sanukimichiru’s blog (original) (raw)
とはいえである
オレにはなんもわからんとは思いつつも
わかりたいなあ~~ということもあるので
だから「カルテット」もいま3話をみているのだし(脚本家のあたまのなかがわかりたいね)
政治についてなぜパワハラによる自殺を出して県職員100人以上がパワハラの事実を証言して県議会が全会一致で不信任を議決して辞職した兵庫県知事が再選されたのかも考えたいのである
考えたいのである
なぜならどっちがまともなのか(候補者が2人以上いて)を
考えるのが有権者の仕事であって
デマゴーグがデマゴーグであることは歴史があとで証明するかもしれないが
それでは現実の選挙結果にはまにあわないからだ
すべてオレ自身がたのしく生存するために必要なことなのである
いまのここのこの現代の日本とかアメリカにいる政治家の権力者の立法府
は
ほとんどすべてが戦争やりたがりの人権に反対である人物に権力を
にぎられていくようだからである
戦争が好きで人権がきらいということは
戦場に人間をたくさん導入して死者の山の上に領土拡張してくのが
好きってことだからである
今日のロシアがあすの日本である
と
そのくらいの危機感はもっているのである
なにしろロシアとはまたちがうタイプで日本の政治家は
いまだに宗教汚染を打破もできないし宗教政治を追放もできないからだ
日本的集団家父長絶対権力主義とでもいうべきみにくい像が
そこにあるわけであり
そういうの大嫌いだし
大嫌いなのはオレだけではないゆえに
考えつづけないといけないのである
そういうどす黒いものと闘うためには考えつづけるしかないのである
アナキストとしてもそうだし
そうだね
それはそうだ
発展であるのは事実そうだと
そうだけど政治思想としてのアナキズムから
「人間思想」とでもいうべき社会思想(政治よりもっと広範な定義を必要とする)としてのアナキズムを美術で実践します
とTHEYが言うならばそれはどんな芸術になるのか?
って
ときにまずアナキズムってなあに?となるじゃないですか
博愛主義は「すべてを愛する」
だろうけど
アナキズムはギリシア語源なので「支配」を「ーをしない」ということ
なんですけど
”The etymological origin of anarchism is from the Ancient Greek anarkhia (ἀναρχία), meaning "without a ruler", composed of the prefix an- ("without") and the word arkhos ("leader" or "ruler"). ”
とありますが
ギリシア語としては
「arkhos」が「支配者」で しかもギリシア語の「arkh-」という接頭辞が
2つの意味があって
・最初の ・支配
ということなんですが
これは合一され「最初にする(それを)」
支配者というのは支配者であるゆえに最初に支配する)2番め以降にそれをするものは支配者とは呼ばれないので
で それにan(接頭辞)がついている(WITHOUTらしいですが)
ということは「さいしょから(さいごまで)支配しない」主義ということになります
で
それを直接美術行為で適用できるのか>?
支配とは?
みたいなことをかんがえなくてはいけないわけです
これが「社会における」だったら支配とは権力のことだとすぐ適用できるわけですが
美術においては「既存のルール」とかにあたるかんじだったんだろうと想像するんですけど
じゃあそれをとりさって
なにがそこにある(のこる)のかっていう
そのへんがシュルレアリスムとかとすごく近接しているように
思えるわけですよ何が違うの?とかね
わかんなくなっちゃう
まあいろいろためしてみようっていう方々が歴史のなかに
いろんな種類たくさんあったりしたわけですよ
下痢になったので午後ここからちょいと横になってやすむです
午前は図書館Jで『家をせおって歩く かんぜん版』を読んですごく
よかった
オレもあれを書店として売りたいよ
あと書くやつのアイデアを書いてた
自由に
っていわれても結果がおもしろくないと意味がないですます
『宵物語』をよみおわったので次は『余物語』です
じっさいはオレは読書としては抜けてるところがあるんだけど
2024にはアニメとして『撫物語』『忍物語』をやってくれたので大変たすかった
『結物語』は知らないけどとくに困らない
(『撫』が4体の撫子をつくるはなしだよ~~(絵だけでしもべを作れるなんて!とあとであのなんでもしってるの人が驚いていたそうだよ)
「不滅のあなたへ」の最新刊が本屋にならんでおり
アニメ3期制作快調!みたいな文句が帯にあって
ああ~=~また見ないといけないな
と
思った
https://artscape.jp/artword/6035/
シチュエーショニズム/シチュアシオニスム – artscape
昨日豊田市美術館で
見てたアナキズム系の展示まったくわからんかったが
新印象主義と
これ
それこそ家をせおって歩いた村上氏の本にも
用語出てくるくらいの
知らんオレは別に恥ずかしくない
たまたまだし
しかしわからん運動な
状況主義という主義はないーーーー
だから(どこからのつづきかといえば前の記事)
「対話」っていうのがね
あらかじめ用意されたものではないものがなぜかそこに出現するのが対話
なのではないのですか
みたいな
そんなことは滅多に起こらないんだよ
あとついでに思ったが
「他人との会話をラジオでできる」人(注・対話とは違うやつですよ)
は「自分をその場では適度に閉じて適度に出している」コントロールしているからできるのだと思う(とてもうまくやっているのが毎回の田中みな実さん)
そしてそういうことを「したくない」のかどうかともかく
そういう「他人に対して自分を出したりおさめたりコントロールしながら他人との共同空間をうまくこなす」ことをまるでしない絶対そういうことをしないのが田村ゆかりさんなんだと思う
(内弁慶とむかしからいわれるが自分の家ではわがまま放題おもしろく一人でしゃべりまくる・・・母とか兄弟が聞いているがそういう人に聞かれるぶんにはかまわない・・・)
いまあのちゃんのことを考えたが
あのちゃんがラジオで面白い様子はそれと似ているが
ちょっとだけちがう
あのちゃんは田村のゆかりさんよりはもっとコントロールに長けている
のでうまいそれがたぶん世代のちがいだと思うの・・・あのちゃんもラジオでだけああいうかんじだけどね
ああでもあのちゃんねるでも一部そうか
そう考えるとYOUTUBEってテレビでもラジオでもないかんじの
いいかんじだな(いい>?)
じゃあここに
・日笠佐倉
・天たま堀江
・田中みな実あったかタイム
・伊集院馬鹿力
・ヴォイスミツシマ
の6つを置いてみて比較検討しようか
って思ったんだけどそんなん軸がねえよNHKだったりJOQRだったり超!A&G+だったりTBSだったりお笑いだったり声優だったりタレントだったりさあ~
まず考えたいのは「ひとり」「ゲスト呼ぶ」「ふたり」とかであるが
伊集院はゲストを呼ばないねえ~~~全く呼ばないねえ~
むかしむかしはあったけどねえ外ロケやらせる企画とかねえ
まあなんでもいいや
田村さんもゲスト呼ばないねえ~~本当にめったに呼ばないねえ~~
日笠佐倉はまいかいがこの2人である
田中さんはまいかい週かわりの「あったかタイムファミリー」とか
その他いろんな人がくるねえ(パティシエの人とか来るしこの番組が一番そとに向けて開いているともいえるまあアナウンサーだったしねえ)
堀江さんはたまに来るゲスト満島さんもきたりこなかったりするねえ
次
方針として「くだらない」「わりとまじめ」「ゆったり」「なごやか」
「どうでもいい」の5つを用意してみた
「どうでもいい」のが田中みな実と日笠佐倉である
無軌道だしね
「わりとまじめ」かつ「ゆったり」なのが満島さんである毎回なんだか方針がみえない番組だがそれはパイロット版のときからそうだった
「なごやか」なのが堀江さんだが堀江さんのところは同時並行として「どうでもいい」も入っている 前半フリートークー歌ー後半週かわりコーナーという構成が延々続いているがこのフォーマットさえまもっていればなんでもどうでもいいのである 一見形をきっぱり守っている優等生声優であるかのようにみえるところもあれば実際のところ中身は本人が好き勝手に変貌しているようなところをかんじる麻雀とか男性顔キレイ系への推し活とか
「くだらない」かつ「どうでもいい」のが漫談スタイルである伊集院と田村さんであり内容の選択も話の展開もかなりどうでもいいように聞こえるように設定してかつそれを話しているうちに中身について取り組む態度がだんだん真剣になってくるという特徴がある(興が乗ってくる)しかしその態度とはうらはらにテーマや対象がとにかくどうでもいいことくだらないことの両立を果たしているところが特徴で冷蔵庫が爆発するほど食い物を冷凍とか通販で・・いみじくもこの「冷凍の商品の通販」がこの田村伊集院に共通している話題なのが大変興味深いマジでそれは「溜め込む」行動なのである
満島さんとか絶対溜め込まないタイプだし(そもそもモノへの執着とかからフリーであろうとする以前にあきっぽいのでそういうことが起こらない)
田中みな実のスタンスは実はまじめ的な美への執着とそのためのセルフケアにとにかく時間をかけるそこに投資するという執念がみえるしそれは実際にタレントという外見重要活動とすごくマッチしているししかしこの人は俳優中心でいくのかしらん>?どうなのかしら?
日笠佐倉は声優であるゆえに女性声優いろいろよくない男性ファンがまとわりつきがちである世界においてうまいことたちまわって幾星霜のベテランであるのでもう何を言ってもだいたい大丈夫だしどうせこんなJOQRでやってるほんとはネットラジオでやってることを誰もきいてねえよとばかりに荒ぶるのであるがだんだん表の日天に代打でよばれたりTV顔出し仕事が出てきたりなんだか世界の展開はわからないがしかし中心に核たる声優業があるしラジオは余技であることにはかわりはないかんじだと思うのである
それこそ「もじゃ先輩と佐倉くん」のときから佐倉くんはクールだったしなんかこう執着(ファンの人気を勝ち取る戦争での)が無い感じをもっていた
別の話になってしまうがラジオでもなんでもファンの人気を勝ち取りたいという執着は声やその他ラジオにあらわれるものすべてのところににじみ出てしまうものなのだろうか
どうでしょうね
いつもそこにある逆説的な真実としてそういうのの気を出さない見せないほうが結果として人気が出るという現象がいつもそこにありますまるで真実のようにそこにありますが真実ではなくて結果の傾向がそうだというだけなので別にたいしたことではない
それをそのようにふるまえばといいますが
「~=~をしないようにする」という決まりは「~=~のようにふるまう」ではないので 意識すればもう意識しているね==というふうになって負けなのである
サトラレみたいな話だが「なにも意識していない」ことが結果としてわかるというくらいじゃないとあかんのだと思う
なんじゃこれは居合とか合気の話なのかね
気配を消すというか そのとき「消そう・・消そう・・」などと思っていたら「消そうという気」がみえてるわけだから気配は消せてないわけでね
矛盾
ラジオがそうだと思うのねマジでね
田村さんと伊集院がものすごいくだらないテーマについて話しているときにドライブがかかってきてすごく速くなってしかしスコープの照準がこまかくなってきて微に入り細に入りすごく鮮やかな展開になっていくときってそうしようと思ってそうしているのではないという結果だと思うの
日笠佐倉でも2人のあいだでそうなっていくときがある
田中さんのところはふかわが来たときにそうなったりすることがある
堀江さんのところではそういうのは見たこと(きいたこと)がないね
満島さんはそういうのとは違うタイプなので体温が常温のままあらかじめ像があってそれについて話しているかんじなので像自体はかわらないのを描写しているという感じかしらん
ラジオにおける「ドライブのかかりかた」は一人語りでも2人でもどっちでもありうるが
1人の語りでそれを出現させられる人は滅多にいないってオレは思っている
まあ実際には聞き手がいるんだけどね
(伊集院のところは笑い屋の役が必ずいるし田村さんのとこには矢野さんがいる)
そうだったね
どうでもいいものがみたいので録画しまくりストックから
世界遺産をみている
スペイン東のイビサとか(イビサって地中海だったのね 大西洋だと思ってた・・)
(イビサにも塩田だし フェラーラのコマッキオにも塩田跡がありこれが財政の要だったらしいのだがやっぱ海あれば即塩田というのが当時の常識か・・
日本もそうだったの>?
どうかねえ 塩を換金作物のごとくにあつかう商業のそれは流通あってのものだったろうからなあ)
もう杏さんはこれのナレやっていないので
これは消せない録画だね”
杏さんといえば杏さんとラランドが直でからんでいるという番組は
どこにあるんじゃい
なんだララチューンか(YOUTUBE)
あと杏からのやつもあるみたいね
そりゃあGOOGLEで検索すればYOUTUBEは良く出てくるにきまっている
そこに公正性などはない
別にGOOGLEもそんなのやるつもりもなく倫理的に何がダメとか
セーフサーチおいてるんだからそれでいいだろくらいのもんである
会社みたいな法人(人間でもない)に良識を期待するほうが無駄だ
うう腹がへった
朝のパンを買ってくるぜ