「非国民とされたろうあ者」 内心で支えた多くの人々が居た 父 母 兄弟 徴兵検査に立ち向かう 侮辱と軽蔑を受けながらも断固として子の耳が聞こえないことを言い通した気迫 (original) (raw)

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。

耳が聞こえないのは徴兵回避の

でたらめな作り事 として決めつけられて

暴力的に追求された

徴兵検査では、おそらくあらゆる罵詈雑言と共に「非国民」と両親や兄弟たちがなじられたか、耳が聞こえないのは徴兵回避のでたらめな作り事として決めつけられて、暴力的に追求された事などが予測される。

徴兵を逃れようとして自らの手首を切った人などこの時代は非常に多かった。これは、ほとんど知られていないことであるが、徴兵検査のことを調べていくうちに解ってきた。

一家を支えている青年が、徴兵されると一家が餓死する。生き延びていくために徴兵検査を逃れなければならない。

その人たちが増加するに従い、徴兵検査はますます厳しくなり、ろうあ者も家族も、親類も手ひどい仕打ちに遭う。

国のために死ぬ軍人に

なれない子どもを産んだと

京都のろうあ者の戦争体験を記録する時、おしなべて手話で語られたことからも分かる。

お国のために死ぬ軍人になれない子どもを産んだとして、殴り殺されそうになっても何も言えない最大の屈辱。

「五体満足」なのに聞こえないふりしている、と決めつけら疑いを消そうともしない軍人たち。

子を想う親の気持ちが

じんじん伝わってくる

出口さんのお父さんの場合も、その心境は計りしれないものがあっただろう。

殴られることは覚悟していても、耐え難い屈辱があったはずだ。

出口さんとお父さんのコミニュケーションは、十分でなかったかもしれないが、子を想う親の気持ちがじんじん伝わってくる。

殴られながら、屈辱的な罵声を浴びせかけられたであろう出口さんのお父さんに、出口さんのコミニュケーションを保障していないと現代風の手話通訳者は言うかもしれない。

でも、私は、あえて、ノーと言う。

通常の感覚と通常の判断が通用しないとき
子を守り、子を想いやることが出来たのは

戦争、敗戦間近、日本では、通常の感覚と通常の判断が通用しなかった。

その時、子を守り、子を想いやることが出来たのは、せめて自分が子のことで受けた暴力と屈辱を胸にしまい込んで耐え続けることが、出口さんのお父さんの出口さんへの深い愛情表現でなかったのかと思うからである。

戦前の障害者に対する疎外感を強調し、彼らが孤独と孤立の生活の中で生きたことを強調する人も多い。

でも、私は、ろうあ者に「聴き続けた」限り、多くの人々と話し合いをし、意見交換する中で「疎外感を強調し、彼らが「孤独と孤立の生活」の中で生きたこと「だけ」を強調する事に大いなる疑問を感じる気持ちが強くなった。

どこかで誰かが

ろうあ者の人々を表向きにも
ひっそりと隠れたところでも

支え続けてくれていた

たしかに、ろうあ者の場合も戦前、戦中と多くの辛苦を味わってきた。

言い表すことの出来ない侮辱と侮蔑も山ほどあった。

でも、よくよく聴いて、調べつくすと

どこかで誰かが、

ろうあ者の人々を表向きにも、

そうでなくても、

「侮辱」「侮蔑」した言い方をしていても、

ひっそりと隠れたところで支え続けてくれていたことを知ることが多かった。

「非国民」と多くの人が「内心」で思っていたのではないのでは。「言われた」ことだけで侮辱や軽蔑があったとだけ決めつけてはいけないと考える気持ちが次第に湧き上がってきた。

私は、出口さんのお父さんが、出口さんを連れてあらゆる屈辱と暴力を受けるであろう徴兵検査会場にあえて行ったことに、出口さんを心から支え、思いやるお父さんの強い意志を見る。

聞けなかったばかりに

ろうあ者の徴兵検査の全容が
ろうあ者とともに

理解することが出来なかった

京都のろうあ者の徴兵検査の時に、父が「出征」していたためお母さんが、ろうあ者の子を徴兵検査会場に連れて行ったことを聞いた。

徴兵検査会場は、男ばかり。男は全裸にさせられて検査を受ける。

その前でお母さんは、出口さんのお父さんと同じような扱いを受けていた「様子」をろうあ者が私に語ってくれた。

男以上の侮辱と軽蔑を受けながらも断固として子の耳が聞こえないことを言い通したお母さんの気迫。

その哀しみ、無念、絶望、あらゆる避難、疎外‥‥‥

でもわが子を守り、育て、未来に託す強靱なお母さんのこころ。

私にも迫ってきた。

ぜひ、お母さんに会ってその時のことを聞いて、後世に伝えたいと思った。

でも、お母さんはすでに死んでいた。

私がろうあ者の戦争体験を聞き始めた時、京都でろうあ者が徴兵検査を受けたとき付き添った両親や兄弟たちの全員がもうすでに亡くなっておられた。

聞くときが遅かった。

聞けなかったばかりにろうあ者の徴兵検査の全容ばかりが、ろうあ者とともに家族の思いを理解し、共有することが出来なかった。

これらの事は、歴史から抹殺してはならないと思う。

残念でならない。