日本の英語教育、そして教育一般についての考察 (original) (raw)
英語は、学問ではなく、単なる言語。もちろん、言語学の文脈で捉えることもできるが、それはむしろ例外的な営みだと思う。
とにかく使えれば良いのだと思う。「習うより慣れよ」の領域。
単語や文法に重きを置きすぎない方が良いと思う。その点で、日本の英語教育は最悪に近いと思う。
「broken English(崩れた英語)ではダメだ」という反論もあると思う。しかし、それは的を外しているように感じる。
言語の正しさとは何か。それは、論理的なものではなく、統計的なものだと思う。
つまり、「みんなが使っているもの、意味が通じるもの」が正しい。
例えば、同じ日本語であっても、平安時代と令和時代ではずいぶん異なるものになっている。
「どちらが正しい」といった話ではない。時間発展していく系なのだと思う。
だから辞書も後追いになる。辞書で定義されているから、人が使う訳ではない。
人が使っているものが、辞書に掲載される。これが、自然言語とプログラミング言語の間の、大きな差異点の1つだと思う。
実践が最重要。補助的に単語や文法をやったとしても、それが中心に来るべきではないと思う。
しかし、厄介なのは、日本人を取り巻く環境。日本で生活する限り、日本語さえできれば殆ど困ることはない。
経済も縮小しているからといって、それでも未だ一億人の人口を有する。
例えばお隣韓国であれば、人口が日本の半分ほどしかない。国内だけの市場に注目するには、やや心許ないところがある。
それゆえ、初めからグローバルの市場を見ている。韓国の人が、諸外国語、例えば、英語、中国語、日本語を話せることが多いのは、この辺りに理由があると思う。
そのようなマインドがあるから、K-POPをはじめ、世界的にヒットするようなコンテンツを作ることができる。
日本には、それがない。しかし、今後は変わっていくかもしれない。
なぜなら、人口が減少しているから。それに伴い、経済も縮小する。
英語もできて当然という流れになっていくのかもしれない。あるいは、二極化が進むか。
二極化が進むとしたら、地元を愛する「マイルドヤンキー」的な人と、グローバルな文脈に身を置く人。
そのような形になるのかもしれない。
当然、どちらが良い悪いという話ではない。それぞれの人には、それぞれの生存戦略がある。
前者の人は、人的な資本を重んじる。後者の人は、経済的な資本を重んじる。そんな傾向があるのかもしれない。
最近では、英語だけでなく、プログラミングも学ぶ流れになっているように感じる。
小学校でも学ぶようになっているらしい。
プログラミングも、できないよりは、できたほうが良いだろう。
しかし、英語と同様、プログラミングも「手段」に過ぎない。
作りたいものという「目的」がないのに、学ばされて、本当に身に付くのかは疑わしい。
最低限のリテラシーの底上げという意味では、ある程度は機能するかもしれないが、それによって多くのプログラマーが生まれるかはわからない。
また、外国語の翻訳が翻訳ソフトでできるようになってきたのと同様に、プログラムの生成も、生成AIで行えるようになってきている。
勿論、それらを使いこなすためには最低限のリテラシーは必要ではある。しかし、何より大切なのは自分が何を作りたいと言うモチベーション、 動機づけだと思う。
与えられた問題を素早く正確に解くことに終始する日本の学校教育においては、根本的に欠けている視点だと思う。
教育改革と言いながら、英語の早期教育や、プログラミング教育を行っているが、やはり根本にある考え方が変わらない限り、教育は変わらないと思う。
今現在行われている改革は、どれも根本的なものではなく、表面的なもののように感じられる。
「グローバル化だから英語学ぶ」、「IT化だからプログラミングを学ぶ」。それらは、社会の変化に対して反応しているだけである。
内側から湧き出るようなモチベーションは無い。
それはほんとに教育としてふさわしい形なのだろうかと疑問に思う。
さらに言うならば人としてふさわしいあり方なのだろうか。
今一度考えるべき時に来ていると思う。
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