「東軍の関ヶ原史跡」カテゴリーの記事一覧 | 関ヶ原観光実用マップ (original) (raw)

関ヶ原の徳川勢(東軍)に関連する(まつわる)史跡・観光スポットなど

カテゴリー: 東軍の関ヶ原史跡

お茶屋屋敷~関ヶ原で勝利した徳川家将軍専用の宿泊施設は61棟もココに美濃赤坂にあった

お茶屋屋敷とは1600年、関ヶ原の戦いにて勝利し、天下を掌握した徳川家康は、全国に主要街道の整備を行った。やがて江戸幕府を開き、1609年に徳川家康が江戸城から上洛する際に、中山道の要衝であり、徳川家が関ヶ原で勝利すると言う「開運の地」とも...

杭瀬川の戦いと「勝山」~岡山本陣跡の訪問記

杭瀬川の戦い杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、関ヶ原の戦い(9月15日)の前哨戦となった1600年9月14日に発生した合戦です。9月14日のお昼頃に、徳川家康は3万とも言われる大軍を率いて美濃家坂に着陣します。この時、井伊直政・本多忠...

金屋川原の戦い~南宮山側でも戦闘となった関ヶ原合戦の追撃戦

岐阜県養老町であった金屋川原の戦いは、1600年9月15日、天下分け目の「関ヶ原の戦い」となった際に、戦わずして戦線離脱を図った長宗我部盛親らの部隊が戦闘状態となった合戦です。西軍として南宮山にて布陣するも戦わずにいた長曽我部盛親らは、石田...

池田輝政陣跡~安王・春王の墓と共にある貴重な戦国史跡【垂井町の関ヶ原合戦史跡】

池田輝政は三河・吉田城主15万2000石で、正室は徳川家康の娘・督姫です。吉田城も督姫も、豊臣秀吉のお蔭と言う事ですが、石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは徳川家康に従いました。岐阜城攻めでは福島正則と共に先陣を務めて戦功を挙げています。関ヶ...

浅野幸長陣跡~垂井一里塚がある旧中山道沿いに布陣【垂井町の関ヶ原合戦史跡】

浅野幸長(あさの-よしなが)は、甲府城主21万石で、父・浅野長政より既に家督を譲られていました。ちなみに、父・浅野長政は前田利長と共に、徳川家康暗殺の嫌疑を掛けられて、自ら謹慎中でした。しかし、徳川秀忠に帯同することを許され、真田昌幸が籠城...

山内一豊陣跡~出世松がそびえる旧中山道沿いの陣跡【関ヶ原の史跡】

山内一豊陣跡は、徳川家康が最初に本陣を置いた「桃配山」からもほど近い、旧中山道沿いにあります。この旧中山道、ちょっと古い集落も街道沿いに残っており、非常に趣がありますので、自転車や徒歩でゆっくりと訪ねて見たくなるところです。山内一豊の陣跡が...

徳川家康最初陣跡~桃配山に布陣した徳川本陣跡【関ヶ原の史跡】

関ヶ原の戦いの際に、徳川家康が最初に本陣を置いた場所は「桃配山」となります。現在、桃配山(ももくばりやま)にある「徳川家康最初陣跡」は国史跡に指定されており、国道21号沿いの階段を登って2分ほどの山腹にあります。1600年9月14日の夜、西...

徳川家康最後陣跡~陣場野・床几場【関ヶ原の史跡】

関ヶ原の戦いにて、徳川家康が最後に本陣を置いた場所は、現在、陣場野公園となっており、その公園の「北西」に「徳川家康最後陣跡」があります。関ヶ原の戦いが始まる前、大垣の岡山本陣から転進してきた徳川家康は「桃配山」に本陣を置きました。1600年...

田中吉政陣跡(加藤嘉明、筒井定次の陣もこの付近か?)【関ヶ原の史跡】

田中吉政の陣跡は、他の陣跡史跡と異なり、道路の交差点にあり、田中吉政陣跡の小さな敷地が、道路で囲まれているような感じになっています。田中吉政と言う武将は、豊臣秀次の筆頭家老でしたが、豊臣秀次の切腹事件では、お咎めなく、10万石で三河・岡崎城...

東首塚と井伊直政・松平忠吉陣跡【駅からも近い関ヶ原の史跡】

JR関ヶ原駅から歩いても5分ほどの近い関ヶ原の戦い史跡が「東首塚」「井伊直政・松平忠吉陣跡」となります。東海道本線の線路わきに、スタジイの大木が茂った場所があります。徳川家康が床几場で首実検をし、命を受けた関ヶ原の領主・竹中重門が、塚を設け...

細川忠興陣跡~越中頭成兜を被り関ヶ原で奮闘

細川忠興(細川越中盛守忠興)は5400を率いて徳川家康に味方しました。細川忠興の正室は明智光秀の娘・細川ガラシャです。石田三成が挙兵して、大阪城付近に豊臣家の人質として滞在していた、大名の妻子らを一時、西軍の人質としますが、その時、細川屋敷...

岡山烽火場(丸山)黒田長政・竹中重門の陣跡~関ヶ原がキレイに見える展望地

岡山烽火場とは国指定史跡の岡山烽火場(丸山)は、関ヶ原の戦いの際に、黒田長政と竹中重門が陣を置いた小高い丘です。良い場所は先に西軍が布陣してしまいましたのでね、東軍で小高い場所に陣を置けたのは、徳川家康の桃配山と、ここ岡山(丸山)くらいです...