山中臨死境 (original) (raw)
後の世からみてこの時代は明大昭平時代とでも言われることになるのだろうか。
例えば自立して親の気持ちがわかったとか何とかいうけど、だから自分が昔嫌だったことを別の人にしてもよいのかと思う。嫌だったというのが真実なら、親の気持ちわかるより前に、素直にそのことをやめればよいのではないか。
例えば。後輩だった時代に、すごいしごきというか、いじめみたいなことをされて嫌だった。自分が先輩になって、先輩の気持ちがわかった。自分もしごいたりいじめたりして何の問題もない。
みたいなことにはならんだろう。
嫌なことがあった、その根本の原因を見つけるよりも先にただ単に嫌だからという理由で独立しても、自分が結局また同じことを繰り返して別の人にしてしまうということはあるだろう。でそういうときに、親の気持ちがわかったとかなんとか言うことになるのだろう。
ちょっと極論すると、親の気持ちなんて子供の頃にわかってナンボではないのか。わかった上で愚かなことは繰り返さないということをはっきり肝に銘じた上で独立するのはわかる。といってもこれは理想論で、そう簡単にできることでもない。
誰のおかげで飯食わせてもらってるっていう一言が全部を正当化してしまうことはあるよね。だからいざ自分が親になったときにも、「親の気持ちがわかった」から、誰のおかげで飯食わせてもらってるって子供に言って、嫌なことをする、という、このサイクルを世代がすすんでも何度も何度も繰り返す。
まあ一般論で私がこの年で独立してないのはまずいことは前提だけど
誰のおかげで飯を食わせてもらってるんだ!ということ。それと、親が嫌なら独立しろ!ということ。これは何か一つになっているのではないかと思うんだよね。
嫌なことがあっても、食わせている親が正しいのだから、っていう論理でしょこれって。
独立するしかない、という思想は、結局そういうことだよね。
独立せよ、と言っても、意味を何重にも考えることができる。例えば経済的に独立することと、精神的に独立すること。
今までは経済的に独立することが道徳として捉えられてきたんだけど、これからの時代は賢くて大人な子供が増えるから精神的に独立した子供が増える。道徳の位置付けが変化してゆく。精神的に独立しているならば、経済的に独立する前に、親と対話によってその悪習慣を変えてゆくことができる。これもまた理想論ではあるけど。
だから、嫌なら独立せよ、というのは、精神的に独立する、という意味で捉え直すことができる。精神的に独立したら、経済の観念も変わってくるはずだ。分け与えること全般が経済の枠のなかに入ってくる、という感じだ。自分の思想を相手に提供するということも、金が介在しないでも、立派な経済活動であることになる。まあこれも一つの理想論だ。
経済的に独立することを道徳としているならば、間間にはさまる人間としておかしいようなことも揉み消されてしまう。この、人間としておかしいものの出てくる源をわかる前に、独立してしまったならば、自分もわけのわからないままに同じことを子供に繰り返してしまう。でも人を食わせているんだからOK、ここで思考が止まってしまうことになる。これは精神的な独立をしていない人の態度。
もっとも、精神的に独立するために、いったん経済的にも分かれて生活するのが賢明という場合もあるだろう。親が嫌なら独立しろ、というのを道徳からではなく「賢明さ」の観点から言う立場だ。余裕がなければ、親と真に向き合うこともできないということもあるからね。でもこれは独立することが道徳的に正しいからではなく、ただ単にそうした方が問題に向き合うのに賢明だからということだ。結果として精神的な独立がうまく行くこともあるだろう。
ただただ親から離れたいがために独立する、結果としてまた余裕のない労働生活が始まる、結果として余裕のなさから、自分も親からされたことと同じことを人にもしてしまうということもある。
親の気持ちがわかる。わかったわかったと言い聞かせて、子供への虐待は知らんぷりなんて人も世の中のどこかには存在しているかもしれない。
もちろん現実にはやむをえず経済的に独立しなければならないことは多いだろうし、結果として到来した余裕のない労働生活のなかで、自分の心がかつての親と同じにならないようにそこに向き合ってゆくことは、とても大変だろう。その一つの助けとなるのがカウンセリング、心理学でもある。
いままで語ってきたのは理想論で、問題をわかりやすくするために単純化して考えたことだから、実際の事実と照らし合わせて当てはまらないこと、そんな簡単に言えないこともたくさんあることは確かに事実だろう。
依存というのは難しい問題だ。依存している相手が正しくなくても、こちらが向こうに依存していれば、そのことによってこちらが正しくないことになってしまう、という問題。
精神的な依存だったら、経済的に独立するよりも早くに身につけることができるし、また経済的に独立して何年経っても身につけていない人もいる。
結論:与え与えられる関係のために。
へりくだって与える。経済的に依存させるのではなく、経済面ではこちらが提供しているという立場。他の面では相手から与えられているということ。これを自覚すること。こういう関係性を意識的に作っていけること。
これがあることで何が変わるか。まずこちらが不正を、恩着せがましさに隠れて為すことができなくなるということ。不正をするというのは、むしろ相手に精神的に依存することだから、その対価として相手の私への経済的な依存を理由に挙げるのは間違っているとわかる。
本来経済的に養うことはすぐれて精神的にも養うことを包含しているはずである。これを教育と言ってよいであろう。経済が精神の表現の形式になるのである。経済的なものを離れて共同体的精神も存在しない。経済とは単に経済的なものであるわけではない。例えば経済の最適化の機構のなかに重要な精神的要素が含まれていることも多くあるであろう。そういうものを知恵と呼ぶこともある。したがって経済的援助とは真には金銭的それを意味するのでなく、広く物質的文化の総体を相手に与え教えることであるのでなければならない。金銭が人を支配する世の中において、どのような知恵を働かせてこの世界に人は順応し最適に自己を表現しているかということを伝えるのが本来の経済的援助の使命である。必要なものを物質だけ与えてそれでおしまいではなく、それに付随する精神的適応の知恵の体系を教えるのが真の経済的援助である。
ミナミAアシュタールは、金銭は感謝の形式であることを言っているが、経済的援助というものも、相手の存在と可能性への感謝の形式として捉え直すことができないか。そのために、経済的援助にはいつでも精神的援助の要素が伴っているのである。これにおいて精神性の対価として精神性を支払うというあり方が生まれてくる。精神性の対価として単に物質的なものというのは釣り合わない。そこで言い訳として、これこれをしてやってるのはあなたのためを思って、などと言われることがあるのだが、それはその実相手ではなく自己の欲求を満たしているだけということになり、すなわち本来あるべき精神的価値はそこにない。精神的価値の偽造はそこにあり、精神的価値が偽造できるからこそ、金銭というものが経済そのものの全体を支配するにまで至ったのである。お前のために働いてやってると言えば聞こえはいいが、その「お前」に普段から与えている精神的全体性というところからみれば、彼はいくばくのものを相手に与えることができているだろうか。行為と動機に一貫性があるならば、仮に猛烈社員のような人間であったとしても、その子への真情は行為のふしぶしに滲み出てくるであろう。お前のためによくやってやってるのだから「これ」を受け入れよ、という要求は、しばしば精神的なもののために単に経済的に過ぎないものを対価として支払おうとする無理であってしまっている。そしてそれを偽装するために、この経済的価値を変に精神的価値と同等のものとしてみなそうとする正当化が行われるのである。
哲学的闊達に至れない悪なるものの負け惜しみは聞いてあきれる。私はそのようなことを言ったのではない。私は君たちを端的に許さない。そういう態度をはっきりと表明することは、悪の根源を解明することと同じくらい大事なことなのだなと痛感させられる。悪がその根底において理解されるということは、かえって、善は善であり悪はどこまでも悪であるということであり、全ての区別性のマグマにして最先端、最責任者たる意識の立場においてあくまでも論理的に悪であるものを志向するものの罪は、一般的な意味での悪に比して、比べられないほどに重いものであり、彼らは今すぐその罪の重さに気づき、魂の底からそのことを恥じ、改めなければならない。善悪がなくなるとは、善悪が真の姿になるということであり、ある神示の言う真釣りと魔釣りの区別であり、したがってその悪をあくまでも志向する、そのことをわかったうえであくまでも悪であることを実質的に意志するものは、これほどない重罪を犯していることになる。そういう意味での、一般化できないという一般性、それゆえにこれ以上固いもののない普遍性というものがそこにある。どんな崩しやすい一般性も越えた、いかなる破壊者も超え得ない真の一般者がそこには存在している。彼らはそのような真にソリッドな一般性を前にしてあくまでも悪であり続けるのである!なんという怠惰、何という低劣さ、これほど呆れ軽蔑の念の湧きでることはない。
さてその彼らの存在意義であるが、要するに私が純粋に霊的に奮起し、むしろ私が霊的に捨てたものではないことを自覚させる契機として、真なる悪はいかなるそれらしさからも生まれ得ないということの学びとして、創造的に与えられたものと考えることができる。私はこの問題を結局は創造的に解決することになるのである。私はもっと私自身の創造性と道徳性に気づかねばならなかったのである。そのことを端的に証している事実がこのことである。
そのうえで彼らが哲学的闊達に至る道は存在するだろうか。しないときにはしないということがむしろ哲学的闊達の道というものではないか。彼らはハナから人として相手にされていない。その滑稽、自ら自らの演じているところのものの無自覚であるところ、これこそが彼らの哲学的闊達というものではないか。
哲学的闊達さの方が、陰湿な馴れ合いのスポイルよりも、どれだけ清々しいものか。それは悪を包むものである。そうであることを知らないからこそ、そのような最もナンセンスな方向にゆき、ナンセンスであること、あらを探すこと、揚げ足を取ることをもって、喜びとするほかない。しかしそのような喜びは、真に根底を持つものではなく、すなわち真の喜びから見放されたという深い実感からくる、負け惜しみと言うべきものであり、彼らは、何度このように指摘してみても、本質的で一番現実的なこの点に、気づきすらしない。哲学の問いは、全てのこのような悪的局面を含めてこれを包み、その全体をさらなる高みに持ってゆく。その運動においてあぶれるものはない。あぶれるのだと勝手に独り決めしてしまって妨害の方に専心するというのが彼らの行き方であり、私はその実性の虚無を感じる。本来哲学的問いは、全てのものに等しく与えられたものであるが、それは全ての者に一々神のようなものが、値の割り振りのように与えたものであるということではなく、全てこの世界に息するものが自動的に、悪にせよ善にせよぶち当たる、世界において自己存在のあることの不思議というなんでもなくしかし一番深い問いとして卑近な遠さとして与えられたものであるということである。彼らは私と問いを共有できる。この問いの前には、相手が成功するかどうかなどどうでもよくなり、真の共同は、どれだけ疑っても疑い得ない(ゆえに悪を包む)、唯一の根源的問いから生じてくるものであり、何故に悪なるものも、善なるものと、等しく存在「してしまっているか」ということが重要な問いとして置かれることになる。哲学的問いは、何度も言うが、全ての存在に共有されている。それは一つ一つの存在に割り振られることによって存在するのではなく、どんな形であれ存在してしまったものには根源的に与えられている、自己存在の根底を見つめる問いであり、いずれ全ての存在が直面しなければならないものであり、そこより他に実体というものは存在しないというものであり、もとよりこのような妨害の動機となるものに真の実体性はない。彼らもまた、ほかならぬ自己自身の問題としてこれに直面しなければならないのである。哲学は決して高尚なる一部の存在に与えられた特別な権利のようなものではない。そう思うからこそ、妨害というものによる危機を感じるのであり、妨害というものに対する実体性の幻夢を見てしまうのである。哲学とは理念的形式であり、妨害に屈してなくなってしまうようなそれは、いまだ限定された形式に囚われている。哲学の実体は、責任という意味では文章の内にも存在し得るが、それは本質的にはいかなる形式においても実現し得る。といっても何でもないチリに哲学を託すのは、ある面からは無責任と言える。それは悪を包むものでなければならないが、単に善悪不問というところにその真の意義があるのでなく、悪の積極的意義を明らかにした上で善悪が不問へとなってゆくことこそが真の善であり、禅者的悟りというのは、この点の自覚に、何か欠けたところがあるのである。哲学は、責任という意味では、悪を、その手前からではなく、その正面から、カビの根本から相手にしなければならないのであり、かといって悪なるものの用意する陰湿な空間に取り込まれてはいけないという難しいバランス感覚が問われる。要は悪なる彼らにも同じように問いを自分のものとして共有できればよいのである。そのためには、一般道徳というものはひとまず脇に置かねばならない。それを言ったところで通じないから、彼らは悪に惰したのである。一般道徳は、全ての人に共有されたものではない。それは洞察の不足を常に備えている。真の哲学的問いとその思索は、悪なるものが現実となる条件についての洞察を含んだものでなければならない。陰湿さというものを直ちに肯定するのではない、それがそもそも存在するようになった根源的な理由が知りたいのである。そして陰湿さのただなかにあるものにとって、それは己の存在を天に高めるために、そこに至るために必須の問いである。陰湿なものこそ、哲学的闊達さを己の衣としてまとうことが必須なのである。そこには真の意味での道徳性が、根底から彼の行動を動機づけることができる。それは限定された、寿命付きの、一般道徳とは性質が異なるものであり、実体としては端的な道徳性を得られないが、理念的には、常に道徳性の根底に結びつくものとして、根底性の問い直しの無限運動から考えられるものである。
もともと真の善とは、悪を排除していった先にあるものではない。そのようにして至る善は、一般道徳的なものであり、その究極の境地といっても、すぐに行き止まりがある。むしろ真の善は、悪が、その問いを己の問いとできるところに生まれてくるものであり、悪を己の機関として運用可能であるところから生まれてくるものである。悪はここにおいて、肯定も否定もされず、単なる物理的性質によって乗りこなされるのである。いかなる観念的なものも、必ずそれが物理的性質を持つようになるポイントが存在し、このようなものを対象化してゆくのが心理学の仕事であると考えられる。我々は悪なるものの原動力を、単なる燃料にできるまで、徹底的に見つめる必要がある。彼らに哲学的闊達さを付与するためには、彼らが単なる物となる必要があり、彼らのその本質的な滑稽さにおいて見てゆく必要がある。悪なるものを自己の燃料とできるならば、悪による善の脅かしというものはもとから存在し得ない。書かれた文章の一貫性とか統一性という観点からは、こうした脅かしというものは、限定的な仕方ではあるが存在し得る。しかし、哲学とは本来無限定の形式においてあるものであり、限定的責任の文字を外せば、それは自在にして、根底的には、救いのあるものである。高いところに向かうのに、単純に悪を排除しなければならないかと言うとそうでなく、悪をその本性において見れば、悪の物質点というものが見出され、むしろこれほど使いやすいものはないと得心するのが真の善なる道である。ゆえに道徳的に高いと言われる態度や人は、どこか頼りない。外面上そう見える人でも、真に道徳的な人は、むしろ道徳的な振る舞いに価値を置いていない。彼はそこを超えたところに価値を見出しており、そのような根源的価値の、ある社会的局面における偶然の顕れがそのような形をとったということに過ぎないのである。悪は一般化可能である。善は一般化可能でない。ゆえに一般道徳と言われるものは、真に善であるわけではない。善の価値はその包含性にある。万人に公平に、分け与えられるべきものが分け与えられるということが善である。一般道徳というものも、その本来は、そうした性質によって成り立っていたものであると考えられる。だが一般道徳において善でないものが限定されるとき、善なる判断とされるものが、全ての人にとって平等に行き渡らないということが起こってくる。そのために悪は無価値なもの、訂正されねばならないものとして、そのものが存在そのものから否定される。わかりやすく言えばその生命の価値の否定であるが、罪を憎んで人を憎まずという立場においても、いまだその行為というものが存在否定されている。行為そのものにおいても、その悪なるものを生み出した根底というものが理解されることにおいて、理想的で概念的ではあるが、真の善なる立場が存在し得る。もとより、悪でない存在は存在しない。必ずその行為は、限定された慈しみしか持ち合わせない。ゆえに存在は、常に、根底的なものへの眼差し、問い直しというものを必要とする。この態度は、いかなる悪的なものにも等しく与えられた存在の存在としての根源的態度である。
悪というものを、ここに、正確に定義しなかった。それは常に、全存在の代表たるこの私への妨害という形をとる。しかし全存在の代表は、根底への問い直し的存在として常に相対的であり、したがってこれにまとわりつく悪というものも常に相対的なものであることになる。この全存在の代表たる私、の主語が大きくなるにつれて、すなわち集団的私というものが考えられるにつれて、悪というものはわかりやすく一般化される。さきに悪は一般化可能であり、善はそうでないと言ったが、悪が根底的には善的なものに結びつくと考えられる限りにおいて相対的であり一般的なものでないと考えられ、善とされるものも単に一般化の行き止まりを持つものと考えられる限りにおいてむしろ悪的なものと考えられるのである。一般道徳というものについて、わかりやすく一般化されるという点はむしろ悪的なものの定義としてふさわしいのであり、物理的性質の発見とその応用よって眺められる悪はむしろ善として活かされる。それは悪自身が、そこにおいて与えられたものを、自己のうちから湧き出たものとして理解できるからである。結果として、理想的には、悪なるものは、哲学的闊達さを持つに至るであろう。
相対化されるという方面をみればそれは悪ではあるが裏にそのままこれが物理的であるということを考えればこのような悪なるものの一般化はむしろ真善の自己実現のベースとして考えられることになる。真に不変のものは常に相対化されることを「自覚」しているものであると言うことができる。このような相対化を自覚しないとき、自己が相対化されないものと同じ格を持っているという実体的勘違いということが起こり、これが悪なるものの本質である。また妨害される側からも、このような真の認識が得られないとき、これがまた悪であると言うことができる。それは認識できない側も要するに悪的であるということである。だがこう考えたときに、そう認識できないのが悪いのだ、ということを言いたいのではない。悪というもの自体の価値が、悪が力を持っていたときよりも、軽くなっている立場からみればこそ、このようなことを言うことができるのである。同じ一般化、相対化の作用において、受動的に一般化されるという立場をみればそれが悪であり、積極的に相対化の自覚的働きを透徹して眺める立場が善である。このような意味での善悪とは理念的形式であり、したがって透徹という固定的立場に陥る者はかえって悪的なるものである。
Tips:とはいっても、ダメなものはダメと言わなければいけませんよ。悪を容認せよと言ってるのではないのです。見極めよと言っているのです。この態度からは、むしろ争いが起きることを避けなくなる。と言っても争いをせよと言っているのでもない。私の内に、この文章の立場を恣意的に悪意をもって理解しようとする勢力が感知されたために、急いで書き加えました。そういうものには断固として立ち向かわなければならない。キーワードは干渉性であり、つまり悪がいかに物理的といえど、干渉的である場合は、それは私の精神に物理的に深く巣食ったものであるので、これを積極的に払う、要するに真摯に怒るという働きが必要になってくるわけです。