「虎に翼」第23週〜原爆裁判 更年期障害 認知症 ヤングケアラー〜ウルトラセブンと原爆 (original) (raw)

またいろいろぶっこんきたけど、更年期 認知症 ヤングケアラー……今週は「原爆裁判」がやっぱりメインでしょうか。

「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」

《「孫子」九地から》初めはおとなしく弱々しく見せて敵を油断させ、のちには見違えるほどすばやく動いて敵に防御する暇を与えないという兵法のたとえ。

(コトバンク)

これは、兵法だから戦い方、勝ち方。

第23週では何のことだろう。

裁判のこと?原告の女性のこと?いや、何だろう。

分からない。

処女っていうとやっぱり女性のことだと思うから、兵法云々よりも「おとなしく弱々しい」という女性へのレッテル貼りへの反骨か?

雲野先生(塚地武雅)がお亡くなりになってしまった。悲しい。この日の「虎に翼」のあとの「あさイチ」。始まると同時に雲野役の塚地武雅が画面いっぱいに映し出されました。「天国からお伝えします」と。なんと!

司会の博多華丸が、「まごころ病院に行かなくちゃ」と突っ込んだ。

「聖まごころ病院」とは、この夏シーズンに放送中の「新宿野戦病院」(フジテレビ 脚本/宮藤官九郎)の舞台である歌舞伎町の病院のことだ。塚地はその病院の看護師長・堀井しのぶ役で出演中。

ついでながら付け加えさせていただくのだが、「新宿野戦病院」出演者の「虎に翼」率が異様に高いのである。仲野太賀、岡部たかし、平岩紙、余貴美子、塚地武雅、趙珉和、戸塚純貴。多すぎじゃない?偶然なのか、故意なのか。

塚地演じる堀井は、女性の格好をしている。堀井さんは男なのか、女なのか、と周囲があれこれ噂しているのだが、その正体というか、堀井の人生の背景が描かれるエピソード第7話が、私はいちばん面白かった。

「あさイチ」の最後では、視聴者からの要望があった。

「虎に翼」では、雲野は、「いや〜、私はおにぎりが大好きなんだ」と言って、梅子(平岩紙)のおにぎりを右手で取ってそのまま仰向けに倒れてしまった。おそらくこれはオマージュなんだろうと思うが。何の?「裸の大将」の山下清。これも塚地が演じている(2007〜2009年)。

「おにぎり大好き」と言ってくださいという要望に、塚地は山下清としてそのセリフを言ってくれました。

「原爆裁判」はなかなか進展しない。すでに4年。

原告側の勝訴は難しい。日本にもアメリカにも賠償責任があるということを法的に立証できないので。

しかし、議論を尽くそうと誓い合う寅子(伊藤沙莉)たち裁判官。

政府が阻止しようとしてきても、それでもやらねばならん。決して風化させないためにも、と話す雲野。

雲野の死後、後をつぐよね(土居志央梨)と轟(戸塚純貴)。

雲野の葬儀には来るなと寅子に言うよね。原爆の裁判に関わっているのだから、判決に難癖つけられないためにも。よねはいつも冷静だ。

昭和35年(1960年)1月、日米安全保障条約が改定されて、日米の協力体制が強化されたその翌月、原爆裁判の第一回口頭弁論が開かれた。

岩居(趙珉和)が訴状の骨子を陳述する。

(略)

民間人を無差別に殺害し、苦痛を与えた原爆投下は、人道に反する国際法違反であり、米国は被爆者に対して損害倍書を支払う義務があります。しかし政府は、平和条約により、戦争によって生じた一切の損害賠償請求権を放棄している。これは、国民の財産権を侵害したことにほかならない。政府は米国に代わり、これを補償するべきであります。

そうか。日本は戦争放棄だけではなく、損害賠償請求権も放棄していたのか。勉強不足でした。

偶然、廊下で会った寅子とよねたち。

「意義のある裁判にするぞ」と、とね。この寅子とよねがすれ違うシーン、かっこいい。もしかして、このドラマ全てのシーンのなかでいちばんかっこいいシーンなんじゃないか?

そしてなんと、あのジャーナリストの竹中(高橋努)が法廷に現れた。

この裁判を記事にして世に知らしめてほしい、と雲野先生に頼まれたのだという。

「そろそろあの戦争をふりかえろうや。そういう裁判だろう」と竹中は寅子に言う。

この国は、きちんとあの戦争を振り返っていない。ドイツのように正直に学んでいない。こうやってドラマから知ることが多い。そして「はだしのゲン」が学校の図書室、図書館から消えたりしている。

原告側の主張を裏付ける国際法学者・保田(加藤満)。

国際法は生命、身体、心の安寧の保護、つまり「人道の初等的考慮」が最も基本的な原理だ。原爆投下はそれらを全て奪い、不必要な苦痛をもたらした。非交戦者である一般市民に惨害を及ぼす無差別爆撃を禁止する原則に背いているんです。

被告側の国際法学者・嘉納(小松利昌)。

結論から申しますと、原爆投下が国際法違反だとは必ずしも断定できません。原子爆弾は新しい兵器であるために、原子爆弾そのものを禁止する規定は、投下当時も現在も国際法上には存在しません。(略)

出ました小松利昌。「らんまん」でも「まんぷく」でもお馴染み。

よねの反対尋問。

国際法上、禁止されていなければ、どんな残虐な戦闘行為でも違法ではない、そう嘉納教授はおっしゃるのですね?

(嘉納 そういうことではございません。)

質問を変えます。

いくつかの国際法に、「戦闘における不法行為を行った国には、損害を賠償する義務がある」と定められています。この義務は国家間にのみ発生するのでしょうか。

(嘉納 国際法の原則では不法行為による損害賠償は、被害者個人ではなく、国家が請求することになっています。)

(略)

主権在民の日本国憲法において、個人の権利が国家に吸収されることはない。憲法と国際法および国際条約の規定と、法的にはどちらを上位に考えればよいとお考えですか?

(嘉納 戦時中に今の憲法は存在しません。)

原告は、今を生きる被爆者ですが。

……

違法でなければ何をやってもいいと、底が抜けているのは、現代社会で顕著だ。市民(SNS)も政治家も。そんなわけはない。

寅子の補充尋問。

鑑定人は、米国にも国にも賠償責任が求められない場合、今苦しんでいる被爆者は、どこに助けを求めればいいとお考えですか?

(嘉納 法学者としてお答えできることはありません。)

そうだよね。それを教えてほしい。

この日の裁判のあと嘉納は、被告代理人の反町(川島潤哉)に、政府による別の救済方法を考えるべきだと思う、と進言している。

竹中の週刊誌でのルポルタージュによって、原爆裁判は世間の注目を集め、傍聴席は人で埋まる。そのほとんどが記者のようだが。

桂場が「竹もと」で寅子に言う。

昨日、来客があってな。直接は言わないが、 言外にたっぷりとにおわせてきた。原爆裁判、速やかに裁判を終わらせろと。世間の注目を集めて慌てた政治家たちが何人もいるのだろう。ふざけやがって。

お〜、裁判官はこうでないと。司法の独立。裁判官というのはとても大事な大きな仕事なのだから。

法定に立ってくれることになった原告の被爆者である吉田みき(入山法子)。当事者尋問だ。

しかし、吉田を矢面に立たせることを心配する轟。「どの地獄で何と戦うかを決めるは本人だ」とよね。それほど凄まじい覚悟が必要なのだな。

航一 当事者尋問の意義は、裁判官の心証に影響を及ぼすかもしれないこと。でもそのかわり、好奇の目にさらされて、確実に傷つくことになる。

寅子 なぜいつも国家の名のもとに国民が苦しまなければならないのか。

(寅子と航一の対話より)

吉田が上京して、その夜、よねと吉田が尋問について語り合う。

吉田は右側の頬から首にかけて被爆によるケロイドが残っている。

ケロイド
熱傷の後、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生し、あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけたような、不規則な隆起を生ずる状態をいう。被爆後4ヵ月頃より発生し、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。2年後には大部分が改善され、大きさも縮小していった。爆心地から2km前後で被爆した人に多かった。

(原子爆弾被害の医学的側面)
[調来助、手塚博:広島医学12、1959年]

凛としていて美しい、とよねを褒めたあと吉田は、自分は美人コンテストで優勝したことがあるのよ、と話す。

「やめましょう、無理することはない」とよねが言う。「たとえ裁判に勝ったとしても苦しみに見合う報酬は得られない」。

声をあげた女に、この社会は容赦なく石を投げてくる。傷つかないなんて無理だ。だからこそ、せめて心から納得して自分で決めた選択でなければ…。

吉田は泣きながら言う。

でも私、伝えたいの。聞いてほしいのよ。こんなに苦しくって、つらいって。

当事者尋問はキャンセルされ、弁護士が手紙を代読することに。

私は、広島で爆心地から2キロの場所で被爆しました。21になったばかりのころでした。体が燃えて、皮膚はボロボロになり、顔に頭、胸、足に被害を受けました。娘を産んだ際、原爆で乳腺が焼けて乳をやれず、夫は、私が3度目の流産をしたあと家を出て行きました。

ただ人並みに扱われて、穏やかに暮らしたい、それだけです。

助けを求める相手は国以外に誰がいるのでしょうか。

この「ただ人並みに扱われて、穏やかに暮らしたい、それだけです」は、あらゆる差別やいじめやハラスメントを受けている人全員の心の叫びではないだろうか。

ただ穏やかに暮らしたいだけなのに、何かと干渉、要求してくる人たちがいる。そんな経験をしたことがある人は多いのでは?こんな大きな被爆という問題に便乗して申し訳ないとは思うが、でも、ただただ穏やかに暮らしたいという気持ちは同じだと思う。

昭和38年(1963年)12月。いよいよ判決が出る。

原告に賠償の権利は認められない。

請求棄却の一言でこの裁判を終わらせてはいけない、という寅子。判決文に文言を加えようと。

判決主文を後に回し、先に判決理由を読み上げる裁判長の汐見(平埜生成)。

当時、広島市にはおよそ33万人の一般市民が、長崎市にはおよそ27万人の一般市民が住居を構えており、原子爆弾の投下が、仮に軍事目標のみをその攻撃対象としていたとしても、その破壊力から、無差別爆撃であることは明白であり、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為である。

では、損害を受けた個人が、国際法上、もしくは国内法上において損害賠償請求権を有するであろうか。残念ながら、個人に国際法上の主体性が認められず、その権利が存在するとする根拠はない。

人類始まって以来の、大規模、かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって、被害を受けた国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。

戦争を廃止、もしくは最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望である。不幸にして戦争が発生した場合、被害を少なくし、国民を保護する必要があることは言うまでもない。

国家は、自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。

原爆被害の甚大なことは、一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策をとるべきことは、他言を要しないであろう。しかしながらそれは、もはや裁判所の職責ではなく、立法府である国会、および行政府である内閣において、果たさなければならない職責である。それでこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法、および立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長を遂げた我が国において、国家財政上、これが不可能であるとは到底考えられない。

我々は本訴訟を見るにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。

主文。原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。

この判決文を聞いて、まず、今現在あちこちで起きている戦争をやめてほしい、私はそう思いました。

それから、裁判所が丁寧に、そして厳格に国に救済を要求しているのが素晴らしい。簡単に、ちょっと乱暴に言うとこういうことですよね。

「国家がその権限と責任でもって起こした戦争なんだから、十分な救済策をとるべきだよ。それは裁判所の職責じゃないんで、国会、内閣において果たしてね。それが原爆被害者全員への救済策となるんだから。終戦後十数年、日本は高度経済成長を遂げたよね。財政は十分に豊かなんだから、救済できないなんて言わせないよ」

8年に及ぶ裁判は国側の勝訴で幕を閉じた。

「意義のある裁判」になったのではないだろうか。

<「虎に翼」第24週 第116話>

ナレーション

原爆の使用を世界ではじめて違法としたこの判決は、その後、世界で注目を集め、被爆者への国の支援を法制化する根拠のひとつとなっていきます。

竹中は「原爆裁判」という本を出版する。

長〜い長〜い記者人生ではじめての本だ。これでおれも…。

またどこかでな、佐田判事。

轟、よね、岩居は、控訴しないことを決めた。これ以上原告たちに負担をかけられないから。

轟 それに俺たちには、この判決がある。

岩居 そうだ。我々で被爆者救済の立法を求める活動をしていこうじゃないか。雲野先生ならぜったいそうする。

轟 原爆被害者救済弁護団、ここに結成!

星家の居間で。

寅子 できることはやった。でもこれで、原告の被爆者の方々が救われたわけじゃない。

航一 上げた声は、判例は、決して消えない。

まさしく「決して消えない判例」を武器に、よねたちは被爆者救済に乗り出すのだ。

「虎に翼」 裁判所ですれ違う寅子とよね ©2024kinirobotti

〜ウルトラセブンと原爆 封印された第12話

「共亜事件」のとき、森次晃嗣と古谷敏の出演があった(既述)。二人共、「ウルトラセブン」の出演者だ。森次はモロボシダン(ウルトラセブン)、古谷はアマギ隊員。

この原爆裁判までの含みがあったのかどうなのかは分からないが、私の個人的気づきがここで浮上した。

「ウルトラセブン」は、第12話が封印されている。21世紀、平成の世になってもまだ、リマスター版でも蘇っていない。

「遊星より愛をこめて」というタイトルのエピソードは、被爆してしまったスペル星人が、血液を求めて地球にやってくる、という内容。

女性たちが突然倒れて意識不明になるという事件が多発。その症状は、血液の減少、白血球がほとんど失われている。

「原爆病によく似た症状じゃないか」と言うダン。

スペル星人は、白い皮膚にケロイド状(と思われる)文様がある。

小学館の雑誌「小学2年生」の付録に怪獣カードがあった。そのカードの一枚にスペル星人が登場しており、そこには「ひばくせい人」と書かれていた。このことで、原爆被害者団体から抗議がきた。朝日新聞に記事が出て世間からの批判も多くなった。

制作者サイドは、むしろ、核実験、核兵器反対の立場からこのエピソードを創作したということだが、おそらくそうだろう、と私も思う。「ウルトラセブン」全話を見渡したときに、そう感じない人はいないだろう。

ドラマの冒頭で、宇宙パトロール中のアマギ隊員から、特に異常はないが平日より若干多量の放射能を検出、という連絡が入る。すると、次のような対話が交わされる。

アラシ隊員 放射能か。ついこの間まで、地球もその放射能で大騒ぎをしたもんだ。

キリヤマ隊長 うん、原水爆の実験でな。しかし、地球上ではもうその心配はなくなった。地球の平和が第一だ。

ちょっと唐突ではあるが、「ウルトラセブン」の背景として、放射能の心配はなくなっているようだ。すなわち世界平和は達成されている前提。

それはさて置くとして、このエピソードでは、平和に暮らせる地球、というワードが複数回でてくる。ゆえに、抗議のなかにあった、被爆者を怪獣に見立てるなどということはもちろんないだろう。そんなことに制作者サイドの意図は見いだせない。

正直なところ、封印するほどの不適切があるとは思えない。当時はまだ戦後20年ほどだった、ということもあるのかもしれない。けれども、核兵器、核実験への批判だと捉えれば、逆に世に問いかけるべきエピソードではないのだろうか。

そして、これはストーリーとは関係ないが、画像の演出、カメラワークが非常にロマンチックだ。ぼかしも、夕刻の風景も幻想的で良い。劇伴も、他の回でも使われているクラシック調のものだ。

最終話のダンとアンヌのシルエット映像を彷彿とさせるシーンもある。夕刻の風景のなかでの戦いは、メトロン星人との戦いでも印象的だった(「第8話 狙われた街」)。いささか実験的な撮影テクニック満載の12話でもあるような気がする。そこにデリケートな放射能を描くのは、いささか厳しい選択だったのだろうか。

第26話「超兵器R1号」では、開発した超兵器の威力を試すために、地球が他惑星に兵器を発射するという愚行を犯してしまっている。

既述した「狙われた街」では、人間同士の信頼を破壊して操ろうとするメトロン星人だったが、ナレーションが、でもそれほど私たちは信頼し合っていないのではないか、と問い掛けてきて物語が終わる。

「遊星より愛をこめて」、夕日のなかでのラストシーンはこうだ。

(サナエはアンヌの友人で、地球人に化けたスペル星人の恋人だった)

サナエ 私、忘れないけっして。地球人も外の星の人もおんなじように信じ合える日が来るまで。

アンヌ 来るわ、きっと。いつかそんな日が。

ダン そうだ、そんな日はもう遠くない。だって、M78星雲の人間である僕が、こうしてきみたちと一緒に戦っているじゃないか。

地球人と異星人の前に、まずは地球人同士、というのが今現在だが。

「地球ではもうその心配はなくなった」というキリヤマ隊長の言葉は、スタッフ一同の願い、理想の思いであるに違いない。

世はすでに令和、21世紀。ぜひリマスター版を放送してほしいものだ。

よければ以下もどうぞ。

百合の認知症は緩やかに進行していった。

家族みんなで百合を見守っているのだが、ある日、近頃のどか(尾碕真花)が全くおばあちゃんのお世話をしないといって、優未(毎田暖乃)がブチ切れてのどかを蹴り飛ばしてしまう。

優未は轟法律事務所へ避難していた。「どうしてもあやまりたくない」という優未に、轟の恋人、遠藤(和田正人)が助言する。

優未 おばあちゃんに疲れているのはみんないっしょなのに、それでも怒っちゃだめなの?

遠藤 怒っちゃいけないことなんてないよ。僕もね、許せない人や物事がたっくさんある。ずぅ〜っと怒ってる。ただ、口や手を出したりするってことは、変わってしまうってことだとは覚えておいてほしい。

優未 変わる?

遠藤 うん。その人との関係や状況や自分自身も。その変わったことの責任は優未ちゃんが背負わなきゃいけない。口や手を出して、何の責任も負わないような人には、どうか、ならないでほしい。

これ、上に書いた判決文とリンクしている。「自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、云々」。戦争責任を負わないような国にはなってほしくない。いや、そもそも蹴り飛ばしちゃいけない。戦争を始めてはいけない。

さらに、私が星家のシーンでどうしてもひとつ気になってしまったことがある。

それはのどかが百合(余貴美子)に対して放ったセリフだ。

百合 のどかさんはいいんです。立派な大学を出て、毎日銀行にお勤めして、自慢の孫だわ。きっとおじいさまも照子さんも鼻高々よ。

のどか(ゆりの手を払い除けて)二人が生きていたら、「美大はやめておきなさい」なんて言わなかったよ。

英文科に行って、つまらな〜い日々を送って、勤めても毎日、お茶を入れるだけ。決めたのはたしかに私だよ。こうして望み通りに進んでるんだから、これ以上私に求めないでほしい。

これは、つまりそういうことか?

のどかは、美大志望だったけど、百合の反対にあって諦めた。確かに芸術家たちの集いに通っていたよね。補導までされて。

のどか自身が芸術サイドの人間だったとは。そして、継祖母とはいえ、保護者としての百合の言うことをお利口に聞いていたんだね。でも、祖父も母も自分の進みたい道を行かせてくれたはずだと断言するのどか。航一はどうしてたのかな?口数の少ない人だったから、二人の間に進路についてのコミュニケーションはなかったのかな。

ここへきて、思いがけないこののどかの内面の吐露が、ちょっと、いや、かなり気になってしまった。

さらにここでもリンクがある。上に書いた、よねが吉田に言った「せめて心から納得して自分で決めた選択でなければ」というセリフ。のどかは「決めたのは私だよ」と言っているが、本当に納得して決めた選択だったのだろうか。そうだったら、「二人が生きていたら、美大はやめておきなさい、なんて言わなかったよ」なんて言葉、口から出てくるだろうか。

ごめんなさい。なんだかのどかのことがとても気になってしまって。百合は意外と毒継祖母だったのかな、のどかには。百合は百合で、朋彦(平田満)亡きあと星家を守っていくという責任を強く感じながらの日々だったのだろうが。

でものどか本人は、仕事でミスしてしまってイライラしていたからお世話できなかった、という理由をこのあと述べる。美大を諦めたその元凶である百合の世話をしたくないのか、それとも本当にただの職場でのストレスなのか…穿ちすぎだろうか。

加えて、のどかの発言からは、お茶くみばかりさせられる女子社員の姿が浮かび上がる。そうそう、もう少し時代が進むと、お茶くみとコピー取りばかり、ってなるんだよね、たしか。

それから、もうひとつ。これは最近取り沙汰されているヤングケアラー問題でもある。父母が働きに出ていて忙しいので、祖父母の介護を子どもたちがしている。家族で協力するのは当たり前なのかもしれないが、これは現代社会の大きな課題とも言えるのではないか。

のどかとの過去のことは置いておくとしても、航一は優しい人ですね。

寅子の更年期について図書館で本を借りてくれたり、百合の老年性痴呆(認知症)についても調べてくれた。

そして何より、寅子と交代で百合の介護に当たっている。ときどき話に聞くのは、自分の父母の面倒を妻に任せっきりにして自分は何もしないという夫たち。そういう夫たちに較べたら、航一は段違いに誠実で思いやり深い。

ついでながら、寅子は更年期に入って、辛そうではあるが、あの辛い生理がなくなるのが楽しみでもある様子だ。寅子の生理期間中の体調不良はひどかったものね。そこまで辛くなくても、お腹が痛かったり、気分がすぐれなかったりするのは女性なら誰しもが経験していることだ。生理にしても更年期にしても、そのしんどさは社会では理解されにくい。気のせいとか怠惰とかで括ってくる人もいる。それを理由に、だから女は、と無下な言葉を吐く男性もいる。

そういった女性特有の問題提起を、このドラマは序盤から投げかけ続けている。

最高裁判所判事のひとりとなった桂場から、あんこの合格をもらった梅子はいよいよ「竹もと」を継ぐこととなる。

笹本(田中要次)がほとんど歩けない状態となり、笹寿司を道男に継がせようとするが、道男(和田庵)は断り、店は畳むことに。自分は頭が悪いからお金の勘定が苦手だし、接客も苦手だと言う。

それを聞きつけた梅子が、いっしょにここで店をやらないか、と誘う。あなたが苦手なもの、自分は全部得意だ、と。

よかったね。寿司と甘味の店「笹竹」。

最終話が近づいてきて、今からちょと寂しい。

ところで、あの新潟から東大へ行った森口美佐江(片岡凜)はどうしたんだろう。とっても気になる。今のところ何も事件を起こしていないようだけど。東京で働いているのか?結婚したのか?これ、回収されないと気持ち悪い。