Sad-Eyed-Lady’s blog (original) (raw)

草笛ー9

終章

幾つもの冬があり伯父は山を降りた。

あの夏の花はもう咲くことはなく、溜池をめ

ぐるその営みもどうなったのか分からない。

祠は平成十六年の中越地震で焼失したという。

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あれから私はどこへ帰ってきたのだろう。本

当に帰って来れたのだろうか、私とあの夏の

間に立ちはだかる深い断崖だけがもはや空虚

な絆となって、見渡すかぎりの真っ赤な花が

地平もない渦の向こうへ

「ここよーここよー」

と、呼びかけながら燃え盛り

秋茜の群れが「いくよーいくよー」と口々に

呟きながら飛んでゆく。

この道が舗装路になり私のまわりが未だ、真

夏の土瀝青コールタール鉄屑タイヤ臭くても、

それらを引き摺りなんとか歩いている、きっ

とそれらも必要だったのだろう。

あの頃、裏の川には油が浮き魚が奇妙な姿勢

で泳いでいた、その横で出来損ないが腹を膨

らませ流されてゆくのを、私は拾ったマスコ

ットをきつく抱きしめ見送った。

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今となっては、 ただもう

ダレモカレモ愛なんてどこ吹く風の

草笛に鳴く。

草笛ー8

帰路

車中、群発的な夫婦の会話があり幾つかの沈

黙の後、再び父が口を開いたのは山を下りて

田圃の原へと景色が変わる頃だった。

笠置山の峰を背に昭和ニ十七年集団就職で上

野に着いて、その頃まだ動物園には猿と山羊

しかおらず、パン屋の見習いもキツく早朝か

ら呆れるほど毎日カレーパンばかり作らされ、

昼はコロッケパンを食べ、

「この醤油、腐ってます」と言えば、

麦藁も塩辛もミーンナミーンナマッカッカー

あの子が欲しいこの子が欲しいソースにしよ

うソースよう。

不気味さと滑稽が入り混じった奇妙な光景と

して頭を掠めるだけだったのに息苦しさと焦

燥感、緊縛の幼子は今もって一人リングの上、

立ち向かう。

それはギャクエビの私の記憶と重なって、七

人兄姉、上四人ともに女で戦争にとられなか

った。あとたて続けに男三人、

「オレはいらねぇ子供だから」ニヤッとしな

がら呟く、背中の火傷の痕は火箸だと未来に

なって知らされた。

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忘れもしない口移しで貰うアメ玉、生温い粘

着質の唾液に浸され絡め捕られているような

後ろめたさが、言葉に挫折した私の憂鬱の始

まりだった。何を信じてここまで来れたか、

生き延びるためには信じなければならなっか

たし、壊れやすい月を抱いたまま傷口はもう

完全に塞がることもなく、諦観と惰性でその

痛みを鎮めるために刹那的な快楽に耽っても、

やがてよりスリリングなものを求めて崩壊し

てゆく。狂いだした心の歯車は、そうと気付

いた時には薬漬けと高額なカウンセリングジ

プシー………理屈なら、答えはいつも簡単だ。

「受容」と「許し」そして「解放」一言で

言うなら執着を断つこと。しかしそれが出来

るようになるまでには長い時間をかけて内観

し、それに伴う地獄も味わい尽くさなければ

ならない。

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そこが苦しい、その壁を越えてゆくのか扉は

あるのか、不安と葛藤の中一人きり暗中模索

そうなれば覚悟の上だ。寄り添ってくれる何

かがあれば、それにこしたことはないがそう

もいかない。人生には時間だけが確実に寄り

添い、流れ流れて早瀬から大きな流れへと入

ってゆく。溺れないように徒らに流されるこ

となく、野生を駆り立てながら己を突き動か

すのだ。私たちは互いを照らし出す鏡だから。

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河原で休憩して握り飯を食べる。米は言うま

でもなく田舎味噌の風味も格別だ。故郷もや

がては藍をさらしたような遠い山並みへ、

父は今、草笛を吹いている。

やっとこさ帰る、音だけは帰る帰ってゆく。

この音だ………、いちだんと今は高らかにこ

こから鳴っている、私の中で鳴っている。

「いらない、こんなモン」

藪から棒にそう言って新聞紙に包まれた鶏頭

を束ごと川へ投げ捨てる、母はいつも唐突に

人の気持ちを踏み躙る。だが、人は生きると

いうことにこんなにも簡単に、突き放される

ことも時としてあるのだと覚悟しておけばよ

い。私もどこかしら似かよった潔さが、舌を

出すこともある。さらけ出す一抹の後ろめた

さが、あの遠い山並みのように連綿と今日ま

で連なっている。

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草笛ー7

鶏頭

溜池は濃緑と空の色、そしてひと摑みのドス

黒さを湛えて、覗き込めば写り込む私の顔に

小さな泡が立ち、そこは計り知れないモノ言

わぬ縁で繋がれているようにさえ思えた。

皆、私たち家族を見送りに出てきてくれ、伯

母から道中食べるようにと握り飯の包みを渡

される。一緒に鮮やかな鶏頭を何本か束ねて

もらった。その赤いベルベットは包みの中の

味噌の匂いと相俟って、私たちを絆して艶め

いた。

いよいよ最後、蚕部屋の窓を一瞥すると思い

がけず誰かがふと、見ているような気持ちに

なり、私は大袈裟に手を振ってやっと車に乗

り込む。ゆっくりと流れてゆく風景はどこか

懐かしい切なさを帯びて、

また、潜もるようにあの音が鳴り始めた。

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草笛ー6

花火

ダチュラのそばに小籔があり、掻き分けると

獣道があって学校まで通り抜けられる。棒切

れで薮を叩きながら弟と従兄姉、総勢五人で

歩いてほんの三分もすれば校庭だ。昼間より

一層深閑としたそこは満天の星空で実際、天

の川というものを生まれて初めて見たのもこ

の時だから忘れもしない、星月夜の花火は都

会でするよりそら寂しげに思えた。いつの間

にか私は花火をやめて鉄棒の所へ行き、真ん

中の握り棒に腰掛ける。微かに火薬と草いき

れの混じり合う匂いがする、向日葵が月明か

りに照らされて巨人みたいだ。

そして思い立った私は、グライダーの練習を

始める。握る手を滑らせないように気を付け

ながら大股に足裏を棒に掛ける、ここが上手

くいかない、恐怖が先にたち体勢を崩してし

まう。後ろ向きに重心を取り素早く回転して

手を離す、それだけの動作をバランスとタイ

ミングの絶妙な出合い、即ち気合いと根気で

飛ぶのだ。初めて補助なし自転車で走り出し

た日の爽快感さながら、思いきりペダルを踏

み込めば、飛びたい飛びたい飛んでみたい、

飛ぶ!そう決心するだけで、星空がグルッと

回転する、と同時に矢継ぎ早に聞こえてくる

あの音………風が強く吹いた、

ヤッ!と手を放しフワッと身体が宙に浮き、

波の綾なす輝きに引き込まれ攫われて霧散し

てゆく意識のような碧眼のアレが、一つ目の

向こうへ現れ出でる、

ソレはまさかの銀蜻蜓だ。

複眼で見る世界は両界曼荼羅のように完然と

して、境界線もなく言葉も無用だ。胎蔵界

大らかな水平の広がりと金剛界の垂直な高み

が一つになり唯あるようにありながら、満天

の星をすり抜けるように飛翔してゆく。

なんという醒めた孤独なんだろう。

降りしきる星の銀河を渡り碧落を極めようと

するまさにその最中、分離した想念が伝わっ

てくる。

「蟻が運んでいるモノ、アレはオレの心臓だ」

そして私は何もかも忘れたように思い出す…

……パーンパーンパーンという炸裂音がして、

花火は幕を閉じた。

草笛ー5

焼場のレプティリアン

谷間から立ち昇る朝霧が乳白色をあらゆる色

調の緑で暈しながら漂っている。甲虫くさい

堆肥や生の息吹が、やがて時間とともに緑黛

の彼方へその頭蓋を擡げてゆく。

背の高い茅が生い茂る薄暗い山道を私たちは

歩いていた。緩斜面を上り下りしながら、時

折開ける山並み切り立つ崖に吸い込まれそう

になる。母は比較的機嫌が良さそうだ、昨日

の晩餐に出た木天蓼の塩漬けが気に入ったの

かもしれない、私にはまだ大分苦すぎたけれ

ど。山道では黒揚羽や山百合との際会に、そ

の生々しい美しさとは無縁の薄汚い私の膝小

僧がケタケタと笑いだす。

山道からさっと視界が開け明るくなると、そ

こは『焼場』と呼ばれる場所だった。石造り

の台が不自然なほどさり気無く配置され、そ

うと知らなければハイキングの家族連れが憩

いそうな然もあればあれ、といった具合の剥

き出しで死体を焼くのである。

「見つけた、ヤッタァ」

それはどうやら蛇の衣だった。母は自分だけ

立ち所に、道祖神より奪い取り上手に畳み財

布にしまう。自然石が立ち並ぶ先祖の墓地は

取り巻く深い緑を慄き響めかせて、やがて静

かになる頃私たちは来た道を戻った。

そこで私は道中両親がどうして結婚したのか

聞いてみた、父はどうしたって男前ではなか

ったから。期待した答えとは裏腹に、皆無口

になってしまう。口をへの字に歪ませて私を

見向きもせずに、一点を見据える母の表情を

今も忘れることはない。後退り廻り込むと、

蜥蜴色の乾いた路面が母の背中と同じだった。

草笛ー4

少年とダチュラ

常夜に切れ込む隙間から垣間見る繰り返す日

常の不気味さを他所に、林道を下れば薄暗い

杉の木立から降りしきる蝉時雨は、さっきま

でのそれとはうって変わり涼やかな風も吹き

なんという調和だろう。先ほどの少年が30

メートルくらい先にいる。私もそこまで駆け

降りて隣に並ぶと、飴色したそのヌケガラを

食べてごらんと言うので、ポンッと1つだけ

口の中へ放り込んだ。味はよく分からないが

塩付けて食べると美味いよと早口に言うので

私はフーンと納得して何か言おうとする矢先、

少年は「じゃあ」と言って風のように行って

しまった。私はトンネルの出口みたいな木立

の向こうの陽だまりへ彼を見送り、山道をゆ

っくりと登りながら森を横目に家路についた。

その家は素朴で小さいながらも都会の手狭な

住まいより、はるかに広く大黒柱と太い梁を

備えており降り積む雪の季節にも十分堪える

造りになっていた。土間から座敷をつなぐ廊

下には階段があり、2階へ上がると昔は蚕部

屋として使っていた広間があった。父は桑の

葉雨を聞いて育ったという。階下には間口の

傍、深い穴に板を渡しただけの粗末だが広い

便所がある。天井から太いロープがぶら下が

っており何某かを語りだすので、私は仕方な

く外へ出て裏に回り用を足した。暮れ泥む青

い世界に装いも白く大胆なダチュラが咲いて

いる、その匂い立つ色気で天蛾どもを誘き寄

せ、私は踊り狂っていた。

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草笛ー3

学校と祠

池に面した山道を緩やかに少し登れば、家の

すぐ裏手に父が通った小中合わせた古い学校

があり広い運動場がひらけている。誰かがひ

とり昇降口の段差に腰掛けている。それぞれ

高さの違う鉄棒が三欄隅に置かれているが、

随分と背の高い向日葵がそれを見守っている

だけだ。校庭を挟んだその反対側には囲いも

なく無造作に長方形で刳り抜かれコンクリで

固められたような水色のプールがあり、それ

となくアオミドロや虫の死骸など浮いてはい

たが素足を入れ思いきりバタ足をすれば、お

一人様に私はご満悦だった。

木造校舎に向かって右側は小高い森になって

おり、斜面には大きな木の根が絡み合いなが

ら剥き出し、今にも見せしめんとばかりに縛

り上げようと待ち構えている。青いキャップ

の少年が上から手招きしている。知らない子

だが私は好奇心でその根の間を掻い潜り登っ

てゆき、足下の熊笹を払いながら奥まった場

所へ彼を追い入って行った。するとそこには

少年の姿はなく小さな祠があるだけだった。

辱められることを拒むその扉は、暗黙に了解

されてはいても、なおのこと審らかにしたい

秘密を確然と抱えている。私は扉を開けるべ

きか暫く考えながら足下の蟻の行列を見てい

た。小さな肉片をぶら下げた翅のようなもの

を忙しく運んでいる。頭の上からは狂瀾とし

た鳴き声が私を責め苛み、耳を塞ぎしゃがみ

込む。すると縁の下には夥しい数の蟻地獄が

びっしりと巣食っているのが見えた。

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