砂山。 (original) (raw)
今朝、午前6時の少し前に、京阪・石清水八幡宮駅で下車。 久しぶり郊外に出た。
そこから淀の競馬場まで歩く。 その後また京阪電車に乗って、祇園四条駅で再び下車。
雪が降る賀茂川を撮ってから祇園を歩き、古川町商店街を抜け、岡崎、そして丸太町へ。
17,502歩。 自由と不自由の表裏一体を味わいながら歩く、不思議な道のりだった。
いつものように、今朝見た景色の8割ほどは目新しいものではなく、雪こそ降ってはいたが、あとになって眺めてみれば、それは何だったのか。 確かに没頭する濃密な時間ではあったのだけど、過ぎてしまえば、何だか寂しい。
手のひらから落とした砂の、そのほとんどが流れ落ちた後に少しだけ積み上がる砂山。 作ることを大竹伸朗氏はそんなふうに例えていたけど、それは写真でも同じこと。
多くの写真家は数を多く撮ることで、選んだその一枚に作品の密度を生みだす。 時間をかけて描かれた絵画のように1枚の写真を作り込むのは、とりあえず自分の場合、何だか虚しくなってしまう。
今朝撮った写真の444カットも、ひとまず良いのを選んでここにupしているが、そのほとんどは実際の作品にはならなくて、さらに削ぎ落としていくうちに何も残らないことにもなるかもしれない。 そうであっても選びの作業は容赦ない方がいい。 未練や考え込んだらダメ。
次の1枚を考えないで撮り、かつ考えないで選ぶ。 理屈で構築しないということ。 誰かに教えられたわけではないが、僕はそうしてる。
写真を撮り始めた最初の頃、写真より先に映画的物語という考えがあった僕は、実際撮ってみてすぐに、それではダメなんだなと気がつくことになった。 じゃあ、作品として写真を自立させるためには、何を、どうしたら良いのか? 人並みに制作に対しての希望はあったが、なかなか自分なりの成果がついてこなかった。
その後も興味と探究心だけで写真を続け、理屈や考えで写真を撮ることは、今は全く無くなった。 思うに、考えて撮った写真は自分を超えていくことはなく、本質的な写真の面白みも失い、結局は何も残らない、そう思う。 残ったとしても、自分にとって好きな写真ではない。
でも、一般的に写真の面白味って何なのか、よくわからん。 好きな写真はいっぱいあるけど、それは僕にとっての面白さであって、他人様も同じ考えであるとは、到底、僕には思えない。
いやあ、写真って、本当に難しい。 難解ってことなのか? 微妙に他の表現とは異なるし。
撮る対象を選ぶ時、珍しさや稀少なものなんて、世間にそんなにあるわけでもない。 また、技巧的な上手さに頼った写真は、あっという間に飽きてしまう。 自分としては、何かもっと時間をかけて眺め、その後、じんわり来る感じがいいなと思う。 でも一般的に、その感じは、なかなか伝わらない。 結果だけを急いだり、その感受性がないなら、それは通じないんだと諦めるしかない。
必要な人にだけ・・・・まずは自分に対して、正直にあらねばならない。 そう思う。