setokouchanの日記 (original) (raw)
この数日間空は雲が多く月を見ることができなかった。今朝久しぶりに空がきれいに澄んでいる。2日前に満月(ビーバームーン)となった月が西の空に顔を出している。
テレビの天気予報では、急激に寒くなると言っている。明日は名古屋で最低気温が6度?本当だろうか。瀬戸は名古屋よりも寒い。多治見に近い。では多治見はと調べると同じ6度だと気象庁が予測している。ついでに豊橋もと調べると6度だ。よほど強い寒気なんだろう。体がついていけない。インフルエンザも流行っていると聞く。先日も知り合いがさっそくかかった。
寒くなると書きながら、我が家のハイビスカスはまだ花を咲かせている。田原の友人からもらったものだ。別に花芽がついているがこれが最後の花になるだろう。もしもう一輪咲いたら報告します。
A氏とともに公民館を出発した。誰とはなく町の変化を口にする。公民館のすぐ隣の大型のパチンコ屋が完全に取り壊された。跡地に何ができるか聞いたら、大型のドラッグストアだという。V-ドラッグの真ん前だ。少し東にも別の薬屋が。共栄橋の東西にも2つある。瀬戸市は13万人を切って人口減に入っているが、年寄りの数は増えているんだろう。年寄りの奪い合いなのだ。
水野の交差点で思い出すのは『中華の一番』だ。若い頃、一番で食べたスタミナラーメンを思い出す。まだ、台湾ラーメンがメジャーになっていなかったと思う。味噌仕立てで、ニンニクが半端なく入っていて、その上つぶされた鷹の爪が汁の上にたっぷりと浮かんでいる。蓮華には無数の鷹の爪が嫌というほど入ってくる。キンキンに冷えた生ビールで流し込むのだがこれが最高だった。当時は自分の胃も元気だった。しかし翌朝は家族から近くに寄らんでと嫌われた。
さらに南山の交差点に来ると思い出すのは、南山市場だ。自分は直接は知らないが、妻が高校生の時仲間とよく買い食いをした場所だと聞いている。確かコロッケが美味しかったと言っていたと思う。瀬戸高校の目の前にあった。創立百周年を迎えた瀬戸高校は昭和38年に南山市場の前に移転してきた。この地に来て60年以上経つのだ。
今日は第2回目の歴史散歩。講師は今村の話を始めたら止まらない、郷土史家のA氏。明治6年から始まる效範小学校の関係する場所を中心に2時間程度の散策となった。A氏がつけたテーマ名は『蛍雪の学び舎』だ。くもり空の下、效範公民館から歩き始めた歴史老人探偵団は、昔の效範学校時代からの少年少女たちの姿を思い浮かべながら歩いた。
県道を西に進み、南山の交差点を南下、名鉄瀬戸線の踏切手前を線路沿いに歩く。平町公園西の踏切を渡り、西部コミュニティーセンター(平町公園)に。田端町と平町の東西の境の道を南下する。田端公園の近くを左折、瀬戸川に向かう。瀬戸川では河原に降り川端を效範小学校に。再び川に出て水神を拝み、区画整理されていない路地(裏道)を水野駅に。水野駅では何でこんなことまで知っているのぉ〜という話まで聞けた。
A氏の知識は半端ない。今日は実際歩いたのでメモを取れなかった。記憶力が低下している自分には、記事にまとめ切れない。さあどうしよう。
毎週町内のお年寄りと顔を合わす。木曜日の昼からは集会場でしゃべる、そして遊ぶ。昨年10月から始めた寄り合いだ。多い時は20名以上の方が集まる。しかも男性が半数を占める時も多い。同性の先輩方と付き合う中で思うこと。
昭和生まれの男の最大の欠点は、料理ができない。先日50代の方との会話でお母さんが入院されたという。父親は料理ができないので大変なんだわぁとの話。レンジでチンもやらない。そのためパートの仕事を終えて20㌔以上離れた実家との往復をしているとのこと。
昭和の男たちの多くは、生活に必要な衣食住のほとんどを、妻に任せていた。それが当たり前だと生まれながらにして育てられたことも大きいのだろう。さらに介護は長男の嫁さんというコースが決められていた。
世の中は男の都合の良いままではない。自分の知り合いも急に妻に先立たれ戸惑っている人がいる。残された男は弱いのだ。自分の食べるものは用意できる男でありたい。昭和の男にとって家事はまだ苦手。
自分の反省点として考えたい。
11月8日と12日は、瀬戸市の宝泉寺のお薬師さんの『あめんぼう祭り』(お薬師さん)があった。行った覚えがあるが瀬戸の西部に住むようになって全く行かなくなった。
今日、14日は義母の月命日で宝泉寺の和尚様に来てもらっている。念仏を唱えてもらってから、あめんぼう祭りについて聞いてみた。コロナの関係で数年中止していたが、今年は無事開催できた。ただし8日だけだったようだが嬉しいことだ。
昔は宝泉寺の山門から参道に飴の店が並んでいた。屋台で狭くなった参道を参拝客がひしめいていた。和尚様が言うには今年は参道ではなく、記念橋の横の青の広場で行われたという。宮前の商店街が協力したと聞く。昔ながらの形のお祭りでは維持できない。若者が知恵を出し合って新しい形態でお祭りを作り直してほしい。そして来年以降も続けてほしい。
内浦橋の北の信号から北に道を進むと、左手に北脇の集会場とお地蔵さんや常夜灯などが集められている一画がある。北脇嶋の神様たちである。北脇の村のあちこちにあったのが道路の拡張などでここに集められた。
左側から役行者、お地蔵さん2体(1体は道標にもなっている)お天王さんだ。昔は8月23日に地蔵祭りが行われていたという。話を聞いていると航空写真の観音山の北側の広場らしい。観音山は、水害が発生した時の逃げ場所となっていて、地域の人は命島と呼んでいたようだ。今は避難所として近くの效範小学校や公民館になっている。観音山の観音様は八王子神社に合祀され、山の跡地には鉄工所が建てられている。
北山のマンションの南側の線路沿いに交通安全を祈って線路を見つめているお地蔵さまが。昔、オートバイに乗った方が踏切を渡ろうとして電車にはねられ亡くなるという事故があり、地域の人たちがこのお地蔵様をおまつりした。この周辺は昭和になり山を崩したり田んぼを埋めて大きな製陶所になった。残念ながら大きな工場は全てマンションに変わった。
第1回目は雨天のため、公民館で講座形式で行った。次回は11月16日(土)10時に效範公民館に集まり、西に向けて(川西嶋)歩く。楽しみだ。
A氏の話は名鉄の線路の南側、孫田町の話になる。まずここにはかつて瀬戸で一番大きな陶器工場があったという。五助陶器だというが、自分は知らない。ここには今は出雲殿がある。自分はここで結婚式を挙げたが、いつの間にか葬儀会館になっている。複雑な気持ちだが時の流れだ。
安藤政二郎氏の「瀬戸ところどころ今昔物語」で調べると、土探しや窯の改良などで磁器生産に活躍した代々「加藤五助」を名乗っている陶玉園らしい。五代目の五助が第1次世界大戦後の好景気に合わせ、石膏型鋳込み方法を考え出し大量生産を成功させた。事業の拡大のため、今村の地(現在の孫田町)に工場を新築した。当時は職人が100人以上いて、横山駅からの引き込み線もあったとA氏は言う。その五助陶器は業界の衰退とともに姿を消していた。
五助陶器の東の角に駐在所があったという。昭和4年の瀬戸の地図に発見。戦争という不安定な時期に水野村の瀬戸高女横に移動したと。
A氏は、昭和32年に孫田の瀬戸川の護岸が崩れたと教えてくれた。昭和32年と言えば、8月7日の瀬戸の泉町山崩れで22名もの死者が出た時と同じだ。
同じ日に品野でも水野川が氾濫して死者を出している。