ごりら’s diary (original) (raw)
今日はまた日記を書きたいと思う。
今日はまた寒暖差の激しい日で、突然上着が必要になるほど肌寒くなり、体調を崩さないか少し心配である。
今日は肌寒い風が吹く中、電車に乗っていつものように家へと帰ってきた。
お風呂に入って少し落ち着いてから、Netfflixで『ブレイキングバッド』を観てアイスを食べていた。
その後、夜が更けてから何となくココアが飲みたくなった。
マシュマロが入ったココア。飲み干した後しばらく置いておくと糖分が固まって、ガチガチになって洗いずらくなるココア。
それを飲みながら録画したNHKの番組を見ていた。
その番組は今まで4回ほど見直している番組で、当たり前だがいつも同じ内容なのだが、なぜだか、いつも観ている時よりすごく胸に刻まれた。
それはその番組自体が面白いということもあるが、この「夜更け」という「タイミング」は、いつもとは違い、なぜか内面にしまっていた深い悲しみが氷解するような機会を与えてくれる、心の許せる友のようだと思った。
ただすごいと思っていた言葉ひとつひとつが、過不足なく心の中に入ってくるようだった。
あの「夜更け」というタイミングは、それが奇跡的な瞬間であったという感想以外に、とても不思議なきっかけで、思わぬような体験へと導いてくれる時間でもあった。
「今だ!」というより、「少し様子を見てみようかな」くらいの熱量。ゴールに向かっていくというより、ただ当てもなく徘徊するような、偶発的に生まれた時間。
それは自分に非常に価値ある瞬間を与えてくれる機会だった。それも答えが届くわけではなく、味わいある瑞々しさのようなものが自分の中で生まれるようだった。
そんな夜11時「何をしても良い時間」にこそ、自分に響いてくるこの「夜更け」というタイミングについて書き残して置きたかった。
おしまい。
今日はまた日記を書きたいと思う。
今日は前書きは省略したいと思う。
とにかく今日は何かあったわけでもないのに気分が落ち込んでいた。
時期的なものかもしれない。よくある季節の変わり目にある自律神経の不整というか不調のような気分の悪さ。
そんなありふれたものかもしれないが、今日だけに限ったことではなく、ここ一週間はそんな気分になることが多かった。
憂いを払しょくしようとカウンセリングも受けてみたが、何か違った。
実際自分が心の底に抱えている突っかかりを他人に告白するというのは、そんな容易なことではないと今更ながら身体で感じた。
喋りづらい訳でもなく、底の部分に焦点が当たらないようだった。話をズラしている訳でもなく、見えているけど見えていない。そんな印象だった。
いつも気が付かずにいるが、本当の所、自分は自分の心の内を吐露したいという思いを忘れていたのかもしれない。
なんだか自分の心の内を理解しようとすればするほど、本心からピントを外して、心の中を探求していたのかもしれない。
だからこそ、良い方向に進んでいると思いながらも、どこか心の中の虚しさを拭えなかったかもしれない。
自分の心を吐露しようと思えば、出てくるのは、こんなに落ち込む若者なんているのだろうか。そんな独りだという肌寒さみたいなもの。
そして、しこりのような爆弾を抱えた壊れた心を持った若者だと自分を描写している。
はっきり言えば、自分と同じような世代の人を見て、心の中に映るのは、「この人は自分と同じような体験を少しズレていても構わないからしているのだろうか」という一方的な祈りのようなものだ。
追い詰めて、追い詰めて、何度自殺しようと思ったことか、遺書まで書いたことが、この自分と同じ「若者」という括りで呼ばれる人と関係があると、自分が思えないばかりか、そうだと思われているのではと、自分はそう思っている。
睡眠薬を眺めて、夜を過ごしたことがあるのか?寝ることにではなく、次の日が来るということに対して、解決をしようと思ったことが人生の中であったのだろうかと、それでもまだ一括りの「若者」と呼ばれなければいけないのだろうか。
理解されないのは皆等しく感じているが、それに対面する場面が少ない程良いと思う。
この世の中に味方いないというだけで、どれだけ人が絶望するか。それは独りという素晴らしさを語る以前に、まるで世界との懸け橋が崩れていくようなものだ。
自分は一度、ポエムみたいだと言われたことがある。確かに言葉としては同じかもしれない。
しかし、その人の言う「ポエム」と自分の言う「ポエム」は全く違う。
そんなありきたりの予定調和をポエムしたのでは断じてない。
自分は自分をポエムにした。どこから取ってきた訳でもなく、それっぽいことを言いたい訳でもなく、人に対しての愛を書いた訳でもなく、自分を書いただけのことだった。
大学で独りになった時、自分は自分がおかしくなったと思った。なんでこんなに人との折り合いがつかないのだろうかと。
でも、話は単純だった。自分がおかしいから誰かと融和できるはずなどなかった。
自分と他人は違う。そんなことにすら気が付いていなかった、
大事なことは自分をごまかしても他人から理解されることなどないということだった。
それだけが今言いたいことだった。拗ねたり、卑屈な馬鹿になったり、愚痴を言うことより、それだけが心の中に見つけたかった。
これでやっと自分と話すことが出来た。いつも自分は本心を語るまで素直になれない。
若者として若者の悪口を言うが、今時、「他人と自分は違う」ということを言う人などいるだろうか。
または、「自分たちが守っている規範をどう乗り越えるかが苦しみから救ってくれる」ということ。
頭の良い人は分かるだろう。でも、頭の悪い自分のような人でこれを痛い程身に染みた人などいるだろうか。
「自分は本当にこれから生きていく上で、自分を重なり合わせられる人などいるのだろうか」という思いを、心臓が止まるような冷水を他人から浴びせられた人以外に、文字を超えて伝えられるだろうか。
「今まで関心を払っていなかったけど、本当はあの人は何を言おうとしていたんだろう」という思いも、軽々しく一括りにされる「若者」には、目を見て言えば通じると、あるいは、自分には分からない、理解することが出来ない思いがあることを、身体でわかる人など何人いるだろうか。
自分は、一見そんな悲しい思いを秘めているような顔をして、その一部分にすら接していないばかりか、無感覚に言葉を吐き出して、憂さを晴らす人を見た。
それが自分と同じ世代の「若者」なのだ。なんて声を掛けていいかも分からない。
その無関心がどれだけの数、自分の傷口に塩を塗ったか。知ってほしくもない。
人が傷ついている大抵は無関心だ。
人が同じものに感動していないからイラついているんじゃなく、その人の無関心に怒っているだけ。目の付け所が違くとも、同じ情熱で燃え上がる。
自分がイラつくのは、イラつくということに無関心であること。
はっきり言えて、自分も含めて言う若者とは、しょうもない。本当にしょうもない存在である。それだけは言っておきたい。
今日は何も頑張りたくない一日だったので、だらだらと日記を書いていこうと思う。
最近は何となく暑さも落ち着いてきたなと思っていたが、よく考えると去年のこの時期はこんなに暑くないなと思い、複雑な気持ちになる。
正直言ってこのところあまり充実感がない。
一日に対しても、趣味に対してもあまり楽しめるほどの関心も寄せられていない。
何かやっては辞めて、また何かをやっては辞めて、というループに陥っている。
こんな暗い話をするのはどうなのだろうと思っていたが、何も楽しめないのだからこの際どうでもいいなと少し自暴自棄になっている。
それにありのままで書いたほうが、変に取り繕って書いても、振り返るのは自分だから、意味の分からないことを書いて、数か月後に「?」となるよりマシだと思う。
自分の充実感はどこに行ってしまったんだろうか。
どこか遠い星にでも飛んで行ったのだろうかとそんな距離感を感じる。
忙しなく過ぎる日常の中で、なんだか一人ぽつんと知らない星に置いて行かれたようだ。
ピクミンでも居ればいいが、生憎、愛想の悪い自分みたいな生き物しか住み着いていなくて、しかもその中で暮らさないといけない。
そんな妄想をしたところで、充実感は帰ってこない。
どうにか帰ってきてくれないだろうか。
好物でも何でも用意するし、たまの休日には肩でも揉みますから、頼むから帰ってきてくれないだろうか。
そんなヘタレの関白宣言みたいなことを言っても戻ってこないだろうと思う。
だから、またいつになったら帰ってくるだろうと思って憂いていようと思う。
帰ってきたときには出迎えられないが、きっと抑えられないようなときめきを胸に覚えて、「お?やったか?きたかこれ?」と興奮するに違いないだろう。
そして全く関係ないが、最近は『ブレイキング・バッド』を観ている。
面白い。
追い詰められていくハラハラ感が印象的で、次のエピソードへ行く速度と、イントロを飛ばす速度がほぼ同じになるドラマ。
あんまりロマンスシーンがないので居間でも見れるのが嬉しい。
『全裸監督』なんか居間じゃ絶対見れない。
そんなことを綴る一日でした。
おしまい。
今日も眠れないので何かしら書こうと思う。
最近は季節の変わり目を感じながらも、まだまだ夏の気配をすぐそばで感じる。
さて、今日はいつもながらに無事一日が終了して帰路に就き、家で晩酌をしてNetflixを観るというありがちな自由時間の過ごした方をした。
そんな中、今日はなぜか「悲しみ」という言葉が頭の中で反芻することが多かった。
特に悲しかった訳ではなく、それは最近移動の隙間時間に読んでいた本の著者の方のTwitter(X)を覗いた時に、その中に沢山の勇気付けられる言葉(個人的に)が並んでいて、その時にすごく「悲しさ」のようなものが自分の心の表面に浮かんできた。
それはまるで太古の昔に氷漬けになったマンモスが、長い時を経てやっと鼻息を荒くした現代の学者たちと巡り合い、少しづつそれを覆っていた氷が解け始めるようなそんな感動的というか奇跡的というかそんな気持ちだった。
「やっと自分は日の目を浴びることが出来た…」みたいな感じ。
意外と今まで忘れていた「悲しみ」という体験は、氷漬けになって心の中で生きているのかもしれない。そんなことはないだろうか、すごく胸に染みるような言葉を聞いた時に、その言葉に対してというより、“あの時の体験”が今、この言葉によって慰められた。または、光明に照らされたというような気持ち。
「あの時は顔は見えなかったけれど、今やっと分かった。あの時のアイツだ」みたいな。
「氷漬けだったその気持ちに寄り添う言葉を今日見た」それだけのことを今日は言いたかったのかもしれない。そして、また自分はこんな思いにさえ、寄り添う言葉を見つけられるのだろうかとも思った。
「自分だけがこの人が溢れかえったこの街で、誰とも何の関係もなく、ただ楽しさというか、溌溂さのようなものをどこかに置き忘れていて、そしてまた、存在すら忘れ去られていて、眉を寄せて困り果てたその顔すら忘れられている。」これは今でも直に感じる。寂しさというよりも、自分はたとえ、自分と目が合った「誰か」が居たとしても自分を「憶えている」という「誰か」はいないだろうと思う。そんな気持ちなのだ。
そしてそれにさえ「寄り添う言葉」が見つかるのかもしれない。
そんな希望と絶望が半々な一日だったと日記書いていて思った今日だった。
おしまい。
今日は何となく書こうと思うので、何かしら書こうと思う。
最近は酷い暑さに区切りがついたようで日が落ちるのも早くなって季節の変わり目を肌で感じている。
さて、最近は特に何もなく気ままに過ごせているが、ふと「こういうことってよくあるなあ」と思うことがあったのでそれについて書きたいと思う。
それは「心のノイズ」的なものである。
最初にこれに触れたのは、高校生くらいの頃だったと思う。
その「心のノイズ」的なものというのは、ただ生活している中で浮かんでくる自分の思考に常に水を掛けてくるような、「おジャマ虫」みたいなものが自分の頭の中で、寝そべって自分のやることにケチをつけてくるような状態であるかもしれない。
それは特段否定的なことが吐きかけられるとか、そういった訳ではなく、ラジオにノイズが乗ってその中の会話や音楽が聴きずらくなるのと同じように、考えることにノイズが入って集中するのが難しくなるみたいなことである。
それが限定的に起こる(例えば午前中だけとか、トイレに入った時だけとか)なら別にそれ程、存在感が大きくなったりはしないのだが、高校生の頃は、頻繁にというかそれが日常的過ぎて、気づくのにだいぶ時間が掛かったような気がする。
それに気づくきっかけをくれたのは意外にも、たまたま見た海外ドラマの存在で、『Pure』というイギリス(たぶん)のドラマだったと思う。そのドラマの中では主人公の女の人が、自分の意思とは関係なく性的な妄想に頭の中を侵されるという状態に悩み、結局それがある病気の症状であったと知るみたいなストーリーだったと思うのだが、その彼女の頭の中で性的な妄想が入り乱れる場面を見て、「なんだか同じだな」と思ったのだ。
別に自分は性的な妄想に悩まされている訳ではないのだが、主人公と共通していたのは「タブー」が入り乱れてくることだった。「こうなってしまったらこうなる、ああなってしまったらあのようになる」
そんな「あってはならないこと」が、頭の中でモグラ叩きのモグラのように、ピョンと出てきて一言「こうなるぞ」と言うような感じ。
まるで自分で自分を脅しているような状況である。
そしてこれの困った所は「人に伝えづらいこと」だと思う。「○○に困っているんだ」と一言で言えれば楽だが、何に困っているんだかも正直分かりづらい。何が起こっているのかを把握するまでに時間が掛かるし、下手をしたらずっと苦しむかもしれない機能不全みたいなものである。
これになった人は、他人と会うのも避けたくなるし、一人でいる時も辛く、どこにも逃げ場所がないように感じるか、あるいは酷く何かに依存するようになるかもしれないと思う。それは結局「これがあれば大丈夫」というようになってしまうからだと思う。
そして自分がこれに有効なんじゃないかと思ったのは、「ただじっと座る」という訓練である。
それは大学生の時にたまたま配れていた座禅体験のチラシに書いてあった。「退屈」という言葉の解説を見た時だった。内容はうろ覚えだが、自分が知っていた「退屈」の意味とは違い、それは「退き屈する」ということだと書いてあった(多分)。それが何の関係があるのかというと、心のノイズ的なものが活性化するのは決まって「暇だと感じている時」だったからである。
「退屈な時に辛くなるんだったら、退屈にならないようにしよう。でも予定なんてないな、外出たくないしな、じゃあずっと座ろう、座って退屈に慣れよう、このチラシに座禅って書いてるし。」と馬鹿なりに知恵を働かせてみて思いついたのが「ただじっと座る」という訓練だった。
そんな記憶を何となく書いた日記で思い出した今日だった。おしまい。
今日はまた眠りたいけど眠れない日なのでちょびっと書こうと思う。
今日はお盆休み明けの気怠さの中で、太陽の照り付ける一日をまた過ごした日だった。
さて、そんな当然のような休み明けの憂鬱を抱えているのだけど、そのお盆休み期間に、友人と映画を同時視聴しようという瞬間があった。
小一時間悩んで結局二人で見たのは『クレヨンしんちゃん』の映画だった。
もちろん映画自体も面白く、自分は何度も観たタイトルだったが、友人は初見らしく、自分が初めて見た時と同じように感動していた。
『クレヨンしんちゃん』に限らずだが、作品自体にではなく、その作品を見ている時に「懐かしい」という時間的な感覚を味わった時に、具体的に何かを思い出すわけではない「その当時の感覚が蘇った」という時の、その「感覚」というのは、ほとんど直に味わった「楽しい記憶」に含まれているものではないと個人的に思う。
つまり何が言いたいかというと、自分が懐かしいという感覚になった時に味わっているのは、ほとんどが幼少期の「楽しい記憶」から来たものではなく、なぜかその当時、もしくはそれよりも前の自分が生まれていない時代の一瞬一瞬を理想化した、時間的な感覚なんだということ。
自分でもうまく説明出来ていないが、自分が伝えたかったのは、「懐かしい」という感覚になった時に、もちろん感動しているが、なぜか自分が懐かしさを感じている対象は「自分が味わった楽しい時間」ではないということ。そして反対にその「楽しい時間」の記憶では懐かしさはあまり感じないということ。
と、ここまで面倒くさい説明を続けてしまったが、実際「クレヨンしんちゃん」の映画はとても自分には懐かしく思える。「よくDVD借りてきて見たな」とか、「今見ても面白いな」とか、すごく一般的な意味の懐かしさを感じるアニメだった。
加えて、少し時間が過ぎてから見る「野原しんのすけ」という存在は、自分にとっては「なんでこんなに自由さを感じるんだろう」と不思議に思うキャラクターだった。
それは特に子供だからという理由ではなく、人を縛る事のない存在だからだと思った。
しんちゃんの「奔放さ」が見ている人に「自由」を感じさせるという理由でも納得できるかもしれないが、自分はしんちゃん自体は、まさに「だめだめのうた」のように縛られているのかもしれないが、他人に対して「こうしなきゃいけない」とか、「こうするべきだ」という姿勢を想像できない。それに「クレヨンしんちゃん」という作品自体、個人的に「こうあるべきだ」というメッセージを感じない。むしろ、しんちゃんと同じような「想像力」があると思う。自分の役割をきちんと全うするキャラクターではなく、登場するのは安月給の足の臭いスケベなサラリーマン、三日坊主で便秘の主婦、ブランドものとイケメンに目がない幼稚園の先生など、今更ながら『クレヨンしんちゃん』の世界観はすごく自由だったのかもしれないと思うそんな深夜だった。
おしまい。
今日は眠りたいけどソワソワして落ち着かないので何か書こうと思う。
7月中旬から暑さが一気に加速して、額から汗と共に身体がドロドロと溶けてしまいそうになる。
目に突き刺さる日差しを眉間にシワを寄せて必死に耐えている時に頭の中で流れるのは、『**ぼくのなつやすみ』のオープニングのナレーションだった。**
「まったくなんでこんな暑いんだ…」と思うと、自動的に頭に流れてくるこのナレーションは、初めて聞いた時にも何だか不思議な気持ちにさせられたのが印象的だった。
このナレーションが頭に流れてくると、「暑いなあ…」と訝しげに太陽を睨みつける気にあまりならず、「しょうがないかな…」と諦めがついて、なんとなくまた日常に戻れる。
少し話題が変わるが、なんで『ぼくのなつやすみ』は、人を「なつかしい」あるいは、感傷に浸るような「センチメンタルな気分」にさせるんだろう。
当たり前に思っていたが、考えてみると自分はよく分からない。「ぼくのなつやすみ」の舞台は75年の夏だったような気がするけど、実際それよりも後の世代である自分もこのゲームで何か「なつかしい」ような気分にさせてくれる。
つまり、『ぼくのなつやすみ』は世代を問わず、その幼少期の体験を貫いているから、その当時を生きていなくても、何かしらの感情を起こしてくれるのかなと勝手に思う。
『ぼくのなつやすみ』については、他にも言いたい部分があるのだが、それは別のタイトルを付けて、他の日記(みたいなやつ)として書きたいと思う。
最初の話に戻ると、何かしらのタイミングで他のことを思い出したりするのは、一般的だと思うが、最近の溶けるような暑さの中で自分はあのナレーションに救われているのかもということだったが、そういう体験は普通に多いと思う。
何かキャラクターの一言ですごく勇気づけられたり、なぜかすごく刻みつけられたり、人が放つ言葉というのは大半の人にぶっ刺さる兵器みたいだなと、大げさに思っている。
実際この間、勇気づけられた瞬間は、映画『**イコライザー』を見ている時に、主人公ロバート・マッコールがさらっと言った「完璧よりも前進だ」というありきたりなセリフだった。**
(Sección visual de The Equalizer (El protector) - FilmAffinity)
また話が逸れるが、最初に『イコライザー』の存在を知ったのは、「クロエ・グレース・モレッツ」が出演していると知ったのが入り口だった。(上の画像では右)
クロエ(長いので省略)を最初にスクリーンで見たのは、『キックアス』という下品なコメディが色濃く出たヒーロー映画で、記憶では監督は『キングスマン』と同じ人だったと思う。
『キックアス』で「ヒットガール」として登場した時はかなり幼かった印象だったが、「なんかすごい美人いるな!?」とすぐに思った記憶がある。
『キックアス』からこの女優さんのファンになったという人も結構多いと思うのだが、『キックアス』自体も馬鹿っぽい面白さで、大学生の時に図書館にそのコミックスがあると知って、他の人が参考書を机に広げる中で、血みどろの主人公が表紙に描かれた怪しい漫画をひとりで読んでいたのは、唯一の”楽しい"思い出。(↓こんなやつ)
話を戻すと、そんな「ありきたりな」理由から見た映画の何気ない「ありきたりな」セリフに勇気づけられる。そんなこともあるということ。
実際一か月くらい経ったらほとんど忘れているようなインスタントな勇気づけだと思うけれど、本当の所、そういった誰かを勇気づけるということを憶えていられる人は少ないと思う。(大抵の場合は励ましが取って代わると思う。)
そんなことを寝よう寝ようと思いながら書いた日記(みたいなやつ)で思う深夜だった。
おしまい。