって〜」までの段落)のコード進行、CD音源ではAm→F→G→CM7→Am→F→Em→Dmだけど、ライブではAm→F→G→CM7→Am→F→Em9→Dになっている。F♯が増えた。A minorにもC MajorにもないF♯がここで出現することによって、その短い間だけ異色になっていて、本当により「色鮮やかな」になっている。この改変がたまらなく好きなのだ。
7. ORDINARY LOVE
あああああああああああああああああああああ!!!!!おめでとううううううううう!!!!!待ってました!!!!!
— 林檎好き🌸🎹🐈⬛🐠🟥 (@R_g_jol) March 14, 2019
— 林檎好き🌸🎹🐈⬛🐠🟥 (@R_g_jol) March 14, 2019
今日の配信があって、他の方々はどうなのかはわからないのですが、少なくとも私の中では確かに世界がまた動き出しました。それがとってもとっても、とっっっっても嬉しくて。
ずっと待ってたんだ、本当に。
— 林檎好き🌸🎹🐈⬛🐠🟥 (@R_g_jol) March 14, 2019
全てはここから始まったんだ。
ソロデビューされてから最初の楽曲、2019年バースデーイベントで最初に披露された楽曲。
1stEP『Principal』のリード曲がFUTURE LINEだけど、ORDINARY LOVEの方が本当の始まりの曲なんだ。
別に目玉が飛び出るような狂った編曲とメロディーではない。タイトル通りの「ありきたりな」、美しい楽曲。ただそれだけ。
だけどこの曲が始まりの曲であって、一番安心感のある優しい楽曲なんだ。
自分では意識しなかったけど、知り合いにちょっかい出されてやっとわかったのが、「ORDINARY LOVEが私にとっての最大の癒し」ということだった。
会えなくて苦しいし、周りに置いてかれてとても辛いけど、
たとえなにが起きたとしても
絶対ひとりにしないから握った右手 離さないで
何気ない日を越えてゆこうORDINARY LOVE/逢田梨香子
そんなことを言われたら、「しょうがないなぁ…」と頭を掻くしかないんだ。
後書き
元から知っている人もいれば、この記事を読んでて違和感を覚える人もいると思うが、
そう。この記事は別に「現場参戦したあとのレポート」ではない。なぜなら私は1stライブツアーの公演に一箇所も参加できなかったからだ。
ずっと待っていて、待っていて、ようやく1stライブツアーのBDを手に入れて、ようやくみんなが楽しんでいた景色を7割ぐらい共有してもらえたけれど、残りの3割は取り戻すようがない。現場にいなければ楽しめないことがたくさんで、それを取り戻す術が私には知らない。
そんな自分がライブレポートもどきを書いても大して意味がないと思いつつ、やはり「書きたい」気持ちが勝ったし、少しだけ「そんな自分が書いたものだからこそ意味がある」と信じてみたい。
置いてかれて辛いし、みんなが私の知らないことばかりを楽しく語っていて、傍観者にしかなれなくなった自分が嫌いーーという気持ちは、すでに別のところで吐き出させてもらったから、今はまぁ多少楽になったのだけれども。
信じれなくなる瞬間は確かに存在する。こればかりは否定できない。だけどその場にいなかったとしても、確かに受け取った言葉がある。
「絶対また逢えると信じている」。
向こうが手を差し伸びてくれているから、握り返すのが私の責務であって、意地であって、誇りであって、私自身の、私だけの答えである。
いつになるのかはわからないけど、繰り返そう。
「きっといつか、また逢える」。
それまでは私のペースで、私の勝手な約束を果たして見せるよ。
【FINE】
真っ暗な空間の中に、大きな一文字幕の前に。
幕に投影された"intermission"の文字を、僕らは見つめながら客席に並んで座っている。
静寂の中で、暗闇の中で、ただひたすら待つ続けている。
何かを囁くように。何かを願うように。何かを捧げるように、ただただ祈りながら待ち続けている。
やがて微弱な光がどこかから差し込み、照らされた人は立ち上がり、客席から離れた。
一人、また一人。立ち上がって、離れて行く。
座ったままの人たちは、こう言っていた。
「僕らの分まで」「見届けてくれ」、っと。何かを叫ぶように。何かを願うように。
真っ暗な空間の中で。ただひたすら待ち続けている。
今年はそんな一年だった。
待ち続ける一年。祈り続ける一年。
胸に咲く白い花を枯れさせないように、精一杯息を吸って、息を吐いた。
枯れさせない。だから動き出そう。
飲み込まれてはいけない。だから動き出そう。
そんな思いで、"Curtain raise intermission"と"手書きメッセージ動画"を形にした。
誰かのため、主役のため、そしてなにより自分のため。
できないことがたくさんあって、その代わりにできるようになったこともたくさんあった。
わかっているつもりで、それでも最後の最後で泣き叫んだ。
「あぁ……これは、誰のせいと言えるのか」
たまには思う。正しさを追求しないで、ただひたすら、自分から生まれた理不尽を貫けられたらいいのにと。それができないから辛いんだ、っと。できたらもっと幸せになれたのに、っと。
理不尽をぶつけたかった。
でもそれは誰のためにもなれないんだ。
だったらこの感情をどうすればいいというのだ。
それでも、だからこそ。おそらく私は恵まれているんだ。処理しきれない感情を受け止めてくれる人たちがいてくれて。
我が友らよ。それだけは絶対に感謝しなければならない。
思ったよりも人を頼っていいんだ。たぶんそれでいいと思う。
花を枯れさせないために。
飲み込まれないように。
真っ暗な空間の中で。ただひたすら待ち続けている。
いつに光が私を照らすのかは、まだわからないのだけれど。
きっといつか、また逢えます。
この一年に、ずっとそこにいてくれたキミたちへ。
【FINE】
歌詞の解釈っていうものを私は普段やらないようにしているけど、Misty Frosty Loveではあまりにもいろんな解釈が飛び交っていて、個人的にいろいろと違和感を感じていたから自分でいろいろと考えて解釈を組んでみた。
ちょうど最近Twitterにフリートという機能があって、時限長文を書くのに最適な機能なのであって、ビビりな私だからフリートにいろいろ書き込んでいたけど、最終的にやはり残すべきものだと考え、その全文をスクショとして記録してここに貼ることにした。
追記:
浦ラジでのMisty Frosty Loveについての言及は、12/2に更新された第236回であり、他に二曲についての言及はそれぞれ第234回及び第235回だった。またこの解釈は12/9夜の冬デュオトリオ生放送前に書いたものであり、答え合わせがあるとしたら生放送にあると考えている。
このまま遠くへ
どこか知らないところまで
今日が明日に変わる境界線を消しさって
自由にゆらゆらとはためく鳥のように
この手は何だって掴めると信じよう
もう一度
迷子になって、青に溺れてみたい。
これは昔の私がよくしていたことだけど、視線を青空に存在もしない一点に集中して、その青を見上げることが好きだった。
見つめていたら、地元の高い空にだっていつの間にか吸い込まれていきそうな感覚になる。
元から青色が大好きで、自然界の生物にほぼないこの色は、光の反射や諸々のことで空と海で主役を演じているから、私はそんな空と海を見ることが好きで、また海の波の音も好きだ。
しかし、今までなぜ青が好きなのかということをよく考えていなかった気がして、そのことに気付かせてくれたのが逢田梨香子さんのこの「ブルーアワー」という楽曲だ。
それを共感覚とみんなは呼んでいて、私にとって楽曲の調性にはちゃんと「色」が存在しているが、イメージとしては一番青いのはD MajorとB Majorだから、青を名前に持つこの楽曲にこの二つの調性が同時に現れたと知った瞬間、もう私はこの楽曲から離れないと定められたし、逢田梨香子さんが書かれた歌詞こそが、トドメを刺してくれたものだと知った。
ブルーアワーに潜んだ孤独は、イントロと歌詞から同時に伝わってきてしまって。
日の出前の青空の美しさと切なさは、歌声と共に心に響いてしまって。
そしたら、
このまま遠くへ
どこか知らないところまで
今日が明日に変わる境界線を消しさって
自由にゆらゆらとはためく鳥のように
この手は何だって掴めると信じよう
もう一度
連れて行って欲しい所がそこに書かれていた。
インターンシップで日本に働いていた頃に、一回職場の後輩と一緒に夜の漁港の防波堤に訪れたことがあって、その時の群青色の海や波音は今でもはっきりと覚えている。
ストレスと寂しさを和らげるように、群青色の海をただただ見つめて、群青色の空をただただ見上げていたが、別にそれで寂しさが消えたわけでもなく、しかし不思議と心が落ち着いた。
その情景を、この楽曲が思い出させてくれた。
群青。孤独。青。空。
欲しかったのに最後まで手に入れなかったものが、誰かにとっては当たり前のものだった。
誰にも言えなかった。と、いつの日に自分を困らせていた心境を。
だから、私にとって、ブルーアワーという楽曲は語るための楽曲ではなく、ただただ感じる楽曲だと思う。
何かを語りたくても言葉が出なくて、逆に思い出すものと、感じてしまう感情がたくさん湧いてきてしまう。
再生の花の生き様を語ってもらったあの時とは違って、今度はただただ景色を見せてもらっていた。
私の大好きな青色に満ちた景色。
溺れないわけがない。空と海と孤独が見えてしまったから、
溺れないわけがない。
青色が大好きなのは、青色が空の色であって、海の色でもあって、どちらもどこまでも広く深く、どこまでも溺れやすい色だからだ。
そんな青色に満ちたブルーアワーに、私はただただ溺れたい。
溺れて、どこか知らないところまで自由に、ゆらゆらとはためく鳥のように。
理屈などいらない。(迷子になりたい)
自由の翼で、夜明けを、明日を迎えたい。
ーー嗚呼、どこまでも青色が似合う人よ。
あなたが見せる景色が青いのは、ある意味必然かもしれない。
広く、広く。深く、深く。
青が見えて、青が聞こえて、青を思い出して。
青に惹かれ、青に溺れ、青に生かされて。
私にとって、これはただの必然だよ。
【FINE】
夢は見るものではなく見せる(魅せる)もの
天堂真矢/『少女☆歌劇 レビュースタァライト』第二話 「運命の舞台」より
カッコよくて、いつまでも心に残るこのセリフが好きだ。
これは演者としての誇りと気概を示した言葉であって、ほぼ十年ほど舞台に立っていない私ではあるけれども、響くものは響く。
「夢を叶える」。それはなんという甘美なる概念なのか。
これは如何なる領域でもそうだとは思うが、誰もが「現実的にアレだけど、わがまま言っていいのであれば◯◯をやりたい」という考えが多少あるのではないのだろうか。その「◯◯」のカタチがまだハッキリしていない時さえ、漠然と「このままこうできればいいなぁ」みたいな考え方とか。
その中でも、「他人に夢を与えることが夢」の人間もいる。自覚があったりなかったり、しかし間違いなくその立場にいる人たちの輝きに、私たち日頃から常に魅せられ、それに癒されていることも少なくはないのだろう。
「光と雨」の主人公は、そのスポットライトの元へ往くサダメだ。
暗闇で一筋光が刺す
幼い頃から憧れた場所
showtime...幕が上がれば夢が叶う
少し震えていた
幕が上がれば夢が叶う。その瞬間が訪れるまでの時間-プロローグ-は主人公-私-だけのものだとしたら、それを誰と共有できるのだろうか。
興奮と緊張、恐怖と未知。ここまでの道のりが走馬灯のように蘇る、舞台裏の暗闇の中のリプリーズ。
あなたの知らない 私になるから
側にいて欲しいだなんて
言えたはずないじゃない
夢は魅せるもの。次の瞬間に、自分はスタァになる。だからーー
躍らせて 躍らせてよ
全てを忘れさせて
この場所で 燃え尽きられたらいいの
光に抱かれたままで
ワードチョイスといい、なぞる感情といい、「光と雨」のセッティングは舞台を示す。夢を叶える=その舞台の上に舞い踊るこそが私の役目。
演者としての責務を全うのが今の全て。夢を叶う今が全て。人に夢を魅せるのが今の全て。
夢を魅せることは、スポットライトとともに人々の視線を己に集め、己が表現する姿で人々の感情を一時だけ「望んだまま」に操り、その人々たちを一時だけ現実から掻っさらい、自分の世界に引き込み、つまり一種の精神操作ということであって、それを前提とする。なら、その精神操作をしている間に一番やってはいけないことはなんだろうか?
そう、素の自分を見せること/破綻することだ。
舞台に上がったら、目の前の全ての人が標的だ。知っている人も、知らない人も、全部全部平等にし、全員を虜にする。
誰にも素の自分を見せてはいけないから、誰にも知らない私になるんだ。そこにどんなに親近な存在がいても、知らないフリをする。不安も恐怖も、全部自分だけのものにしなければいけない。
されどこれは夢を叶えるため、そして夢を魅せるため。だから光の中で躍らせてーー何もかも忘れさせて。
人の視線ばかりを気にすれば
誰もが孤独で小さなもの
夢って叶えてもその先があった
終わりなど来ないの
それでもあなたを探しそうになる
写真の中の笑顔さえ
色褪せて行くのに
私は夢を見る演者、舞台を戦場とするもの。
夢を見続けて、夢を魅せ続ける演者は、いつまでも演者のままでいることで、人々を喜ばせる。だからあなたの知らない私になる。なったのだ。
でも私はまだ、あなたのことを知っている。
感情を持ち、感情で動くのが人間。どんなに感情を割り切れても、それを完璧に行うことはおそらく不可能であろう。
特に感情を伝播し、感情で観客を動かす演者になると、感情を完全に捨てるべきではないと考えている。そういう前提だと、舞台の上にいて演者として振る舞っていても、割り切れないものもあったのだろう。
だけど私は、スタァなんだ。
この空が 泣いてくれる
私の代わりに今
大丈夫 もしまた逢えたとしても
私はこの道を選ぶ
夢を魅せる、スタァだから。
スタァだから、見せてはいけないものがある。
夢を叶えるために、私はたくさんのものを捨てた。
言ってはいけないアドリブ、
見せてはいけない表情、
止まってはいけない道。
たくさんのものと「さようなら」にした。
これがここまでの道のりであって、でも夢はまだまだ続く。終わりなど来ないし、幼い頃から憧れていた場所だから。
私は、スタァ。だけどあの頃の私もここにいる。
夢を魅せることを夢にした者は、まだここにいる。
その夢が終わらない限り、私はーー
さようならを この想いを
全てをドレスにして
躍らせて 燃え尽きるまで踊るの
光に抱かれたまま
この空が 泣いてくれる
私の代わりに今
大丈夫 もしまた逢えたとしても
私はこの道を選ぶ
「光と雨」。今だから響くものがある。
夢を叶えるために、捨てるものもたくさんあることに最近は気付き始めている。
それに悩まされ、迷うこともあって。それでも、夢を見る自分だけは捨てたくない。
夢を叶えることの甘美と、その裏にある代償。だからこの曲はどこまでもコーヒーに近い味していて、ブルーズの香りをかすかに纏ったシティポップにて、表の「光」と、裏の「雨」を表現し、心を締め付けてくれる。
表舞台に立っていなくても、裏側としても魅せることも表現の仕方であって、それも夢を魅せる一つの方法だと私は思う。
この道を選び、これまでの道のりを証明したい。
【FINE】