通信31-2 ほぼ半世紀ぶりに梶井基次郎を再読する (original) (raw)

今年の夏、それは梶井基次郎との再会から始まった。もう半世紀近くも前、私はこの天才作家にすっかり心を奪われていた。今思い出すと、はて、一体この作家のどこに年若い私は魅かれていたのだろう?うん、恋煩いってやつと一緒さ。何も考えず、底のない沼に嵌るように、ただただその魅力に溺れてゆく。だがすっかり年老いた今、改めてその魅力というものが何だったのか、若い自分の熱狂の正体とはどういうものだったのか、それを知りたくなったんだ。

多くの人が自然詩人のような作家として捉えている梶井基次郎。だが、縁側で酒でも飲みながら、四季の趣溢れる庭を眺めながら能天気に花鳥風月を謳う、そんな風流人たちと梶井を隔てているものは何なんだろうか。やはりそれは、うん、ちょいとおかしな言い回しに聴こえるかもしれないが、正確さへの強い意思だと思う。

そういえば年若い私は梶井の作品をどのように読んでいたのか。正確な速度を崩す事なく根底に流れ続ける通奏低音の響き、その上に表層的に現れる極めて隙の無い情緒、そこに時折打ち込まれる楔のようなメタリックな言葉がもたらすアクセントと色彩・・・。私は、そうさ、音楽家であり続けた私は、どこまでも精密に書き込まれたオーケストラの総譜でも読み込むように、梶井の言葉の世界にのめり込んだんだ。

隙のない情緒?うん、何なんだろうね?自然を言葉で写し取ろうとする時の梶井の執念。その執念がもたらす気迫。じりじりと対象ににじり寄ってゆくような凄み。そういえば目の前の風景と同化してゆく迫力、ヴァン・ゴッホの絵を直に見た時に感じたその迫力に近いものを梶井の言葉にしばしば感じるんだ。梶井を呑気な自然詩人として捉えている人々にとっては意外に感じるかもしれないが、彼は日記の中で、自分が本当に書きたいのはカール・マルクスの「資本論」のようなものなんだと記している。ああ、やはりそうだったんだね。その言葉を知った年若い私は、岩手の民芸品、張り子の赤べこ人形のように何度も何度も頷き続けたんだ。

「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」(ある心の風景)より

若い頃、翻訳するように何度も梶井の作品を音楽にしようと思い続け、何度も取り組み、うん、幕下が横綱に挑んではころころと土俵の上を転がされるように失敗を繰り返した。そうさ、私には迫力、そいつが足りなかったんだ。あれから半世紀弱、今、改めてそのやり残した仕事に取り組もうと思っているんだ。そうだね、夏の暑さってのはとんでもなく人を狂わせるのさ。

追記)やはり一人の作家ととことん向き合うためには、全集の一揃いも必要だねと思い立ち、さっそく検索とやらをかけてみた。インターネットの世界に疎い私は、近所のお姉さんにお願いして筑摩書房から出ていた「梶井基次郎全集」全三巻をオークションで落として貰った。これからしばらく、夏が終わっても当分梶井との付き合いが続きそうだね。

2024.10. 1.