「武器としての 土着思考」青木真兵著〜自分にとっての「ちょうどよい」を見つける (original) (raw)
たいへん有意義な本でした。
「武器としての 土着思考」
青木真兵 東洋経済新報社
「土着思考」って何だ?
この本のタイトルを見て、なんだかちょっとぎょっとした。
「土着」という言葉に、私はあまり良い印象を持ってこなかったから。なんとなく泥臭さを感じる単語なのである。
「土着」とは、その土地にずっと住み着いているとか、ずっと以前からもともとある、継承されていること、そういった意味に捉えるのがふつうかな、と思う。
なんならいちばん引き剥がしたい、ねちっとした「しがらみ」みたいなものを想像する。
そういった「土着」的事々に縛られて、窮屈だったり、自分の何かを諦めたり、親切を装った干渉に嫌な思いをしたりして、田舎から都会へ出てくる人がけっこういたように思う。私は東京生まれの東京育ちなので実体験はなく、人から聞いた話や、親の実家の様子、ドラマや映画で知る程度だが。
そういう意味の「土着」を、今の時代にすすめている本なのか?と思いつつも、良い本だと推薦されいるし、著者は、私が尊敬する内田樹のお仲間なので、とりあえず図書館で借りた。ちょっと読んだら面白いし、心に留めて置きたい表現も多々あって線も引きたい、思い立ったときに再読もしたいかな、と思って購入しました。加えて、家族も読みたがっているので。
なんということでしょう。ここでいう「土着思考」とは、上記の私の印象の逆なのだ。いや、正確に言うとちょっと違うかもしれないが。
いずれにせよ、地方、田舎、すなわち都会(都市部)でない場所へ、著者は妻とともに、都会という束縛から逃れて移住したわけである。田舎の束縛を逃れて、ではなく。
そういえば、都会の生活に疲れて自然豊かな地方へ移住していく人が多い昨今。私も考えたことがないといえば嘘になる。それだけ大きく動くための理由も支度金も必然性も今のところないので、実行していない。
いや、実は義母が亡くなるときに移住の話はちょっとあったのだが、夫が嫌がった。加えていささか腹立たしいのは、義理妹が、墓守も含めて実家を継ぐということで相続を取り仕切ってほぼほぼ全財産を持っていった。これはちょっと解せなかった。我が家は都市部で自由はあるけどお金はない、という暮らしぶり。…余談です。
とはいえ、ふつうに引っ越しは考えている。もっと快適な場所へ。ということは今の場所に不満があるということである。階下の住人が非常識すぎるのである。あまりにひどいので、警察のお世話になるか、裁判を考えている。でも面倒だから引っ越すのが最善かなと思う。穏やかに死んでいきたいので。
はて?
果たして、束縛や生きづらさを感じるのは、都会なのか?田舎なのか?
著者は言う。地方移住をして、資本主義に背を向けて自給自足的な隠遁生活を提唱しているわけではない、と。
生き物である自分とシステムとしての社会の間にあるギャップに気付き、いかにその両者の折り合いをつけながら生きていくのか。こういう関心に基づく生き方を「土着」と呼んでいるのです。
(P1)
なるほど。
障害者就労支援の仕事をしていた著者。
仕事をする中で強く疑問に思うに至ったのは、「働くことができないのは本人のせいなのか」ということです。端的に言うと、僕はそうは思っていません。
働くことができないのは、社会がその人に仕事を与えられていないからです。
(P4)
これは、障害者に限ったことではない、と私は思っている。
人にはそれぞれ特質があって、例えば行動がゆっくりな人もいる。それを◯◯障害などとレッテル貼りをする昨今。コスパ、タイパに合わせたパーフォマンスを求められたら、どうしてもついていけない人だっている。もちろん、だったらゆっくりコツコツ働ける職場を探せばいいのだが、なかなか見つからない。なぜなら社会全体が、スピードと生産量に過大な価値を置く資本主義の成れの果て状況だからだ。
現代社会の「意味のあること」は、経済合理性に適っていることがその前提にあります。損せず労を少なく、いかにおおきな利益を生み出すか。利益はお金の額として表されます。
(P7)
こんな世界で、過労や自殺や生きる価値を見失ってしまう人々が「年間約2万人もいる社会がまともだとはいえません」。
(私たちは)お金を稼がねばならないし、そんな世の中で生きていくためには学校に行くしか選択肢はない。でもこのような諦めの状況に、人は本質的に耐えることはできません。
増え続けている精神疾患の患者数はその一つの指標です。
(略)
社会システムが生き物のためではなく、社会システムそれ自体のために稼働している(略)。
本来働くことは楽しい経験のはずです。
(略)
僕は多くの人が嫌々ながら「働かされている」現在の状況から、本来の「働く」を取り戻したいと考えています。
(略)
人間は経済活動のために生きているわけではありません。生きるために経済活動をするのです。(略)自分の生きる意味すらも商品を選ぶような眼差しで見てしまっています。
(P6〜9)
「資本の原理が支配する世界」を逃げ出した著者夫妻は、奈良の山村の自宅で図書館を開いている。ここはお金を稼ぐ場ではない。ここの本は「商品」ではない。資本の原理にのっとっていない場所。「現代社会の外」の場所。ここで「価値判断を自らの手に取り戻す」。
もちろん著者は、お金を得るための別の仕事もしている。福祉の仕事や、講演もある。でも、講演や執筆活動は、上記の「社会の外」の延長線上にあるものだと私は思うので、いわゆる資本主義世界の賃労働とはいささか意味合いが異なるのかな。啓蒙活動に近いですものね。生活のために無理してやっている仕事とは違うわけで。
人にはそれぞれ、それぞれの「ちょうどよい」がある。
自分にとっての「ちょうどよい」を見つけ、手放さないこと。そのためには手段を選ばない。これが土着することの肝なのだと思っています。
(P75)
人間である以上必ず土着を持っていて、この土着が社会とうまく折り合いがつかなかったりすると「障害」と呼ばれることもあるし、反対にそれを「個性」として昇華している人もいます。
(P171〜172)
自分の中の「生き物」の部分、言い換えれば自分にとっての「自然」をなによりも優先するように生きていくことが大事なのです。
(P184)
息づらいと感じている人は、自分を責めたり、卑下したり、社会に合わせようと無理するのではなく、自分の「土着」を知ることだ。どこでどう生きていくのが自分にとって幸福なのか、楽なのか、嬉しいのか、をまず考えることが始まりなのだろう。
生きづらく感じるのは、わがままでも根気がないのでも劣等なのでもない。居場所が違う、やるべきことを間違えているだけだ。
だからと言って、私たちは洞窟に引きこもっていたら死んでしまう。
稲垣えみ子や大原扁理の人生の選択もまた、「土着思考」なのかな、と重なった。
どうやらこの選択をすると、おのずと、資本主義、消費社会から遠ざかっていくようだ。
もうひとつ重なることがある。「土着」は、スピノザの「コナトゥス」に似ている。
土着とは「逃れられない病」のことです。言い換えると「目を背けようと思っても背けられないもの」とか「分かっちゃいるけどやめられない」ことだともいえます。そのような自分の中に確かにあって良い意味でも悪い意味でもどうしても消せないもののことを、僕は土着と呼んでいます。そして土着を隠し抑えつけて生きていくのではなく、土着を軸に生き方を考え、それを認め合える社会をつくれないだろうか。そんなふうに考えています。
(P172)
「コナトゥス」を私は「自分が元来もっている力」と理解しています。哲学者の國分功一郎によると、「個体をいまある状態に維持しようとして働く力」「自分の存在を維持しようとする力」「各個体がもっている力」。
活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人ひとりの力のありようを、具体的に見て組み合わを考えていく必要があるからです。
どのような性質の力をもった人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。ですから、本質をコナトゥスとしてとらえることは、私たちの生き方そのものと関わってくる(略)
(國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P61)
都会では、人々はたいがい「土着を隠し抑えつけて」生きている。だから、都会のルールから離れることができる場所で、自分の「土着」と向き合い、「土着」を優先して生きていくことができる。さらに言えば、各々の「土着」を認め合い、尊重し合って暮らしていける社会をつくっていけないだろうか。と著者は日々思い、実践し、また書くことによって啓発している。
この本によって「社会」と「土着」の折り合いをつけて生きている著者の思いの丈を体感させていただくことで、自らの「土着」の道も見えてくるのではないか。その様子がたっぷり綴られている一冊である。
「土着思考」 ©2024kinirobotti