『文学+』4号 (original) (raw)

【シリーズ 近代現代文学研究座談会】第3回・昭和(戦前)篇 「理論・文学・運動」 尾形大×加藤夢三×木村政樹×鳥居万由実 レジュメ+司会・大石將朝
【特集 演劇史】川口典成インタビュー 「日本近代演劇史と対峙して」 川口典成 聞き手・清末浩平×平林慶尚×劉夢如
【論文】
絓秀実「「政治と文学」理論とケアの論理・覚え書」
梶尾文武「小説が贋物になる場所――六〇年代文学における辻邦生の位置
山西将矢「言葉の魔法使い――寺山修司あゝ、荒野』論」
荒木優太「文學界新人賞を獲るにはどうしたらいいのか?」
矢野利裕「サブカル私小説系から当事者性へ――現代文学の大衆性をめぐって」
中沢忠之「文学は正義!!」

戦前昭和文学史座談会と、荒木、矢野、中沢論文目当てに買ったが、演劇史のが面白かった。

【シリーズ 近代現代文学研究座談会】第3回・昭和(戦前)篇 「理論・文学・運動」 尾形大×加藤夢三×木村政樹×鳥居万由実 レジュメ+司会・大石將朝

伊藤整を通じてどのように「文壇」が掲載されたかを研究をしている尾形、
修士ではSF研究をしていたが博士から新感覚派がどのように科学を受容したかの研究をしている加藤
左翼系知識人による文芸批評を研究している木村、モダニズム詩を研究している鳥居

【特集 演劇史】川口典成インタビュー 「日本近代演劇史と対峙して」 川口典成 聞き手・清末浩平×平林慶尚×劉夢如

インタビューとは書いてあるが、ほぼ座談会
最初に、このインタビューの経緯などが説明されている。
川口典成は演出家、清末浩平は『文学+』同人の一人だが、もともと演劇をやっていて、川口とは旧知の仲。
このインタビューは、日本の近代演劇史を明治から終戦まで辿るというものになっていて、まず清末が時期を区切りながら演劇史のトピックを説明し、それに対して川口がコメントするという形で進む。
なので、主に、清末と川口が話している感じで進む。時々、平林が混じり、劉が質問するという感じ。
平林も『文学+』同人だが、劉は、寺山修司を研究している留学生として参加している。
また、川口は、日本近代戯曲研修セミナーをずっとしてきた人でもある。

さて、そういう内容なので、普通に、日本近代演劇史ダイジェスト版として読むことができる。
演劇について前提知識のない人でもおおよそ読めるようにできている。
自分は、近代演劇のことなんて全然知らないので、この記事への興味が当初はあまりなかったのだが、読んでみると、知らない人でも読めるようになっていて、また普通に(当然なのだけど)日本の近代文学史・文化史との接点が多い内容で面白かった。
分量としては相当長い(本誌の半分くらいがこの記事なのでは?)ので、ここでも内容を逐一まとめることはしないが、面白かったトピックだけ拾い上げてみたい。
とりあえず、この記事の小見出しを目次にすると以下の通りとなる。

1 文明開化と散切り物
2 演劇改良
3 川上音二郎の新演劇
4 福田善之の戯曲『オッペケペ』をめぐって
5 文芸作品路線と翻案ストリートプレイ
6 新劇の源流1 文芸協会
7 新劇の源流2 自由劇場
吉井勇の戯曲
9 大正戯曲時代
10 演劇の言葉とは何か
11 労働者演劇の始まりと築地小劇場
12 プロレタリア演劇と転向
13 久保栄の戯曲『火山灰地』をめぐって
14 戦時下の演劇の問題1 『ますらおの伴』をめぐって
15 戦時下の演劇の問題2 『女の一生』をめぐって
16 日本という文脈を超えて

川上音二郎という人、もとは自由民権運動の人なんだけど、即興劇みたいなところから新派劇の源流となる。即興なので台本がないから検閲的なものを回避できる。
で、芸者の貞奴と結婚する。貞奴は政財界に強い芸者だったので、そこから伊藤博文とかと人脈ができる。貞奴というと、パリ万博に出てた人だなということくらいしか知らなかった(海野弘『万国博覧会の二十世紀』 - logical cypher scape2)ので、ここに出てくるのか、と。
川上音二郎アメリカで興行をしていて、日本では、歌舞伎の女形が女性も演じるので女優というのがいなかったが、アメリカ興行の際に貞奴も舞台に立つようになって、日本初の女優となっていく、と。面白いエピソードとして、アメリカでやるならシェイクスピアもやってみるかということになるのだが、セリフは全部日本語でしかもデタラメ、とかでやったらしい(客は筋立て分かっているのでセリフが通じなくても問題ないと音二郎が判断した)。
福田善之の戯曲『オッペケペ』というのは、川上音二郎をモデルとした戦後の作品で、川口も演出したことがある作品
日露戦争国威発揚に協力したという、一種の「転向」を扱った作品のようでいて、実はそうではないのでは、みたいな話をしている。
この後、他にも川口が実際に演出した作品をいくつか取り上げているが、「転向」っぽいテーマをよく扱っている。個人の欲望が全体と繋がってしまう瞬間を描いた作品に関心があるらしい(戦争協力というか、戦争へ進む世論との迎合というか、そういうのって、どこかロジックには飛躍があるのだけど、個人の欲望・願望みたいなものと全体のそれが一致してしまうからこそ生じていて、そういう瞬間を戯曲はうまく描くことができるのではないか、みたいなことかと思う)。
新劇の源流あたりの話
まず、坪内逍遙というと、自分なんかは『小説神髄』のタイトルが思い浮かぶくらいでしかないけれど、演劇的にも重要人物で、演劇についてかなり色々なことを書いているらしい(こういうセリフはどうやって読めばいいのかとか)。
坪内がつくった文芸協会というのは、しかし、演劇だけではなく色々なジャンルについての組織で、坪内自身は劇団作ったりすることには消極的だったらしいが、留学から帰ってきた島村抱月が積極的で劇団を作る。で、この島村抱月松井須磨子の不倫の話へつながっていく。
島村と松井の話は筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2で知ったのだけど、前後の脈絡がよく分かってなかった。
大正に入ると、戯曲を書く人の数が増えて「大正戯曲時代」などと呼ばれるらしい。
菊池寛とか岸田国士とかが出てくるのだけど、それ以外に、武者小路実篤とかの名前があがっていて、そうか、実篤とかって戯曲家でもあったのか、と
最後の方に出てくる『女の一生』というのは森本薫によるものだが、戦時中に書かれた作品が森本自身の手によって戦後に改訂されている。
戦後版だと、冒頭と結末が戦後の焼け跡からの回想になっている。そこだけが違っていて、中身は全く同じ。戦時中版だと、もちろん焼け跡のシーンはない。しかし、それだけの改訂で、作中のセリフの意味とかが全部変わってしまっているという。戦後版だと、間違えてしまったけれど引き受けようという受苦のセリフになるのだけど、戦時中版だと、これからまだ戦争は続くぞというところで終わるわけで、むしろ戦争に勝ちに行くぞというセリフになるとか。
リベラルな家族観と戦時下のメンタリティの結託(大東亜共栄圏)
なお、森本というのは必ずしも戦争翼賛的な作家とはみなされていなくて、むしろ本作も戦時中における「抵抗」と評価されているらしいのだが、川口は、とはいえ戦時中版は、必ずしもそうなってはいないのでは、という読みをしている、ということらしい。

荒木優太「文學界新人賞を獲るにはどうしたらいいのか?」

「露悪バリアー」という概念を用いて、「ハンチバック」など近年の文學界新人賞受賞作を論じている。

矢野利裕「サブカル私小説系から当事者性へ――現代文学の大衆性をめぐって」

2010年代は、市川「ハンチバック」に到達するように、当事者文学とでもいうべき流れがある。これを矢野は「主題の積極性」というX評価しているわけだが、これの源流として、2000年代の『enTaxi』を中心としたサブカル私小説系の流れを見いだす
四大文芸誌による文学とは別のところに起源があるのだ、と
2000年代のいわゆる「文学」というと、保坂和志的なものが主流というか力を持っていた時代だろう。個人的には、まさにそのあたりから文学に入ってきたので(あまり保坂和志自体は読んでいないのだが)、ちょっと文芸誌読んでいないうちに、なんか雰囲気変わった気がするな、というのは感じつつもよく分かっていなかったので、この矢野論文による整理が非常に分かりやすくて面白かった。
リリー・フランキーとかECDとか、あるいは西村賢太も『enTaxi』組だったというのは今回初めて知ったんだけど*1、そういう流れ。存在は知っていたけど読んでいなかったな、と。
2000年代の「サブカル私小説系」から2010年代の「当事者性」へ、という移り変わりを、戦前の「私小説」から「プロレタリア文学」へ、という移行と類比的に見つつ、戦前のそれは「大衆性」のない文学から「大衆性」のある文学へ、という移行だったのに対して、21世紀のそれは、どちらにも「大衆性」が共通して見られるとする
で、この「大衆性」というのは、ようするに、ちょっと変わった人の私生活をのぞき見してみたいという下世話な欲望、見世物化のことで、「当事者性」というのとちょと相反するようにも見えるけど、この2つは結託しているところもあるのではないか、という議論を組み立てている
サブカル私小説系」から「当事者性」への移行ポイントとして、雨宮まみを挙げていたりするのも面白かった。

中沢忠之「文学は正義!!」

もともと荒木・矢野に対して、小特集として論文を依頼したが、単体で面白いのがあがってきたので、あえて目次には小特集とはつけなかった云々ということが書いてある。
とはいえ、もともとそういう企画だったためか、やはり荒木・矢野・中沢論文は一体で読むのが面白いと思う。
中沢論文も、当事者性に着目し、「この私」と正義(政治的正しさ)の結びつきを論じる。
加藤典洋敗戦後論』をめぐる高橋哲也との論争(歴史主体論争)と、筒井康隆が「無人警察」の差別表現を指摘されたことに端を発する断筆に対する絓秀実による議論(言葉狩り論争)の2つを軸にしつつ、後半では、笙野頼子の純文学論争も取りあげている。
言葉狩り論争を加害への想像力豊かだった論争とし、一方、当事者語り的な私小説は、被傷的
加害的技術(対象描写)と被傷的技術(内面描写)
政治と文学、それぞれの多数化
政治と文学の一体化