参上ルルのブログ (original) (raw)
『風が吹くとき』1986年にイギリスで制作されたアニメーション映画。ジムは定年退職を迎え、イギリスの片田舎に妻のヒルダと一緒に越してきて平穏な暮らしを送っていた。子どものロンは家庭を持ち都会に暮らしている。いつもと変わらないある日、ラジオから戦争が勃発し、イギリスに核爆弾が落ちてくるとのニュースが流れてくる。ジムは図書館からもらってきた政府のパンフレットに従って、屋内シェルターを作った。その後、核爆弾が落ち瓦礫の中、二人は生き延びるが…。
泣きました。ええ、泣きましたとも。
名作だという話を聞きつけて、確か大学生の頃にも観た覚えがあるけれど、超フレッシュに泣きました。
日本人にも馴染みのあるスノーマンのイラストレーターが原作絵本を描いているので、あの淡い色合いのほのぼの世界のアニメーション。
イギリスの田舎の風景がよく似合う。主人公の老カップルのジムとヒルダも、目が点々で口元はいつもにっこりしていてふくよかなフォルムがピッタリ。
なんて可愛らしい世界。
そこに核爆弾が落ち、政府のおためごかしなマニュアルに忠実に従った屋内シェルターを作ったジムとヒルダは生き延びる。しかし…といったストーリー。
実際に映画に登場する人物は、ジムとヒルダの二人きり。
日本語吹き替えは、大島渚監督演出のもと、森繁久彌と加藤治子が演じる。
この名優二人の芝居に泣かされました。
ラジオドラマとして聴いたとしても立派に成立する。
昭和の時代によく聴いた声。
ウンチクだけは立派で講釈垂れのジム。
それをいいように聞き流し、家の中の実権を実は握っているヒルダ。
偉そうだけれど、ヒルダを思いやっているビルと、ビルに対して「はいはい」と返事しながらも丁寧な言葉遣いでビルを立てて信頼を寄せるヒルダは古き良きカップルなのだ。
この二人に今は亡き、昭和の懐かしき祖父と祖母を重ねた。
大学の時より泣けたのは、その後に逝ってしまった二人がより鮮明に思い起こされたからだ。
田舎に住む無辜な老父婦が、何もわからないまま戦争の犠牲になっていく姿が残酷すぎる。
あちらはあちらで何度みても残酷で目を背けたくなるが、今観ると以前よりももっと冷静に観れるかもしれない。
というのも、わたしは子どもがいないから。
同世代の子育てしてる人達からすると、清太と節子に我が子を重ねさらに深く刺さるかもしれないが、今のわたしはもしかしたら意地悪した親戚のオバさんに同情するところが増えるかもしれない。
自分も大変だしこんな時なんだから、子どもも少しは考えてもいいよね、と。
反戦映画は、登場人物たちをいかに身内として考えられるかによって感じ方が変わってくるようだ。
『王国(あるいはその家について)』宣伝文句は「英ガーディアン紙・英国映画協会<BFI>による年間ベスト作品に選出!世界の評論家を騒然とさせた虚構と現実の揺らぐ衝撃作!」
出版社を休職中の亜希は、東京から離れ実家で過ごすことにした。故郷では、幼馴染の野土香(のどか)が結婚生活を営んでおり、亜希と野土香の大学の先輩でもある夫の直人と一人娘の穂乃果(ほのか)と暮らしていた。ある日、亜希は野土香から穂乃果の世話を引き受けたが、台風の荒天の下、穂乃果を橋の上から川へ突き落として殺してしまう。
映画の冒頭は、取調室で刑事が亜希の調書を読み上げる場面で、最後は亜希が野土香に宛てて書いた手紙の朗読で終わる。
前情報を仕入れていかなければ、観ながらあたふたしてしまう映画。
劇映画としてのあらすじは、先ほど書いたような、「親友の娘をなぜ殺した?」という大ミステリーがあって、その行動を起こした女性の心理というとても映画らしいものが用意されている。
けれど映画の冒頭と結末の取調室だけが、わたし達が見慣れている劇映画で、そこに挟まれている内容はドキュメンタリーなのだ。
・・・うんうん、分からないでしょう。
自分でも何言ってるか分からない。
わたし、頑張って説明していきます。
登場人物が実際に子どもを殺すドキュメンタリーではなくて、映画の冒頭が終わるとこれから進むお話のリハーサル風景のドキュメンタリーへと映画は切り替わる。
女性二人が広々とした部屋で長机に並んで同じ方向を向いて座って、台本を観ながらそれぞれの台詞だけを交互に淡々と読み始める。
まるで国語の音読の授業のよう。
その辺にいる女性が連れてこられて本を読まされているのでは、と客観的に見てしまう。
そのうち、合図があって一区切りつけ、そのシーンを頭からやり直す。
これが繰り返されるリハーサルの出発点。
音読の次は、向かい合って本を読み合う。
その後は顔を見合って語りかけ合い、最後には立って演技をする。
観ている方は、こなれていない音読にギョッとし、これをずっと観せられるのキッついなあと思うのだけれど、同じシーンのリハーサルを繰り返し観ているうちに、「この人たち演技しようとしてるのね」から、違和感のない芝居が出来上がっていくのを目撃するのだ。
最初のうちは、俳優さんが台詞を読んでいるから、1シーンのリハが終わっても本人は全くの地続き。
それこそ、授業終わって「ハイ、休憩」くらい。
けれど、その次のリハーサルが終了する瞬間にはハッと目が泳ぎ、その次の次の次くらいには、終了合図で顔つきが変わって照れ隠しのような微笑みを浮かべる。
映画になった!
幾層にも積み重ねられて、最後のてっぺんの表層が私たちが普段見ている映画だったんだ。
この映画の物語自体は、人は限られた親しい人との間にその人としか分かり合えない関係性=王国を作り出すことが大きなテーマになっている。
他の人は入り込むことはできない。
少女の時に作った王国と、そこから出ていった相手が大人になって作った王国との間に出きる軋轢。
この映画のストーリーも相当引き込まれるけれど、一歩引いて映画全体を見ると何度も何度も繰り返されるリハーサルを通じて一つの確固たる物語=王国を作り上げて行くのだということもわかってくる。
なあんて、的外れでもなんでも誰かと話したくなる映画だった。
そんなわけで、映画の中で観客は飽きるほど同じ台詞を聞かされる。
中でもこっちが嫌でも覚えてしまったのが、女性二人の中学の時の吹奏楽部に入った友達のあだ名が「マッキー・ザ・グロッケン」か「グロッケン叩きのマッキー」かのどちらかということ。
ザ・中学生!
呼ばれてたマッキーは、なぜかプロレスラーもどきとなったあだ名を苦々しく思っていたに違いない。
吹奏楽部なのに、なぜ...。
おかげでわたしも中学のときのあだ名を思い出した。
学級新聞の編集長を仰せつかったら、いつの間にか呼び方が「編集長」から「酋長」になってた。
モヤッてたわあ。
AI先生が描いた「並んで座る女性二人」This art is created by #aipicasso
『ルックバック』藤本タツキ(代表作『チェンソーマン』)原作の同名漫画を劇場アニメ化。小学4年生の藤野は4コマ漫画を学年新聞に連載していて、周りから才能を絶賛されまんざらでもなく過ごしている。ある日、不登校の京本の漫画と並んで学年新聞に掲載されることになり、藤野は京本の画力に驚愕する。藤野は、画力向上を目指し、遊ぶこともやめ一心不乱に絵を描き続ける。が、6年生になっても京本との画力の差は縮まらず、藤野は漫画を描くことを諦める。しかし、小学校の卒業式当日、京本から実は藤野の漫画の大ファンだったということを告げられ、藤野は再び漫画を描くことを決意する。それ以来、ずっと一緒に漫画を描き続け、苦労も喜びも分かちあいながら成長するが、10代の終わりが見え始める頃、二人に別れが訪れる。
なんの情報もなく、ただ大ヒットしているということで劇場へ。
ただポスターだけは見ていて、大人向けのアニメなんだなという頭で。
脳内では、「劇画タッチのキャラクターが今時のアニメ風ではない=大人向け=セクシー&暴力あり」という構図をできあがらせてました。
結果。申し訳ございませんでした!!(深々)
ほんと、良くない。
偏見の権化だ、わたしは!えいっ、バカ、バカ。
物語は、地方に住む少女二人の友情&成長ストーリー。
10代からの物語ということで、恋愛もありそうなものだけれども、そこは敢えて排除していた。
二人にとって漫画を描くことがいかに大切なことなのか、相棒といかに漫画に取り組んだのかがリアリティたっぷりに描かれていた。
小学生の藤野の描写にまず唸らされた。
いる!こういう自信たっぷりの小学生。
周りに「絵がうまい!」「すごいすごい」と称賛されまくり、「まーねー」とへへんと答える藤野。
小学生は「自分が惨めになる」とか「他の人がどう思うか」などの余計な思考が入らないというか、短絡的というか、すぐに自分よりも優れていると思う身近な人を称賛する。
「足が速い、すごい!」「歌が上手い、すごい!」
すごい人がいっぱいいたなあ。
そして、称賛される側も素直に受ける。
「まーねー」
「まーねー」と人生で一番言ったし、聞いた時期かもしれない。
わたしだって「ピアノが上手いね」「髪が長いね」と称賛された?時期があったのだ。
でも、藤野とわたしを決定的に分けた点は、自分が自信を持っている分野で自分を上回る才能に出会った時に、何くそと思って弛まぬ努力をし続けたこと。
藤野は描きまくり続け、それでもとうてい画力では京本に叶わないと一度は筆を置く。
けれども、そこが神様からの贈り物なのか、必然なのか、京本からファンだと告白されたことで漫画への自信と情熱が戻り、人生の全てを漫画に賭けていく。
続けることこそ才能、というが、どんなことが起こっても続けられる情熱。
それこそが才能なんだとしみじみ感じた。
のらりくらり生きてきた才能がない人間の行く末が、今ココw
AI先生が描いた「ランドセルのイラスト」This art is created by #aipicasso
『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』舞台は1970年のボストン近郊にある男子全寮制バートン校。クリスマス休暇に入り、生徒と教師の全員が家族と過ごすために学校を去った。5名の生徒と監視役の堅物教師ハナムを除いて。数日過ごしたところで、4名の生徒は思わぬ幸運でスキーバカンスに出発し、学校にはハナム、家庭環境に問題がある生徒タリー、料理長のメアリーの3人になった。
「ホールドオーバー」とは、残留組、居残りの意。
ママと旅行するはずだったクリスマス休暇が突如キャンセルになって、代わりに大嫌いな教師と年明けまで一緒に学校で過ごす、って控えめに言って絶望。
どんな罪を前世で犯したん!?
わたしも思い当たる大嫌いな教師、いたなあ。
中学の時の家庭科教師サトヤマ。
彼女だけは本当にイヤ。
中学の冬休み中の講習日のこと。
わたしは出欠係?で、クラスのみんながちゃんと登校しているか確認する係だった。
講習日は、たしか受講する学科ごとに教室に入るから、クラスメイトが登校しているかは、クラスごとの下足箱に行って靴を数える、ってやり方だった。
他のクラスの出欠係とおしゃべりしながら興に乗って「にー、しー、ろっぱハゲ、とおー」と数えていたら、お調子者の薄毛数学教師ナベちゃんが間髪入れずに通りがかり「誰がハゲだ〜。ワハハ」と楽しげに通り過ぎて行った。
そのタイミングの良さに(ナベちゃんのことだから、数える声が聞こえてきて自ら歩調を合わせたんじゃないか疑惑も)、わたしたちも爆笑。
しかしその瞬間、女帝サトヤマが物陰から登場し、威圧感1000%の眼力とともに「そこにいるやつ、全員職員室来い」と連行された。
その後全員正座のうえ、家庭科で使う竹の物差しで頬をバチバチやられながら「先生をバカにしたのか」と痛さで涙が出るまで詰められた。
弁明の機会なんてある訳もなし。
「まあまあ」なんて言いながら、なんだかコソコソ職員室を出て行ったナベちゃんを恨めがましく見送ったっけ。
映画のハナムのように全生徒から嫌われていたサトヤマ(特に女子から)。
映画のように、個人的な話をすることもなく卒業したので、何十年も大嫌いな印象のままだ。
映画の中では、思いがけず自分にとって天敵とも言えるハナムと休日を過ごすことになったタリーは、やはりというか、時間割を強制するハナムに我慢しきれず、規則を次々破り自由にやりたいことをやっていく。
その思い切りの良さは、さすがアメリカのクソガキ高校生。
多分、日本人だったら、そんなことやるなんて「まさか」。
その結果、校内でケガをしてハナムに病院に連れて行かれるのだが、ハナムは監督役を全うできなかったことにオロオロし、タリーが気を利かせて表沙汰にはならないことに。
これがきっかけとなり、二人は少しずつ距離を近づけることになる
ハナムが嫌われるひとつに体臭があるのだが、不潔などでなく実はトリメチルアミンを分解できない病気を持っていた。
恐らく今まで女性にも打ち明けたこともない自分の話を、タリー相手にポツリポツリと話し出す。
一緒に残っていた孤独な料理番メアリーの後押しもあり、二人は社会見学と称し、ボストンへの小旅行を決行する。
そこで、ハナムがかつての大学の同級生とたまたま遭遇し、母校バートン校へ引きこもる理由をタリーは知ることになった。
また、タリーの心に負っている悲しみもハナムは知ることになる。
今思い返してみれば、陰口を叩いていたサトヤマのギョロ目は甲状腺の病気だったかもしれないし、息子さんになんか不幸なことがあった、とかいう噂話も聞いたことがある。
何かのきっかけで、膝を付き合わせて彼女と話していたら、今のわたしは何かが変わっていただろうか。
何百、もしかしたら何千という人とすれ違う人の一生。
世代や社会的身分を超えて「その人」と分かりあえるなんて、実は奇跡に近いのかも。
せっかくだったら、そういう場面にいつでも巡り合ってもいいように、機会を逃さないように、バッチコイで生きていきたいと思った。
AI先生が描いた「アメリカの冬の学校」This art is created by #aipicasso.
『熱のあとに』新宿ホスト殺人未遂事件にインスパイアされたフィクション。早苗は愛したホスト・隼人を殺そうとして未遂に終わり、6年の刑期を終えて出所した。普通の幸せを望む母に連れられ渋々行った見合いの席で健太と出会い、健太に包容力を感じた早苗は結婚する。健太は早苗の過去も承知した上での結婚だった。人並みな幸福を健太と一緒に掴んだ早苗だったが、隣に越してきた女性・足立により、再び隼人への想いが湧き上がる。
映画の着想となったリアルな事件のニュースを強烈に覚えている。
犯人が、刺殺しようとした相手を、たしか「『好きで好きで仕方がなかった』と言っている」と報じていた。
なんて乙女…!
ながらで見ていたテレビ画面を思わず二度見したはずだ。
「好き」だから、ホストへ大金を貢ぎ時間を買い、そして隣にいられるポジションを確保して、その挙句が「殺す」。
ネットの中では、こういうタイプは「ヤンデレ」というらしい。
因数分解すると「病むxデレ」。
好きな人への愛情が強すぎて精神を病んでしまうことだという。
なるほど!
ネットの人たちの造語は、冷静に的を射るからいつも感心してしまうわ。
けれど、映画の中ではそうではない。
犯人役の橋本愛は、決して自分が病んでるとは思っておらず、自分の確たる哲学だと思っている。
それが証拠に、木野花演じるカウンセラーや全てを受け入れて結婚した夫の仲野太賀を相手に、饒舌に自分にとって「愛とは」を語ってみせる。
いわゆる彼女を罰した世間一般の人間が「愛」だと思っているものを、現在の夫と生活することで確認しようとした。
結果、その穏やかなものは表面上の見せかけだけものだと分かった、と。
真実の「愛」とは、殺しかけたホストに対する自分が抱いた熱情のことで、一緒に死ぬことで交じり合い全うできるものだ云々。
思い返せば、若い時の恋愛への衝動や恋愛中の楽しさは、たしかに「ドキューン」ものだった。
でも相手への愛は「好き好き大好き、死ぬほど愛してる」であっても、「殺しちゃう」は違う気がする。
彼女の哲学でもなんでもなくて、単に自身の問題を一発で解消しようとしてるに過ぎないのではと思っちゃうのよね。
ここで浮かび上がって来るのが、彼がホストにも関わらず、彼女と真剣に向き合っていたのか問題。
獲物に自分にのめり込むように仕向けて、いい感じにツボを次々押さえて、沼らせる恋愛ビジネス&詐欺。
ホストと貢ぐ女子たち、あるいはいただき女子と献上するおぢたち。
相手のことをなんとも思ってないからできる仕業で、相手に合わせて際限なく優しい言葉をかけられる。
金も心も身も(これは女子限定)全て捧げる恋する者たちと捕食者たち。
殺そうとするのは、弱者側の最後に相手を振り向かせるための捨て身の作戦にしか見えない。
橋本愛がどんなに哲学ぶった愛を語っても、それは押し付けでしかなく、相手のことはまるで分かっていなかった。
客観的に見れば相手に愛がないのは明らかなのだから。
そんな劇中の橋本愛には、森瑤子の小説『情事』をオススメしたい。
「深いかかわりがなければ、人を思いやったり優しい言葉をかけるのは、なんと容易なことだろう。愛しさえしなければ、人を理解し、はるかに多くを識し合えるのだろう。愛しさえしなければ」
昔、読んだとき「深っ!」と思った(浅っw)
普通のカップル同士でも、沸き上がってきてしまう愛するが故の負の感情。
殺すか殺さないかは別次元としても、やっぱり愛は人を狂わせるものなのかもしれない。
AI先生が描いた「「シャワーを浴びながらタバコを吸う女子」This art is created by #aipicasso
『ありふれた教室』カーラは新たに赴任した中学校で1年生を受け持っている。ある日、盗難事件が起こり担任している生徒が疑われた。疑われた移民としてのルーツを持つ生徒は無罪を主張し、証拠も出ないため調査は終了した。しかし校長や他の教師たちの強引な調査に反発を覚えたカーラは、頻発する盗難事件を独自に調査するため自分の財布を囮に盗撮を仕掛けた。そこには特定と思われる人物が確かに映っていた。しかし、カーラが起こした行動が原因となり、同僚、保護者、生徒たちに波紋が巻き起こる。
学校の先生を生業としている全世界の皆さま、お疲れ様ですっ!
映画は99分しかないのだけれど、正義感が強く生徒のためを思う行動が次々と裏目に出て、カーラがどんどん窮地に追いやられていく様に胃がキリキリした。
国は変わって日本でも、先生たちの精神疾患による休職、学級崩壊、モンぺの話題なんかを頻繁に聞くようになった今、教育現場は映画とそう変わらないんじゃないかと思う。
先生をやってる友達たちを思い出して、思わず心で手を合わせたくなるくらい。
絶対自分にはできない尊い職業。
日本に限って言うと、昔は先生と生徒の関係も違っていた。
わたしは昭和の小学生だったけれど、前提として「先生の言うことは聞くもの」という不文律が刷り込まれていて、基本的には先生は絶対的な大人。
そして、子どもは庇護されるけど管理される対象。
間違いなんかするはずがない先生が、何かの弾みでボロを見せると、途端に生徒たちは「なあんだ」とある意味ガッカリし、若い先生だったらあからさまにバカにしたり、そうでない場合は陰でディスり始めたり。
偉人聖人 or NOT。
生徒たちから冷徹な目でジャッジされていた。
今の日本の学校は、そこからさらに先生が生徒の目線まで下りてきた。
グローバリズムに乗って、個性を重んじそれぞれの子どもの権利や主張を重要視するようになったんだろうなと想像している。
もちろん昔あった体罰の厳禁化は良いことに決まっているのだけれど、先生の言うことを聞かなくても「子どもの個性を尊重しましょう」。
はては、親から見て子どもがなんか違ったら、「はい、先生の指導力不足!」
って、どんだけ先生背負わされてるのぉ。
うぅ、おいたわしい。
映画は、ドイツの中学校(生徒は年齢的に小学生くらいにも見える)が舞台。
日本の教室のちょっと先の将来のような気がしてくる。
先生のカーラは、子どもや親の主張を尊重し(しかも「そんなことあるかいっ」て主張)、不当な扱いがないように守ろう守ろうとする。
けれど、子どもはカーラの気持ちなんて意に介せず敵意まみれの主張をぶつけるだけだし、親は親で「こうなったら徹底抗戦」という頑なな態度は崩さない。
学校は、強ワードな「不寛容方式」なるものを採用していて、問題が起こっていったんクロと裁定が下されたら、即アウト。
出ていってもらいます、というもの。
なんか全てにおいて、アソビというか余白がないんだよなあ。
カーラ含め皆に言えるのだけれど、主張するのは全然いいんだけれど、言・い・方。
誰もが自分に固執し過ぎていて、相手のことを慮れない。
そんな言い方されたら、さらに意固地になっちゃうじゃん。
対話においては、不寛容、ダメ絶対。
追い込まれていくカーラは、途中親から面罵を受け過呼吸になったり、廊下をすれ違う人間が全員犯人と同じ服を着ている幻影を見たりする。
それでも逃げないカーラ(涙)。それも今の時代どうなんだ!?
壊れてしまうのではとハラハラする。
かくなる上は、最終手段を考えました。
先生の皆さん、これからの時代、「生徒が守りたくなる先生」へのキャラ変するのはどうですか。
先生たちが教室でサバイバルしていく道になるかも!?
AI先生が描いた「教室の生徒」This art is created by #aipiccaso
『恋するプリテンダー』弁護士を目指すビーは、ひょんなことから金融マンのベンと出会いそのままデートをすることに。最高に楽しんでいた二人だが、行き違いから一夜で喧嘩別れになった。数年後、ビーの姉とベンの親友がオーストラリアで結婚式を挙げることになり、ビーチリゾートで再会。今や犬猿の仲の二人だが、ビーは元カレから逃げるために、ベンは元カノに嫉妬させて元サヤに収まるために恋人同士を演じることになる。二人は最高のカップルを皆の前で演じきることができるのか!?
かつてのラブコメといえば、ジュリア・ロバーツやサンドラ・ブロック、キャメロン・ディアスなど、最高のコメディエンヌが綺羅星のごとく映画界のフロントランナーに揃っていた。
何も観たい映画が思い当たらない時など、時間潰しのつもりで劇場に入っても出る時には気分はラブコメヒロイン。
ジャケットを片方の肩に颯爽とひっかけ、キャットウォークで劇場を出てったものだ。
靴擦れ?と多分思われてたけど!
とにかく、昭和の漢が任侠映画の後に高倉健になるのなら、平成のレディースはジュリアになって出てくるのだ。
ラブコメは間違いなく映画の人気ジャンルの一つだった。
世代が移り変わるにつれ、ラブコメというジャンルも見かけなくなったなあと寂しく思っていたところに、映画の宣伝コピーが「全世界興行収入、まさかの300億円超え!!令和のラブコメ映画市場、No.1大ヒット!!!“恋プリ旋風“、ついに日本上陸!」の本作が登場!
めっちゃ、ワクワクして観に行った。
に、しても宣伝する側のコピーが「まさかの」ってw
今回の主役のメンズの方は、グレン・パウエル。観たことあると思ったら『トップガン マーヴェリック』のハングマン役の俳優だ。
相変わらずのムッキムキのバッキバキ。
光り輝く裸体を惜しげもなく南のビーチで披露してくれる。
女の子の前でお約束のスッポンポンで慌てふためくシーンもあり。
前回のハングマンは空の上であんなに自信満々だったのに、今回は飛行機がまさかの苦手っていうのもサービスたっぷりだ。
ちなみに海に飛び込むまではイケてるのに、泳ぐのは苦手。
まさになんちゃってマッチョっぷりもラブコメのトンマナを守ってます。
そうそう、これこれ。
グレン・パウエルのタレ目でちょっと口元がニヤついている表情、そしてヒロインよりちょっと年寄りとイジられるのが往年のヒュー・グラントを彷彿とさせる。
ラブコメ界にいよいよ新星現る!か。
今後の活躍を大いに期待してしまう。
今回は、主役二人が出席するために向かった結婚式の当事者がレズビアンカップル。
ラブコメの系譜として、ヒロインの傍にはゲイの悪友or親友がいることが多かった。
彼らが登場すると、物語がおおらかになり、よりスケールが増すからだろうか。
あとは、子どものロマンスを心配し、尚且つ自分達も現役バリバリな両親も不可欠。
子どもも心配なんだけど、何はさておき自分のロマンスも逃せない、っていうやつ。
観ている側の年代を問わず、誰をも置いていかないワクワク楽しませるストーリーになるのだ。
映画のエンディングロールも嬉しい伝統芸。
テーマ曲を映画の中の様々なシーンの中の登場人物たちが「おまけ」で楽しげに少しずつ歌いつないでいく。
この大団円っぷりで誰もがお腹いっぱい。幸せいっぱい。
これだからラブコメはたまらない。
ちなみに、舞台となったオーストラリアの魅力も満載。
綺麗なビーチはもちろん、オペラハウス、ハイキングする広大な自然等々行きたくなるのだが、コアラの「何やってはんの?」的な薄目も良かった。
映画の中では現地の海岸救助隊が重要な役割を担っていた。
あちらのヘリコプター救助って、救命具がヘリから投げられてそれをお尻の下に自分で敷いて腰掛けて体重を乗せる、って代物。
見る限り安全装置はないし、誰も介助してくれない。
準備できたと思ったら、自分で上空のヘリにサインを送って引き上げてもらうっていうかなりの高度テクが必要になる。
やっと救助されるかと思ってからのこの試練。
こんな罰ゲームある?いやいや、無理っす!
オーストラリアでは絶対救助される立場になってはいけない。
AI先生が描いた「ビーチのカップル」This art is created by #aipicasso