風歩きの雑記帳 (original) (raw)

5月に日本へ一時帰国した際、三宮で所用があり出かけていった。阪急百貨店――「そごう」と言ったほうが今でもしっくりくるのですが――からJRの方へ鉄橋を渡っていると、ポートライナーの三宮駅が視界に入って、そこで、最後にポートライナーに乗ったのっていつやったかなと思ってしまった。考えてみるに、今の僕はポートアイランドとは完全に無縁で、なので、ポートライナーに乗る機会というのが全くない。父がまだ生きていたとき一緒に沖縄に行ったのだが、あのときはポートライナーで神戸空港まで行ったかしらんと記憶の糸をたぐってみたが、全然覚えがない。足腰の悪い父と一緒だったので、タクシーを使ったのだろう。とすると、渡米してから20数年、ポートライナーには一度も乗ってないかもしれない。

何故こんな取るに足らない個人的な記憶について話しているかと言うと、ポートライナーに最後に乗ったのは全く思い出せないくせに、最初に乗ったのはいつだったか今でも鮮明に覚えているんです。あれは1981年、まだポートライナーが開通して間もない頃で、僕は小学校の低学年。その日僕と妹は、両親に何かの用事があったとか、そんな理由で湊川の祖父母の家に預けられていた。僕は当時からすでに電車が大好きで、電車の路線図とか時刻表をいつまでも見ているような子供だったので、そんな孫のために祖母が、三宮と人工島ポートアイランドを結ぶために新たに建設されたポートライナーに乗せてくれたのだ。

三宮に向かうとき、祖母が、ポートライナーには運転手がおらんねんで、と教えてくれたのだが、僕は、車掌はいざしらず、運転手のいない電車が一体どのように動くのか全く想像できず、ほんまにそんな電車あるんか、と半信半疑だった。しかし、ポートライナーは、コンピュータ制御による無人運転を実現した日本初の交通システムなわけで、それに実際乗った時の衝撃といったらなかった。SF小説から抜け出てきたような無人運転のポートライナーは、高架の線路を緩やかに滑る車両からの真新しい人工島の風景と相まって、科学が高度に発達した来たるべき世界の具体像みたいなものを僕に植え付けた。

ポートアイランドでは、その春からポートピア’81が開催され、僕は自分自身の両親や友人の家族に連れられて何度もこの博覧会に足を運ぶことになる。その際、ポートライナーにも何度も乗車した。初体験のときのようなあの強烈な記憶というのはないが、それでも、毎回乗車を楽しみにしており、博覧会そのものより、ポートライナーの方をむしろ待ち望んでいたと言っても過言ではない。

教科書的な戦後史の語りでは、高度経済成長の頂点は1964年の東京オリンピックのころで、1970年の大阪万博のころには公害など経済発展にまつわる社会問題がすでに深刻化していて、1973年のオイルショックで高度成長の時代は終わった、みたいなのが一般的だけど、視点をもっとローカルに、神戸都市圏に移すと、成長・繁栄の頂点は1980年代から90年代の初頭にかけてだったんじゃないかと思う。

ポートアイランド、ポートライナーだけではなく、地下鉄沿線の開発など、当時の神戸は変化が激しく、未来に向かって、新しい時代に向かってひたする突き進んでいるような、そんな感じだった。例えば、地下鉄が全線開通して間もないころに初めて訪れた西神中央駅とその駅前のそごうやらプレンティやらの商業施設群は、まるで長閑な農村の中にそびえ立つ近未来の都市のようで、とてもワクワクした。また、90年代の頭のハーバーランドのオープンは、自分のよく知っている湊川・新開地界隈、毎年初詣に行っていた楠公さんのすぐ近くにこんな綺麗なものができたのかと驚きだった。

震災を経て経済低迷と人口減少の時代となった今、華やかだったあの頃の神戸を思うと隔世の感がある。あのような繁栄は、様々な経済的・地理的・人口学的な要因が重なって初めて可能であったわけで、おそらくもう二度とやってくることはないのだろう。

僕の今住んでいる米国東部の街は決して大都市ではなく、市域の人口は20万ちょっとしかないのだが、ここ10年以上、市内でも郊外でも人口が増加していて、もういたる所でマンションや商業施設の建設が続いている。米国の出生率はそれほど高くはないけれど、こちらは移民の数が日本と比較にならないほど多く、また人口を全国から吸い上げる東京のようなメガ都市が存在しないので、こんな中規模の街でも人が増え活気を呈している。もちろん、それにつれて住宅価格も高騰していますけど・・・。

車を運転しているとき、あれ、こんなマンションいつの間にできたんや、え、こんなところにスーパーができとったんや、ということがよくあるのだけど、そんなときは、自分が子供だった頃、今も母が住むあのニュータウンがまだ新しく、そしてとても元気だった頃を思い出してしまう。

このブログでは、いかに神戸が好きかということをしつこく書いており、また、数ある神戸の都市空間の中でも、特に新開地や元町が好きだということも何度も書いている。無機質で均質的な郊外のニュータウン(今や完全にオールドタウンとなってしまいましたが)で育った僕にとって、湊川・新開地や元町(特に高架下)の持つ混沌とした非日常的で異世界的な雰囲気は、とても魅力的だった。そこには、僕にとっての都市の原風景がある。

新しい街に行くと、(昔の)新開地や元町のような空気と色合いを持つ場所を見つけようとするが、それはなかなか簡単ではない。特に最近は、どこへ行っても同じような都市の景観、つまり、独占資本によって支配された味気ない景観が広がっているので、僕の思い描く都市というのはすでに空想の中にしか存在しえないのかもしれない。

西東三鬼の『神戸・続神戸・俳愚伝』は、そんな僕が愛してやまない一冊だ。著者は、1900年生まれの俳人。新興俳句運動に関わっていたが、時局にそぐわない厭戦歌を詠むなどしたため、1940年に検挙され、結局は不起訴にはなるものの、戦時中は俳人としての活動を禁止された。『神戸・続神戸・俳愚伝』に所収の「神戸」及び「続神戸」は、戦時中、居心地の悪くなった首都東京を脱出し、神戸のトアロードにあったトーア・アパート・ホテルで過ごしたときの著者自身の体験をもとにしたとても不思議な小説だ。発表されたのは戦後になってからで、「神戸」が1954年、「続神戸」が1959年。

僕がこの本を見つけたのは、全くの偶然で、三宮のセンター街のジュンク堂に特に目的もなく立ち寄ったときだった。こちら米国へ越してくる前だったので、もう20年以上も前になる。当時のまだ若き僕は、西東三鬼など全く知らず、タイトルだけ見て、あ、神戸の本や、おもしろいかなと軽いノリで購入し、摂津本山のアパートに帰って読み始めたが、もう1頁目からぐいぐい引き込まれ、あっという間に読み終えてしまった。

本書の登場人物は、著者である「私」とホテルに長期滞在する住民たちだ。著者によると、この住民たちの国籍は「日本が12人、白系ロシヤ女一人、トルコタタール夫婦一組、エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人」であり、「12人の日本人の中、男は私の他に中年の病院長が一人で、あとの10人はバーのマダムか、そこに働いている女であった」(10頁)ということだ。

このホテルの住人たちは、いわゆる世間の「はみ出しもの」で、とにかくぶっ飛んでいる。戦時中のことゆえ、彼らも食料・物資不足を経験しており、生活は楽ではない。ただ、外国との秘密のコネがあったり、闇商売をやったりと、一般国民の規律正しい暮らしとは相当かけ離れている。戦時中の日本といえば、個人的自由が極度に制限され、すべての人的・物質的資源が戦争遂行のために動員させられたという理解が一般的だと思うが、「私」の目を通して語られる住人たちの破天荒ぶりは、動員や総力戦といった枠組みだけでは決して理解できない。かくもコスモポリタンな都市空間が戦時中の神戸に存在していことに、当時の僕はもう驚愕し興奮してしまった。

また、西東三鬼の文体もとても心地よかった。私小説の伝統を持つ近代日本の小説というのは、とかく湿っぽく陰気臭い(ごめんなさい!)ものが多いのだけど、西東三鬼は、小説家ではなく俳人なので、そういった私小説のしがらみ及び東京の文壇から完全に離れたところから出発している。それもあってか、彼の文体は、戦時期日本在住の外国人というけっこう深刻なテーマを扱っていながら、カラッと乾いていて、あっけらかんとしていて、ちょっとつかみどころがなく、どこか陽気で楽天的だ。きわめて「神戸的」な文体だと思う。

僕は今でも、小説とも随筆とも判別しかねるこの一冊が好きで、理由もなく読み返したくなるときがある。陽の長いこの季節、夕方ちょっと涼しくなった頃を見計らって、すぐ近所にあるバーへビールを飲みに出かけることがよくあるのだけど、そんなとき、この文庫本を持参したりする。神戸から遠く離れた地で、米国のクラフトビールを飲みながら、80年も前のトアロードに思いを馳せるというのはなんとも不思議で、それは、日常の真っ只中にいながら非日常のドキドキを空想できる楽しい時間でもあります。

アメリカには、いわゆるカレッジタウン(college town)、つまり、大学町なるものが全国津々浦々にある。町の人口の大半を学生や教員などの大学関係者が占め、大学と経済的に深く結びついている町、ちょっと意地悪な言い方をすれば、大学以外には何もない町のことだ。ミシガン大学のあるアナーバー、バージニア大学のあるシャーロッツビル、イリノイ大学のあるアーバナ・シャンペーン、コーネル大学のあるイサカなんかがその典型だ。

日本では大学はほぼ都市部に集中していて、進学を機に都会へ出ていってそのままそこで就職というパターンが多い。が、こちらでは、都市の喧騒を離れて4年間しっかり勉学に励もうという伝統が根付いていて、ニューヨークやワシントンやロサンゼルスなど大都市出身の若者が、あえて田舎の大学へ進学するのは全く珍しくない。入学難易度の高い名門大学の多くも、田舎にあることが多い。

子供を送り出す親としても、誘惑が多く犯罪の多発する都市部よりは、静かな田舎町の方が安心できる。僕には子供がいないが、もしいたとして、そしてその子がとても優秀な学力を持っていたとしても、ニューヨークやロサンゼルスの市内ど真ん中の大学、例えばニューヨーク大学や南カリフォルニア大学へ進学させるのは、ちょっと躊躇してしまうかもしれない。もちろん、世界的な大都会での暮らしから得るものが非常に多いのは間違いないだろうけど、こちらの大都市ではとんでもなく物騒なことが起こったりしますからね。

田舎町で大学生活というと退屈きわまりなく聞こえるかもしれないが、大学を中心としてできた町には教育レベルの高いインテリと知的好奇心の強いプチブルが多くいるので、独立系映画館やオーガニックのスーパー、個性の強い古本屋、小洒落たレストランやカフェなんかがけっこうあって、それなりの文化的水準の都市生活を楽しめるようになっている。日本で大都市から遠く離れた人口5、6万の都市というと、地方都市の中でも小さい部類で、おそらく人口流出に直面しているだろうが、米国で同規模の大学町というと、町なかのにぎわいの度合いはなかなかのものだと思う。

上の写真は、名門バージニア大学のキャンパス。第3代大統領ジェファーソンによる建築で、全米で最も美しいと言われるキャンパスのひとつ。大学町シャーロッツビルの人口は5万に満たないが、大学の周辺には学生・教員相手の店がたくさんあって、ちょっと離れた市の中心部、いわゆるダウンタウンの商店街はにぎわっている。バージニア大学では2万をこえる学生が学び、しかも、その1割は留学生なので、当然、この商店街も国際色がとても豊かだ。

シャーロッツビルは、僕たちの住んでいる街からは日帰りで行ける距離なので、天気のいい日など我が家の柴犬くんを連れてふらっと行ったりすることがある。商店街は歩行者天国となっていて、レストランやカフェは、たいてい外にもテーブルがあるので、犬連れでも安心だし、また、飲食店以外は、犬OKの店もかなりある。夜な夜な歓楽街を飲み歩くといった、都会的刺激を求めるのはちょっと難しいが、のんびり散歩するには最適の町だ。人口減少が深刻で、地方都市の衰退が進み、東京への一極集中が進む日本から来ている自分にとっては、こういった米国の小さな町の活気は素直にいいなと思うし、うらやましくもある。

もちろん、アメリカにも、都市と田舎の格差はあって、それは日本以上に深刻で、アパラチアや中西部には、産業基盤を失って人口流出が止まらない田舎町がたくさんある。ただ、移住・転居に際して、誰も彼もがニューヨークかロサンゼルスを選ぶわけではなく、各々の興味と好み、素質、才能(そして、もちろん経済的条件)に応じて、様々な選択肢があることは紛れもない事実だ。アメリカ人というのは、どのような選択を行う際にも、選択肢は多ければ多いほどいい、自分の好きなものを自分の意思でちゃんと選びたいという人たちなので、そういった国民性が、移住先の多様性にも反映されているのだろうと思う。

しかし、ひとつ問題があるとすれば、それは物価の高さ。田舎といえども、シャーロッツビルのように住環境がよい大学町の物価、特に不動産価格は驚くほど高く、都会暮らしは高くつくから田舎へ引っ越そう、というような安易な考えは通用しません・・・。

母が骨粗鬆症による骨折で長期入院していたことは以前書いたが、今は自宅に戻っている。通院は続けているが、入院時と比べると見違えるほど元気になっている。退院後にひと月ほど滞在した高齢者施設がとても気に入って、今でも週一で通っており、それが楽しみになっているようだ。

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去年の初夏に一時帰国したとき、母はまだ自宅には戻っておらず、その間に亡き父の持ち物の整理をした。整理と言えば聞こえはいいが、早い話、処分です。これは、自分では絶対に処分することなんてできないから、自分のいない間にやってほしい、という母のかねてからの要望に答えてのものだった。当日は、二人の妹もかけつけてくれて三人で協力して、作業を行った。我々兄妹は、米国、神戸、大阪と離れており、しかも、それぞれ家族がいるので、三人だけで会って話して何かを一緒にするなんてほとんどない。募る話なんてものはなかったが(笑)、あれこれしょうもない話をし、たくさん笑った楽しい一日ではあった。

大量の処分品が出ることが予想されたので、バッカン(廃棄物回収用の鉄製コンテナ)を手配した。これは、重さに関係なく詰めれるだけ詰めて料金は一律というサービスで、非常にありがたかった。というのも、父は非常に多趣味でモノ作りの大好きな人だったので、釣りの道具や、各種工具類、関連書籍などが膨大な量にのぼっていたからだ。また、記録・収集癖もあり、訪れた外国のコインや切手、旅の記録としての国鉄(後のJR)の使用済み切符、観光パンフレット、果ては、全ての給与明細などなどを細かく整理したファイルもかなりの量だった。

これらを、妹たちと手分けしてひとつひとつ見ていき、残しておくものと処分するものを分別する作業は、思いの外時間がかかった。古本市とかで買ったような文庫本を処分することは、それほどためらわなかったが、父がコツコツと収集したものは、捨てるに忍びず、とりあえず残しておこかということになった。あと、庭に生え放題の雑草抜きも同時に行ったり、その間に、母の見舞いに行ったりと1日はあっという間だった。普段、肉体労働を全くしないヘタレの自分なので、けっこうこたえた。

この作業を通じて、父はそれなりに充実した人生を送ったのだろうと改めて認識した。病気が発覚してから亡くなるまでの7、8年は、ままならぬことだらけだったとはいえ、それまでは、国内、アジア、ヨーロッパと旺盛に旅行し(そのほとんどは、仕事関係ではあったが)、友人や同僚たちと楽しく集い、趣味にもけっこう時間を費やしていたことが、父の残した様々な記録から分かった。当然のことだが、僕にとって父は常に父であり、僕が父を知っていたのはその関係性を通してのみだったので、父の、父としてではなく、働き遊ぶ一人の人としての側面をこうして見ることができたことは、とても新鮮だった。

しかし、僕はそこで思わずにはいられなかった。母が亡くなったとき、僕たちは同じような記録を見つけることができるだろうか、と。母は、家庭を離れたところで一人の人として人生を楽しんできただろうか。僕の知っている限り、母は一人で、あるいは友人と泊まりの旅行をしたこともなければ、お金のかかる趣味を持ったこともない。それどころか、一人で外食したことすら皆無に等しいのではないだろうか。

作業の後、二人の妹と実家で焼肉をしていて、酒も入っていて、ちょっぴり感傷的な気持ちだったのか、そんなことをポロッと口にしたら、二人とも、え、そんなこと思っとんやという反応だった。彼女たちが言わんとしたことを僕なりにまとめてみると、つまりは、母だって趣味を持ったり一人で出かけたりすることはできた、それをしなかったのはひとえに母の内向的な性格によるものなので仕方ない、ということだ。

妹たちの言い分には、一理ある。なので、僕も、ふ〜ん、そんなもんかいなぁ、と適当に返事をして、その話はそれきりになった。しかし、同時に、母の性格だけが全てを説明する理由にはならないと思う。父と母の生き方の違いに、ジェンダーに関する社会的規範みたいなものが関わっているのでは察する。

母が結婚し家事と子育てに忙しかった1970、80年代の日本では、阪神間あたりの有閑夫人ならいざしらず、郊外に住み会社勤めの夫と学齢期の子供を持つ中産階級の家庭の主婦が、息抜きに三宮やら元町やらへ出ていって、そごうや大丸で買い物をして、ワインを飲んだり寿司をつまんだりアフタヌーンティーを楽しんだり、あるいは、子供を夫に預けて旅行したりなんていうのは一般的ではなかった。結婚した女性は妻として母として家のことに専念すべきで、幸福は家庭での生活に見出すべきというイデオロギーがまだまだ根強く残っていた時代だ。四国の田舎から嫁いできて、都市生活を楽しむ暇もなく出産・育児に突入した母は、そんなイデオロギーに忠実に生きたのだと思う。

もちろん、社会の流れはこの20年ほどで大きく変わった。中高年の女性や高齢の人たちや「おひとりさま」たちが、少なくとも都市部では、気軽に外出できるようになったが、母はそういった社会的変化に対応できず、そのまま年老いて体力も気力も衰えていった。もし母があと20、いや10歳でも若かったら、母の生き方はかなり違っていたのではないかと想像する。

上の写真は、元町商店街の入口。向かい側が大丸になる。妹の一人がこの商店街をもう少し行ったところで商売をしている。母は体を悪くしてからは、一度も妹の店を訪れていないので、僕の滞在中に一緒に行こうと計画していた。母も、あんたが一緒やったら安心やわと言っていたのだが、結局、人混みを歩いたりするのはまだ怖いということで直前キャンセル、僕一人で出かけた。

日本へ一時帰国すると、たいていは滞在の半分を大阪・神戸で、もう半分を東京で過ごしている。現在、僕の住む米国の東側からは関空への直行便がないので、ワシントン―羽田というルートを使っているので、日本滞在の始めと終わりが東京、その間が関西という日程が常だ。

日本滞在を終えて羽田からワシントンへ飛び立つときの辛さは言うまでもないが、関西での滞在を終え新大阪あるいは新神戸から東京へ向かうときも大概だ。やり残したこと、行き残した場所があるような気がしてならない。年2回帰ってきているとはいえ、半年後にまた戻ってこれるという保証はどこにもない。例えば、2019年の12月に渡日したときには、まさかこの後パンデミックで国境が2年以上にわたって閉ざされるなどとは想像もしていなかった・・・。そんなわけで、関西滞在最終日は仕事の予定をなるべく入れず、(少々大げさだけど)悔いのないよう自分の好きなことをするようにしている。

先月の一時帰国中、大阪ではいつものように北浜に泊まっていたが、最終日は淡路――阪急京都線の淡路ではなく、兵庫県の島の方の淡路です――へ行った。行きたい場所の候補は他にもあったが、天気予報によるとかなり暑くなりそうだったので、なるべく涼しい場所をということで、淡路島にした。

淡路といっても、僕が行ったのは、島最北端、本州側から一番近い岩屋。車もないし、海水浴をするわけでもないし、リゾート体験をしたいわけでもないし、サクッと行ってサクッと帰ってくるなら、岩屋が一番だと思い決めた。

大阪から明石まで新快速なら40分もかからない(やっぱり新快速はすごい、ただ、頻繁な遅延が困りものですが)。明石駅からは10分ほど南へ下ればすぐに明石港だ。小型のフェリーが1時間に1〜2本出ていて、15分ほどで岩屋に着く。

淡路島へ行ったのは20数年ぶり、岩屋へ行ったのは初めてだった。2010年までは大型のフェリーが明石―岩屋間を就航しており、岩屋は本州からの玄関口として栄えていたらしいのだが、現在の岩屋は静かな、ちょっとひなびた港町といった風情。今は舞子から明石海峡大橋を渡れば淡路なんてすぐで、車がなくても、バスが三宮からも大阪からも出てるので、わざわざ明石まで行って明石港まで歩いてというルートを使う人は、少数派だと思う。

岩屋の船着き場からすぐのところに岩屋商店街なるものがある。徒歩での買い物を想定した典型的な昭和の商店街だ。狭い通りの両側に個人商店がびっしり並んでいるが、ほとんど休業中。いわゆるシャッター商店街で、その意味でも典型的な昭和の商店街だ。

端から端まで一通り歩いたが、すれ違う人もほとんどおらず、活気はない。2020年の国勢調査によると、岩屋を含む淡路市の人口は41967人、2010年の国勢調査時より4000人以上の減少だ。大都市を除く多くの自治体と同様、淡路市も人口減に直面している。

このような静かな商店街を旅人として歩くだけなら、その衰退を「レトロ」とか「ノスタルジック」とかいう言葉でもってポジティブに変換して解釈することが可能だけど(事実、僕もそんな旅人の一人でした)、実際住んでいる人々にとってはなかなか厳しい状況だと察する。ここでも車で大型のスーパーへ買い物へ行くという生活が主流なのだろう。

実は、かくいう自分の地元の町もこんな感じだ。自分が子どもだった時分は、近所の商店街がとても元気で、スーパーも本屋も文房具屋もパン屋も喫茶店も一通りあったのだが、今ではすっかり寂れており、商業の中心はちょっと離れたイオンの方へ移っている。世代交代が進まず完全にオールドタウンと化した元ニュータウンの姿がそこにはある。車があればいいのだが、僕の母も含めて車を持たない人たちにとっては、商店街の衰退はとても深刻な問題だ。それでも、僕の地元の町はコープこうべが強い地域なので、母は、買い物の送迎をしてくれる「買い物行こカー」や宅配などのサービスに大いに助けられてはいるが。

こういう例を見るに、資本主義というのはなかなか残酷なシステムだなぁと感じないではいられない。不動産会社なり鉄道会社なり地方自治体なりの大資本が開発・整備したインフラの便利さは、人が住む場所を決定する際の重要なファクターになるが、それらの資本がいつまでもその場所の開発に携わってくれるとは限らない。資本(=カネ)は、利潤の高い新たな投資先を見つければいとも簡単にひとつの場所から別の場所へと移動していく。1970年代から90年代にかけては、都市郊外の団地や戸建てが大いに流行したが、この20年ほどの間に開発の中心、つまりカネの流れが都心部のタワマンへと移っていったのは、この資本の移動のわかりやすい例だと思う。

しかし、資本と違って人の方はそう簡単に移動することはできない。多くの人にとって、ある場所へ移住しそこで生活を築くということは、非常な労力と資金を必要とするイベントだし、住んでいれば自ずと仕事や学校や家族などいろいろ考慮すべき問題が出てくる。より便利でより快適な場所へと、資本の移動にともなって移住を繰り返すことができるのは一部の階級の人たちだけだ。資本の運動と拡大が社会に活気を与えていることはもちろんだが、衰退する田舎や郊外の町を見ると、資本と人との間に存在する圧倒的な力の差を思ってしまう。

そんなことをうだうだ考えながら岩屋を散策しましたが、岩屋の町自体は、僕のような中年のひとり男がゆるく歩くのにぴったりで、とても楽しめました。帰りは、再びフェリーで明石へ戻りJRで舞子へ移動、舞子ビラでちょっと遅めの昼食を取り、大阪へ帰るJRではたっぷり昼寝しました。いい一日でした。

前回の投稿から1年近くも経ってしまった。あまりに忙しすぎたとか、書くネタがつきたとかそんなわけでは決してない。書きたいことはあるのだが、なんとなく体がだるく、時間ができると書くという能動的な行為よりは、ユーチューブやネットフリックスを見たりという受動的な行為についつい流されてしまい、結局こんなに時間が経ってしまっただけだ。

いろいろと自己分析してみるに、もう50を超えてしまった自分、おそらく体力が消耗してきているるのだと察する。特にどこといって悪いところはないのだけど、眠りが浅く夜中に何度も目が覚め、そんな日は日中もずっとしんどい。食欲はあるのだが、欲張って食べすぎると腹が重い。特に脂っこいものに対する許容度が著しく低下した。酒は今でも好きだが飲みすぎると二日酔いになってしまうし、それに伴う頭痛も苦痛だ。30代までは徹夜で飲んでも朝ちょっと眠れば、ケロッとしていたが、今はそんなこと想像するだけでも恐怖だ。

ジムには週3で通いけっこう真面目に筋トレしており、そこで集中している間は体も心も軽く”feeling great”だが、その日の午後にはどっと疲れが出てしまう。鏡を見ても筋肉がついてる様子もなく、ていうか、鏡で自分を見るのが嫌で、若かった頃の自分の体が無性に懐かしい。友人知人を誘って飲みにでもいけば楽しいかなとも思うが、この年になればお互い家族がいたり仕事が忙しかったりと調整すべきことが多く、それなら自宅で、ちょっと高めのワインを開けて古い映画や小説を友に想像の世界を堪能するほうが気軽でいい。しかし、飲めば陽気になるかといえばそうでもなく、それどころか、昔のあれこれが蘇ってきて妙に感傷的になってしまう。それは決して嫌な感情ではないが、森高の「気分爽快」というよりは、「しみじみ飲めばしみじみと思い出だけが行き過ぎる」という「舟唄」の世界だ。

と、まぁ、しんどさと対峙しながら賃労働者として生活している自分だが、年2回の日本行きは継続している。直近の日本行きからは2週間ほど前に戻ってきたばかりだ。いつものように神戸・大阪で半分、東京でもう半分を過ごしてきた。日本にいる間は、なぜか体調も良好で米国の生活では考えられぬほどの長距離を歩いても、ホテルに戻り風呂に入れば、ほな一杯飲みに行こかという気分にもなり快適に過ごせた。米国での日常におけるしんどさは、精神的なものもあるのだろう。

上の写真は神戸市東灘区の住吉川。JRの住吉から少し東へ行ったところ、国道2号線上の橋から撮ったもの。この日は、夙川〜芦屋川〜岡本〜摂津本山〜住吉というルートを阪急とJRと自分の足を使いながら移動し、阪神間のモダニズム建築を巡る旅をした。渡米前まで摂津本山近辺に住んでいたので、阪神間はよく知った土地で、住吉川へも何度も行ったが、目的地を決めてしっかり計画を立てた上で散策すると目新しい発見も多数あった。6月の初旬でまだ涼しい風の吹く日であったので、気持ちよく歩くことができた。

下の写真は、芦屋にある、フランク・ロイド・ライト設計によるヨドコウ迎賓館から南の方、神戸方面を眺めたもの。この迎賓館は、阪急芦屋川からさらに北へ行った高台にあるので、眺めがすこぶるいい。

阪神間を訪れると決まって望郷の念が高まり日本へ帰ってきたいと思うが、米国での今の仕事を手放してしまう勇気はない。職種柄、そう簡単に日本で転職できるわけではないし。しかし、考えてみると、毎年初夏と冬の2回一時帰国しており、1年のうち6週間ほどを日本で過ごしていることになる。今のところはそれでよしとするしかない。

この夏の一時帰国時、いつものように三ノ宮・元町界隈をぶらぶらしていたのだが、JR三ノ宮の駅前にあったターミナルホテルが取り壊されて、完全に更地となっていることに気づいた。あのホテルは、僕が物心ついたときからあって、1階の喫茶店は待ち合わせや休憩でよく使ったし、大学時代にはあの中のフランス料理レストラン(何階だったか忘れたが、「シャンテクレール」といったかな?)でウェイターのバイトをしたこともあるので、思い出深い場所だった。それが消えてしまい、そして、駅の向こうの山側の景色が、海側から一望できるというのは、なんとも不思議な、ちょっぴり非現実的な感覚だった。

ターミナルホテル取り壊しは、よく知られているように、神戸の都心再開発の一環だ。阪急三宮の方はすでに駅ビルが完成しており、西口はすっかり見違えている。JRの駅ビル開業は2029年だというからまだまだ時間がかかるが、計画がついに着工し、未来のの三ノ宮駅前が具体的な形で想像できるようになったわけだ。1995年の阪神・淡路大震災から28年、長かった。

大阪・京都と比べると大きく遅れていた神戸の都心の再開発が進んでいるのは、素直にうれしいが、同時にちょっと冷めた目で見ている自分もいる。新しい駅ビルにどんなテナントが入るのかは全く知らないが、おそらくスターバックスあたりのカフェがオープンテラスを構えて、全国チェーンのレストランがいくつか入って、さらに、ちょっと神戸感を演出するために、地元のおしゃれな洋菓子店にもカフェを出店してもらって、という感じになることはおよその見当がつく。ここ数十年、日本全国の都市部で行われてきた再開発の場合と同様、均質化された駅前の風景がここ三ノ宮にも誕生することになるのだろう。

都市の風景の均質化は近年特に加速し、その月並みさはもう相当なレベルに達しているような気がする。どこに行っても同じ店、同じ品物、同じサービス。もちろん、これは日本に特有の現象ではなく、例えば、僕の住む米国の郊外モールの均質性は、日本の駅ビルのそれの比ではなく、東海岸でも西海岸でも中西部でも、どこへ行ってもちょっと怖いくらい同じ店が並んでいる。

日本全国どこにいても同じような店で同じようなものが買えるというのは、一方では市場の民主化のような気もするけど、街歩きが陳腐になってしまったのも真実だと思う。都市が郊外や田舎と決定的に違うのは、前者には、何があるか分からない、何が起こるか分からない予測不可能な空間があることだと思う。表通りから外れた狭い通り、ちょっと薄暗い路地、そういった場所にある古本屋や酒場やお好み焼き屋やその他諸々のちょっと怪しい店。僕が子供の頃、湊川や新開地、元町が大好きだったのは、そこにはそういった場所が無数にあって、行くたびにワクワクドキドキしたからだが、日本の多くの街からは、今そういう空間がどんどん消えていき、明るく衛生的で無機質な空間に取ってかわられている、つまり、街の都心部がどこも郊外のショッピングセンターのようになりつつあるような気がする。

もちろん、こういった均質な場所に利点があることは、重々承知している。ちょっと喉が乾いたらローソンでお茶、小腹が空いたらドトールでサンドイッチ、外出先で服を汚してしまったらユニクロでTシャツというふうに、そこそこの規模の街の駅周辺では、たいていのモノがとても簡単に買えてしまう。一時帰国中はあの街、この街とフラフラしている僕のような旅人にとって、これは本当にありがたい。また、都市住民の中には、刺激や発見より利便性と簡潔さを優先する人々も多くいるわけで、そういった人たちには、昨今の都市部の再開発は歓迎すべき動きだと察する。

なので、僕は、自分の感じている街並みの変化に対する違和感が万人を代表するとは全く思ってはいない。これは、あくまで僕の個人的な感想であり、その根っこには消えゆくものに対する中年男の郷愁があることは、自分でもよく分かっている。