紫陽花の季節に北摂の久安寺、勝尾寺を訪ねて (original) (raw)

紫陽花の季節に北摂の久安寺、勝尾寺を訪ねて

2022.06.21

今年の新年のあいさつで、散策ノートの記事を少し増やしたいことを書いたのだが、二月の末に持病が悪化して一ヶ月以上の入院となったため、梅や桜の季節にどこも行くことができなかった。その後定期的な点滴治療のために、毎月2泊の入院を続けているのだが、数値も大分改善してきたので、たまには気晴らしに寺巡りがしたくなった。

目次

関西花の寺二十五霊場十二番・久安寺

久安寺 具足池の「あじさいうかべ」

最初に訪れたのは真言宗の久安寺(きゅうあんじ:大阪府池田市伏尾町697)。この寺は紅葉でも有名だが、あじさい寺としてもよく知られている。毎年6月中旬から6月末頃まで、本坊の門前にある具足池にあじさいの花が浮かべられる「あじさいうかべ」が行われるのだが、今年の日程は6月16日(木)から7月3日(日)なのだそうだ。訪れたのは6月17日だが、6月下旬にはこの池全体にあじさいの花が浮かぶのを見ることができるという。

大阪あじさいスポット!久安寺「あじさいうかべ」が2023年6月15日(木)~7月2日(日)まで開催|るるぶ&more.淡い色合いの大きなあじさいが池にふわふわ…大阪であじさいを楽しむなら、池田にある久安寺(きゅうあんじ)の「あじさいうかべ」がおすすめです。数年前からSNSで注目され始め、6月中旬に開始されると、多くの人がこれを目当てに訪れます。「あじさいう...

久安寺 楼門

上の画像が室町時代初期に建立された久安寺の楼門で、国の重要文化財に指定されている。この寺に残る最古の建造物である。

久安寺 参道

この楼門から本坊に続く参道には様々な種類のあじさいが咲いて、見頃の時期を迎えている。例年7月の初旬まで楽しむことができるという。

久安寺 あじさい

この寺の歴史を調べると、神亀二年(725年)に聖武天皇の勅願により行基が開創し、天長年間(824~834年)に弘法大師により再興され真言密教道場として栄えた「安養院」という寺が前身なのだそうだ。
その後、久安元年(1145年)に、近衛天皇の勅願寺として再興され「久安寺」と改称されて、楼門、堂塔伽藍が建てられたという。
豊臣秀吉がこの寺を参拝して、月見茶会が催されたという記録もあるのだそうだ。

久安寺 本堂

上の画像は本堂で本尊は千手観音だが、残念ながら秘仏のため公開されていない。四天王像のうち増長天像は藤原時代の制作とされ池田市の重要文化財に指定されている。

久安寺 三十三所堂、阿弥陀堂

本堂から廊下が続いて三十三所堂、御影堂があり奥には阿弥陀堂がある。阿弥陀堂には、国重要文化財の阿弥陀如来坐像、池田市指定重要文化財の薬師如来立像、釈迦涅槃図などを収蔵されているようだ。ホームページで確認すると、毎月15日に、2名以上で前日までに予約すれば拝観ができるようである。池田市にある仏像で国重要文化財に指定されているのはこの寺の阿弥陀如来坐像だけなので、次回訪れる時に是非チャレンジしたいと思う。

久安寺 虚空園

本堂の北側には虚空園という庭園が拡がる。バン字池を中心に四季折々の花が咲き、春には桜、秋には紅葉の美しい場所である。

久安寺 仏塔

虚空園を進むと、地蔵堂がありさらに奥には立派な仏塔がある。来月には朱雀池の蓮の花も楽しめると思う。

『摂津名所図会 巻六』久安寺門前

『摂津名所図会 巻六』久安寺

上の画像は『摂津名所図会* 巻六』に二枚描かれた久安寺の境内で、上の画像には楼門が描かれ、下の画像には本堂が描かれているのだが、伽藍配置は現在とはかなり異なっていることがわかる。
*『摂津名所図会』秋里籬島 編著、竹原春朝斎 画、寛政八年(1796年)から寛政十年(1798年)刊行

久安寺ホームページの境内マップ

久安寺のホームページにある境内図と比較するとわかるが、昔の本堂は今の仏塔の近くにあったと思われる。また『摂津名所図会 巻六』には現在の仏塔の北側の山頂に慈恩寺という寺があったが、名所図会が刊行された当時には神社が残っていたことが記されている。今は何も建造物が残されていないようだ。さらに、名所図会に描かれているバン字池や朱雀池が、現在は随分小さくなっている。
詳しいことはわからないが、「幕末の大嵐で一山の多くが崩壊し、明治初頭には坊中の『小坂院』だけが残り」と書いているサイトがいくつかあり、山崩れでもあったのではないかと思われる。かつて山際に建てられていた本堂が、境内の中央に新しく建てられたのは、最も安全な場所に移されたということではないだろうか。今の本坊は元の小坂院で、明治八年(1875年)に久安寺と改名し、寺跡を引き継いだという。境内マップにも本坊に「旧小坂院、現寺務所」と付記されている。

西国三十三箇所第二十三番札所 勝尾寺

次に訪れたのは同じ真言宗の勝尾寺(かつおうじ:大阪府箕面[みのお]市粟生間谷2914-1)。この寺は紅葉の名所でよく知られているが、あじさいでも有名である。

勝尾寺 山門

上の画像は勝尾寺の山門。寺のホームページによると慶長八年(1603年)に豊臣秀頼によって再建されたものだそうだ。

勝尾寺 多宝塔

紅葉の時期には全山がライトアップされて、荘厳な静けさに紅葉の絶景が解け合う。上の画像は大日如来を祀る多宝塔。昭和6年に建立されたという。

この寺は、神亀四年(727年)に藤原致房(むねふさ)の子・善仲(ぜんちゅう)、善算(ぜんさん)の双子兄弟が草案を構えて修行を始めたとされ、そののち天平神護元年(765年)に光仁天皇の皇子開成王(かいじょうおう)が宮中を出て勝尾山で善仲・善算と出合って出家・受戒し、両師の発願した大般若経六百巻の書写を完成すると、宝亀六年(775年)に勝尾寺の前身である弥勒寺を創建したと伝わっている。ちなみに、開成皇子は平安京を開いた桓武天皇の庶兄で、勝尾寺の裏の最勝ヶ峰に開成皇子の墓があるという。

勝尾寺 勝ちダルマ奉納

勝尾寺は平安時代以降、山岳信仰の拠点として栄え、天皇など貴人の参詣も多かった。元慶四年(880年)、当寺の住職の行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、病状が回復したことから、清和天皇から「勝王寺」の寺号を賜ったのだが、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして、「勝尾寺」に差し替えたと伝わっている。
以来この寺は「勝運の寺」として広く信仰され、朝廷のみならず、鎌倉・室町幕府の将軍家からも保護を受けて栄えてきた歴史がある。
この寺の「勝ちダルマ」は有名で、自分の願い事が叶ったらダルマに目を入れて奉納する。何度転んでも起き上がり、自分に打ち克ってほしいという願いを込めて、私の孫用に売店で小さいのを買った。

勝尾寺 本堂

上の画像は本堂で、本尊は十一面千手観世音菩薩。勝尾寺は国重要文化財の木造薬師如来坐像及び脇侍像(平安時代初期)や大阪府重要文化財の木造千手観音立像(平安時代初期)、木造男神立像、勝尾寺文書等の文化財を保有しているが、重要な文化財は宝物庫に保管されていて、普段は公開されていないようである。

勝尾寺 二階堂

鎌倉時代に浄土宗を開いた法然上人が、晩年に後鳥羽上皇の怒りを買って讃岐国へ流罪となったが、承元元年(1207年)に赦免されたのちに勝尾寺の西の谷の草庵に四年間滞在した記録が残っているという。その草庵は阿弥陀仏を本尊とする二階堂となり、法然上人の霊跡となっている。

勝尾寺 あじさい

寺のホームページによると、境内に三千六百株のあじさいが植えられているのだそうだ。あじさいと言っても様々な種類があり、形状や色彩が微妙に異なる。観音池から本堂に向かう参道や石段沿いに咲き乱れるあじさいは見ごたえがあり、例年は7月の中旬まで楽しめるという。

『摂津名所図会 巻五』勝尾寺

『摂津名所図会 巻五』に描かれている俯瞰図と現在の境内マップとを比較すると、山門、本堂、二階堂は昔のままだと思われる。

勝尾寺ホームページの境内マップ

話は、勝尾寺の前身である弥勒寺を創建した開成皇子に戻るが、北摂には開成皇子が開基したと伝わる寺院が少なくない

たとえば高槻市にある本山寺神峯山寺(かぶさんじ)はいずれも役行者(えんのぎょうじゃ)が開き、開成皇子が創建したという言い伝えがある。また高槻市の安岡寺(あんこうじ)は開成皇子が自ら観音像を彫り堂宇を立てたと伝わっている。この三つの寺はいずれも天台宗で、まとめて北摂三山寺と言われているが、地図でプロットするとほとんど一直線上に並ぶのは偶然であろうか。
あるいは大門寺、霊山寺、神峯山寺もほぼ一直線上に在り、忍頂寺、霊山寺、安岡寺もほぼ一直線上にある。また安岡寺、大門寺、勝尾寺もほぼ一直線上に在り、その延長線上には最初に紹介した久安寺もある。
新たなる聖地を発見する際に、成功した聖地と一直線上に並べることで、祈りのパワーを高めることができると考えたのか、風水や陰陽道などと関係があるのかよくわからないのだが、重要な場所が一直線上に並ぶことは、わが国では決して珍しくない。

「近畿の五芒星を巡る」より

たとえば、熊野本宮と若狭彦神社を結ぶ直線状に飛鳥京、平城京、平安京が並んでいることはとても偶然だとは思えない。また淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神社と飛鳥京と伊勢内宮が一直線上に並ぶのも同様である。
昔の日本人は、新たな国家プロジェクトを行う場所を考えるのに、成功した場所との位置関係を重視したことが考えられるが、正確な地図や測量機器がない中でどうやってこのようなことが可能であったのか。短距離ならば、見晴らしの良い山上から狼煙(のろし)などで確認しながら位置を確認できるが、近畿全体でこのような大きなレイラインを意識していたとしたら、狼煙を上げる拠点が相当数存在し、連携がとれていなければ不可能であろう。『日本書紀』を全文検索すると天智天皇三年(664年)の末に西海防衛のため、防人と烽(すすみ:のろし台)を置いた記録があるので、古くから狼煙を上げて、異変などを都に伝える仕組みが構築されていたのではないだろうか。


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